伊藤さん、お久しぶりですね。以前お会いしてから、大きな変化はありましたか?
今回のゲストは、詩人の伊藤比呂美さん。伊藤さんは、1978年にデビューしてから性や生死に正面から向き合った詩作で、女性詩ブームを牽引してきました。豊富な人生経験と独自の感性を頼られ、人生相談を受けることも多い伊藤さん。私生活では両親と夫の介護もしてきました。加齢の悩みとその乗り越え方について、詩人ならではの発想でくらたまとの対談に花が咲きました。
- 構成:みんなの介護
ありがたいものだと思うけど、意味がよくわからない―ー。仏教に対して、そんなイメージを持っている人は多いのではないでしょうか?本書は、詩人ならではの感性で、仏教の世界を美しく斬新に表現しています。仏教ってこんなに魅力的だったのか!と開眼させてくれる一冊。
因果とはホルモンが私たちにさせる悪さだった?


普段考えていることが変わったように思います。閉経過ぎるとホルモン量というのがガーっと下がるらしいんですよ。これは、あらゆる医者が言っている事実です。すると、身体の変化だけではなくて心も変わる気がしました。すっきり霧が晴れたような気持ちになったんです。
今まで私が悩んでいたことは、目の前に霧がかかって、雲の中にいたんだという思いになりました。

面白い話ですね。

それは欲望という雲でね。物質や好みの男性を見ると、「それが欲しいだろう」と掻き立ててくるんです。考えてみれば、それらは「本当の私」ではなく、ホルモンさんが私たちにさせていたのではないか、と思うようになりました。それぐらい気持ちがスッキリしたんです。

大変身ですね。それは、閉経と関係があるんですか?

閉経とホルモン量です。ホルモン量とは何かというと、私たちの中の化学物質でしょう?でも、これを昔の人は仏教的に「因果」と言ったんじゃないかと思うんです。

それはどんな意味なのですか?

よく「親の因果が子に報い」って言うでしょう? 何か悪いことが起こったら、前世で行った悪いことが返ってきているから、自分たちでコントロールできるようなことではない。
霧が晴れる感覚を味わうと、今まで「因果」と思えていたような出来事はホルモンがそうさせていたんじゃなかろうか…と思えてきたんです。女性に限っての話になりますけどね。

生々しくてリアリティがあります。私も今50歳でさまざまな変化に悩む年齢です。まだいろいろな煩悩にかられていますし、その煩悩と自分の実年齢や状況が合致せずに苦しむようなところがありますね。

あと8年で楽になると思いますよ。私はそれぐらいの年齢のときには、老いに抗う気もなくなりました。

心境の変化があったんですね。

もっと別のことを考えるようになって興味がなくなったんです。でも、インターネットで漫画や本を買いまくる欲望はまだありますし、鉢植えの植物も欲望丸出しでぐわあっと買い出しに行ったりしますけどね(笑)。

欲しいものや、やりたいことは変わるんですよね?

変わります。でも、それらが変わっても私は私でしょ。むしろ、今はこっちの方が本当の自分だったと思えています。子どもの頃の自分の感覚に近いかもしれません。

なるほどね。確かに、子どもの頃無性に好きだったことは、世の中の価値観に影響を受けて興味を持ったこととは違いますよね。
伊藤さんは、ギラギラしたホルモンによる欲望はもう手放したのですか?

手放してないし、手放すつもりもないんですけどね。なんか物事への見方が変わったんです。クリーンでクリアな目で見られるようになった気がします。

霧が晴れる境地、楽しみなようで、怖い気もします。

霧は抗っていても晴れますからね。だったら霧が晴れたあとの青空を楽しみに生きる。そして青空が来たときに、ああこれが青空ねって思った方が楽ですよ。
閉経が来るとガーッと衰えますからね。私、ずっと同じ美容院に行っているから美容院の鏡に映った自分の姿を見て変化を感じるんです。お母さんやおばあちゃんに似てきたな…とかね。
そんな変化を感じることが増えてくるのが閉経後です。この感覚は、昔の人たちは感じなかったことかもしれないですね。それほど年をとるまでに死んでいただろうし…。長生きができてしまう、すごい時代に生きてるんだなぁと思いますね。
3人の介護のあとに感じた達成感

伊藤さんは、ご両親とご主人の介護もされていたんですよね?

