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上野千鶴子「介護保険制度のスタート時に介護ワーカーの待遇が低く設定されたことが今日まで影響を与えている」

最終更新日時 2019/09/09

上野千鶴子「介護保険制度のスタート時に介護ワーカーの待遇が低く設定されたことが今日まで影響を与えている」

2007年刊行の『おひとりさまの老後』(法研、のち文春文庫)は75万部を超えるベストセラーとなり、日本社会に“おひとりさまブーム”を巻き起こした上野千鶴子氏は、自身も生涯にわたっておひとりさま道を貫く、超硬派フェミニスト。2019年4月の東京大学入学式では、「メタ知識」をテーマに圧巻の祝辞を述べ、各方面から「名スピーチ」と絶賛されたことは記憶に新しい。そんな上野氏の専門分野はジェンダー研究。「介護」はジェンダーと深く関係するテーマでもある。記念すべき第100回目でもある今回は、「賢人論。というタイトルをなんとかして」とお叱りを受けながら、介護現場の抱える問題点についてお話を伺った。

文責/みんなの介護

「家事援助」の安すぎる公定価格はいったい誰が決めたのか?

みんなの介護 介護の現場が疲弊しています。慢性的な人手不足で、介護ワーカー一人ひとりの負担が重く、それがさらに介護ワーカーの離職率を高めるという悪循環に陥っているようです。上野さんは社会学者として、介護保険導入時からこの制度を見守ってこられました。介護現場の現状をどのように見ていますか?

上野 2000年に介護保険がスタートしたとき、これは「介護の社会化」の第一歩だと言われました。「介護の社会化」とは、それまで家族に押しつけていた高齢者の介護を、社会全体で支え、ケアしていこうという考え方とシステムのこと。

介護保険の導入はあくまでもその「一歩目」であって、介護の社会化を実現するにはもちろん、二歩目、三歩目が必要になります。

ともあれ、この制度の導入によって、要介護認定を受けた人は、その要介護度に応じて、公共の介護サービスを受けられるようになったのです。また、サービスの財源は税金と保険料でまかなわれるため、40歳以上の人たちから広く介護保険料を徴収することになりました。

これが2000年にスタートした当初の、わが国の介護保険のあり方でしたね。

みんなの介護 上野さんは、介護保険制度そのものについては評価なさっていますか?

上野 それまで貧困層に対する介護支援はありましたが、中産階級が家族を介護する際、公的な支援は一切存在しませんでした。公共サービスとして、すべての人に利用可能なユニバーサルな介護が提供されるようになったことは、評価していいと思います。

問題は、公共サービスに従事する介護ワーカーの労働条件が著しく劣悪なこと。いったい誰が、介護ワーカーの仕事ぶりをこんなに低く評価したのか、という疑問が出てきますね。

みんなの介護 どういうことでしょうか?

上野 介護保険は準市場と呼ばれ、サービスの公定価格が決まっています。準市場とは、水道や電気のように、需給バランスによって価格が変動する市場メカニズムが作用しない、公的機関が管理する市場のことです。

医療、介護、保育のような、みんなにとって必要なサービスの料金設定は、市場原理だけに任せるわけにいきません。需要と供給のバランスで料金が高くなりすぎると、本当にサービスを必要とする人がサービスを買えなくなる。逆に料金が低くなりすぎると、サービスを提供する事業者がいなくなる。どちらの場合も、医療、介護、保育のサービスが崩壊してしまいます。

そこで介護保険でも、サービスの公定価格を国が設定しました。当初は在宅を支える訪問介護がメインに考えられていて、「身体介護」と「家事援助(その後、生活援助に変更)」という名目でしたね。身体介護が30分以上1時間未満で4,020円、家事援助が30分以上1時間未満で1,530円。

そもそもなぜ、サービスを二本立てにしたのでしょう。しかも、2つのサービスの差額が大きすぎます。身体介護の料金を高めに設定したのは、サービスを請け負う業者が当初は不足していたので、業者の参入を促すためでした。

最初から料金設定を1本にしておいて、3,000円台ぐらいにしておけば、問題は今のように発生しなかったはずです。

ところが厚労省は、家事援助という、料金の低いサービスを設定しました。「家事援助」という名称に、厚労省の考え方が透けて見えますね。「家事の援助は、女なら誰にでもできることだし、特別なスキルなんかいらないから、1,530円程度でいいだろう」と。管理コストと移動コストを考えると、この価格ではやっていけません。

こうして、料金の安いサービスを最初に設定してしまったことが、介護ワーカーの労働条件を後々まで悪化させる要因になったと考えています。

介護保険は基礎自治体の基礎的行政サービス?だとすれば、財源は税金でまかなうべきでは?

