
岡崎
介護ライター・エッセイストの岡崎です。
私が23歳のときに、若年性認知症になった父の介護と、ガンを患った母の看病を一人娘として担ってきました。母のガンが寛解してからは、母とともに父の介護を行ってきました。 2013年に息子が生まれたことで、育児や介護など複数の人のケアを同時に行う“ダブルケア”となりました。
2018年ごろから母にパーキンソン症候群の症状が見られるようになり、母が亡くなるまでの数年、両親+子どものトリプルケア状態が続いていました。
お父さんの在宅介護をするお母さんを助けるために「通い」の介護をしていた岡崎さん。
お子さんの療育(社会参加への支援)もある中、お母さんが要介護状態となったことでお父さんの在宅介護が困難になり、お父さんが入所するための施設探しを始めたそうです。
お子さん、お母さん(要介護2)、お父さん(要介護4)のケアをすることはあまりに難しく、まずはお父さんが入所する施設を探しました。約8カ月の待機期間を経て、2020年にお父さんが特養へ入所。
お母さんの「介護体制」を築こうとした矢先、お母さんは自宅の浴槽の中でその年の暮れに亡くなってしまいました。
――― ありがとうございます。続いて、鈴木さん、よろしくお願いします。

鈴木
岡崎さん、藤田さんとはもう10年来の仲になります。
私は高校を卒業してから、地元を離れて進学・就職をしました。
社会人5年目ぐらいのころから、まだ50代の母に認知症のような症状が帰省するたびに「目につく」ようになりました。
母が61歳のときに若年性認知症だということが判明し、地元に戻り、仕事のかたわら母を父と在宅介護をするようになりました。
でも、今度は父が脳出血を起こし、右半身に麻痺が残ってしまいました。1人で両親の介護を担うことは難しいと思い、母は特養にお願いすることになりました。

岡崎
お父さんの介護と新たな問題が同時に発生して、当時はかなり困惑していたよね。

鈴木
父が倒れた直後に長女を妊娠していることがわかり、“悩んだ末”に出産しました。同時に結婚もし、実家の近くに住んで父の通いの介護と育児が始まりました。父は2016年に誤嚥が原因で他界しました。
その後、私は次女を出産。現在、特養に入所している母は要介護5になり、医療的な処置が必要な寝たきりの状態です。
鈴木さんには独身のお兄さんがいますが、「離れたところ」に暮らしているので、お金などのサポートは得られても、認知症の症状があったお母さんの介護は、鈴木さんとお父さんの2人で頑張ってきました。
お父さんが脳出血を発症したのは、お母さんの「介護疲れ」もあったのではないかと当時を振り返ります。
――― ありがとうございます。さいごに藤田さん、よろしくお願いします。

藤田
岡崎さんの息子さんがまだベビーカーに乗っていたときに会ったのが最後だから、かなり久しぶりだね。もう小学生だもんね……。
私が大学生のころから、母に認知症の兆候がありました。お財布が小銭で「パンパン」になっていることなどもありながらも、しばらくは様子を見ていました。若年性認知症の診断は母が59歳のときに受けました。
父は2003年に他界しています。私が医療職ということと、当時は母と同居もしていたこともあり、母の介護をほぼ1人でやらざるを得ないという感じでした。

