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田中俊英さん「日本の残業が増えたのは、第3の居場所=サードプレイスを欲しているからかもしれない」

最終更新日時 2017/10/23

田中俊英さん「日本の残業が増えたのは、第3の居場所=サードプレイスを欲しているからかもしれない」

今回の「賢人論。」ゲストは、子ども・若者を中心に支援するNPO法人「officeドーナツトーク」の田中俊英氏。哲学者・鷲田清一氏に師事し、学んだ「臨床哲学」を福祉の現場で実践。不登校や中退、引きこもりや貧困など社会問題に直面する若者たちへ“居場所”を提供することをライフワークとしている。田中氏が重んじ、法人のミッションにも掲げている“サードプレイス”とは?

文責/みんなの介護

“第3の居場所”を提供することをミッションとしている

みんなの介護 田中さんは一般社団法人「officeドーナツトーク」の代表として、不登校や引きこもり、貧困など、子ども・若者に関する社会問題に取り組まれています。

田中 ドーナツトークでは、子ども・若者に“サードプレイス”、つまり「第3の居場所」を提供することをミッションにしています。「第1の居場所」は家庭、「第2の居場所」は学校や職場。そして、そのどちらでもない第3の場所が、私たちが生きていく上では必要です。家庭環境が良くなく、しかも学校に馴染めない、という子どもたちの場合ならなおさらそう。

「サードプレイス」の条件は、気軽に行けて、しかもコミュニケーションを強要されない居心地の良い場所である、ということ。誰か特定の人に会ったり関わる必要はなく、話したくなければ話さなくてもいい。なんとなく集まった人たちが周りに“ただいる”だけ、という感じが「居心地が良い」ということだと思うんですよね。

みんなの介護 具体的に、「サードプレイス」とはどのようなものなのでしょうか?

田中 例えば、日本において代表的な“サードプレイス”は「銭湯」。癒やしをくれる場所でさえあれば、出勤前の喫茶店や学校の放課後、あるいは残業時間さえも“サードプレイス”になりうる、と私は考えています。

現代の日本からは、この「サードプレイス」が失われつつあり、それが息苦しさにつながっていると言われています。日本人の残業が増えたのは、“就業後の会社は居心地が良くて、つい長居してしまう”という人たちが一定数いるせいでもあると思うんですよ。もちろん、仕事量が多いとか、残業代を稼ぎたいとか、それ以外の事情もさまざまあると思いますが。

みんなの介護 “第3の居場所”づくりとして、「ドーナツトーク」はどのような取り組みをしているのでしょうか?

田中 カウンセリングや、場所そのものの提供がメインです。例えばここ「住吉区 子ども・子育てプラザ」は住吉区が運営している、本来は子育て支援向けの施設なのですが、その中の2部屋を「面談用」「居場所用」としていつもお借りしています。ちなみに、大阪23区の全てにはこういった子育て支援用の施設が配置されています。居場所としての座敷部屋は、訪れた子どもたちがゲームをしたり、雑談をするスペースとして利用し、面談部屋では親御さんも含めたカウンセリングを行っています。

今は高校生向けの「居場所カフェ」などの10代後半支援、「tameruカフェ」などの大阪市南部に向けた支援、「ひらの青春生活応援事業」などハイティーン向け事業を軸としています。

「賢人論。」第51回(前編)田中俊英さん「パンやコーヒーとともに、傷ついた心を癒やすための居場所を提供する“となりカフェ”」

高校の中で、カフェスペースを無料提供

田中 「居場所カフェ」は、高校の中でカフェスペースを無料提供することで、中退予防を目指していくもの。「tameruカフェ」は大阪市住吉区と共同で行っている事業で、不登校や高校中退者とその保護者向けに、安心して休みエネルギーを「ためる」ことができるサードプレイスを用意しています。彼らハイティーン向けの支援はまだ手薄なので、全国で見ても貴重な事業になっていると思います。

「ひらの青春生活応援事業」は、平野市の保健福祉課から事業委託されているもので、不登校になる恐れのある高校生を対象に面談。一人ひとりに合わせた支援を行うことで、高校卒業・正規雇用を目指しています。

みんなの介護 最近では大阪府立西成(にしなり)高校で「モーニングとなりカフェ」という取り組みを始められたそうですね。校舎の一室を使い、生徒たちに朝食を提供するというものだそうですが。

