野依良治「科学は真理の探究、そして福祉の実現のためにある」
今回は、2001年に「キラル触媒による不斉合成反応の研究」でノーベル化学賞を受賞した、有機化学者の野依良治氏に登場いただいた。言わずと知れた賢人中の賢人である。世界的なパンデミックが進む中、新型コロナウイルスへの対応をめぐって、現政権は必ずしも科学的根拠に基づいて施策を行っていないのではないか、という批判的な意見が多くみられる。重篤化が懸念される高齢者の割合が世界1位の日本で、政府はどのよう視点を持って対策を打つべきか。コロナ禍における科学の貢献とは何か。日本科学界のトップである野依氏に話を伺った。
文責/みんなの介護
パンデミックを機に、科学界と一般社会の対話が進んだ
みんなの介護 新型コロナの感染拡大に伴い、介護分野等の各業界はダメージを受けています。そんな中、緊急事態宣言の発出やGO TOキャンペーンの停止について、科学者たちの発する警鐘に政治はなかなか耳を貸さず、対応が後手後手にまわった印象があります。パンデミックの渦中にある今、国の施策を決定するにあたって、政治と科学はどういった関係を構築していくべきだとお考えですか。
野依 これは難しい問題だと思います。
1999年にハンガリーのブダペストで、ユネスコと国際科学会議の共催による「世界科学者会議」が開かれました。21世紀を目前に控え、科学界は社会とどのように関わっていくべきか、いろいろな議論がされたわけです。そして、最終日には「科学と科学知識の利用に関する世界宣言」を発出。科学は、人類の福祉の実現と人間の尊厳を守るため、社会の中で、社会のためにあることが確認されました。
今回、新型コロナウイルスの感染拡大を機に、科学界と一般社会は以前にも増して頻繁に対話するようになりました。たいへん好ましいことだと思います。私たち科学者も、狭い専門の科学界に閉じこもるのではなく、研究で得られた知識を社会にできるだけわかりやすく伝えたいと考えています。近年国際社会は、科学の社会に対する貢献度や、逆にそれを後押しする国の政策を注視しています。科学は政策決定を助ける立場にありますが、政治とのはざまに悩ましい問題があるのは事実ですね。
みんなの介護 科学と政治のはざまについて、もう少し詳しく教えていただけますか。
野依 一言でいえば、科学と政治とでは依って立つ次元が違うのです。科学はあくまでもエビデンス(実証的な根拠)に基づく営みです。一方で、政治はさまざまな主観が混在する社会全体を対象に施策を検討します。科学のように客観的な根拠だけで物事を判断することは困難です。
それでも、科学に信頼を寄せる国であれば、科学的根拠を尊重しながら政治を進めていきます。そして、科学者はこれに応えるために、万国共通の理念である科学精神に則って誠実な意見を述べるのです。事実、そうやって新型コロナの感染拡大を食い止めている国はいくつもあります。残念ながら、わが国の政治は社会に迎合し客観性を欠き、後手にまわる傾向にあります。
科学が国民に正答できない「トランス・サイエンス問題」
みんなの介護 コロナ禍で、国民の科学への関心・期待は高まっているように思いますが、これについてどのように捉えていますか。
野依 今回の件でも感じますが、多くの国民は科学に絶対に正しい答えを求めがちです。しかし科学には答えられない質問もあり、これを「トランス・サイエンス問題」といいます。
最もわかりやすい例は、昨年のノーベル化学賞の対象にもなったゲノム編集の問題でしょう。思い通りに遺伝子改変を可能にするこの技術は、食料増産や遺伝子治療を中心として、人類に大きく貢献することは間違いないでしょう。しかし、それが技術的にいくら優れていても、人命を操ることが生命倫理的に許されることなのか、科学的知見だけでは判断がつきません。科学者は、科学の領域を超えた善悪については答えられないからです。
それから、データ不足の問題もあります。目下の新型ウイルスについても、科学者が過去・現在にわたるすべてのデータを把握しているわけではありません。統計データを根拠とする場合も、平均値なのか中央値なのかで評価は変わってきます。もちろん、未来から実証的根拠を得ることも極めて困難です。AIで「予測」することはできても、決定論的に物事を「断定」はできません。
みんなの介護 確かにそのとおりですね。科学者は占い師でもなければ、予言者でもありません。
野依 新型コロナウイルスに関連して、もう一つ気になることがあります。それは「安全・安心」という言葉の使い方です。