岡崎
実質的な介護が始まって5年くらいは介護サービスを利用しながら在宅介護を頑張っていたよね。

藤田
そう。でも、母の幻覚や妄想がどんどんひどくなっていき、ついには訪問ヘルパーさんからも「対応が難しい」と“匙”を投げられてしまいました。
日中、母を見てくれる人がいなくなり、デイサービスに通ってもらおうとも思いましたが、そもそも通所を激しく拒みました。とうとう仕事と母の介護の両立が難しくなり、母にグループホームへ入所してもらうことになりました。
その後、私は結婚をして2人の息子を授かりました。2020年ころから、母はグループホームでの生活が難しくなり、今は特養に入所しています。
藤田さんが在宅介護をしていた当時、妄想や幻覚がひどくなった藤田さんのお母さんは、「娘を殺して、私も死ぬ」と訪問ヘルパーさんに殺人予告的なことをほのめかすようになりました。そういった言動に訪問ヘルパーさんが難色を示し、サービスを受けられなくなってしまったそうです。
グループホーム入所当時、藤田さんのお母さんは64歳とまだ若かったため、藤田さんは認知症の進行を抑えるような生活支援の「お願い」をしていたそうです。しかし、それは聞き入れてもらうことが難しく、藤田さんのお母さんの認知症の症状はどんどん進行してしまいました。
――― ありがとうございます。藤田さん、ちなみにグループホームにはどのような「お願い」をしていたのでしょうか。

藤田
例えば「お買い物をするときには散歩も兼ねて一緒に連れていってもらいたい」とか、「調理でできることがあったら手伝わせてほしい」とお願いをしました。
でも、「みんながやりたいと言い出したら、対応することは難しい。1人だけ特別扱いはできません」と断られてしまいました。
ひょっとすると、施設に閉じ込められているような感じになってしまうのではないでしょうか。案の定、身体の機能がどんどん失われていきました。それをどうにかしようと、グループホームにいた最後の1年ぐらいは訪問マッサージをお願いしたりもしましたが、もっと早くからお願いしていればよかったと思っています。

岡崎
家族としては、年齢的にもまだ若いので施設に入所しても出来る限り機能を保ったままでいて欲しいよね。

藤田
これは私の推測に過ぎませんが、母がグループホームに入所したときは64歳だったので、若年性認知症の“扱い”。ケアする相手の能力が高いほうがスタッフは楽だと思ったのか、“ウェルカム状態”という感じがあったんですけどね。
同じような“状況”の人を探していた
――― そもそも、皆さんはどのようなきっかけで知り合ったのでしょうか。

藤田
ある若年性認知症家族会に参加したときに、代表の方から「あなたと同じくらいの年齢で、同じような経験をしている人がいるよ」と岡崎さんの著書『笑う介護。』を教えてもらいました。
一気に読み切って、「この人と繋がりたい!」って思ったんです。想いを綴ったメッセージをFacebookで送ったら「友達になりましょう」と返事をもらったことが岡崎さんと知り合ったきっかけです。

鈴木
私は、お母さんとの介護の日々を書いていた藤田さんのブログをずっと読んでいたんです。周りには同じような状況の人がいなかったのですごく親近感を覚えました。
母の介護が「しんどくなった」ときに、ブログにメッセージを送ってやり取りをするようになりました。ちょうどそのころに藤田さんと岡崎さんが知り合いになっていて、「同じような年齢の3人で会いたいね」となり、実際に会うことになったのが“始まり”だと思います。

岡崎
初めて会ったときは、同世代の人と親の介護の話ができることがうれしくて、長い時間語り合ったのを覚えています。

藤田
介護のことを語り合える人に出会いたくて、若年性認知症の家族会などにも参加しましたが、夫婦間介護の方が多く、なかなか悩みなどを分かち合えませんでした。
藤田さんは、親世代の介護者が集まる家族会があるのならば、「そこには自分と同世代の子どもたちがいるのではないか」と、家族会の親世代の参加者にお子さんを紹介してもらうなどの繋がりを広げていき、“同世代の子どもたちのための会”を作ることにも奔走していました。

岡崎
初めて3人で会ったときから、もう、10年以上が経過しています。 その後も何かあれば連絡を取り合って、藤田さんの結婚式にも招待してもらいました。藤田さんのお母さんはグループホームから参加されていたよね。

藤田
そう。どうしても母にも結婚式に参加してもらいたくて。あのときは介護仲間だけが囲むテーブルを作ったし、鈴木さんにはスピーチを頼んだよね。

鈴木
藤田さんのお母さんが、みんなの前に立って藤田さんから花束を受け取っている姿がとても感動的で、涙がバァーって出てきたのをいまでも覚えています。

親世代はなんとかなったが、私たちはどうなるのだろう……
――― 若年性認知症の親を介護する際、金銭面はどうしていたのですか?

