みなさんこんにちは、株式会社てづくり介護代表取締役の高木亨です。
売り手市場の就職状況が続く現在、「いよいよ勤めるところがなければ介護にでも…」という意見がネット上のそこかしこに飛び交っています。
実際、介護現場の人手不足感は上昇の一途にあり、経営者によっては「誰でもいい」風潮すら漂います。
筆者もまた、20年ほど前に介護畑ではないところから業界入りした人間です。
事実、入職するときのハードルは決して高くありません。
しかし、誰もに勤まるわけではまったくありませんし、介護ぐらいなら…とお考えになる方はまず間違いなく勤まらないでしょう。
今回は、介護従事のいったい何が難しいのか、介護の仕事の正体を考えてみましょう。
介護は「肉体労働」でも「頭脳労働」でもない
介護の仕事と言えば、「3K(きつい、汚い、危険)」。
そう言われて久しく、ときには5K・9Kなどと揶揄されたりもしているようです。
もちろんそのポジティブ面に目を向けてさまざまな払拭活動もされていますが、本当は世間の介護に対する根本的な理解が誤っていると思います。
介護は「精神労働」
一般的なイメージとして根付いている介護労働は「肉体労働」と思われがちです。
確かに体が資本ではありますが、介護従事者が「体を壊して退職する」ということは実際のところそう多くはありません。
実態は「精神を病んでリタイアする」ことの方がはるかに多いでしょう。
実際にそんな言葉はありませんが、筆者は介護を「精神労働」と理解しています。
圧倒的なストレスコントロールと感情コントロール、そして共感力と冷静な判断力などが同時に、そして継続的に求められるからです。
「バイステックの7原則」を完璧にこなせる介護職員はほぼいない
対人援助技術(ソーシャルワーク)の基本として有名なものに、「バイステックの7原則」というものがあります。
バイステックの7原則
- 個別化の原則(偏見や先入観に捉われず一人の人間として尊重する)
- 意図的な感情表現の原則(良い感情も悪い感情もなく自由な感情を表出させる)
- 統制された情緒関与の原則(自分の感情を制御し、過度な感情移入をしない)
- 受容の原則(直接的命令や行動感情を否定せずありのまま受け止める)
- 非審判的態度の原則(善し悪しを判じず相手自身に善悪の判断をさせる)
- 自己決定の原則(相手の意思を確認し自らの行動を相手自身に決定させる)
- 秘密保持の原則(いわゆる「個人情報保護」。相手が安心して個人情報を話せるようにする)
多少なりとも介護の資格を得た人間であれば常識であるはずの7原則ですが、実際にこれらの原則を完璧にこなせる介護従事者を僕は見たことがありません。
もちろん僕も毎日のように理想として掲げていますが、その理想ははるか霞みの向こうです。
高すぎる理想像と現場との葛藤
言葉として7原則を暗記している方は多いでしょうが、その意味を本当に理解している方は多くはないでしょう。
弊所でもことあるたびにこの原則を引っ張り出して勉強会を行っていますが、言ったそばから破られてしまう(本人は破っていることさえ気が付いていない)のがこの原則です。
非常に高いレベルでの自覚が求められ、口酸っぱく言っている筆者自身「ああ、今のは原則違反だった」と反省しきりの毎日です。
この原則を他者から見ても漏らさず毎日実施できている方がおられたら、まさしく生きた菩薩様の域に達しているでしょう。
たとえ怒鳴られてもキレられても、共感的態度を崩すことなく各原則に乗っ取って丁寧に対応し、それでいてほかの方にぶつからない自己決定を促す…それがいかに理不尽なものであってもです。
これをお年を召した方々相手に絶え間なく実施し続ける難しさが想像できるでしょうか。
知識と技術と「柔軟で強靭であたたかな精神力」が必要
介護福祉士であるにもかかわらず、先に述べた「バイステックの7原則」を日常的に平然と破っている、名ばかり介護福祉士は後を絶ちません。
何が悪かったのかすら気が付かないレベルの介護従事者が圧倒的多数を占めています。
むしろ鈍感な者の方が長く居座れるくらいでしょう。
「自分が原則を破り続けていること」に対して良心の呵責が生じないからです。
介護福祉士の資格は知識と技術だけあれば、ほとんど誰にでも取れてしまいます。
真面目な人ほど良心の呵責に苛まれる
掲げられた理想像を理解している、真面目な人ほど理想と現実との乖離に苦しむことになります。
筆者が起業したのは、既存の介護環境ではそのギャップを吸収しきれなかったからです。
自らを客観的に俯瞰的に見る姿勢は介護従事者にとっては不可欠ですが、このことが実際に高い次元で行える人が社会にどれだけいるでしょうか。
現実は客観視ができていない者ほど自己評価が高く、できている者ほど自己評価は低くなる傾向にあると感じます。
外部からの正当な評価が受けられなければ後者はあっという間に精神的に病んでしまいかねません。
一刻も早い整備が求められている
介護職は極めてストレスがかかる仕事
厚生労働省の「過労死白書」によって、多少明るみになりましたが、2017年度の精神障がいによる労災請求件数が最も多い業種は「社会保険・社会福祉・介護事業」でした。
この事実は労働環境としても極めてストレスがかかる仕事であることを示しています。
ただでさえ介護従事者の人材確保が全く追い付かない状況下で、病んで去っていく従事者が後を絶たない状況は危機的といえるでしょう。
利用者からも受けるハラスメント
介護の仕事に従事していれば、利用者からハラスメントを受けたことがある、という方は多いでしょう。
当然僕自身も暴言暴力を受けたことがありますし、大きな声では言えませんが結果的に殺されかけたことだってあります。
本人にはもちろん悪気はないでしょうし、心情的にはむしろ被害者でしょう。
それを理解しているからこそ「ハラスメントを受けた」などとは当時の僕には言えるはずもありませんでした。
僕はたまたま男性ですからさほど性的なハラスメントは受けてはいませんが、女性従事者はカスハラ(※)・セクハラをまったく受けないなどということはほぼあり得ないと思います。
「受けていない」とおっしゃる方々こそ、あまりにも高い理想像を抱いて「私が未熟だから」と思い込んでいる可能性が高いように感じます。
※カスハラ…カスタマーハラスメントの略称。サービスの消費者からの、暴力や暴言などの嫌がらせのこと。
お金と命を天秤にかけている場合ではない
個人的な見解ですが、利益と従事者を天秤にかけるとすれば、僕は迷わず従事者をとります。
支え手の方が大事です。
これはバイステックの7原則に反しているかもしれません。
しかし、介護従事者のいない介護事業所は成立しません。
利用者1人を切り捨てることで従事者が守られ、結果的にほかの利用者の多くが救われるのなら、僕は残酷な決断を下さなければならない。
このことは、社会保障を切り詰め続ける国家の問題とも重なります。
そもそも公共性が高い介護サービスを「財源がないから」という理由で切り詰め続けることは支え手を失うことに直結します。
国家財政破綻論がいまだに大手を振っていますが、そんなものは僕が物心ついたときから言われていたことであって、「利益が出ないから」「赤字だから」「財政健全化に反するから」国民全体が不幸に陥って良い、という国家など国としていかがなものかと思わざるを得ません(実際、消費税を20%に上げても破綻論は消えないでしょう)。