左半身は動かないボクの体
寝返りのハプニングで妻を驚かせた

久しぶりに、ボクの家の介護の環境を書いてみたいと思う。今回はヘルパーさん編。

その前にまず、ボクの状態について話しておきたい。左半身は麻痺で動かない。一番動くのは右手。右足は動くけれど、ずいぶん衰えた。いや、それでも、「もうベッドから起き上がる生活はできないだろう」と言われていたのが、この9年で車椅子で旅行に行けるまでになった。

右足で自力で立っていることはできないが、頑張れば踏ん張れる。ベッドから車椅子に移るときのように、この右足がまだ頑張ってくれているからできることも多い。

寝返りも打てない。頑張って力を込めて右手をベッドの左側の柵に伸ばして、ちょっとの間、体を横にすることはできる。着替えのとき、せめてもの協力ができる。

これが行き過ぎてしまって、ゴロンとうつ伏せになってしまったらもうおしまいだ。誰か来るまで顔を横にすることさえできない。

ベッドに横になるコータリさん

一回だけ、背中が痛くて動きたいと思ってしまったボクが、ゴロンとなって横の柵に顔をぺったり付けた状態から動けなくなったことがあった。それから1時間以上、ボクの顔は柵にガッツリ張り付いたままの状態だった。

妻が仕事から帰ってきて「わあ、どうしちゃったの?」とその事態に驚いていた。ボクがそんなことができることにも驚いていた。うれしいことのような…、困ったことのような…。

そのときもどうしても我慢できないぐらいの背中の痛さで緊急事態だったのだが、自分で何かアクションを起こすというのはなかなかできない体の状態だ。

しゃべることはほとんどできない
親しい人には単語が出てくることも

そして、しゃべることもほとんどできない。慣れてきた人とはちょっとだけ単語を話したりすることもあるが、それはたぶん、発語までのタイミングや、いろいろな要因が作用され、限られた場合のみの発語になってしまっているんだと思う。

これは書くことも同様で、誰かに見られていたらなかなか書けない。この原稿は、原稿用紙にペンで書いているが、部屋に誰かが入ってきたら止まってしまう。止まったら思考も途切れてしまい最初からやり直しという場合が多い。

「今ここで、起こっていることが自分のすべて」とよく話しているが、今、脳が動いていて思って考えて書くことがすべてなんじゃないだろうかと分析している。

妻が横でパソコンをいじっているが、これは大丈夫。透明人間のように姿は気にならない。とっさのときに言葉が出たりすることもある。自分でもどういう仕組みかはわからないが、家族や限られた親しい人にだけ言葉が出ることもある。

話せないことはないんだよね、と常々思っている。練習もしているし、妻には「おはよう」「おやすみ」などの言葉でのあいさつも強制もされている(笑)。

曖昧なボクの記憶
撮った写真を見ると思い出せることもある

テレビを見ながらご飯も食べられないし、なかなか二つのことを一緒にやることは難しいようだ。不思議なことがもう一つある。

くも膜下出血の発病後、短期記憶ができないと思っていた。本などにそう書かれていたり、人から何百回もそう言われたりして、「そうなんだろうなあ」と思っていることだった。

だけど、できなかったことが何千回も訓練してできるようになるのと同じように(食べることも自分でできなかったけど、訓練してできるようになった)、記憶も何回も繰り返していくことによって、できるようになる感じがしている。

気がしているだけだけど、一方で確かだとも思う。例えば、デイサービスに行ったことは覚えている。仲の良いヘルパーさんと話したからだ(話したといってもあちらが声をかけてくれただけだけど)。

で、帰ってから妻に「お風呂入ったでしょ?ローション忘れちゃったね」なんて言われても、風呂に入ったことは思い出せないのだ。ボケてるんじゃないかと思う。いやボケてるんだ。

言われると思い出せない記憶がたくさんある。取材に行っても強烈に印象に残っているものは覚えていても、人にインタビューしたことは覚えていなかったりもする。「そこ大事でしょ」と思うことと、本当に大事で印象に残ることって違うんだなあと思う。

昔はカメラや携帯でたくさん写真を撮ってもらっていた。その現場の様子を見ると、そのときのことを思い出す。「ああ、そうそう」そんなヒントがあると思い出せるので、脳の代わりとして写真を撮ってもらっていた。今は360度カメラで撮っておくといろいろなことはいっぺんにわかるので重宝している。

まとめると、自力では動くこともできない。寝返りもできない。家族がいないときは基本ベッドで過ごす。右手は使える。右足は踏ん張ることはできる。着替えもできない。尿意はない。体温調節ができない。しゃべれない。これがボクの体の状態だ。

