最終面接日の朝に起きた人生で一番の大失態
もうすぐ新年度が始まる。この時期に思い出すことは、ボクの人生で一番大きな失態だ。それは就活のことだ。
学生時代から「書く」ことを始めていたボクは、幸運なことに在学中に大学生の生態について新聞に書かせてもらっていた。
「ネコの森」という大学のミニコミ誌を発行する団体に所属していたのだ。
起業していた同級生がいて、その周りには面白い大学生がたくさん集まっていた。今では珍しくないけれど、当時は学生が起業して成功することはまだ珍しく、時代の最先端をいっていた彼の元には、変な人間がたくさん集まっていた。
「大学生」「女子大生」がフォーカスされていた時代だった。 その大学生集団の中で、自分のコーナーを持ってあれこれ取材して、新聞に書いていたのだ。
ボクは、記事を書かせてもらっていた新聞社の最終面接に残っていた。なんとなく「合格」できるんじゃないだろうか?と誰しもが思っていた。
が…しかし、最終面接の日、朝起きたときにはすでに面接に間に合わない時間になっていた。寝坊した。
学生寮にいたボクは「終わった」と思った。漫画で見る「が〜ん…」と顔に縦線が入る表情って本当にあるんだなって思った。
今までの楽しかったこと、いろいろ苦労して取材したこと、書いてきたことが頭をよぎる。担当の新聞社の人の顔もよぎる。友人の顔も。
面接の前日、今の妻で当時はある出版社の雑誌の担当者だっただけの彼女が、面接に着ていくワイシャツにアイロンをかけてくれた(厳密に言えば、アイロンをかけてくれたのは彼女のお母さんがだけど)。
彼女に、面接に着ていくワイシャツが洗濯に出せず汚いままであることを話したら、学生寮までシャツを取りにきてくれた。
洗濯してアイロンで乾かしてくれた。その小一時間、彼女のお母さんが作った夕飯もいただいた。そして、車で学生寮まで送ってくれた。そんなみんなの顔が変わるがわるよぎる。とにかく行かなくては…。
キラキラしていた世の中から、急に闇の中に入ってしまったような気がした。想像していたボクの社会人像は一気に姿を消した。
結果はもちろん、不採用。

先輩編集者の紹介で「校正」の会社に入社
あの日、寝坊せず新聞社の最終面接に合格し、社員になっていたらどうなっていたんだろうなあ、と今でもたまに思うこともある。
それから、就活を新たに始めるわけだけど、もう大体が終わりかけている。
周りからは「寝坊は神足らしい失態だ」と笑われ、そのままフリーで働けとも言われたが、お世話になっていた出版社の大先輩が「いや、神足は一度どこかの会社に就職して苦労した方がいい」そう言ったのだ。
その先輩編集者の紹介で、「新珠社」という中年女性が一人でやっている「校正」の会社に就職することが決まった。
「校正」というのは、作家さんや雑誌の原稿や記事ができてきたら文字の間違えや、デザインの不具合などを見つけて直す仕事だ。
社長兼校正のプロフェッショナルのその女性は、いろんな出版社に派遣で人を送っていた。
その女社長の野望で、社内に「出版部門」を作るというとんでもない計画を実現するため、「ボク」を雇ってくれたのだった。もう一人、早稲田大学を卒業した同期も入社した。
ボクらの社長は、いろんな出版社に出入りしていて、出版社で「こんなことやりたいんだけれど、誰かできそうな人いない?」とよく聞かれていたんだという。
バブルが始まった、そんな時期だった。
本当にめちゃくちゃ働いた数年間
最初に持ってきた話は、おもちゃ会社の「バンダイ」が絵本を作るという話。しかも仕掛け絵本。
ボクは保育園などに出向き、子ども相手に取材したり、一緒に遊んだり、柄でもないことをした。今まで縁のなかった絵本に没頭した。数冊、自分のオリジナル絵本を作った。
余談だけど、それからずいぶん経って子どもが産まれてみて、自分が「これだ!」と思って作ってきた絵本がどんなにお粗末だったか、後で知ることにもなるのだが、その絵本は社会人になって初めて手がけた出版物だった。