上野 介護保険制度を導入するとき、税方式にするか、保険方式にするか、大激論があったのを覚えていますか?介護保険法が成立する1997年前後のことですが。

みんなの介護 すみません、あまりよく覚えていません…。

上野 もう20年以上も前の話ですからね。いちおう、ここでおさらいしておきましょうか。

介護保険法を巡っては、論点が2つありました。まず、介護保険の運営主体をどうするか。そしてもうひとつが、介護保険の財源をどうするか。

このときも厚労省は、自分たちに都合のいい論理を展開していましたね。介護保険の運営主体については、「地方分権を推し進めるうえでも、市町村が望ましい」と主張したんです。市町村に丸投げした形となり、市町村は当然、猛反発しました。医療保険でさえ破綻寸前の状況なのに、このうえ介護保険まで押しつけられたら、自治体の財政は破綻する!と。

しかし厚労省は、「介護保険の運営主体は市町村」で押し切ってしまいました。介護保険はあくまでも基礎的な公共サービスだから、基礎自治体である市町村が運営するのは当たり前、という論理ですね。

みんなの介護 ああ、なんとなく当時のことを思い出してきました。

上野 仮に、厚労省の言い分が正しいとしましょう。「介護は国民にとって基礎的行政サービスだから、基礎自治体が運営するのは当たり前」だと。しかし、そうなると、その財源は本来、税でまかなうべきだということになります。なぜなら、国民にとって同じ基礎的行政サービスである「義務教育」は市町村で運営されていて、しかも財源には税金が充てられているのですから。

義務教育は基礎自治体の責任です。だから義務教育を行う小学校と中学校の教員は、全員が基礎自治体=市町村の公務員です。この理屈でいけば、介護ワーカーも全員、基礎自治体の公務員であるべきですね。

ところが、実際にはそうはなりませんでした。わが国では20世紀後半からネオリベラリズム(新自由主義)の風が吹いていて、行政コスト削減のために「民間にできることは民間に任せるべき」という風潮が生まれていたからです。

その結果、基礎的公共サービスであるはずの介護保険も、運営主体は市町村に丸投げしながら、財源は国民からの保険料でまかない、実際のサービスは事業者にアウトソーシングすることになりました。

全国市町村長会は最後まで反発していたし、福祉の専門家たちも「財源は税方式にすべき」と、最後まで主張していたのですが…。

介護保険制度導入の最大の意義は「介護はタダではない」と多くの人が気づいたこと

介護保険料を徴収されることで、人々に介護サービスへの権利意識が生まれた

みんなの介護 ともあれ、介護保険制度は国民から保険料を徴収する方式でスタートしました。上野さんは今でも、税方式にすべきだったとお考えですか?

上野 私は結果オーライだったと思います。保険料方式にして良かったことは、介護サービスに対して、国民に権利意識が芽生えたことです。

2000年の制度開始以降、40歳以上の人は介護保険料を強制的に徴収されていて、しかも利用者は1割負担を求められるわけですから、「保険料を支払っているのだから、自分たちにも当然、介護サービスを受ける権利がある」と、多くの人が考えるようになりました。

もしも税方式だったら、介護保険がどんな財源でまかなわれているのか、国民にわかりにくく、「お上の恩恵」意識が脱けなかったかもしれません。

また、国民に権利意識が生まれたことで、介護サービスに対する考え方も変化しました。意図せざる効果は、施設入居に対するスティグマ(恥や不名誉に思うこと)がなくなったことです。

介護保険制度の導入前は、「施設送り=姥捨て」というイメージが強かったので、「高齢の親を施設に入れるなんてとんでもない!」という空気が社会を覆っていたと思います。ところが、「自分たちは介護保険料を納めているのだから、親を施設に入居させることも自分たちの権利だ」と、家族が自分たちを納得させることができるようになった。

良くも悪くも、高齢の親を施設に入れることは、特に恥ずかしいことではなくなったのです。

みんなの介護 在宅介護や訪問介護に対する意識も変わったのでしょうか。

上野 もちろん、変わりましたね。介護保険制度が始まったばかりの頃は、「こんな保険ができても、家に他人を入れる者はおらん」と、多くの人々が言っていました。高齢者の家族にしても、制度を使うこと自体、恥ずかしく思う風潮があったようです。