鈴木
私たちの親世代は“バブル”の現役だったためか、いろいろな保険に入っていたり、そこそこ蓄えがあったりする方も少なくなかったんじゃないかな。私の場合は、さらに兄の援助などでどうにかなっていました。

岡崎
そうですね。一方で、親が倒れたときと同じ年齢に私たちがなったときに同じだけの蓄えがあるかというと、時代が変わってしまったこともあって、それは難しいかもしれない。

鈴木
私も金銭面の心配がないわけではありませんが、母の介護が始まったころは、とにかく時間が足りなかった。今のように育児もしていないから、「仕事と親の介護だけ」だったけど、それでも毎日がいっぱいいっぱいで……。
母が入所する施設を探す際にも、いろいろと見学に行きたいけど、有給にも限りがあるので時間がないし、両親のために動ける“時間と人手”が足りないことが大きな悩みでしたね。

岡崎
20代・30代で、周りの“みんな”みたいにそれだけに専念して仕事を頑張っていきたいけど、親の介護もあるから、そういうわけにもいかない。……いま振り返れば、私も時間と人手が足りないという悩みを抱えていたのかもしれない。

藤田
うん。少し乱暴な言い方になってしまうけれど、たとえば末期ガンと比較するとすれば、ある程度、終わりが見えるというか……特に若かったりすると進行が早いので、「お別れ」までの時間が短いことが多いと思います。
もちろんそれはそれで、大変なことも多いと思います。でも、ここにいる3人とも親が若年性認知症なんです。「若年性認知症は進行が早くて10~15年でお別れになる」と良く周囲から言われていましたが、10~15年というのはすごく長いですよ。
若年性認知症の両親を介護する20代、30代の子世代は少なくありません。20代・30代の10年は、大きなライフイベントが重なる時期です。
若年性認知症ゆえ介護の期間は長い。入所する施設の料金にもシビアになる必要があるようです。さらに、状況が変われば施設を再び探すなどの負担が増えます。
3人の親に若年性認知症の症状が発覚して10年過ぎた今でも、みなさんさんは介護を続けています。

岡崎
父は“首から下”がすごく元気で、「100歳まで元気でいられるかもしれませんよ」って医師に言われています。今、77歳。100歳までと考えれば20年以上もある。
今は蓄えがあるとしても、正直、有料老人ホームへの入所は「これからのこと」を考えると金銭的に厳しい。そんな思いで、看取りまで可能な特別養護老人ホームを選択しました。

藤田
私の母はグループホームで活動的な生活ができない中で、身体・心身ともに機能が低下する廃用症候群(※)のような状態となり車椅子生活になってしまいました。
そして、グループホームから次の施設に移るように打診がありました。そのときは要介護3だったのですが、「この状態で、そんなわけがない」と再申請することになりました。要介護度が低いと特養の入所の順位が低くなるからです。
再申請後は要介護4となり、2020年に特別養護老人ホームへ移りました。現在は要介護5です。
(※)病気やケアなどで体を動かすことが減って心身ともに機能の低下が起こり、その結果として起きる状態

鈴木
うちの母は去年2度も入院をした結果、人工的に栄養を摂る方法を選択するかの判断を迫られていて、痰の吸引といった医療行為が必要になりました。今、入所している特養でも対応はしてくれますが、夜間は看護師が不在です。ですから、母が24時間体制で看護を受けられる医療施設を探したいのですが、仕事と育児の間にそれを探すのがとても大変なのが正直なところです。……今も時間と人手が足りません。
父が脳出血で身体に麻痺が残ってしまって、もし、車椅子生活にでもなったら仕事は続けることができないだろうと思ったこともありました。

