自身のはじめてのパソコンとの出会いからアップルへ転職

みんなの介護　著書『僕は、だれの真似もしない』（アスコム）を拝読しました。その中で、アップルとスティーブ・ジョブズ氏についてのエピソードがとても印象深く、前刀さんの考え方や生き方もそこに凝縮されていたように感じました。

前刀　アップルから声をかけられたのは2003年。当時、日本におけるアップル人気は低迷していました。アップルストア銀座も客で店内が溢れたのはオープン当初のみ。すぐに客足が鈍くなってしまいました。主力のMacintosh（マッキントッシュ）、アメリカで爆発的にヒットしたiPodの売れ行きも芳しくない状態で、世界第二の市場である日本からの撤退も噂されていたほどです。そこで新しい日本法人の責任者探しが始まり、数十人の候補者がピックアップされ、スティーブ・ジョブズの最終面接まで行ったのは僕一人だけだったんです。

正直なところ、誰かの会社で働くことにはあまり気乗りはしませんでした。ただ、僕にとって生まれてはじめて買ったパソコンが、アップルの「Macintosh SE」というモデル。メモリはたったの２メガバイトしかなく、価格も約70万円したのですが、僕はそれがすごく好きでした。僕がアップルを日本で復活させたいという気持ちになったのは、シンプルにその会社がつくった製品が好きだったから。そして、創業者であるスティーブ・ジョブズにも憧れがあった。ソニーやディズニーで仕事をしたいと思ったのと同じように、ビジネス価値などよりも単純明快な個人的な理由でした。

米国本社でスティーブ・ジョブズ氏に直接プレゼンテーションをすることに

前刀　数人の役員との面接のあと、ちょうど日本に来ていたティム・クック（現・CEO）と話したら気に入られ、アメリカまで行ってスティーブ・ジョブズに僕のプランを直接プレゼンテーションすることになりました。生スティーブ・ジョブズには興奮しましたね（笑）。

2004年３月、アップル本社の専用ミーティングルームで、スティーブは「で、きみはどうしたらいいと思う？」と僕に聞きました。まず、日本でのアップル・ブランドを再構築したいという強い思いを伝えました。そして、後に日本で大ヒットさせることができたiPod miniの戦略を説明したのです。続けて僕は、「３年で結果を出すから、日本におけるマーケティングは基本的に任せてほしい」と言うと、スティーブから「うん、それで良いと思う」という言葉が返ってきました。

ちなみに、スティーブと１対１で会えるチャンスなんて普通はあり得ませんから、別れ際に「一緒に記念写真を撮ろう」とお願いしたんですが、「君がアップルに入社したら撮らせてやるよ」とやんわり断られました。でも、その直後に僕の採用が決定。翌月、再び本社を訪れた際、約束通りツーショット写真を撮らせてもらいました（笑）。

後で知ったのですが、アップルの社内では気軽にスティーブに声をかけるのはリスキーなことだと、誰もが考えていました。理由は、うかつに話して機嫌をそこねると、クビになるからです。確かに言われてみれば、誰一人スティーブに話しかける社員はいませんでした。それくらい、スティーブ・ジョブズの存在は絶対的だったんです。

日本でのブランディングに成功し、初代iPhone発売を目前に自ら退社を決意

みんなの介護　前刀さんはスティーブ・ジョブズ氏に約束した３年よりも１年早く結果を出されたと伺っています。そして現在、他国に比べて日本におけるiPhoneのシェアがずば抜けて高いのも、そのときに行ったブランディングの成果であると。にもかかわらず、なぜアップルを去ることを決めたのでしょうか。

前刀　周囲からは「よくやった」「すごい」と称賛されました。でも、目標を達成した途端、僕はやりきれない思いにとらわれてしまったんです。ここから先は別に自分でなくてもやれる。結局、どこまで行ってもアップルはスティーブ・ジョブズの会社であり、僕のしたいことを常に100パーセントでやれる会社ではないのだと気づきました。そして、「ここで満足したら、自分は尊敬する創業者たちの足元にも及ばないまま終わってしまう。そんな人生はつまらない」とも思いました。だから、リセットして再出発する選択肢しかありませんでした。

みんなの介護　前刀さんが退職を決意した時点で、すでにiPhoneの発売は決定していたと思います。後ろ髪引かれる思いには駆られませんでしたか。

前刀　僕がアップルを辞めたのは2006年。初代iPhoneはその１年後に発売されました。僕は当時本社の副社長のポジションで、しかもマーケティングにかかわっていたので、当然iPhone発売の計画も把握していました。そのまま会社に留まってストックオプション（自社株を買う権利）を行使していたら、莫大な利益を得られたでしょう。ですが、それよりも僕は自分の気持ちを優先して、心と直感に従ったんです。今でも、そのときの決断に後悔は一つもありません。

自分が好きな自分に変われば、世の中を面白く感じられる

みんなの介護　前刀さんから見て、これから日本社会の働き方はどのように変化すると思われますか。

前刀　日本人の多くは“働いている”のではなく、“働かされている”のでないでしょうか。だから働き甲斐もない。その原因は、“学ぶ”のではなく“学ばされる”という受け身の姿勢が日本社会・教育で刷り込まれてしまっているからだと考えています。

僕は働き方改革に関するコンサルティングも行っていますが、日本の企業では「働き方」よりも「働かせ方」に重点が置かれているような気がします。僕はそれを打破したい。リモートワークにしても、リアルかリモートかの二者択一の枠を超えて、個々が働きやすいようにハイブリッドで両方やることも検討すべきです。

「世の中が変わるから仕方なく自分も変わる」という考え方を企業・個人の双方が持っている限り、本質的な“改革”は起こらないと思っています。今のままではビッグデータ、IoT（モノのインターネット）、DX（デジタルトランスフォーメーション）、FinTech （フィンテック）など、流行に身を任せて後ろを追いかけるだけ。いくら必死についていったところで得られるものは少ないし、なによりキリがありません。

未来が予測不能であることはコロナ禍でも証明済みです。それが真実だとするなら、自分が好きな自分に変わってしまった方が、世の中を面白く感じられる。そして、「未来は自分で創るものだ」と考えられる人や企業であれば、どんな変化に対しても柔軟に対応するだけではなく、時代をリードできるのです。