そのため、実際に訪問介護を頼む場合も、介護ワーカーに「車を自宅前に止めずに、1ブロック先に止めて、そこから歩いてきてくれ」と注文をつけるほどでした。

みんなの介護 それほど、他人に親の世話を頼むのは恥ずかしいことだったんですね。

上野 そうなんです。制度開始直後は、自治体職員が一軒一軒まわってニーズの掘り起こしをやっていたくらいです。ところが、それからしばらく経つと、人々の権利意識は一気に高まっていって、みんな介護サービスを堂々と利用するようになった。3年目の改訂期には、政府は利用抑制に廻ったくらいです。

あれ、日本人って、こんなにあっさり意識を変える人たちだったっけ?と、私もあっけに取られたくらいです。

介護は「家のなかのタダ働き」ではない「価値ある労働」だと、ようやく人々は気づき始めた

みんなの介護 月日の経つのは早いもので、介護保険制度が始まって今年で20年目を迎えました。

上野 介護保険は3年ごとに見直すことが法律で義務づけられていますが、あれよあれよという間に、利用者が増えましたね。厚労省側としては、不適切利用を厳しく指摘したり、要介護認定基準を厳格にしたりと、保険利用を抑制する方向に舵を切っています。それだけ、市民の権利意識と利用ニーズが高まっている証拠でしょう。

介護保険がスタートして、大きな変化がもうひとつありました。それは「介護はタダではない。他人に介護してもらうとお金がかかるんだ」という、当たり前の事実を人々が改めて学んだことです。

逆に言えば、介護はそれまで、家の中の「タダ働き」でした。わが国では長い間、その家に嫁いできた嫁が、否も応もなく、義理の父母の介護をやらされていたわけです。フェミニストの立場から言えば、「強制労働」ですよね。

それに対して、「他人にやってもらえばお金がかかる」と人々が気づいたことで、「家の中で行われても価値のある仕事」だと、やっと認識されるようになりました。

ただし、冒頭でお話ししたとおり、最初の価格設定が低すぎました。誰が低く設定したのかと言えば、政治家であり、官僚ですね。「介護の仕事の対価は、この程度で十分。どうせ女なら誰にでもできる、非熟練労働なんだから」と、厚労省のおっさんたちが思ったのでしょう。

人をケアするという行為は、人間と人間の間でしか成り立たない

みんなの介護 上野さんの『ケアの社会学』を拝読しましたが、介護という労働がほかの労働に比べてなぜ下位に見られるのか、私もどうしても腑に落ちませんでした。

先日、別のメディアでの取材でとある大学教授の方とお話ししていて、たまたま介護の話になったのですが、「これからは介護の大部分をロボットに任せられるようになる。介護される側も、不親切な人間より親切なロボットのほうが嬉しいんじゃないか」とおっしゃったので、ちょっと驚きました。

上野 その大学の先生は男性でしょ?

みんなの介護 はい、そうです。

上野 そうだと思った。そういうバカな発言をするのは決まって男です。だったら、そのおっさんに聞いてみてください。あなたは自分の子どもの育児をロボットに任せますか?と。

その先生だけでなく、「介護はロボットに任せればいい」という話は、最近いろいろなところで耳にしますね。でも、「育児はロボットに任せればいい」という話は誰もしない。そんな話をすると、各方面からバッシングされることが目に見えているからです。

人間の子どもは、やはり人間と人間の間でしか育たない。それをみんな、わかっているんですね。人間が老いていく過程は、人間が育っていくのとは逆の過程ですが、やはり人間と人間の間で老いていくものだと思うし、そうするのが当然だと思います。

育児にしろ、介護にしろ、人をケアするという行為は、そのときその場で生産され、消費される労働です。つまり、ケアする人とケアされる人が時間と空間を共にしないとできない労働なんです。

しかも、炊事洗濯などほかの家事と違って、「今日はヒマだからまとめてやってしまおう」ということができません。介護を作り置きして冷凍しておく、なんて、できませんよね。なぜなら育児も介護も、人間と人間のコミュニケーション行為だからです。

そんな基本的なことが、世の中のおっさんたちになぜ理解されないのか。まったく、私のほうが理解に苦しみます。

介護という「見えない労働」が、介護保険導入で「見える化」された

みんなの介護 前編では、介護保険の導入により、介護は「タダ働き」ではないことが社会に知らしめられたというお話を伺いました。それにしても、介護の労働報酬は、ほかの労働に比べてなぜ低いのでしょうか。