母の介護は直接はしていないんです。寝たきりになって入院していましたからね…。母は、病院に入る前から認知症になって、同じ食品や化粧品をたくさん買うようになっていきました。
また、水の量を大幅に間違えてごはんを炊いたり、目玉焼きを真っ黒焦げに焼いたりするようになっていったんです。母と一緒に住んでいた父はまともに食事がとれなくなってしまい、栄養失調の診断を受けました。父自身も身体が弱って、食事をつくるのが難しいような状態でしたからね。そこでホームヘルパーさんに来てもらうようにしたんです。
最初、母は家事を人に明け渡すことに抵抗感がありました。そして、ヘルパーさんにお客さんのような扱いをして、お菓子を遠くまで買いに行ったり、お茶を出したりしていたんです。
ヘルパーさんが話し相手になり、一緒に家事をするようになって自然に溶け込んでいきました。介護では、外からサポートの手が入ることに抵抗を感じる人も多いと聞きますが、焦らずに少しずつなじむというのもありなんだなと思います。
実はその頃、両親はよく喧嘩をしていたんです。そのことをヘルパーさんに相談したら「喧嘩するお年寄りの夫婦は多いです」って言われました。喧嘩が刺激になっていると。

夫婦喧嘩があっても良いと言われると、ちょっとほっとしますね。してはいけないもののように考える見方もありますから。

夫婦喧嘩が2人にとっての表現方法になっているケースもあるようです。長く一緒にいたからこそ、相手に言い返したくなる気持ちも出てくると思うんです。それでいいと思います。その代わり、喧嘩相手がいなくなったら本当に寂しい。母が亡くなったあと、父は「今朝見た夢をお母さんに言えないのが寂しい」と言っていました。

なるほどなあ。

その後、母が亡くなり自宅に住む父の介護が必要になりました。私は遠くに住んでいたので、父が1人で暮らせるようにヘルパーさんのローテーションを組んで、遠距離でも父の介護のためにできることを探したんです。
アメリカにいながら、朝起きたあとやお昼ご飯のあと、寝る前などに電話をしていました。でも父は寂しがっていて、「退屈だから、今死んだら死因は“退屈”って書かれてしまうなぁ」とか言うんです。

面白いお父さまですね!

面白いことをいろいろ言っていました。母はずっと病院にいましたが、父は自宅だったのでたまに帰ると下のお世話をさせてもらったことがありました。ほんの何回かのことですが、その「何回か」がありがたかったです。
病院に行って抱きしめたら、おかあさんが声をあげて泣いたっていう話。わたしもおとうさんに、あれをしてあげればよかったなあと思うのよ。
(『いつか死ぬ、それまで生きる わたしのお経』P104より引用)
思ってたけど、しなかった。おとうさんも喜ぶってわかってたけど、しなかった。しちゃったら何かが壊れちゃうような気がした。いっぱいいっぱいだった、生きるおとうさんも、通うわたしも。
一人の男性としての姿をずっと見てきたけど、最後は身体が変化して赤ちゃんに戻って亡くなるんだということをわからせてくれた。ある意味コンプリートした感じです。

実際に介護をしないと、わからない感覚ですね。

そうです。本当にやらせてもらって良かった。おしっこは、拭けばいいのでまだ良いんです。でも、うんちはものすごく大変でした。大柄の父の身体を少しずつ動かしてきれいにしなきゃいけなかったですから。

それは大変ですよね。

でも、下のお世話をするのとしないのとでは、コンプリート感が違うんですよね。

へぇー。コンプリート感ですか。

もちろん、嫌だなという思いもありました。でも、今は本当にお世話をさせてもらって良かったと思いますね。
最後にお年寄りが私たちに全部預けて下のお世話をさせてくれるのは、私たちにこのコンプリート感を味わわせてくれるためなのかもしれないな、とも思います。ご本人たちはそこまで考えていないでしょうけどね。

普通は、下のお世話に対してなかなかそうは思えないです。そんなふうに意味づけできるのは、さまざまな角度から物事を考える伊藤さんの思考によるものなんでしょうか…。伊藤さんは、3人の介護をされても全然悲愴感がないですよね。

実際に介護をしているときは悲愴だったんです。先のことも不安でした。

お身体はつらくなかったですか?

ええ。実は私50歳ぐらいのときに、当時大流行したズンバというエクササイズにハマり抜いていまして。ラテン系の音楽で、フラフープを回すような感じで腰を回して踊りまくるんです。
そのお陰で、あらゆる筋肉がたくましくなっていました。だからこそ、介護のときもらくらく身体が動きましたね。やっぱり、身体を鍛えておくことは大切だと思いました。
仏教の世界に魅了され、さまざまな経典を訳した

伊藤さんは、仏典を現代語訳した本を出されましたよね。そもそも、なぜ仏典の現代語訳をしようと思ったのですか?

仏教に触れるきっかけとなったのは、『日本霊異記』という説話集、エロとグロが満載で。それで仏教おもしろいと思い始めて。
それから親がどんどん老いていったとき、親の心の支柱になるものがあれば良いなと思っていたとき、仏教のことがふと頭に浮かんだんです。でも、両親に仏教を学んでみたらいいんじゃないかと話しても「興味がない」と跳ね返されました。
両親は、戦争で信じていたものに裏切られ、高度成長期で物質的なものに生きがいを求めて生きてきました。だから、仏教に頼る気持ちになれなかったんだと思います。
そこで、自分で読み始めることにしました。そしたら、お経というものがまったく「詩」や「語り」みたいで。ものすごく面白かったんです!何で今まで仏教はつまらないと決めつけていたんだろうと思いましたね。
『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』もある意味、語りの仏教説話みたいなつもりで書きました。それから『読み解き「般若心経」』は、もう一歩踏み込んで、実際にお経を訳してみた。般若心経、観音経、地蔵和讃など、いろいろなお経を訳していったら、それがおもしろくて。やめられなくなって、もっとやったのが、こないだ出した『いつか死ぬ、それまで生きる わたしのお経』。
人々のために、おしえをおさめた蔵を開き
(『いつか死ぬ、それまで生きる わたしのお経』P125 四誓偈 より引用)
ひろびろとわけあたえ
つねに人々の中にいて、説いて語る
声はらいおんの吠える声のように人の心にしみいる。