田中 家庭の事情で親が朝ごはんをつくってくれなかったり、お昼の弁当代さえもらえない、という生徒が西成高校には少なからずいました。そうでなくても、高校生は1秒でも長く寝ていたいものですから、朝ごはんをつい抜いてしまうもの。「モーニングとなりカフェ」はそんな彼らにパンやコーヒーとともに、傷ついた心を癒やすための居場所を提供しています。

これまでの6年間も「となりカフェ」としてお昼や放課後にはお菓子とコーヒーを提供していたのですが、モーニングを始めたのは先日、9月13日のこと。「キャンプファイヤー」というクラウドファンディングサービスでこの事業への寄付を呼びかけたところ、1ヶ月で22万円の支援金が集まりました。開始初日から17人の生徒が訪れ、メディアでも取り上げられたり、テレビドキュメンタリーになるなど反響は大きかったです。

「賢人論。」第51回(前編)田中俊英さん「方針がブレてしまわないよう、利益が出ることにに対しては常に警戒するようにしている」

組織が大きくなるほど、ミッションがブレていきがち

みんなの介護 「子ども・若者」を中心にケアされているとのことでしたが、対象年齢はどのくらいなのでしょうか?

田中 この事業を立ち上げた頃は16歳以上の若者に設定にしていましたが、2年ほど前からは「0歳から100歳まで」、苦境にある人たちすべてを受け容れる方針に変えました。今、“引きこもりの高齢化”が話題になっていて、「若者」は定義上50歳までとされているんです。その親となると多くが80歳以上。

一方で児童虐待は0歳から始まるケースもありますし、16~7歳の若年者が親であることも珍しくない。ですから、こういった支援に関して年齢制限を設けることは非常に難しいです。

みんなの介護 ドーナツトークは、事業方針をつくりこみ、それに添って運営することを大切にされているそうですね。

田中 ドーナツトークの行動指針はディズニーランドを手本につくりました。ビジョンとミッションに基づきながら、設立から3年間はこれをやる、その後の2年間はこれをやる、という風に、段階的にプランを決めているんです。

一般に、社会的団体はこういったミッションなどに落とし込まずに、とにかく目の前で困っている人を助けることから始まることが多い。最初はそれで良いんですが、だんだん目の前の人を救えるようになってくると、そもそも自分の団体は何がやりたかったのか分からなくなってくる。そうなると、そもそも団体自体が長持ちしない。

目の前の社員を食べさせることに終始してしまっているとか、方針を定めずに根性主義でやっているとか、営利/非営利に関わらず、そんな運営スタイルになってしまっている民間企業も多いのではないでしょうか。

うちではあえて、あるライン以上の利益は目指さないで、小規模事業者のようなスタイルでやっていくということを大切にしています。そうでないと、自分たちの組織を維持するので手一杯になってしまう。利益が伸びるということは、ミッションがブレていくことと表裏一体なので、警戒していますね。こういう小規模で小回りのきく会社がもっと増えたら、日本もまた変わってくると思います。

みんなの介護 中編では、そんなドーナツトークの今後と、設立の経緯を伺いたいと思います。

自分なりの“キャッチャー・イン・ザ・ライ”をつくりたかった

みんなの介護 先ほど、「officeドーナツトーク」の活動内容とビジョンについてお聞きしました。今後は、どのように活動を広げていく予定なのでしょうか?

田中 今、まさにそれを考えているところです。ミッションの寿命は6~7年。今使っているミッションをつくったのは5年前なので、これはあと2~3年しか保たない。子ども・若者支援に関してはやりきった感が自分の中でありますので、これをある程度のところまで完結させていく、ということを今後の目標にしていきたいと思います。私も53歳ですし、自分の人生に区切りを付けるという意味でも。

あとは、「ローカリティ」の中でどれだけ子ども・若者を支援できるか。都会と地方では、登校支援ひとつとっても、やり方に20年ほどの差があるんですよ。

スーパーバイザーとして地方に行くと感じることなんですが、福祉に対してすごく高い意識を持っている方が多い。でもそれをどうやって都心部でやっているような形にもっていけばいいかわからないそうなんです。ですから、地域の特色に合わせ、彼らの支援活動のお手伝いをしていきたいです。

みんなの介護 そもそも、田中さんが「officeドーナツトーク」を設立した経緯はどんなものだったのでしょうか?

