くも膜下出血を発病して8年。
厄介な身体でも、上手くやってきた
2011年にくも膜下出血を発病して、もうすぐ8年が過ぎる。
くも膜下出血になったのは、9月の台風が近づいていた日曜の晩、飛行機に乗っているときだ。まもなく羽田に着陸するときだったという。
機上から直接救急車に乗り、大森の大学病院に運ばれた。それからというもの、あちこち飛び回るのが大好きだったボクの活動も自粛の状態が続いていた。
当たり前だ。頭にはバルブが埋め込まれ、脳圧の調整が随時されている。ほとんどしゃべれない。
左半身は麻痺していて、自分では寝返りを打つことも車椅子を動かすこともできない。
それでもこの数年、動く右手を使い、左側のベッドの柵に手をかけて横を向く技を習得した。
その技を使えば、介護してもらうときにボクも協力できるので重宝だ。
が、それで誤ってバタンとうつぶせに倒れてしまい、どうにもこうにも、その位置から動けなくなったことがあった。
家族が部屋にやって来るまでの間、ボクは柵に顔を打ちつけたままだった。
リハビリも熱心にして、どうにか拘縮しないように、というくらいの状態でとどめてもらっている。
ただ、1週間も入院したら、動かない足はどんどん「く」の字に曲がっていく。まったく厄介な身体だ。

そんななかでも、広島への帰省や温泉旅行、娘と宮古島の二人旅なんていう雑誌の企画もあって、こんな要介護5のボクを日常から離してリフレッシュさせてくれていた。
この写真は宮古島でエイサーを見ているときの写真。
「通販生活」の企画で行かせてもらったのだが、担当者が「エイサーを見てるときとマンゴーアイスを食べているときは普段動かないはずの左手がちょこっと動いてましたよ(笑)」と言っていた。
普通の人と同じように「パリに行きたい」
家族で昔みたいに旅行がしたいんだ
「気圧の関係とかもありますし、リスクがないわけではないですよ。でもじっと安静にしてくださいって神足さんに言うつもりはないです」。主治医もそう言うが、遠出の海外はやはり躊躇していた。
それが、このところの度重なる入院生活で、年内にはまた大きな手術をするかもしれないとわかった4月、妻に「パリに行きたい」と唐突にも申し出てみた。
「もう最後の旅行になるかもしれない」なんて、センチメンタルにも思ってしまった。
パリの話をすると、周りには「神足さんが行くなら、一緒に行こうかな」と言ってくれるメンバーもいて、あっという間に10人ぐらいのパーティーに膨れ上がった。
ボクの旅のコンセプトはこうだ。「普通の人と同じ旅を、普通に」
この当たり前のようなことがボクたちにはなかなかできない。けど、それがしたい。
ボクみたいな身体でも、不自由なく旅行を楽しませてくれるトラベルヘルパーは夢のようなシステムだ。
でも今回は、昔みたいに家族で普通の旅行に行きたい。トラベルヘルパーなしの旅行を。
高額でもトラベルヘルパーは良かったなあ
でも今度は、ボクが普通に旅行できるかを試したい

宮古島の企画ででかけた旅は、トラベルヘルパーさんというシステムを使った。
旅先でさまざまなお世話をしてくれるヘルパーさんを、旅行の全日程お願いするのだ。
夜寝ているときは別か、それとも一緒となればまた追加料金。
ヘルパーさんは同室か否かに関係なく、飛行機代も食事代ももちろんお支払いする。
そんなスペシャルな業を使えば、すべての介護はまだできなかった大学生の娘と、どこへでも行ける。そう思った。
20歳になったら、息子とはボクの行きつけの酒場で飲み、娘とは二人旅をするのが夢だった。
子どもの頃から留守ばっかりで、たまに家族に参加しているような父親だったが、家族はなぜかボクを立ててくれていたし慕っていてくれた。ありがたい話だ。
娘が20歳になる前にこの身体になってしまって、そんな夢も諦めていた。
それが実現できる、まさしく夢のようなシステムだった。
孫の結婚式に参列するために、トラベルヘルパーさんを。そんな一人旅をもう一度したいという男性にも、ついて行ったことがあると聴いた。
下の世話から食事介助、乗り物への乗り降りなどなど、細かいところまでやってくれる。
高額な代金と引き換えだが、その価値がある。
が、ボクが今したいのはそういう旅ではなく、普通に家族が計画したそれこそ普通の旅に、ボクでも普通に行けるのかを試したかった。
予算にも限りがある。いつもの家族旅行の要領で旅がしたかった。
それができなければ意味がないのだ。
どんなパリ旅行になるんだろう?バリアフリーは?