上野 その問題については、私もこれまで『ケアの社会学』や『家父長制と資本制』という本の中で考えつづけてきました。

中世の自給自足の生活では、男も女も、みんな家の中でタダ働きをしていました。家事も、育児も、祭祀も、儀礼も、遊びも、すべて無償で行われていましたね。ところが、近代に入ると、それまで家の中で行われていた労働がアウトソーシングされ、次第に商品市場が作られていきます。

例えば、それまで家族のために服を縫っていた労働は、服を作る専門職人にアウトソーシングされ、今度は専門のメーカーが作った服を購入するようになります。そうやって市場化された労働には、対価が発生します。それまで家の中で行われていた裁縫、調理、家具作りなどは次々にアウトソーシングされ、人々はやがて対価を払ってそれらを購入するようになっていきます。

ところが、そのように市場化されなかった労働は対価が支払われないまま、家庭というブラックボックスに、女と共に残されてしまいました。

子どもを産み育て、病人を看病し、障害者の世話をして、高齢者を看取る、という労働です。私たち社会学者が言うところの「再生産労働」ですね。すなわち、生産活動とは直接結びつかず、労働力を再生産するための労働です。

こうした再生産労働はこれまで「見えない労働」でした。そこで、私たち社会学者やフェミニストが「見える化」したら、それが「不払い労働」だということがわかりました。この観点から介護保険を捉えると、介護保険導入によって「高齢者介護という労働」が「見える化」し、「対価を伴う労働」になったといえるでしょう。

「介護を他人にやってもらえば金がかかる」が、広く社会の常識になったんです。

みんなの介護 ジェンダーの視点から捉えると、介護保険には別の意味も生まれてくるんですね。

上野 フェミニズムの進展も、やっとここまで来ました。それでも介護労働は、不当に低すぎる料金設定になっていますが。

現在の介護ワーカーの待遇を社会が容認することは、介護の質はこの程度でいい、と認めること

みんなの介護 介護ワーカーの低賃金は、もう改善しようがないのでしょうか。

上野 そんなことはありません。施設系の介護ワーカーの賃金水準は少しずつ上がってきています。一時期、施設の正規職員の給与水準は全産業の平均より10万円低いと言われていましたが、このところ人手不足で徐々に上がってきていますね。

そもそも、全産業平均より10万円低いと言われたのも、介護がまだ若い業界で、介護職員の平均年齢がぐんと低かったことも影響していると思います。つまり、単に給与額の平均だけでなく、全産業の平均年齢とも比較しないと、介護の仕事が本当に低賃金なのか、正確なところはわかりません。

今、全産業の就業者の平均年齢は40代前半くらいでしょうか。介護職の平均年齢が追いついてきたら、たぶん、そんなに悪くないんじゃないかと思います。私の知る限り、大卒男子で年収400?500万円くらいのケースも出てきています。介護職も、そろそろ普通の職業並みに近づいてきたのではないでしょうか。

みんなの介護 それを聞いて、少し安心しました。

上野 ただし、ここで注意しなければならないことがあります。それは、給与水準が職種と雇用条件によってかなり違うことです。

介護ワーカーは「不況型職種」と言われます。不況になると参入者が増え、今のように景気が良くなると他業界に流出していく。就業者は基本的に賃金で動くので、介護ワーカーの数を増やしたければ、賃金を上げればいいのです。

介護事業の原価は、ほとんどが人件費ですね。その人件費率が6割を超えると、経営的には危ういと言われています。ですが、良心的な事業者は、人件費6割から7割でがんばっています。一方、儲け主義の業者は正規職員を増やさず、非正規や派遣スタッフを入れて頭数を揃えています。

私は介護施設を取材するとき、職員の正規・非正規の比率を必ず聞きます。非正規の割合の多い施設はスタッフが職場に定着せず、スキルの蓄積ができず、ケアの質が下がっていきます。その結果、入居する高齢者にすべてのしわ寄せが来てしまいます。

それに施設職員は夜勤もあって相対的に賃金水準が高いですが、訪問介護職はワリが悪いです。というのもパートや登録ヘルパーを雇っているからです。

こうした事業者のあり方を社会が認めているということは、「介護ワーカーの給与はこの程度でいい」と、私たちの社会で合意形成ができているということ。それはすなわち、「高齢者はこの程度のケアを受けていればいい」と認めていることに他なりません。

みんなの介護 社会の合意形成ですか…。今まで他人ごとのように感じていました。介護ワーカーとしては当然、もう少し給料を上げて欲しいですよね?

