マグカップが飛んできた!
まるでおもらしをしたみたいだ。
「俺をだれだとおもっているんだ!」。そう怒鳴り声が聞こえて横を振り向くとプラスティック製のマグカップがこちらに飛んできた。ボクの膝に熱いものがかかり、マグカップを車椅子に座っているボクの太ももが受け止めた。まるでおもらしをしたみたいにズボンが濡れてしまった。
しきりに若い女性のヘルパーさんがその怒鳴っている男性のYさんと何やら叫びながら話している。遠くから違うヘルパーさんがやってきてその会話に加わっているけれど、ボクの膝の上の事件には気がつかない。「おいおい、そちらも大変だけどボクもね、どうにかしてほしいんだけど」。そう思うが声が出ない。
若い女性のヘルパーさんはマグカップが飛んだのには気がついているはず…だと思う。けれどYさんに罵倒されそれどころではない様子。いまにも泣きそうだ。Yさんの怒りは収まる感じではない。
Yさんにさらに違う年配のヘルパーさんが謝りにきてその場はおさまった。そこから「神足さんが大変だ!紅茶がこぼれてる!」の大騒ぎ。決してボクがこぼしたわけじゃないけどね。
ヘルパーさんは悪くない
ボクがYさんだったらどう感じるかな?
「今日は大忙しのおやつタイムになったわね」
ボクを着替えさせてくれたヘルパーさんが他のヘルパーさんとそう話す。Yさんのご機嫌がななめな原因はたぶん、ヘルパーさんが「紅茶ですよ~お砂糖はどうしますか?」の話し方だと思う。
やたら大きい声でしかも子どもに話しかけているような優しい不思議なトーンだった。他になにもなかった。そのヘルパーさんがワゴンで紅茶を運んできて、会話も動作もそれ以外は無かったような気がする。次はボクの番かなと、そちらから顔を戻したとたんの怒鳴り声だったから。ヘルパーさんも「なんのことやら!」と驚いたに違いない。
よくあることだ、耳も遠くないのに大きな声でゆっくり、しかも小さい子供に話しかけるように話されることは。きっと基本マニュアルかなにかに書いてあるんじゃないだろうか?「大きな声でわかりやすく!」とか「礼儀正しく丁寧に」とか。それが馬鹿にされたように聞こえてしまうのだろう。ヘルパーさんにとっては何の落ち度も無いことだと思うけれど。
耳も普通に聞こえるしお隣のYさんのように普通に会話もできる方にとって虫の居所が悪かったりしたらちょっと嫌な話し方に聞こえるかもしれない。ボクだって話せないけれど聞こえるし解る。
だから大きい声でゆっくり赤ちゃんに話しかけるようにされたら「はいはい」と二回返事の気分にはなるかもしれないなあ。そんなことはいちいち気にはしないのだけど。普通は。
ちょっと話はかわるけど…
ボクの青春時代
ちょっと違う話だけど、介護施設でのカラオケや合唱に童謡や唱歌をよく使うってこと。演奏に来てくれる楽器のボランティアの方もそういう選曲が多い。そこにいるみんなが絶対知っている曲だから。
認知症になっても昔のことは覚えているから。そんな理由だと聞く。けれど、我が家にいる82歳の義父や義母だって部屋で聞いているのはジャズだったりシャンソンだったりするのだ。そのぐらいの年齢の人の青春時代には石原裕次郎だったり美空ひばりだったり、ゴーゴーダンスだったり、グレンミラーやプレスリーが好きだったという。なかなかいけてる。クラシックのオタクなんていう人も多かったときく。
ボクの時代まできたら青春時代は百恵ちゃんか淳子派か昌子か?ビートルズやカーペンターはもちろんユーミンやサザンオールスターズ…。童謡も心を動かすかもしれないが、青春時代の思いでも曲はやっぱり心の中をざわつかせるに違いない。
この前知り合いの看護師さんが「うちの施設ではいつもジャズながしてますよ」とのこと。そういう施設も増えてきたんだろう。
ヘルパーさんは大変だよね…
ありがとう。そしてごめんね。
Yさん事件はもうずいぶん前のことで、在宅介護を受け始めたころ、ショートステイというのをお試しでいろいろなところをまわっていたときのことだと妻は言う。そんなところに行った事すら覚えていないが、これはものすごく印象的だったらしく、そのときの光景をいまでもよく思い出す。
怒っているYさんの顔、泣き出しそうなヘルパーの女性。駆けつけるスタッフ。ざわざわしたなかボクだけがスローモーションで紅茶の入ったマグカップを膝で受け止めている。熱くなくってよかった。そんな場面を思い出すたびに傾聴、尊厳ってなんなんだろうなあと思う。
相手にしてみれば「何も怒らなくたっていいのに」。ほんとうにそうだ。本当によくやってくれている。けれど、それを不快に思う人もいるんだなあと思い出すたびに考える。
ボクだったらどうだろう。「神足さんお茶ですよぉぉ~~」。そうあのトーンで言われても「はいはい」なんて言っているだろうなあ。死んだばあちゃんを思い出す。「ばあちゃん飯だよ~」そう叫ぶと「はいはい」。あの「はいはい」ってこんな感じだったんだなあと。かわいい孫によばれて嬉しいのと聞こえてるよ~っていうのといろいろ交じった「はいはい」…。
そうそう、最後になったがボクのぬれた膝はすぐに着替えさせてもらってお茶タイムに間に合った。ボクが自分で濡らしたことになってしまったが。喋れないのでしょうがない。
ヘルパーさんのなにげない会話の「忙しかったお茶タイム」に一役買ってしまったことになっている。なにげないヘルパーさんの会話に「ごめんね」と思う。ボクがこぼしてなくてもボクを着替えさせるのは大変なことだからね。ヘルパーさんの給料はもっとあげないといけないとつくづく思う。