着眼点が素敵ですよね。詩人によるお経の現代語訳って、今まで読んだことないです。

私も絶対ないと言えます。よっぽどお経が好きじゃなかったら、こんなにまんべんなく、いろいろなお経の訳はやらないですから。

確かに。宗教家って、その宗教の本しか書かないですよね。

そうなんです。宗派に何の義理もないから、いろんな宗派のいろんなお経を訳してますよ。いっぱい勉強してめちゃくちゃ本を買ってがーっと読んで、ここ20年ぐらいお経漬けでした。

20年!人生の結構な分量をお経に割いていますね。

その前は、説教節(中世から近世初期に行われた宗教性と娯楽性を兼ね備えた語り物)にのめりこんでいました。書くものみんな説経節の翻訳や翻案や語り直しだった時期もある。現代語訳して『新訳説経節』という本を出した頃から、憑き物が落ちるみたいに、すーっと落ち着いていって、こんどはお経に憑かれたようになりました。ま、同じなんですけどね。説経節とお経。

そういう流れで辿り着いているんですね。

お経の翻訳は本当に楽しかったです。「こんなお経がまだあるんだ」とわくわくしながら取り組んでいました。幼稚園の朝の会とかでも出てくるような簡単な言葉で訳そうと思ったんです。
でも、二千何百年も人々が伝えてきたものでしょう?そこで使われている言葉は、いろいろな研究の結果です。それを簡単に開いてしまっては、ダメだろうなとも思いました。しかし、誰でも読めるものにしたかった…。
霧が晴れたあとの世界は楽しい

本当にお経の世界に魅了されていらっしゃるのが伝わってきます。いいですね。これから先もずっと伊藤さんは楽しいことだらけでしょうね。

そうですね。楽しいことはいっぱいあります。今は星を見ることにもはまっています。それに、さまざまな動植物を育てていて、自宅は「伊藤動植物園」と言えるような状態になっているんです。子どものときに好きだったことばかりです。霧の中に入る前の素直な気持ちですね。
今のわたしはマニアックな植物好きですが、実は子どもの頃から植物、とくに道端の雑草が大好きで、それが昂じて高校時代は生物部に入っていたほど。世界には知らないことがいっぱいある、そのいっぱいある知らないことを、かたっぱしから知ってみたいと思っていた頃でした。
(『いつか死ぬ、それまで生きる わたしのお経』P96より引用)

この先、霧が晴れて子どものときのような自分に戻れるのであれば、希望が持てますね。霧の中にいると、欲望と本来の自分が乖離していくつらさがありますから。

倉田さんは、何と何が乖離しているんですか?

女としてのありようですかね。私は結婚もしているし、女性として持つさまざまな煩悩は捨てる立場でいないといけない。しかし、霧がそうさせてくれないんです。

倉田さんの場合、霧じゃなくて倉田さんかもしれないわよ。

倉田さんは、霧の中で見ているものがお仕事に直結していますからね。これまで信じてきた自分像にこだわらず、明日の自分を見ていくと楽かもしれないな。
女としての姿が変わっていくことに対しても、マイナスと捉えるのではない方法がある気がするんですよね。

それはいいですね。達観とかそういう言葉ではなくてですか?

どうでしょう。それは倉田さんが発見してみてください(笑)。
ちなみに、人の魅力は年齢だけでは図れないところがありますよね。私は、夫が68歳のときに知り合って、いい男だなと思いました。

知り合ったときに68歳というのはすごいですね。

男の最高は60代ですよ。霧が晴れたあとの青空の感性で向き合ってくれるから、すっきり付き合えると思います。80歳になると違う雲がいっぱいかかってきますけどね。

霧が晴れる感覚、どんな感じなんでしょう。霧の向こうが楽しみになってきました。

伊藤比呂美
1955年、東京都生まれ。1978年に『草木の空』でデビューしてから80年代の女性詩ブームをリード。結婚・出産後1997年に渡米してから熊本の両親の遠距離介護を続けた。2018年から熊本に拠点を移し、2021年春まで早稲田大学教授。1993年現代詩手帖賞、1999年野間文芸新人賞、2002年産経児童出版文化賞ニッポン放送賞、2006年高見順賞、2007年萩原朔太郎賞、2008年紫式部文学賞、2015年早稲田大学坪内逍遥大賞などさまざまな賞を受賞。