上野 以前、訪問介護のヘルパーさんに、給料はどのくらいほしいかリサーチしたことがあります。すると、「年収300万円以上あれば、仕事を続けていける」という答えが多かった。介護ワーカーの人たちは、給料に対して、決して高望みをしているわけではないんです。

その程度の給料がなぜ出せないのかといえば、制度にいろいろと不備があるから。例えば、先ほど言ったように家事援助の料金設定が低いだけでなく、訪問介護の移動コストが配慮されていない、とか。

同様に、介護事業者にも話を聞きました。介護報酬がどれくらいあれば、事業が継続できるのか。すると、多くの事業者から聞かれたのは、「身体介護と生活援助を一本化して、せめて1時間3,000円台にしてくれたら」という声でした。1時間3,000円台の介護報酬があれば、管理コストを考えても何とかやっていけるようです。

介護サービスが「介護保険市場」と「介護保険外市場」に二重化されれば、圧倒的な老後格差が生まれるだろう

上野 「訪問介護サービスを二本立てにする意味がわからない」という声もいまだに根強いですね。身体介護はマニュアル化できるけど、生活援助はマニュアル化できない。つまり、生活援助のほうが、身体介護の何倍もの、経験、スキル、柔軟性が要求される。生活援助をバカにするな、というわけです。

みんなの介護 言われてみれば、確かにそうですよね。生活援助はその都度、個別対応が求められるわけですから。

上野 ところが厚労省は、介護保険から「生活援助」を外そうとしているみたいですね。介護報酬は身体介護に一本化して、生活援助は自費かボランティアでやってもらう方向で検討しているようです。しかも、要介護度認定を3以上にして、要支援は外す、とか。各方面から聞こえてくる話を総合すると、どうやら、そういうシナリオができているようです。

みんなの介護 そうやって、社会保障給付費を節約しようとしているんですか?

上野 もちろん、そうですよ。社会保障給付費をできるだけ削減したいからでしょう。介護保険制度そのものは今さら潰せないので、運用のレベルで、できるだけ使わせない方向に改悪していこうとしていますね。すでに3割負担も始まっているし。最終的には、重度の要介護者限定という形になりそうです。

みんなの介護 制度をつくる側の人たちは、将来自分たちが介護保険のお世話になることは考えてないんでしょうか。

上野 考えていないでしょうね。自分たちは保険を使わなくても、老後は妻が看てくれると思い込んでいるし、年金がありますから自己負担でまかなえると算段しているのでしょう。

これから厚労省が進めようとしているのは、介護保険が適用されるサービスと、介護保険が適用されないサービスを混合利用する「混合介護」です。そうやって、保険外のサービスを高齢者に使わせることで、高齢者の貯めた小金を放出させようとしているんですね。

今、私が感じているイヤな予感は、介護サービスが将来的に「介護保険内市場」と「介護保険外市場」に二重化され、お金持ちは快適な老後が送れて、そうでない人は姥捨てされるという、圧倒的な老後格差が生まれること。

制度をつくる側の人たちはもちろん、前者になるでしょうね。

みんなの介護 今の発言は書いちゃってもいいですか…?

上野 構いません。「文責:上野」でお願いします。

介護ワーカー自身が「これから、介護保険をこうしたい!」と、自らの発言力を持つことが必要

今の高齢者は権利意識がない。みずから待遇改善を要求することはあり得ない

みんなの介護 上野さんは、「介護現場を変革するには、当事者が声を上げることが重要」と説かれていますね。高齢者の人たちはなぜ、自分たちの意見を言わないのでしょうか。

上野 それは、今まで日本の年寄りに権利意識が芽生えなかったからです。そもそも、現在の介護保険も、高齢者からの要求で生まれたものではなく、「家族の負担を軽くしてほしい」という、高齢者家族の要求で生まれたもの。

日本の年寄りがどういう人たちか、イメージしてみてください。今、要介護になっている高齢者は80歳代から90歳代。男女比では圧倒的に女性が多い。つまり、太平洋戦争や戦後の貧しい時代を必死に耐え抜いてきた、辛抱強いおばあさんばかりです。

彼女たちには、おそらく権利意識などはありませんね。ずっと家族のために生きてきて、今、高齢者施設に入居しているのも、息子や娘たちに迷惑をかけないため。もしかすると、今生きているだけで、肩身の狭い思いをしているかもしれません。

