こんにちは。REASON代表で、理学療法士の中川恵子です。「介護の教科書」の連載では、介護を経験した方へのインタビューをご紹介させていただきます。
感覚が正常で意識も鮮明なので、聞くことや見ることができるのに、話すことも手をあげることもできず、意思表示もまったくできなくなる状態のことを「ロックドインシンドローム(閉じ込め症候群)」と呼びます。
今回は、ロックドインシンドロームのお母さまを4年半、軽度の精神疾患を生きるお父さまに半世紀寄り添った『古民家ギャラリーねこ福』オーナーの井上恵美子さんに、在宅介護を経験して感じたこと、大変だった出来事などについてお話をお伺いしました。以下、井上さんの言葉をお届けします。
施設入所をすすめられるも在宅介護を決意
実家に戻り、親の介護と向き合いはじめる
2003年、母が軽い脳血管性パーキンソニズム(緩慢な動作や手足の震えなど、パーキンソン病とよく似た症状を示す症候群の一つ)を患ったのを機に、私(井上さん)は会社に異動願を出して実家に戻りました。
さらに2004年に、くも膜下出血を起こしてロックドインシンドロームになり、介護休業制度を1年間利用して、母の介護と向き合いはじめました。
病院では、「意思疎通ができない寝たきり状態」として扱われていましたが、毎日病院に行って病床で寄り添っていると、母に感情が残っていることに気づきました。
在宅介護の懸案は父の存在
ケースワーカーさんのすすめでいくつもの施設に見学に行きましたが、「大切な母を在宅で介護したい」という思いを募らせました。
「あの、私は家に連れて帰ろうと思ってるんですけど…」と考えを伝えると、ケースワーカーさんは最初かなり驚かれましたが、在宅介護に向けての万全の体制づくりをしてくださいました。
8ヵ月間の治療と療養の後、自宅の1室を介護のために改装して在宅介護が始まりました。
在宅介護をするにあたって、軽度の精神疾患がある父と隣り合わせでは、母の介護生活は心安らかにはいかないという心配がありました。
父には2階で自炊して生活してもらうことで、父の姿に怯えることなく、心穏やかに母と過ごせる時間が始まりました。
奇跡を信じて…介護の困難と障壁
ロックドインシンドロームでも母はしっかり生きている
自宅で母の息遣いに合わせて生活していると、母の中に感情だけでなく、明瞭な意識も思考も健在していることがわかるようになりました。
ちょうどそんなタイミングで、母と同じロックドインシンドロームに陥った男性の実話を基にした映画『潜水服は蝶の夢を見る』に出会いました。
脳梗塞の後遺症で、ロックドインシンドロームに陥った主人公。彼の中に意思が残ることを言語療法士さんが見つけ、文字盤を使って左目の瞬きによる意思の疎通で自伝を完成させたという物語です。
母の中には、母がしっかり生きていることを確信できたことで介護をする張り合いが出ました。
そこで、母に対して意識のある人として接してもらいたいと周囲の人に何度も伝えました。信じてくれる人もいましたが、そうでない人もいました。
母の介護で周囲の理解が得られない
母の介護でつらかったことは、物言わぬ母と変化のない生活や睡眠不足、加えて体力や精神的にかなりきついのをわかってもらえないこと、さらに「頑張れ」「仕事にも行け」などと言われ、在宅介護を軽く見られることでした。
私が介護していたのは30代半ば。周囲は親の介護とは無縁な人たちでした。
無神経な発言を浴びせられることもありましたが、母がショートステイのときに、私のバックグラウンドをすべて知っている友達と飲み明かすことでストレスを解消していました。
私は高校生の頃から腰痛を持っていました。介護中に椎間板ヘルニアの兆候が起きて激痛のため飲まず食わずで、トイレにも行けず、2・3日ひたすら介護ベッドで寝て過ごしたこともありました。ケアマネージャーさんがショートステイの手筈を整えてくださったときもありました。
つらいこともありましたが、「奇跡が起きて話せる日が来る、また食事ができるようになると信じる」ことが、介護の原動力になっていたのです。
「患者に残る可能性を大切に見つめてほしい」という母の意思
母の介護という「未知なる冒険」から得たもの
私は冒険好きだったので、母の年金で雇われる介護生活に就職した「未知なる冒険」だと思って挑戦してみようと思いました。その代わり、母を何より最優先に考えて、母に良いと思われることはすべて取り組みました。
私以上にバイタリティがあり、夢見がちにポジティブな母は、リハビリにも積極的。そのおかげで、会社勤め生活では出会わなかった介護、医療の分野で働く方々との接点が生まれたのです。
日曜日はお見舞いの人たちの対応、それ以外の日は、訪問医療、訪問リハビリ、訪問介護、通所リハビリ、口腔ケア、訪問マッサージ。空き時間には移動介護をお願いして周辺の散歩、介護タクシーを利用して買い物に出かけました。神戸まで美術展、コンサートに行ったこともあります。
お見舞いに訪れてくださる方や医療関係者の方々のご厚意に触れて、心が洗われ、荒んだものの考え方を正したいと思うようになりました。
今、「介護を語る会」を運営しているのは、あの時の感謝の気持ちを何らかのかたちで還元したいと思っているからです。
母の思いと私の思い
空気に向かって話しかけるような一方通行の「会話」は、意思を汲み取るのにとても時間がかかり、エネルギーを消耗するものでした。会社で自分の仕事がどんどん目に見えた成果につながっていっていたときと比較してしまうと、どんなにお世話しても、これといった変化がない母の容態には心が折れそうになることもあります。
ですが、母は「患者に残る可能性を理解してもらいたい』と外の世界への働きかけに積極的でした。私はその思いを託されて、母と同じような症状の入院患者さんのご家族に、「この方、きっとわかっていますよと母がいってます」と思いきって伝えてみることもありました。親族やTV番組に手紙を代筆したこともあります。信じてくださることは滅多にありませんでしたが。
あなたの目の前に横たわる方も、まだ立派な意志を抱いているかもしれません。
嘆く家族に掛けたい言葉を持っているかもしれません。
あるいは社会に何か痕跡を残したいと思っているのかも。
母は自分と同じような境遇の人がいることを、多くの人に知ってほしいと切に願っていたのです。「患者に残る可能性」について思いを馳せることが一般的になったら良いなと思っています。
次回は、お母さまを亡くされた井上さんがうつになってしまったことや、お父さまの介護に関するお話をご紹介します。