田中 私自身、高校のときにすごく人生に迷った時期があって。17歳~19歳のとき、人生で最もつらかった。その頃出会ったのが、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』という本。最後、主人公のホールデン・コールフィールドが「ライ麦畑で遊んでいる子どもたちが崖の下に落ちそうになったら、すかさず走っていって受け止める者」になりたいと言ったのに、すごく共感した。それが当時の自分を支えていたストーリーでした。

サリンジャーの言う“キャッチャー・イン・ザ・ライ”になりたくて、最初は教師を目指していたんですが、教育実習で行った学校では体罰も行われていましたし、自分がやりたいこと・すべきことは学校教育というシステムの中ではできないと悟った。それで自分なりの“キャッチャー・イン・ザ・ライ”をつくりたいと思ったんです。

余談ですが、実は当時もうひとつ憧れていたものがあって。それは「ロッキン・オン・ジャパン」の初代編集長・渋谷陽一。それで、1980年代当時に旬だった介護・医療問題を扱った雑誌を自分たちで立ち上げ、出版していました。社会福祉に関わる前、大学を出てから30代までの話です。

「賢人論。」第51回(中編)田中俊英さん「自分自身も当事者として苦しみ、最も関心のある“思春期”の問題に支援者として関わりたかった」

自分が当事者として苦しんだ問題に取り組みたかった

みんなの介護 出版の仕事を辞め、社会福祉の道へ行かれたのはなぜですか?

田中 介護・医療関係者を中心にあちこち取材に行っていたんですが、「そうやって霞を食べて生きていくのか」って必ずいつも説教されていた記憶があります。当時はそれで生きていけていたんですが、30代のとき、これを人間の一生の仕事にしていいのかどうかと悩み、壁にぶつかってしまった。それをきっかけに大学で哲学を学び直し、学んだことを活かして社会福祉へ転向しました。

いざ自分が支援者として活動しようとなったときには、自分が最も関心があり、自分自身も当事者だった思春期の問題に取り組みたいと思っていました。当時、まだ「不登校」ではなく「登校拒否」という言葉が使われていたし、「社会的引きこもり」という概念も出ていない頃。子ども・若者問題についてまだきちんと理解が進んでいませんでした。

みんなの介護 それで参加したのが「淡路プラッツ」というNPOだった。

田中 7~8年前、私自身がそのNPOで働きすぎて、脳出血で倒れてしまったんです。10日くらい意識をなくしていたのですが、職場の近所に病院があったので幸い、後遺症も残らなかったのですが。とはいえその出来事は個人的な転換期になりました。

意識が戻ったとき、主治医の先生が「生かされた命なのだから、人のために貢献する仕事をしなさい」とおっしゃってくれました。いや、まさにその社会福祉の仕事を頑張りすぎた結果、倒れたんですけれど…、という思いは置いておくとして(笑)。

10年間「淡路プラッツ」の経営に携わった中で、引きこもり支援に関してはある程度やりきった感覚があったので、これからはその中ではできなかったことをやろうと思い、「ドーナツトーク」を立ち上げました。リーマンショックの前後くらいからでしょうか、当時は社会構造が変わり、下流層の増加が社会問題になりつつあったので、その領域に本気で取り組みたいと思いました。

「賢人論。」第51回(中編)田中俊英さん「専門的な用語は抜きにして、日常生活の中で経験する問題を一から考えてみる、というのが臨床哲学のスタイル」

臨床哲学の研究は、一から問題に向き合う訓練になった

みんなの介護 大学に入り直して研究した哲学を通じ、どのようなことを学びましたか?

田中 師事したのは、大阪大学の鷲田清一教授。臨床哲学というジャンルの研究をしていました。根源的な問題を考える学問である哲学を、実際の現場に活かすというのが鷲田先生の教えで、「ドーナツトーク」はそれを子ども・若者支援に実践したものなんです。

臨床哲学の授業に来ていたのは半分以上が社会人で、医療や教育関係の仕事をされている方が多かった。それぞれが持ってきた問題をみんなで議論しながら抽象化・言語化していく、というのが授業の中身でした。

例えば、ホスピスに勤めていた方が「患者さんがこんな言葉を語って、そのとき自分はこんな風に揺れたんです」というような話をする。それについて、哲学はもちろん、各業界の専門用語は一旦抜きにして、その患者さんの苦しみや感情について、素朴でもいいので自分の言葉で解釈していく。

専門的な用語は抜きにして、日常生活の中で経験する問題を一から考えてみる、というのが、臨床哲学のスタイルなんです。そんな中、私が修士論文のテーマとして選んだのは、PTSD(※心的外傷後ストレス障害)の問題でした。

