山本一郎です。最近さすがに暑いので、週3日のビールを解禁したところ、テキメンに体重が増えました。アベノミクスの風に乗って、体重もアゲアゲで頑張ってまいります。
ところで、先日、国立社会保障人口問題研究所(以下、社人研)より平成26年度版(2014年分)の社会保障費用統計が出てきました。いやー、かなりショッキングな数字ではあるんですが、要するに社会保障費の抑制は頑張っているけど、それ以上に高齢者が増えて費用削減が追い付かないという実にガダルカナルな状態に陥っております。
というのも、1947年から3年間の合計出生数は約800万人を超える日本最大のボリュームゾーンであった団塊世代の高齢者が次々と年金生活に入り、日本経済の成長を元気に牽引した彼らもさすがに病気がちになって、年金支出拡大と医療費増大の主要因となっています。別に団塊の世代が悪いから社会保障費用の拠出が増えたというわけではなく、単純に団塊の世代以降、彼らが成人する1960年代から70年代にかけて我が国の出生率が緩やかに低下し始めたことが背景にあります。
まあ、働いてなんぼ、会社人間、働き甲斐万歳で鳴らしてきた団塊の世代が家庭を顧みず頑張って経済成長の中心にあったことを考えると、ないがしろにされた家庭の多くは複数の子供をもうけるに至らなかったとしても仕方のないことなのかなー、とは思います。
つまりは団塊の世代はあまりちゃんと家庭をもうけ、維持し、子供を産まなかったことが、いまになって少子化に拍車をかけ、日本の労働人口減少の主要因となっている、というわけですね。そのため、日本最大の年度人口を擁する団塊の世代がごっそり高齢者になると、減りゆく若者も含めた労働人口ではなかなかこれを支えられないことになります。何しろ、その高齢者を支えるための介護職自体に人が集まらないんですよね。給料だけの問題じゃないと思うんですが。
消費税の10%への引き上げは見送り。
社会保障費を削減するという以前に、今現在
増え続ける社会保障費の財源調達すら難航中…
社人研のデータは、文字通り「老いる団塊」が食い始める年金と医療、介護の費用の増大を示しており、改革待ったなしの状況であることは、この連載でもかねてからお伝えしてきたとおりです。ヤバすぎます。
ここで当然のことながら、かねてから懸案になっていた社会保障と税の一体改革の話に繋がっていきます。各担当省庁や部局からの口ぶりが歯切れ悪いのは、その前提となっていた消費税の引き上げが見送りになり、深刻な財源不足に陥っているため社会保障の削減以前に、いますでに増えている社会保障費の財源の調達で困っているからですね。
ぶっちゃけ、財源がないのに必要な金が増えるというのは悪夢なのですが、どうにかしろと言いながら、どの予算を切ってもそこにぶら下がって命を繋いでいる高齢者や闘病中の方がおられる以上は、年齢で切るか、かかる予算と得られる社会的なメリットの比率で取りやめるかしか削りようがないんでしょう。
各省庁が出してきている内容は、微妙に主眼やテーマが違いますし、見ている将来像も異なるわけでありますが、この辺は縦割り行政の侘び寂びのようなものを掴み取っていただければそれでOKであります。考えても始まりません。
年金給付額や医療費の自己負担率引き上げより
老人の貧困問題のほうがよっぽど深刻
もちろん、消費税を引き上げれば財源が簡単に確保できるというのは早計で、景気が冷えてむしろ経済成長が鈍化し、税収の基本である法人税が減少したり、雇用情勢が悪くなって不況になるなどして、国家の歳入が増えないんじゃないの、むしろ消費税増税したら国庫としてはマイナスなんじゃないの、という議論は常にあります。
リフレだ金融政策だヘリコプターマネーだっていろんな話があって、ややこしいんだよ。だからこそ、安倍政権は政治的な判断として消費税の引き上げを再延期したわけですが、財源の手当てができない以上、社会保障全体をどう削減し、合理化、効率化するかを考えるしか方法がなくなってしまいます。
どの金融政策が当たるかは分からないし、この後の財政は明るくないにせよ、いつ国家が破綻するような経済状況になるのかは地震予測並みに難しいのです。だからこそ、税収を増やすための政策は基本的に「神は生きているか」の神学論争に近く、ある意味で占い師の集まりみたいなものなので、人の力でどうにかできる「社会保障費の使い道の合理化による削減」で地に足ついた議論をしようというほかありません。
さらに、年金の給付や医療費の自己負担率引き上げ、薬価の改定などさまざまなコスト削減策の前に大きく立ちはだかる問題があります。
「老人の貧困」です。
施設で引き取ってほしい家族と、
家庭で面倒をみて欲しい自治体とがせめぎあい。
結果として特養の「待機老人」が激増
