最新の機械でPET検査
がんは発見されなかった
ボクは、2011年9月にくも膜下出血を発症した。この9月でちょうど10年になった。
2011年の初夏、ボクは取材のため九州まで出向いてPET検査(がんの有無、ほかの臓器への転移の有無などを調べたり、治療中の効果を判定したりするための精密検査)を行った。「なんとなく体が不調だ」と感じていたボクはその取材をおそるおそる受けた。
父も母もがんで亡くしていた。広島出身のボクは被爆2世だったりするし、不摂生もかなりしてきた。「ひょっとしてがんが発見されるかもしれない、それもかなりの確率で」なんて思っていた。
取材した最新の機械は、それはそれは素晴らしく、検査の金額も驚くほど高額だった。がんだって全身くまなく探し当てられるという。まだ日本に数台しかないという機械らしかった。検査の結果、がんは発見されなかった。最新の素晴らしい機械なんだから、疑う余地もなかったが「そんなはずがない」と思ったりもした。
高血圧で赤信号も
忙しくて病院に行けず
担当の先生は「がんは発見されなかったのですが、神足さんの体は赤信号が灯っています。地元に戻り次第至急再検査をして、治療してください」そう言うではないか。そのときの血圧は上が200。高血圧だった。
血圧が高いってことを先生は重大なことのように言っていたけれど、どうなんだろう?甘く見ていた。自分を騙し騙しやっていた。帰ってからも、本当に忙しかった。
妻が珍しく取材(検査の結果)を気にして「PETどうだったの?」と聞いてきた。「がんはなかったけど、高血圧だって。すぐに治療した方がいいって」なんて話してはいたのだ。
いつもばたばた動いていたが、そのときも講演会やテレビ出演で2ヵ月ほど本当に忙しい日々が続いていた。休む暇がなかった。
頭の片隅にはいつも「治療しなきゃ」という考えがあったし、妻からは何回も催促された。けれど病院に行く暇がなかった。本当に。
くも膜下出血を発症
退院までの記憶はほとんどない
そして嫌な予感は、現実のものとなって襲ってきた。くも膜下出血で倒れてしまったのだ。
気がついたら病院で1年以上の月日が流れていた。しかもまったく動けない体となって。
最初の記憶は天井をじっとにらめつけている自分。目の玉しか動かない。それがいつのことかよくわからないのだけど、自分の心と体は別のところにあるんじゃないかと思った。これは今でも続く感覚だ。自分の体が自分のものでないようなそういう感覚。
自宅に戻るまでの1年の間、ボクは2回以上転院している(らしい)。
倒れたときに、空港から救急車で運ばれた急性期の大学病院。回復期のリハビリ病院。それから、違う大学病院に治療とリハビリのため転院。
所々覚えてはいるが、こうして書いてきたことが記憶となって残っているだけで、実際覚えていることではないのかもしれない、と最近悟った。
まぁ、それらはボクの「第二の脳」が記憶していると言ってもいい。書いたものと、記録のために撮った動画や写真たちだ。ボクの場合、脳を覆うくも膜下というところで動脈瘤が破裂してくも膜下出血が発症した。
発症したとき、意識があればバットで殴られたような頭痛。出血量が多かったボクは意識を失っていたようだ。
そんな場合、ここで死んでしまうことも半数以上だと言う。死に至らなかったボクは、もう意識は戻らないと言われた。戻ったとしても寝たきりで、記憶もないことの方が多いと。出血で脳を圧迫された状態が続いていたため水頭症にもなった。
くも膜下出血の後遺症と言われることが、ボクの体にも起こった。
失語症、失認、失行、排泄障害、嚥下障害、手足の麻痺、高次脳機能障害、記憶障害、視野の半分が欠けるなど。これらすべてが今のボクの状態だ。
家族やボクの記録によると、最初の1年はスパルタなリハビリ病院を選び、必死にリハビリをして回復を目指していた。
そのときのボクは、ボクとしてものを書き、毎日を生きていたに違いないが1年間の記憶はほとんどない。
リハビリをしてくれた東京慈恵会医科大学附属病院の橋本先生や学校帰りの娘と部屋で過ごした景色など、断片的に覚えていることはある。しかしそれが、ボク自身の脳が記憶しているから覚えているのか、書いたことによって思い出されているのかどうか、よくわからないのだけれど。
書くことで頭の中を整理して
空白を埋めている気もする
退院してからは、書くことが数段増えた。仕事を再開したことも要因の一つだ。
毎週締め切りがあるという状態にしてくれたことはありがたかった。書くことを強いられると、それに従って記憶も増えている。
怠け者のボクにとっては、そうしてくれた仲間に感謝しなければならない。どんなリハビリよりも、効果的だったことは間違いない。
頭の中がいつも雲がかかったようにボヤ〜っとしていたが、書くことによって頭の中が整理整頓されていくような気もした。
いまだにうっかりすると、ぼ〜っとしてしまい、空白の脳を作ってしまう。
今朝も「今日は〇さんが来るから」と言われたが、〇さんが思い出せない。「ん?〇さんだよ?ほら、よく会っているじゃない」会話からして忘れるはずがない人らしい。誰だっけ?