みんなの介護 高齢者の世代が替わっていかないと、当事者としての権利要求は出てこないかもしれませんね。

上野 先ほどお話ししたように、家族の側の権利意識はすでに芽生えています。これから数十年後、高齢者の家族自身が高齢になったときは、「しまった!」と思うでしょうね。

というのも、現在の介護の現場は、必ずしも高齢者中心にはできていませんから。今、介護の現場を改善しておかないと、現在の介護家族は、将来自分で自分の首を絞めることになります。明日はわが身、ですから。

みんなの介護 そうだとすれば、高齢者家族の人たちは、今から介護現場の改善を訴えるべきですね。やがて自分たちもお世話になるわけですから。

上野 建前からいえばそうですが、実はそう簡単なことではありません。というのも、高齢者家族の立場からすれば、「できれば、いま以上にお金を出したくない」というのが本音でしょうから。

みんなの介護 なかなか道は遠そうですね。介護現場の労働環境を今すぐ改善できる、特効薬のようなものはないのでしょうか。

上野 介護ワーカーの離職率を下げる方法はいくつかあります。例えば、増子忠道さんというお医者さんが『やりなおし介護保険』という本でも書かれていますが、介護職の労働条件を看護師並みに上げることは、きっと大きな効果があるはずです。

介護の現場では、医師>看護師>介護職というヒエラルキーが厳然と存在していて、それが大きなストレスにつながっている。でも給与水準が同じになれば、看護師は介護職を見下すことがなくなるはずです。

要介護認定は廃止して、オランダのビュートゾルフ方式の採用を

みんなの介護 上野さんは、現在の要介護認定制度に対してご意見があるとか。

上野 私は以前から「要介護認定廃止論者」を公言しています。要介護認定は無駄だし、有害だから、一刻も早く廃止したほうがいい。

しかし、介護業界では、「要介護認定廃止」は禁句になっています。なぜなら、要介護認定を廃止してしまうと、誰もが無制限に介護保険を使ってしまい、保険制度そのものが崩壊すると考えられているから。制度の持続可能性からいうと、これ以上使わせないという利用料上限を設定する要介護認定制度は、必須と考えられています。しかし、本当にそうでしょうか。

そもそも、認知症の人の要介護度は正しく判定できないし、判定は機械的でもあり、バラツキもあります。しかも要介護認定には、書類作成から調査員の派遣、主治医の意見書作成や一次審査、介護認定審査会の実施など、膨大なコストがかかる。

それだけのコストをかけても、判定結果がいまひとつ信用できないわけですから、こんな無駄なものはさっさと止めてしまったほうがいいんです。

みんなの介護 要介護認定を廃止にした場合、代替案のようなものはあるのでしょうか。

上野 公益社団法人・認知症の人と家族の会では、「当事者と家族を含めたサービス提供者会議の場で集団的に合意形成すればいい」といっていますね。ケアマネジャー、主治医、事業者、利用者、家族に加えて市町村の保険者も参加し、要介護者にどんな介護サービスが必要なのか、みんなで話し合って決めたら、そんなにとんでもない結果は出ないでしょう。

また、よく知られている先例もあります。それは、オランダで実際に効果を上げている「ビュートゾルフ方式」です。「ビュートゾルフ」はオランダ語で、「コミュニティ・ケア」という意味。

オランダは福祉や認知症ケアの先進国ですが、介護制度が細分化しすぎてわかりにくくなったため、「介護をもっとシンプルに考えよう」という流れが出てきて、2006年頃から、ビュートゾルフという非営利の在宅ケア組織が生まれたんだとか。

ビュートゾルフのシステムはきわめてシンプルです。一人の要介護者に対して、看護師と介護士が半々くらい入った10人程度のケアチームを結成し、必要な介護サービスの質と量はすべて現場に裁量権を持たせ、集団で意思決定して決める、というもの。

この方式のケアを実施してみて、次の3つのことがわかりました。①利用者満足度が大きく上がったこと。②介護ワーカーの離職率が大きく下がったこと。③導入の前後で、コミュニティ全体の介護費用にほとんど差が出なかったこと。

つまり、現場の人たちの裁量でケアプランを決めても、保険者が恐れているような青天井には決してならないということです。

みんなの介護 それは素晴らしいですね。

上野 わが国でもこの方式を導入すれば、要介護認定にまつわる煩雑な手続きやコストをなくせるし、ケアマネジャーもいらなくなります。いちいち「ケアプランにありません」とか「不適切利用です」なんて言われる恐れがないから、現場ものびのび働けます。