下調べをしながら計画するのも楽しい!!
もちろん、車椅子を利用している人のなかでも、自力で動ける人とボクのようなさらに問題があるような人とは、また違う。
ボクのような身体の状態で旅にでかけるのは、いろいろ準備も必要だろう。
ボクが上手くいけば、旅行に行ける可能性がある方の幅は、きっと広がるに違いないと思っている。
アクティブではない車椅子利用者の旅である。
妻はとりあえず、人気ですぐなくなってしまうオペラ座近くのアパートメントを予約した。日程は10月。
勤勉な妻は、パリのバリアフリーがどれほど進んでいるかなどを一生懸命に調べ始めていた。
地下鉄は、もちろんエレベーターなんてない駅がたくさんある。
けれどバスはOKで、車椅子に対応しているバスが多く走っている。
街中のデコボコ道を車椅子で移動するとき、電動と手動のどっちが良いか?
建物の古いエレベーターで、どのぐらいの大きさの車椅子が乗り降りできるのか?
バリアフリーは日本の方が普及してそうだけど、口コミで困ったというコメントはほとんどないのはなぜ?
などなど、旅の計画は楽しい。
パリに行けると思ったのに…絶望感が広がった
でも、妻の提案がボクを元気づけた
その矢先、ボクの身体があちこち壊れ、救急車で運ばれてまた入院。
数週間でまた入院、また入院と、なんだか自分でも自信がなくなってくるような事態が続いた。
そして年末ぐらいまでに手術した方が…と言われていたのも、7月あたりに早まってしまった。
絶望感が広がる。いつもあれができない、これは無理だろうと諦めるのも当たり前になっていて、そんなに何かが上手くいかなくても落ち込むことはないが、今回はがっかり。
「パリはもうだめだな」「やっぱり海外は無理かな」。そう考えるようになった。
すると妻が「パパせっかく行こうと思っていたんだから、ハワイぐらいにしてパリの練習してみよう」という。
「それも悪くない」と気持ちがムクムクっと盛り上がる。げんきんなもんである。
というか、妻の提案の仕方がボクの気持ちの的を射ている。
「また行けるけど、練習に近場にとりあえずすぐ行っておこう」
ボクの精神状態を読んでいるかのようだ。
しかもハワイは家族ともう何十回も訪れている思い出の場所だ。
もう一度行きたいと思っていた。けれど諦めていた。
もし行けたら自分の思い出の地を画像に収めたいと思う。
「でも、本当に行くとしたら7月はじめしかないね」
そんなこんなで、手術日から逆算して妻が割り出したのが7月4日出発。
長男夫婦や娘にも、「急なことだが一緒に行けないか?」と打診する。
「無理だよお、そんなに急に」と言われる始末。
娘はなんとか早い夏休みが取れそうだということ。
パリ行きのメンバーにも、パリの延期とハワイに行く旨を伝える。
あと1ヵ月しかない!バタバタだけど
ハワイまでの旅行計画がスタートした
もう出発まで1ヵ月のときだった。なんとも強引な計画だ。
最初は思い出の地への旅行のコンセプトで、いつも定宿にしていたコンドミニアムに連絡する。
しかしいっぱいで予約が取れず、他の当ても外れてしまった。
あれ?おかしいな?飛行機は割りと簡単に取れたのに、ホテルとレンタカーがなかなか取れない。
「なぜ??」そう思っていると、あるホテルからの満室の知らせに「独立記念日のため満室」とのこと。
そこで初めて、その日がアメリカの独立記念日であることに気がついたのだった。
「だから混んでるのか」とようやく納得した。
パリのメンバーにも声をかけると、2~3人の仲間が「行くよ」との返事。
それぞれが別の目的を持った旅だったが、泊まるところを一緒に、あちらでは自由に、なんて大枠をつくる。
ボクの6月の入院中に、密かに旅の計画は始まったのだった。
次号に続く 要介護5のハワイの旅編