一般的には「安全」と「安心」はひとくくりに語られますが、両者はまったくの別物です。「安全」は、科学的・客観的に一定の評価ができますが、絶対的な安全はあり得ません。一方、「安心」できるか「不安」であるかは、あくまでも当人の主観によるものです。
科学と政治の話に戻ると、リスクに対する立場も異なります。科学は放射線被ばくや感染症、自然災害などに関する「リスク評価」を担います。一方、政治はこの評価に基づき、さらにさまざまな要素を加味して、「リスク管理」をしなければならないのです。社会的合理性をもって被害を最小化するためには何をすべきなのか。信念を持って、最終的に判断するのが政治家の役割ということになります。
このように、科学と政治の関係は複雑です。しかし、健全でより良い社会をつくっていくためには、普段から両者が常に接点を持ち、お互いに信頼しあえる関係を築いていくことが重要だと考えます。
10年前の苦い経験を経てコロナ禍に直面する科学者の思い
みんなの介護 昨年からのパンデミックのような有事の際、科学にはどんな役割が与えられるとお考えですか。
野依 一般の人びとと同様に、普段から有事に備えている科学者は、保健や防災、軍事など特別な公的機関を除けばほとんどいないのではないでしょうか。科学のそもそもの目的は真理の探究です。過去の偉大な科学者であるニュートンやアインシュタインにしても、自然界の不思議を解き明かすことに傾注していました。
その一方で、科学知識を実社会に活用する「科学技術」というものがあります。エジソンはその分野の代表格で、白熱電球や電話機、映画などを発明しました。現代でも、多くの人がある明確な意図のもとで科学技術開発の研究に携わっています。そこでは、そういった科学技術もひっくるめて「科学」と総称しているようです。
科学とその応用が今日の文明社会にもたらした恩恵はきわめて大きいと、私たちは考えています。その文明社会が危機に瀕している今、科学も何らかの役割を果たさなければなりません。
10年前の東日本大震災では、福島第一原子力発電所で悲惨な事故が発生しました。残念ながら当事者や政治行政と同じく、科学界も社会から期待される義務を果たすことができませんでした。その苦い経験があるから、なおさらコロナ禍に対して「何とかしたい」と考える科学者は多いはずです。しかしワクチン開発も時代錯誤の行政に阻まれ、さらに膨大な時間と経費もかかり、完全制圧とはいかないのが実情です。
科学は絶対ではない。相対的に捉えなおす
みんなの介護 有事の際、科学が社会から期待されている役割を果たすためには、どんなことが必要だとお考えですか。
野依 科学界が責任を持って社会へメッセージを発信したり、的確なタイミングで行政に助言を行うために、平時から科学的助言組織を設置しておく必要があるでしょう。それも、政治権力や経済的利害関係から完全に独立した存在であることが不可欠です。
そこに登用されるのは、広い視野と高い見識を持ち、かつ社会制度や行政に詳しい科学者。なかなか見当たりませんが、長期的な視点で、助言できる人材を育成し続ける仕組みを構築しなければなりません。
しかし、しっかりした組織をつくったとしても、科学者の判断が間違うこともあります。例えば、1980年代から90年代に、イギリスはBSE(牛海綿状脳症)対策に失敗しました。感染牛を食べた人が変異型クロイツフェルト・ヤコブ病に感染してしまい、政府と関係科学者は激しい非難を受けたのです。また、2009年にイタリア中部で発生した大地震では、300人を超える死者と6万人以上の被災者が発生。事前に「大地震の兆候はない」と発表したイタリア防災庁付属委員会の科学者7人が、過失致死傷罪で罪に問われたケースもあります。科学者は常に謙虚であるべきです。
不確実性を内在している以上、科学的判断が絶対に正しいわけではありませんし、人は過ちを犯します。しかし同時に、ほかの判断材料に比べてより信用できることも事実です。国民の皆さんには、どうかそのように捉えて科学と接してもらいたいですね。
野依良治氏の主な著書に 『私の履歴書 事実は真実の敵なり』(日本経済新聞出版社)がある。
湯川秀樹博士に憧れて歩んだ科学の道、ノーベル賞までの知られざる足跡、間近で目にした「科学者」としての天皇陛下―。稀代の化学者が半生を語り尽くす。
野依氏が最近の関心事や問題意識などを綴ったコラム「野依良治の視点」もぜひご覧ください。
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