老人が希少であった時代は、貧困に陥る老人がいたとしても個別の家庭の事情であり、その家族なり親族が可能な限り引き取って面倒を見るという方法でどうにか潜り抜けてきました。ここには、90年代以降ようやく光が当たるようになってきましたが、東日本では長男が、西日本では長女が家族の老後を面倒みるという謎の風習などもあり、そもそも明治以前からそういう老人の面倒の見方というのが日本社会のデフォルトとして組み込まれてきたとも言えます。
しかしながら、実際には昔よりはるかに老人は長生きし、子供の数も減っている現状で、介護離職を選択した人は長いこと労働市場から切り離され、親の年金を元手に暮らし、いざ親が死んでしまうと収入が途絶する代わりにしばらく本人も働いていなかったので、履歴書に書くべき職歴もなければキャリアも築けない。結局、低所得層に陥って貧困となるという連鎖があるわけです。
ヤフーニュースでも特集がありましたが、老いた親の介護をして「早く死ねよ」と思いながらも死なれると年金が途絶えて貧困に陥る介護離職の厳しい現実が、問題をよりややこしくします。単に死にゆく人のための社会保障ではなく、そういう人たちを支える家族もまた、社会保障の枠組みの中で何とかやりくりしているのです。
そういった面倒や葛藤も呑み込んで公共が引き受けて初めて高齢者福祉の原型となるのだと思ったら、それよりも先に社会保障費の増大で国の財源がなくなってしまいました。旧民主党政権では「新しい公共」とか議論しているうちに使える財源がないことに気付き、いまではむしろサービス内容や公的扶助の金額は引き下げられていく方向になります。
老人向けのデイケアサービスや老人ホーム、介護施設といったものに公共の扶助をつけようと思ったら、助成を受けられる要介護度が引き上げられてしまい、本人も家族も事業者もアテにしていた待遇改善や助成が受けられないで、実質的に梯子を外されるという結論になります。
もはや問題は公共セクターと家庭で高齢者の押し付け合いをし、施設で引き取ってほしい家族と、家庭で面倒を見てもらいたい自治体との間でのせめぎあいが勃発し、結果として特養に行列をする「待機老人」が激増していく方向にあるわけです。
「日本の社会保障費は世界に比べれば低い。
だから医療費の削減なんてとんでもない」
なんて主張が医師会や業界団体から出てきそう
まだ具体的な政策検討のメニューには入っていませんが、これから本当に社会保障費を持続可能なレベルまで減らすのだという話になると、年金の給付水準のさらなる引き下げや、受給開始年齢の引き延ばし、高齢者の医療自己負担率引き上げといった、金を払っている側がやってられないような改革が断行される可能性さえも出てきます。
社人研の今回の発表では、なぜか国際比較で日本は対GDP比でアメリカ、イギリスに次ぐ低さというようなグラフになっていて、OECDでも社会保障費の負担割合は低く出ています。これをみて、医師会や業界団体は「世界的に見て、日本の社会保障負担は少ない」ということで「医療費の削減はけしからん」という主張をしてくることになるでしょう。
ところが、この国際比較の数字にはカラクリというか補足するべき点があり、ここにいま日本が当面の課題とするべき家庭による隠れた介護の費用が算入されていません。
「老後は家族が面倒を見るのが当たり前」といいながら、高齢者の生活だけでなく、それを支える家族の生活も公共が扶助しなければならないところが、この支援が限定的であるため、国際比較に直したときいかにも日本は社会福祉に金を使っていないように見えてしまうわけです。実際には国が傾くほど老人にお金を使っているのが日本の現実なのにね。
簡単に言えば、介護の必要な老人を一人抱えると、支える一家は簡単に貧困になります。それは分かっているんだけど、その介護の必要な老人が多すぎて、社会保障費は総額で112兆円という途方もない金額になり、これを削ろうとするとさらに老人のいる家庭が貧困に陥ってしまうという、文字通りの「貧民対策」に直結し始めているのがいまの日本の社会保障の現状なのです。
政府が主張する「600兆円経済への道筋」は
なんだか明るくてかっこいい、ように見える。
でも、肝心の台所事情は厳しいまま
また、世代間の資源の奪い合いというものもあります。以前の本連載「各党マニフェストを徹底比較 国民の関心は安保関連の3倍以上!社会保障こそ争点なのに、政治家にとっては「パンドラの箱」」において各政党の政策で見てきたように、次の時代にツケを回さない政治をしようにも、いまのわが国の財政では常に公債費の償却と新たな発行が40兆円という規模で毎年繰り返されており、これらは確実に次世代や、まだ生まれていない卵細胞状態の未来の日本人の負債としてのしかかることになります。生まれてないのに借金背負ってるとか豪勢だな。