妻とともに我が家になくてはならない存在
在宅介護・医療メンバー

そして、こんなボクを支えていてくれるのが在宅介護・医療のメンバーだ。

妻は働きに出ていたり、病気もしたりしたけど、ボクを支えてくれている。在宅介護・医療のメンバーは、そんな妻の絶大な力とともに我が家ではなくてはならない力だ。

基本的には1日に2回、午前と夕方ヘルパーさんが来てくれる。その間の時間帯に、訪問看護やマッサージする方、言語聴覚士などのリハビリ関係の方々が来てくれる。2週に1回、歯医者さんと往診の先生もいらっしゃる。毎日10時から18時の間に、最低3回は人が来てくれるという感じだ。日曜は妻がいるので休み。

介護をうけるコータリさん

週に1回は大掛かりな機械を使ったリハビリとお風呂のためにデイサービスにも行く。

妻が仕事で留守にしていても2・3時間に1回は見守りができている計算になる。水分を摂らせてくれたり、トイレ関係のことをしてもらったり体の向きを変えてもらったり。それだけでもありがたい。

もう何年もボクに携わってくれている業者だったり、病院だったり、施設だったりするので、気心も知れている。頼んでもこれはダメだろうなってことはわかっているので、無理なことはこちらも頼まなくなった。

ヘルパーさんなしでは生きていけない
でも要望をはっきり伝えるのは難しい…

ヘルパーさんの話をしよう。本当によくやってくれている。毎日来てくれなければ生きていけない。水分だってヘルパーさんは来てくれた度に飲ませてくれている。ヘルパーさんなしでは生きていけないのだ。ありがたい。

ベッド周りの医療・介護用品

それを前提に話すのだけど、9年前は、朝は、体を拭く、着替え、足浴、手を洗面器で洗う、口腔ケア、バイタルチェックという基本的なコースをお願いしていたが、今は担当が変わったりしたのもあってか、足浴や手を洗うなんていうのはなくなったなあ。お互いなあなあになっているのかもしれない。

利用者としては手がかかる方なのかどうかわからないが、まあ動けないのでヘルパーさんのスキルは必要とされるだろう。誰でも良いってわけではないんだろうな、というのはなんとなくわかる。

昔、車椅子からベッドに移乗はできないっていうヘルパーさんが来たときはびっくりした。すぐ辞めちゃったらしいけど。

介護業界は常に人材不足だ。きついし、きれいな環境でもないだろう。そんなに賃金も良いはずもない。来てくれている人は天使のような方々ばかりだと思う。忙しくしている。だから妻はあまり「こうしてください」と言うのが苦手だという。

「仕事なんだから最低限度のことは言ったほうが良いとは思うよ」と話すが、いつもやってくれていることを思うと、細やかなことは「まあいいかあ」という気持ちになっちゃうというのだ。

お互いに気持ちよく過ごすためには
思っていることを話し合いたい

どんどん担当者も変わるので、引き継ぎがうまくいってないことがほとんどなんだろうと妻は話す。例えば、汚物を部屋のゴミ箱に捨てて行く人。我が家は、一応勝手口の外にゴミ箱を設けている。それを知っているはずなのに、汚物を処理したであろう薄型のビニール手袋を無造作に捨てていくとか。

おむつを入れている収納の箱の中にトイレットペーパーの使いかけがたくさんあるなんてこともあった。きっと処理中に急いでトイレットペーパーが必要になって、トイレから持ってきたんだなあ…と想像がつく。「その場の緊急性が目に見えるから言えないんだよねえ」と妻。

使いかけのトイレットペーパーをトイレに戻す。ささいなことなのだ。家のやり方っていうのかもしれない。

汚れてしまった衣類を洗面所の普通の洗濯ものが入っているカゴに一緒に入れてしまう人。ざっと洗って別の入れものに入れてくださいって話してあるのに。

あまりにも不潔じゃないですか?って妻は愚痴をこぼす。けれど言えない。何も言わない家だからと思われているのか…だけどそこはわかってもらいたいよなあと思う。

こう書いたけれど、きっとそうしてしまっている人は1人か2人。9年ぐらい在宅介護で過ごしているが、5人いたかどうかってくらいかもしれない。そんなわずかな人なのだけど、そういう人が1人いるだけでうまく回らなくなる。

ケアマネさんに話して通達してもらわなければと思っている。いてもらわなくては生活できない。お互いに気持ちよく過ごすためには、たまには話しあうことも必要だよね。あちらが、「コータリさん、もうこんなことちょっとヤダわ」なんて思っていることもあるかもだしね。

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