「ほら」と、妻が携帯で写真を見せてくれる。「あぁ、〇さんか」割と主要人物。忘れるはずがない人だ。
いつもそんな調子だから、妻が写真や記憶の入り口をノックしてくれないと進まないことが多々ある。写真やヒントがあれば、記憶は3Dで広がっていく。
発症前の人は、まぁ人並みには覚えているが、発症後に出会った人は思い出せなくなることがある。
それがいつもではない。わかるときもわからないときもある。絶対忘れない人もいる。その違いがどこからくるのかはよくわからない。
原稿も過去に書いたことを新しい文章だと思って書いてしまい、書き直しを命じられることもある。まぁ、覚えていられないのだから仕方ないと言えばそれまでだけど、ボクは真剣に一回一回それを書いている。
そんな地味な苦労は日々あるけれど、書くことで、手の麻痺と記憶の蓄積、頭の空白は少しずつ埋まってきているような気もする。

歩く練習や階段の昇り降りは
続けられなかったんだよね
かたや、足のリハビリはと言えば、発症から2、3年目をピークにして後退しているような気もする。歩くということ。
退院する頃に出会った橋本先生はリハビリ科の医師で、いろいろなリハビリに関して話し合ったり、退院に向けて自宅でどう生活していくか相談にのってくれたり、医学的に薬などの治療も試してみたり、本当に熱心に指導してくれた。出会う人によってこうも違うのかと思う実例だった。リハビリの相性もあるし、先生との相性もある。
退院してからもロボットスーツHAL(R)で訓練したり、ひたすら頑張っていた。歩くことを諦めていなかった。
家の廊下を息子と長下肢装具を使って歩いていた。「階段を昇り降りできるようになりましょう」なんて目標を立てていた。
しかし、今は歩くことはできない。装具も着けられない足になってしまった。あのまま頑張っていたら、階段だって昇り降りできていたかもしれないのに、頑張りきれなかった。
がんが見つかり数回の手術を必要として、ロボットスーツHAL(R)や自宅で歩くための練習が継続できなくなったのだ。
とにかくリハビリっていうのは出会う先生と継続がものを言う。先生によってもまったく違う。

発症から10年経った今
リハビリについて考える
ある先生の話によると、3ヵ月やってみてなんらかの成果が表れないのなら、そのリハビリは考え直した方がいいとまで言われた。
ボクなんかは、こんな体だから「これ以上悪くならないようにすればいい」なんて思っていたが、どうやらそうではないらしい。
プラスがないリハビリは自分にあっていないか、ハズレだと思った方がいいと言われた。あの頑張っていた時代を思えばそうかもしれないなぁと思う。
寝たままでのリハビリでは、歩けるようになんてなるわけないし、そもそも今のリハビリメニューに「歩けるようになる」ということは目標として書かれていないだろう。いつの間にか歩けなくてもいいになってしまっている。
自分を見つめ直してみて、今さら今の自分に「歩けるようになることが必要なのか?」と考える。
スタスタ歩くことができなくても、当初の目標であった階段の昇り降りがかろうじてでもできるようになれば、行動範囲は見違えるように広がる。頑張りきれなかったリハビリをまたやったら今からでも間に合うのだろうか?
身体的なリハビリは言語を含めて反省すべき点が多い。リハビリは本当に裏切らない。それはわかっている。やればやるだけ自分の体に返ってくる。
くも膜下出血を発症して10年経った今年。もう一回考え直してみるか?もう必要ないのか?
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