そして、貧困の連鎖・拡大を防ぐために、経済を活性化しようとなると、日本の出生率の改善、生まれてくる日本人に対する育児、教育と、彼らが担ってくれる科学技術の振興という横断的な問題がのしかかります。これらも拡充するには財源が必要で、どこを削り、何を為すかという重要な課題が発生するわけです。
内閣府の発行する閣議決定された「経済財政運営と改革の基本方針2016について」(骨太の方針)では、なんか600兆円経済への道筋とか景気の良いサブタイトルがついていて、なんか明るくてかっこいいです。
内容を見るに、各分野についても目くばせされた、総花的な内容に見えますが、いろいろ偉そうなことを書いている中でいえば、最終章の「第4章当面の経済財政運営と平成29年度予算編成に向けた考え方」に苦しい我が国の台所事情が垣間見えます。
このままでは貧困の連鎖への一里塚。
年金をもらっても貧困なのに、
さらに生活保護にも負担がかかるように
これから「医療費適正化計画に係る取組を含め、医療・介護分野等における徹底的な『見える化』に取り組む。また、医療費等の増加要因について、データやデータ分析に基づいて、精査・検証する」とか書いてるわけで、例年見ててげんなりするわけですけど、やるべきことは分かっているのに問題が大きすぎてなかなか進まないという学生の夏休み提出みたいな状態になっていることが分かります。
そうなってくると、漸進的に社会保障費はダラダラと削られていき、その年金や医療補助を頼りに生きている人たちは、今後もあまり明るい展望を得られないまま受けられる支援が減っていくことになります。先ほど述べた、貧困の連鎖への一里塚です。ところが、今度は年金をもらっても貧困ということで、別のセーフティーネットに負担がかかるようになってきます。
生活保護です。
生活保護を受ける高齢者の9割は一人暮らし。
今後10年で「貧乏な独居老人」の
孤独死が確実に増える
社会保障費用統計と同日に発表された、生活保護に関するデータを見ると、順調に増えている生活保護の世帯数が目を引きますが、一方で、高齢者世帯の生活保護がついに70万世帯を超え、その7割が独居老人であるという困惑するデータが出てまいります。
いままで生活保護を受けていた人がそのまま老年に差し掛かり高齢者世帯入りするケースもあれば、夫婦で年金暮らししていたものが、伴侶が亡くなられるなどして年金が半分以下になり、住んでいるところも維持できず蓄えが尽きて身動きが取れなくなるケースなどもあるとみられます。ただし、今後10年間を見渡したときに確実に増えるのは「貧乏な独居老人」が孤独に死んでいく姿です。
2013年度の生活保護費は一人当たり平均月額13万9,884円であり、生活保護の受給者は、医療費は扶助が適用されて自己負担なく診療を受けることができます(「平成26年度厚生年金保険・国民年金事業の概況について」)。
頑張って年金を払い続けたとしても
将来、もらえる額は生活保護の方が多い!?
何のための年金制度なのか問い直す時期
一方、高齢者が受給する年金の平均金額は国民年金が平均月額でおよそ5万4,000円、厚生年金はおよそ14万8,000円です。頑張って働いて年金積立しても、生活保護で受け取れる金額よりも年金のほうが少ないのであれば、何のための年金制度なのかということは改めて問い直されなければなりません。そして、条件を満たせば年金をもらっている世帯でも生活保護を受ける権利があります。
社会保障と税の一体改革では、結局のところ「年金や介護の仕組みでは、老人を支える一家の貧困を救えない」という結論をどう呑み込むのかが最大のポイントになっていくでしょう。
現役世代・勤労世帯も、高齢者世帯も、いまの社会保障での仕組みでは「蓄えのない人が得られる生活保護を受けたほうが良い暮らしができる」のであれば、わざわざ高い社会保険料なんて支払わないでもいいやとなる可能性さえも高くなってきます。貯蓄が中途半端にあって生活保護が受けられないよりは、いっそ散財してしまったほうが世間体は悪くとも生活保護でやっていけてしまうわけであります。
これはもう、制度上認められた悲劇です。笑っていられないのは先にも述べた通り、独居老人も含めた貧困層の老人が、生活保護を受けることが当たり前になっていくと、削減しようと思っていた社会保障費が蓄えのない老人の生活によってまた増えていってしまう恐れもあります。貧困に喘いでいる人たちは助けたいが、理念どおりに全員に生活保護を出していては財政が持たなくなるであろう話は、今後の課題として大きくクローズアップされていくことでしょう。
そして、そういう蓄えもなければ健康にも留意してこなかった老人を社会は生かすべきか、という議論にもなっていくかもしれませんし、逆にそうであるからこそ日本人は日本で生まれたからには日本社会全体でそういう人たちも助けていくべきという方向に動いていくかもしれません。しかしながら、理念と現実の狭間で懊悩(おうのう)できる期間は、もうそれほど残されていないのかもしれません。