みんなの介護 PTSDとは、暴力や災害などで受けた強いストレスが心の傷となり、その後長きにわたって当人を苦しめる症状のことですね。

田中 虐待を生き延びた若者たちは、一見普通に社会生活を送れているように見えるのですが、実は重篤なPTSDを抱えていることもある。

PTSDは案外18歳以上になってから発症することもあって、抑うつ状態になったり、ぼーっとしたり、いろんな形で出てくるので判定が難しい。社会生活からだんだん離れていって引きこもっていく…というケースが多いんです。

みんなの介護 幼少期のつらい経験が、何年も経った後で本人を苦しめるのですか。

田中 それがPTSDの厄介な特徴なのですが、専門家からのアナウンスもまだまだ足りていないところです。PTSDは一生もの。“何歳になったから克服できる”というような甘いものではない。一見引きこもっているだけだったり、アルバイトが続かなかったりするその大元の原因が、実は幼少期の虐待だった、ということもあるんです。

児童虐待の問題は特に、発見が非常に難しいですね。現在進行系の当事者たちは、こういった事業には滅多に引っかかってこない。“虐待の連鎖”を防ぐという意味では、保護者支援の役割も非常に大きいです。子どもに虐待をしてしまう親の中には、まだ10代後半の未熟な人も多い。特に、18歳を越え要対協(※要保護児童対策地域協議会)の対象から外れてしまった親たちを誰が支援するのか、という問題は残っています。

都合のいい線引きに身を委ね、問題を見ないふりする人が多い

みんなの介護 児童虐待とその後遺症としてのPTSDについて深刻な現状を伺いました。

田中 一言に虐待と言っても、“殴る”“蹴る”だけでなくいろいろなケースがある。割合としていちばん多いのは、心理的虐待だそうですね。つまり、言葉の暴力。当事者からしてみたら、単に説教・しつけをしているだけのつもりだったり、あるいは自分が親から言われてきた暴言を単にそのまま子どもに言っているだけなんですけれども、当事者からしたらトラウマになってしまう。これがいわゆる“虐待の連鎖”です。

あとは、“面前DV”も多いようですね。夫婦喧嘩を目の前で見ていた子どもも心的外傷が残って、ときには軽度の知的障害を引き起こしてしまったりするんです。浜松医科大学の杉山登志郎先生は「第四の発達障害」という概念を提唱されていました。

第1の発達障害は精神遅滞などの古典的発達障害と呼ばれるもの、第2は自閉症と高機能広汎性発達障害、第3はADHD(注意欠陥多動性障害)やLD(学習障害)、そして第4が、虐待による軽度の知的障害である、と先生は書かれています。そういった領域に最近、ようやく光が当てられ、“パンドラの箱”が開けられつつある、というのが今ですね。

みんなの介護 最近よく議題に上がる「どこからが“うつ病”でどこからが“甘え”か?」というテーマと同様、新たな潜在的当時者が発見されるというということは、問題の再定義が迫られるということでもありますね。

田中 例えば、累犯障がい者(※知的障害や精神障害によって、犯罪を繰り返してしまう人)たちはどうするのか、という問題。そこまで踏み込み、考慮できる余裕が今の日本社会にはあるのか?と言うと疑問です。「どこまでを障害とし、どこからを当為者とするか」というのはまさに哲学の問題で、非常に難しいところなので。

人々は普通その複雑な問題に直面したくないから、「児童虐待の問題は18歳まで」などという風に法律で決めて、その線引きに判断を委ねている方が楽なんです。本当の問題を見なくて済むから。「私の施設は対象が18歳までだから」とか「幼児だけが対象だから」と言って平気で開き直る人が多い。

その人たちの気持ちも、確かによくわかります。そういう風に割り切らないと、どこまで首を突っ込んでいいかわからなくなってしまって、キリがない。でも、そうやって自分たちに都合よく線引をしている限りは、潜在的当事者たちを救うことはできません。

「賢人論。」第51回(後編)田中俊英さん「マイノリティーを救うための制度からさえ漏れてしまった“最大のマイノリティ”をこそ救うべき」

16万人のニートが“ないこと”にされている

田中 特に性的虐待には、まだ制度が掬いきれていない人たちが多いです。身近な他者によって性的暴力を受けたことでPTSDを抱き、社会生活が営めなくなったのだけれども、その過去を語ること自体が彼らの心を抉ることになってしまう。“当事者は語ることができない”というのが、この問題の難しいところなんです。

みんなの介護 となると、彼らに対してはどういったケアをすればいいのでしょうか。

田中 ケースバイケースですが、本人が蓋をしている記憶にどこまで踏み込んでいくか、ぎりぎりの決断が迫られます。カウンセリングだけでは弱いですよね。制度によって“黙らされている”当事者“たちがもっと楽に生きられるように、社会システム全体にも手を入れていかなければいかないですね。

みんなの介護 社会を変えていく、というと、どういった手段があるのでしょうか?