仕事もそこそこ軌道に乗り、新しい依頼も増えてきた。コピーライターをフィーチャーした雑誌を作るから、編集長になってくれないか?なんていう、驚くほどありがたい話もやってきた。
新珠社も大忙しだ。ボクはめちゃくちゃ働いた。本当にめちゃくちゃ働いた。言葉には言い表せないくらい、本当に本当にめちゃくちゃ働いたのだ。
「神足汚い」そう言われるくらい、アパートにも帰れなかった。狭いワンルームの新珠社の部屋で、椅子をくっつけて寝泊まりした。
コピーライターの雑誌は、別冊の特別号だったはずが季刊誌となり、ますます忙しくなった。月給取りのボクは、その給料で?と驚かれることもしばしばあった。
でもそんなことはどうでもよかった。今やれる仕事が目の前で形になっていくことが嬉しかった。
金魂巻のヒットが結婚を申し込む勇気となった
そしてその頃には、週刊誌やいろいろな雑誌にも個人で連載を持つようになっていた。
その集大成が、主婦の友社にいた同郷の編集者村田さんのもと、イラストレーターの渡辺和博さんがメインとなって一緒に書いた『金魂巻』という本が大ベストセラーになったことだった。
その数年前に就活で絶望を味わっていたボクは、そのときのことを思い出すとお世話になった大切な人の顔を思い出して胸の奥がチクチクした。
今でも寝坊をする夢を見て焦って起きることだってある。
しかしその失敗がなければ、その後のボクはなかったわけで、金魂巻のヒットもなかっただろう。
金魂巻のヒットで勇気づけられ、片想いだった彼女にも結婚を申し込んだ。
最終面接前日に、彼女になんとなくしてもらった好意を台無しにしてしまって、彼女からすると「余計なことしてごめんね」と、そんな思いをさせちゃったんじゃないだろうか?ずっとそう思っていた。
「え?本当に丸山さん(妻の旧姓)、神足と結婚するの??」みんなにそう言われたそうだ。それくらい、意外な組み合わせだったようだ。
まあ、ボクの片思いは身内では有名だったけれど、当の「丸山さん」はボクの気持ちなんて全く気が付いてなかったのだから仕方がない。
たまに会って、一緒にご飯を食べる人。面白い仕事の話をする人。そのぐらいにしか思っていなかっただろう。
当時は、彼女も務めていた出版社を辞めてフリーになっていた。
いろいろと面白い仕事をしていて、結婚どころじゃないだろう、そう周りに思われていたのだ。
それでも、ボクのプロポーズを承諾してくれて、本当に結婚をして現在に至っているわけだ。
麻雀三昧の日々からボクの物書き人生が始まった
よく、「人生に無駄なことはない」というけれど、本当にそうだなあと思う。人との出会いも、やってきたことも後になって「ああ、あのときやっていたことが為になっている」そう思うことも少なくない。
ボクは、中学の頃から大学まで水球に命をかけていた。オリンピックを本気で目指していた。
大学だって水球の日本代表になるために選んで入った大学だ。しかし、怪我で選手生命を絶たれたボクは、腐って麻雀三昧の学生生活を送ることになる。
麻雀で負けた賭けの代償として「原稿を書け」という指令で「ねこの森」で原稿を書いた。それがボクの物書き人生の始まりだった。
その頃の麻雀三昧の日々も、20年以上経った後、2008年夏季北京オリンピックのイベントの一環として行われた世界麻雀大会の日本代表チームとして戦うまでになった。

まあ、凝り性だったこともあり、とことんやらないと気が済まない性格だったことも幸か不幸かよかったのかもしれない。
遊ぶのだって全力だ。とことん不摂生をして飲んだせいで、こんな体にもなってしまった。
もちろん反省の方が多い人生だったのだろうが、今の自分は幸せだったなあとつくづく思う。
春の日差しを感じるフレッシャーズが、街を歩く頃になると思い出す。青春の苦い思い出だ。
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