それから、これはどんな職場にも言えることですが、職場のモラルとモチベーションを上げる最大の方法は、現場に裁量権を持たせること。コスト削減になって、しかも働きやすい現場がつくれるのですから、日本でもすぐに導入してほしい方式ですね。

日本は何事にも管理主義の国ですが、ここは専門職の良識に委ねて、現場の裁量権を認めてほしいと思います。

みんなの介護 そうなれば、介護ワーカーの人たちも、もっと生き生きと働けるようになるでしょうね。

上野 私は介護ワーカーの人たちに、もっと危機感を持ってほしいと思っています。ときどき、介護ワーカーの人から「これから、介護保険はどうなるんでしょう?」と質問されますが、「これから、介護保険をこうしたい!」と、まず自らの発言力を強めてください。自分たちの待遇改善を望むなら、自分たちが声を上げるしかありません。利用者やその家族が代弁してくれたりはしませんから。

幸い、最近になってようやく、介護ワーカーの団体が都道府県単位で生まれつつあります。自分たちの主張をアピールするには、組織として行動するのもひとつの方法でしょう。組織率が低いのが問題ですが。

今、私が懸念しているのは、介護職の待遇がようやく改善の方向に向かっているのに、入管法改正による外国人ワーカーの採用が、そのムーブメントに水を差す結果にならないかということ。今よりはるかに低い待遇で働いてくれる外国人介護ワーカーが現れれば、日本人介護ワーカーの待遇改善も難しくなるでしょうから。

これから介護の現場でも、外国人労働者が確実に増えてくると思いますが、事業者の人たちには、日本人ワーカーも外国人ワーカーも、どうか待遇面で一律に扱ってほしいとお願いしておきます。

訪問医療、訪問看護、訪問介護。すでに3点セットは確保しています

みんなの介護 次に、老いや終末期への向き合い方について伺います。『おひとりさまの老後』などを拝読すると、上野先生はすでに、ご自身が要介護になったときの準備を進められているそうですね。

上野 はい。自宅から徒歩10分圏内に、訪問医療、訪問看護、訪問介護の事業者を、3点セットとしてすでに確保しています。これらのうち、訪問医療と訪問看護についてはまだ利用していませんが、今度、風邪でもひいたときにドクターに、まずは私のカルテを作っておいてもらおうと思っています。なにしろ、まだ一度も診てもらっていないので。

介護については、私の暮らす地域で、訪問介護のとてもユニークな事業者と知り合いになりました。そこで、その事業者と「おひとりさまプラン」という自費サービスの商品を開発して、私自身もそのプランを契約しています。年間一定額のお金を払って、「訪問介護サービスを年間一定時間まで利用できる」という権利を買っているわけです。

みんなの介護 そちらのプランは、もう利用されているんですか?

上野 利用しています。ものすごく助かっていますね。訪問介護の事業所に自宅のカギを預けているので、私が長期で自宅を空けるときは、観葉植物の水やりとか、毎日大量に届く郵便物の整理などをお願いしています。もし、ここで私に何かあったときは、電話1本かけるだけで、すぐに駆けつけてもらえます。

みんなの介護 そういう準備をしようと思ったきっかけは何だったのですか?

上野 東京大学の教員を退職して、今の自宅に転居したのがきっかけですね。それまでもずっと一人暮らしでしたが、外出した後、ガスをちゃんと消したかどうか気になったり、必要なものを忘れたりしたことがあったので、電話1本で外出中の家に駆けつけてくれる人がいるというのは、すごく便利だと思います。

なかなか死なない親がどう老いていくのか…。私たちは親の姿から学習する機会が与えられている

みんなの介護 上野先生は、自分の老いや終末への向き合い方について、どんな風に考えているのでしょうか。

上野 私のような「おひとりさま」は、「もしかしたら…」という状況に、すごくコンシャス(意識的)なんです。その点、家族持ちの人は、「まさかの事態」を侮っていますね。家族がいるというただそれだけの理由で、根拠のない安心をむさぼっている。

ある日、妻や夫が病気で倒れたら、あるいは、自分がいきなり脳梗塞になったら、なんて考えないんですね。もちろん、そうなる可能性があることは知っていても、「見たくない、聞きたくない、考えたくない」と、現実から逃げているだけです。