田中 私は編集者の仕事を通じて“発信”することの重要性を学びました。歳を取るごとに、ますますそれは痛感してきています。こういうインタビューももちろんですし、Facebookやブログなどを通じて、自分の取り組みや気付きを積極的に発信するようにしています。

今は特に時代の変革期で、先ほども申し上げたように、「ニート」の定義ひとつとっても変わりつつある。少し前までは34歳までとされていたのが、最近ではサポートステーションの支援対象が39歳まで引き上げられました。

それから、制度が見えなくしてしまっているところへもアプローチしていきたい。5年前まで引きこもりの数が70万人だったのが、最近54万人になりました。見かけ上は、ニートの数が減ったように見えますが、実際はそうでない。

40歳以上のニート16万人が「39歳まで」という定義の外に漏れてしまい、カウントされないだけなんです。問題を深く知らない人には、単純にニート問題が解決しつつあると思われがち。むしろ、「ニートの高齢化」という、より深刻な問題に変化しているだけなんですよ。そういう、外からは見えづらい問題についてしっかり伝えていくことが必要だと思います。

マイノリティーを救うための制度、そこからさえ漏れてしまった彼らこそが、最大のマイノリティーである、と言えると思います。そういう意味で、私たちは行動指針として“潜在的課題への取り組み”ということも掲げています。我々の社会生活を安定させるために、“ないこと”にされている人たちがいる。しかもそれをしているのは、マジョリティーである我々なんですよ、ということに気付いてほしい。

「賢人論。」第51回(後編)田中俊英さん「介護職のあり方そのものをRe Build(再構築)していく言論展開が今こそ必要」

人生は短い。この瞬間をどうポジティブに生ききるか、ということが大切

みんなの介護 最後に、介護業界に向けた意見もお聞かせください。田中さんは社会福祉事業に没頭する余り過労で倒れてしまった経験をお持ちですが、介護士さんの中にも、責任感が強く、無理をしてしまう方が多いそうです。

田中 介護士の待遇や労働環境を整えていくことは、大前提として大切だと思います。ただ、私の個人的な考えとしては、介護の仕事に誇りを持っているのなら、やれるだけやったら良いと思う。ともすれば顰蹙(ひんしゅく)を買いそうな意見ではありますが…、私は哲学を生き方のベースにしていることもあって、「今を生ききる」ということが最も大切なものだと考えています。

人生は長くてもたった90年、すごく短いんですよ。好きなことをやって生きるのが一番。それは介護に限らず、どの仕事でも同じこと。カメラマンなら、今この瞬間をどう撮りきるか、ライターなら、この瞬間をどう書ききるか。今生きているこの瞬間をどうポジティブに過ごすか。ということが重要。

感覚的には知っているかもしれないけれど、日本人のほとんどがなかなか実践できない生き方です。20年先、30年先のライフプランに怯えて今を犠牲にするのはある意味は“せこい”。もちろん、家族を持っていればそういうことを言っていられない、という面もあるんですけれど。

みんなの介護 介護士に関しては、必ずしもその仕事を望んでいない方も多いようですが。

田中 取材者としても、支援者としても、私自身数多くの介護士さんを見てきました。確かに看護師さんに比べると、納得してその仕事を選んでいる人はそう多くないかもしれない。

だからこそ、介護職という仕事のあり方そのものをRe Build(再構築)していくことが必要だと思います。つまり、彼らに癒やしを与えたり、自信をつけてあげたりするような言論展開です。それが「みんなの介護」をはじめ、介護に関わるメディアの使命だと私は思いますね。看護師、介護士には、燃え尽きてしまう人がとても多いですから。

規範的に「…すべきだ」と語るのではなくて、例えば人が生きるという観点から見たとき、排泄介助がどんな役割をもっているか、重要性をもっているか意味付けする言語がまだ不十分です。言葉のもつ“癒やし”の力は大きい。そういった哲学的、ともすれば文学的な言論こそが、今の介護業界が求めているものだと思いますね。

撮影:公家勇人

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森田豊
医師・医療ジャーナリスト
2022/11/07