本がないと生きていけなかったのに…
身体が読書を許してくれない

今年も暮れようとしている。なんとか無事に過ごせたことに感謝だ。そんな中、最近は“自分”というものをよく考えるようになった。慌ただしい日々に余裕が出てきたと喜ぶことなのかもしれない。

“自分”というものを考えていて思うのが、ずいぶんと世間が狭くなってしまったような気がする…ということ。

家の外に出かけるのは健常なときに比べれば10分の1以下。人と会うのなんかきっと100分の1以下になった。雑誌や本を読むのも100分の1以下だろう。読んでみたいと思ってたまに買ってはいるが、じっくりとは読んでいられない。視力のせいか、頭脳のせいか。あんなに好きだった…本がなくては生きていけない勢いだったのに、身体がそれを許してくれない。

情報はTVとラジオ、あとは家族との会話。ほんの少しの外出や、自分が取材をしたり、ボクに取材に来てくれた人たちと話したり、それくらいのもんだ。よく、高齢者が世の中から孤立しないためにもデイサービスや町会、役所の外郭団体なんかがやっているイベントに参加したほうが良いと言われているのも頷ける。

やっぱり寂しい
そりゃあ強がりたくもなる

病気になって一人で家にいることが多く、寂しかったり取り残された感じがしたりもしたが、それが普通になって、寂しいのに胸の奥に仕舞い込んで忘れたふりをする。「自分はこんな生活でも結構普通に暮らしているよ」と、そんな強がりさえもかもし出そうとしている。「まだまだ働ける年齢だ!それなのに何をしているんだ!」と、家族が路頭に迷うかもしれないという焦りも当然ある。

ボクの場合、本当に生死をさまよったりした時代をあまり覚えていない。なんとなくぼーーーっと天井を見つめている闘病生活時代を思い出すこともあるが、それがいつで、どの病院のことかも定かではない。

ある区切り区切りで記憶に残っている断片も、時系列もよくわからない。そのときは今の自分のようにはっきりとした意識の中で(たぶん)メモも書いていたりするのだけど、それも忘れてしまっていた…。ただ、大好きだった担当の先生のことや、辛かったリハビリの部屋、お見舞いに来てくれた友人の顔なんかは覚えていたりする。そんな曖昧な記憶の中でさまよって、もう6年以上経ってしまったという。

最近はやっかいだ…
考える力が戻って、孤独を感じる

家に帰ってきてからの記憶は少しずつだが増えてきているようだ。記憶の曖昧な時代はいろいろなことを考える能力もなかった。もしくは、考えていたのかもしれないが、忘れてしまっている。その頃書いたメモに泣き言を見つけることもあるが、今となっては忘れた記憶だ。

ところが、やっかいなことに最近は覚えていることができるようになった。すべてではないが、記憶に残る。それで一番感じるのが、仕事を思うようにできないジレンマ。家族が無事に過ごしているのかという心配。ベッドから動けないという取り残された感。そして考えることが怖くなる。

普段のボクは怠け者で寝ているのが好きだから、のんきにテレビでも見ている生活だって全然平気だ。それに、ヘルパーさんや往診の先生、マッサージ師の人が来たり、原稿を書いたり…最近は結構忙しくしている。けれど、ある拍子にその負のループに陥る。絶望のひとりぼっち…。こんな具合だ。

取材にも行きたい…あの頃のように。
でも今はやれることを頑張るしかない!

座間で起こった9人の殺人事件の現場がテレビで中継されている。昔だったらすぐに担当編集者に電話して事件の現場にカメラマンと行っていただろうなあ、と考える。今はもうそれもない。動かない体を懸命に動かしてみようと試みたりするが…思いを巡らせているうちにベッドの上の自分に現実がのしかかる。「ああ、到底無理だ…」。そんな、絶望にも似た気持ちにもなる。

収入がほとんどなくなった今、家族は苦労しているんだろうな…と頭の中で考えていくうちに怖くなっていく。「どこかに消えてなくなりたい」とさえ思う。自分で動くことすらできないのだから、それも無理な話か…。そして、「何を甘えているんだ!」と自分を戒める。そこでも家族の顔がちらつく。これ以上は家族に悲しい思いをさせてはならないと思い直す。

動かない体と脳を全開にして、「とにかく今できることをやるしかない!」と気持ちを踏ん張らせる。