労働経済学者 近藤絢子氏「控除や年金制度の“ひずみ”が働く意欲を削いでいる」
超高齢社会に突入し、日本で労働力人口が減少していくのは避けられない。その中で、いかに労働供給を増やすか。「働きたい人がいるのに、いかせていない」と労働経済学を専門とする近藤絢子・東京大学教授は指摘する。その一因となっている、控除や年金など制度の“ひずみ”とは。そして介護や子育ての負担を減らし、働き手を増やすには。提言をいただいた。
文責/みんなの介護
介護と仕事を両立させた母から学んだこと
みんなの介護 介護によって働けなくなってしまう介護離職がいま社会問題になっていますが、ご自身の経験としてはいかがでしょうか?
近藤 まだ介護には自分ごととして向き合ったことはないのですが、介護離職は大きな問題だと認識しています。
介護と仕事を両立していた私の母の事例はヒントになると思います。私の母は教員をしていました。ずっとフルタイムで働いていたのですが、私が大学生のとき母方の祖母が寝たきりになり、介護が必要になってしまいました。
母は一人っ子で他に頼れる親族はいなかったのですが、その代わり自分で利用できる制度を調べてあらゆるサービスを使い倒していたんです。実際の介護にはヘルパーさんを呼び、祖母が寝たきりになってからは、療養型施設を利用していました。
この「使えるものは使う」というメンタリティは費用負担の問題はありますが、介護そのものの負担を減らすために大事だと思います。
一方、父方の祖母が介護をする様は対照的でした。祖父は2度脳梗塞を起こしました。2度目をやってしまってからは、トイレに行くのにも介助が必要になったのです。専業主婦だった祖母は祖父が亡くなるまでの約10年、介護を一身に背負っていました。そして、祖父が亡くなったとたんに気が抜けてしまったのか、認知症になってしまいました。
当時私はまだ子供でしたが、祖母が介護によって自分の人生を生きられなくなってしまったように感じました。
―― 外に助けを求められたか、そうでないかの違いですね。人の手を借りることに後ろめたさを感じる人も多いように思います。
近藤 そうですね。当事者から「人の手を借りることに罪悪感があって頼めない」という話をよく聞きます。助けを求めればちゃんと制度があるのに、そこまでたどりつかない。母はその「後ろめたさ」というか、「私がやらなきゃ」というメンタリティをあえて持たないように努めていたのかもしれません。
とはいえ、母が仕事と介護を両立できたのは、たまたま条件が恵まれていたということもあります。子育てはほぼ終わっていましたし、祖母は近所の施設に入ることができました。
当事者の気の持ちようだけではどうにもならないこともありますよね。どうにもならない人をなるべく減らしていくにはどうすればいいかは、当事者だけでなく社会全体で考え続けていく必要があると思います。
経済学で働くことにまつわる問題を解決したい
―― 専門とされている労働経済学についてどんな学問か。わかりやすく教えていただけますか。
近藤 労働経済学は、労働市場のあり方について経済学の視点から研究する学問です。賃金の決まり方や失業が発生する理由などを研究します。
ミクロ経済学で学ぶ理論に「完全競争市場」というものがあります。完全競争市場とは、売り手と買い手(労働市場の場合は労働者と雇用者)の数が非常に多く、個々の売り手や買い手が市場の価格を操作できない状態のことを言います。
この理論によると、労働需要と労働供給が一致するところに賃金が調整され、失業が発生しないことになります。しかし、現実はそうならない。なぜ失業によって困る状況が生まれるのかを分析するのが労働経済学です。
労働力というのは、他の生産手段と異なり、労働者である生身の人間と切り離せません。これが、労働市場が完全競争市場にならない最大の原因です。また、生身の人間に関わる問題を扱うゆえに、身近な話題を扱うことが多いのも面白さの一つです。
―― 超高齢社会で労働力が減る中、この学問によってどのようなことが実現できるとお考えでしょうか?
近藤 様々な角度から、有効な政策立案の基盤となる情報を提供できると思います。
たとえば、保育所を整備することでどれだけ女性の労働供給が増えるのか。年金制度の変更や、再雇用制度の導入でどれだけ高齢者の就業率が変わるのか。制度を変えることで、社会全体で確保できる労働力がどう変動するかを予測することに役立ちます。
私自身の研究は、政策変更の影響や労働市場全体の変化を扱うものが多いですが、企業内の変化の生産性への影響も労働経済学の守備範囲です。
テレワークの導入によってどういった背景を持つ社員に特にメリットがあるのか。それによって定着率や生産性が変わるのか。女性管理職の登用で部下の生産性がどう変わるか。賃金制度の変更の影響はどうか、など、それぞれの企業にとって、人口減少社会で生き残るヒントも提供できると思います。
社会保障制度の“ひずみ”が働く意欲をくじく
―― 女性の問題をとくに研究されているのですか?
そういうわけではないですが、超高齢社会の中でどう労働供給を増やすか?を考えていくと、自然と女性や高齢者、若年世代が研究対象になっていきます。なぜなら、壮年男性の就業率はすでにとても高いですから。問題意識として持っているのは、こうした人々の働く意欲を活かせていないことです。
その原因の一つが、扶養控除や年金などの社会保障制度の“ひずみ”です。簡単に言うと、「働くと金銭的にかえって損をする」という仕組みがそこかしこに存在しているんですよ。
―― 扶養控除はまさしくそのような仕組みですよね。「働きたくても働けない」要因として介護もありますか?
近藤 はい。介護、それから育児が女性が働けない大きな理由になっています。しかし、育児であれば、子どもが生まれたら「おめでとう!」と、周りも明るい気持ちで応援しやすい。反対に介護は「大変ですね」となってしまう。介護は必要ない方がいいですからね。
この違いによって、介護のほうがより社会の理解が進みにくく、話題として避けて通られやすい風潮がある気がします。
直接的な手当や控除で介護・育児の負担軽減を
―― 介護や育児の負担を減らすために制度設計でできることはないのでしょうか。
近藤 当事者に直接手当や控除がされる仕組みを設計すべきです。現状、育児に関しては児童手当がありますが十分とはいえません。また、育児であれば保育園や学童、介護であれば各種の介護サービスなどが十分に供給されるようにすることも大切です。
反対に、配偶者控除は存在そのものに疑問を感じます。現状、妻の収入が一定額以下であれば、夫が配偶者控除を受けられますが、制度が時代に合わなくなっています。
配偶者控除ができたのは1961年。高度成長期にあって、男女の分業が一番広がった時期と言われています。サラリーマンは長時間会社で働き、奥さんが家にいて子育てや介護をしていました。
配偶者控除は、「女性たちは家族のケアを担っているので、その分の支援が必要」と考えてつくられました。しかし、このロジックはもう破綻しています。
現在日本の50代男性の3割弱ほどが独身です。特に一人っ子であれば、親の介護の責任は男女関係なくのしかかってきますよね。
しかし彼らは配偶者控除などは当然受けられない。にもかかわらず、未だに夫が専業主婦を扶養する既婚家庭だけが優遇される制度であり続けている。問題の本質を見失っていると言えます。
撮影:花井智子
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