毛利衛「重大な局面で力を発揮できるかは、モチベーションの原点にかかわっている」
35歳で宇宙飛行士選抜試験に応募し合格
みんなの介護 毛利さんが“人工太陽”の研究に携わっていたこと、いまや雪道には欠かせない“スタッドレスタイヤ”の開発と普及のきっかけになった研究を行っていたことなど、非常に興味深いお話を伺いました。その後、毛利さんは日本初の宇宙飛行士選抜試験に応募して宇宙への切符を手にされたわけですが、それまで着実に実績を積み上げていた研究者の立場に未練はなかったのでしょうか。
毛利 35歳になっていた私が宇宙飛行士選抜試験に応募したのは、言うまでもなく宇宙に行くことが子どもの頃からの憧れだったからです。したがって「宇宙へ行きたい」という思いが先走って後先のことについては考えていませんでした。それと、採用枠が宇宙空間でさまざまな実験を行う「搭乗科学技術者(PS/ペイロードスペシャリスト)」であったことにも背中を押されました。実験は得意分野。自分にとって、これ以上自分の能力に挑戦する機会はないと思ったわけです。
とはいえ、優秀な研究者はほかにいくらでもいますし、「自分が採用されることはまずないだろう。駄目で元々」という気持ちで応募したところ、信じがたい幸運で合格。と、そこまでは良かったのですが、宇宙へ飛び立つまでが大変でした。
喜びから一転、初飛行まで32回の延期で約7年間忍耐の日々を過ごす
みんなの介護 向井千秋さん、土井隆雄さん、そして毛利さんの3人が正式に選ばれたのが1985年8月。そこから数えると、エンデバーに乗り込むまで7年かかったことになりますね。
毛利 はい。当初、初飛行は1988年1月の予定でした。ところが、宇宙飛行士に採用されてわずか3ヵ月後の1986年1月にスペースシャトル「チャレンジャー」の爆発事故が起きてしまった。それから次の打ち上げがいつになるのか予定が立たなくなったのです。
最初のうちはNASAから日本へは情報がまったく与えられず、3人のうち誰が最初に乗るのかさえ決まらないまま、訓練だけを繰り返していました。そのうち「ひょっとして、このまま待ち続けても自分が宇宙へ行けるチャンスは巡ってこないのではないか」という不安に苛まれて。といって、大学も辞めて住んでいた札幌のマンションも引き払っていましたから戻れる場所もなく、先行きが見えない状態で、妻や子どもたちにも不慣れな環境での生活を強いていることが申し訳なくて…。私の勝手な夢は現実の生活では地獄になりました。
みんなの介護 先日(日本時間2020年11月16日)、野口聡一さんが度重なる打ち上げ延期の末、ようやく民間の宇宙船としてはじめて運用段階に入った「クルードラゴン」で3回目の宇宙へ旅立ちましたが、何か連絡は取られていたのでしょうか。
毛利 待たされる身の苦しさや不安は誰よりもわかっているつもりですから、「打ち上げは必ずやってくる。私のときは32回延期になった」とメールを送って励ましていました。そしたら野口さんから「32回ですか。それを聞いて安心しました」という返信が(笑)。とにかく、無事に打ち上げが成功して本当に良かったです。
宇宙飛行からの帰還後は自問自答を繰りかえす
みんなの介護 毛利さんは著書『宇宙から学ぶ ユニバソロジのすすめ』(岩波新書)の中で「最初の宇宙飛行のミッションが終わり、地球に帰還すると、自問自答の日々が始まりました。『なぜあれほどまでに、自分は宇宙に行きたかったのだろうか?』。毎日そう自分に問い続けていました。その理由がわからなければ、次の人生に踏み出せないような気がしたのです」と述べられています。子どもの頃からの夢はすべて叶えられて充実感に浸るのではなく、このように考えるようになったのはどういった理由からだったのでしょうか。
毛利 確かに夢は実現しました。しかし、地球に帰って現実に戻ると研究者としてはブランクがありすぎて、すでに競争の激しい科学の世界では第一線に戻れなくなっていました。もちろんそれは覚悟していたことで後悔はありませんでしたし、宇宙での経験を広く一般に伝えることや後進の指導など、期待されている仕事も山ほどありました。それでも、「自分には何かやり残していることがある」「まだ宇宙へ行ったことの意味を掴みきれていない」という思いを捨てきれず、なかなか次の一歩を踏み出せなかったのです。
そんなとき、NHKから『生命 40億年のはるかな旅』という科学番組への出演オファーが舞い込んできました。全10回のシリーズで、その中に恐竜が鳥へ進化するプロセスを紹介する回があったのです(第5回『大空への挑戦者』/1994年9月放送)。地球環境の大変動という危機を乗り越えるため、羽根を生やして空を飛ぼうとした恐竜がいた。始祖鳥。現在の鳥の祖先といわれています。その回を担当しているうちに私の中で、空を飛ぼうとした始祖鳥と宇宙を目指した自分の姿が重なった。そこでようやく「なるほど!」と、何かが腑に落ちるのを感じて一つの仮説が思い浮かんだのです。
はじめての月面着陸で私たちが感動したのは「人類の意思」の強さを感じたから
みんなの介護 ぜひ、その仮説をお聞かせください。
毛利 はい。まず、生命にとって最大のミッションは「生きる」ことです。死んでしまえば物質に還り、二度と生命には戻れない。だから生命は死から懸命に逃れようとする。そして、その生命が生命を育んで未来へと世代を繋げていく。始祖鳥は生き残るために“鳥への進化”という手段を取った生命の一種であり、そうやって地球上の生命がどんどん種を広げて多様性を獲得したからこそ絶滅を免れた。おかげで、今こうして私たち人間も存在しているのだと思います。
また、「飛ぼう」という「意思」があったからこそ恐竜は鳥に進化することができた。およそ非科学的かもしれませんが、私は「飛ぶ」という新しい能力は、そこに「飛ぼう」という「意思」がなくては獲得できなかったと思っています。そう考えてみると、「そうだ。生命とはそういうものだ。そうやって生き延びてきたのだ」とすべて納得できたのです。
みんなの介護 なるほど。あらゆる地球生命は「生き延びる」というミッションの達成が危うくなる度、それを「意思」の力で克服してきたのだと。
毛利 私が宇宙へ行かずにはいられなかったのも、なんらかの危機を克服しようとする「意志」という本能に衝き動かされたからではないかと納得しました。
1969年7月20日、アポロ11号のニール・アームストロング船長が人類ではじめて月面に降り立ったときにこう言いました。
「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」。
この言葉に世界が感動と興奮に包まれました。それはとりもなおさず、人類の「生き延びられる可能性」が、地球だけでなく月にまで広がったことに対する喜びにほかなりませんでした。おそらく、人々はそこに進化しようとしている人類の意思を見出していたのだと思います。
撮影:荻山拓也
毛利衛氏の著書『わたしの宮沢賢治 地球生命の未来圏』(ソレイユ出版)
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実験科学者として宇宙、南極、深海の極限自然環境に身を挺して研究を実践した著者が発見した「ユニバソロジ」の世界観。一方、百年前スペイン風邪の世界大流行時代に生き、近代科学技術革命の波をいち早く社会に問うた農学者であり詩人の宮沢賢治。その作品からひも解いた「未来圏から吹く風」の本当の意味を著者が解説する。それらをもとに展望するポストコロナ社会は、あらゆる生き物との「つながり」を基本とする智恵の必要性である。人類の持続可能な社会を実現するための「未来智」の中に、読者は将来の科学技術の不安を超えた人間らしい生き方と希望を見つけるであろう。
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