私が尊敬する社会学者、春日キスヨさんが昨年、『百まで生きる覚悟 超長寿時代の「身じまい」の作法』(光文社新書)という本を出されました。本の中で、春日さんは多くの高齢者にインタビューしていますが、自分の老後について「見たくない、聞きたくない、考えたくない」人が次々に登場して、恐ろしくなります。

老後不安を「子どもに丸投げする」高齢者、「丸投げされる」子どもたち、そして「丸投げする子どものいない」高齢者、どの人にも読んでほしいですね。

みんなの介護 自分の老後については、見たくない、考えたくないという心理もわからなくはないですが…。

上野 見たくないといっても、自分の親が老いていく様子は現実に見ているわけですよね。私たちは今、人類史上はじめて、超高齢社会の「老い」を実地に学習する機会を得ているわけです。なぜなら、昔の親はもっと早死にだったから。なかなか死なない親がどのように老いていくのか、私たちは親の姿から学びつつあるんです。

つまり、明日はわが身、ですよね。今、親が介護されている状況を見て、自分も将来そうされたいと思えるかどうか。

今、介護について軽く考えることは、自分の親や自分の将来を軽視すること

息子にこそ、父親が老いていく姿から学ぶことがある

みんなの介護 最近の介護の現場を見ていて、何か気になる点はありますか?

上野 ここ数年の傾向として、お嫁さんが義理の親を介護するより、実の娘が親を介護するケースが増えてきましたね。実の母子のほうが、お互い気心が知れているので好ましいと思いますが、私が気になっているのは、息子が親の介護にあまり携わらないこと。

みんなの介護 確かにそういう傾向はあるみたいですね。

上野 両親の一方が要介護になると、まず夫婦間介護になります。たいていの場合、夫が先に病気で倒れるので、夫を妻がケアするケース。このとき問題になるのは、老いた妻が子どもたちに迷惑をかけないよう、歯を食いしばって自分ひとりで介護を完結させようとすることです。母親はなぜか、「子どもにつらい思いをさせたくない」という、間違った愛情に突き動かされてしまうようです。

そうやって妻は、夫を見送った後で自分が要介護になる。そのときは主に娘が母親のケアをします。最近ようやく、親の介護に息子もタッチするケースが増えてきましたが、息子がケアするのはたいてい母親です。だから息子は、自分と同性の親が老いていく姿をほとんど見ていないんです。

みんなの介護 父親と息子の関係は、難しいケースが多いのかもしれません。普段から、会話もあまりしないし。

上野 これは私の推測ですが、父親を息子が介護するケースが少ないのは、母親が先に亡くなって要介護の父親だけが残された場合、子どもたちは父親の面倒をみるのがイヤで、さっさと施設送りにしてしまうからではないでしょうか。先日、『迫りくる「息子介護」の時代』(光文社新書)の著者でもある社会学者、平山亮くんとも話をしましたが、彼も私の意見にほぼ同意してくれました。

みんなの介護 なんだか、身につまされるお話です。

上野 父親は最後の最後になって、子育てにきちんと参加してこなかったことのツケを払わされることになるのかもしれませんね。ともあれ、世の息子たちにとっては、自分と同じDNAを持つ男がどのように老い、どのようにボケていくのかを観察することは、とても大事だと思います。

かつて自分の前に立ちはだかった強者が、どんなに依存的になり、どんなにだらしなく子どもっぽくなっていくのか。それを見ていれば、息子たちも将来の自分をもう少し現実的に考えられるのではないでしょうか。

みんなの介護 そうだとすれば、老いていく自分の姿を子どもに見せることは、親としての義務かもしれませんね。

上野 そう思います。だからこそ、夫婦間介護が始まった時点で、母親は子どもたちを夫の介護に積極的に巻き込むべき。母親が介護に子どもを巻き込む場合、なぜか娘ばかりに声をかける傾向がありますが、「仕事が忙しい息子を呼ぶのはかわいそう」なんて思わないで、息子にこそ、老いた父親の姿をしっかり見せるべきだと思います。

老いた父の姿を見て、学習してもらい、自分が老いるための準備ができるようにしてください。老いと死は、親が子に贈る最後の教育ですから。

そして子どもたちには、親の受けている介護を見て、自分たちも同じような介護を受けたいのか、受けたくないとすれば、どこをどう改善してほしいのか、真剣に考えてほしいです。介護について考えないツケは、自分の将来に廻ってくることになるのですから。

撮影:岡 友香

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森田豊
医師・医療ジャーナリスト
2022/11/07