藤田
私は“介護離職”という言葉がすごく嫌いで。介護を理由に仕事を失ったら、「じゃあ、介護をしている人たちの生活はどうなるのか」と。私はそういうふうにはなりたくないと思っていて。
介護だけに集中し過ぎるのは嫌でした。仕事をすることで切り替えて、介護とは違う自分の顔を持ち続けたいと思っています。

岡崎
気持ちを切り替えることは、介護と向き合う上でも大事だと思います。
仕事、娘、妻、母……さまざまな顔を持つことが大切
――― ダブルケアについての皆さんのご意見を伺いしたいです。

鈴木
独身のときは、父と母の面倒を私しか見ることができないと“全て”を1人で背負い込んでいました。変な責任感ですが、そうなると、介護以外のことは受け入れられなくなってしまいがちです。
当時はそう思って悩んでばかりいましたが、子どもが生まれて、結婚もして、仕事をしていてもなんとかなっています。
「なんとかなるでしょう」と思えるようになれたというか。

藤田
ダブルケアになって大変なこともあるけど、自分にいろいろなチャンネルが増えて、そのときどきで切り替えができるようになったのが良かったと思っています。
介護をする娘というチャンネル、夫に対しての妻としてのチャンネル、息子たちに対しての母としてのチャンネル、仕事をするチャンネル……チャンネルが増えた分、自分の気持ちも切り替えできるようになっていきました。

岡崎
それはあるかもしれません。独身のときは、娘というチャンネルしかなかったから、娘の視点でしか物事が考えられないところがあったかもしれない。でも、いろいろなチャンネルが増えたことで、広い視点から物事を考えることができるようになりましたね。

新しい命が教えてくれたこと
――― ダブルケアをされている方同士では、どのようなことが話題になるのでしょうか。

藤田
同世代で介護をしている方と話していると、子どもだけでなく、結婚も諦めてしまっている方も多いんです。

岡崎
そういう人に「諦めちゃダメ!」と激を飛ばしている藤田さんを見たことがあります。

藤田
“大きな話”になってしまうかもしれないけど、そこを諦められてしまうとこの国の未来や私たちの将来がどんどん暗くなっていくと思うんです。
いろいろな生き方を尊重すべきなので、家庭や子どもを持つことを全員に勧めるわけではありませんが、もし、家庭や子どもを持ちたいと少しでも思っているのであれば、介護を理由に諦めないで欲しいと思っています。

鈴木
母が若年性認知症になってから、両親の世話をして実家を守ることが私の中で一番重要なことになっていて、自分のことは二の次、三の次にしていました。
結婚はもちろん、将来なんてまったく考えられませんでした。だから、当時お付き合いしていた今の夫との間に子どもが出来たことがわかったときも、親の介護が最優先だったので、子どもは諦めようと思いました。

岡崎
妊娠がわかったとき、鈴木さんは私たちに相談してくれたよね。
正直、私はなんと答えてあげたらいいかわからなくて、ただただ話を聞くことしかできませんでした。でも、話を聞いていく中で、「本当は鈴木さん、子どもを産みたいんだろうな」と思い、それを伝えました。

藤田
たとえ親の介護をしていても、私は結婚も出産も諦めていませんでした。だから、親の介護のために鈴木さんがそういう選択になってしまうことが私には悲しくて……。
育児もお金がかかるし、時間も取られる。だけど、私は子育てをしたことで自分が成長できたと思っています。
親の介護を理由にせっかく授かった命を諦めてほしくなくて、必死で鈴木さんを説得しました。

鈴木
ありがとう。いまになれば、なんてバカなことを考えていたんだろうって……。
鈴木さんはそう言って涙を流しました。藤田さんと岡崎さんの存在が、今と変わらず当時も心強かったのではないでしょうか。

鈴木
……ごめんなさいね。今は、娘を産んで心からほんとうに良かったと思っています。でも、あのころは親の介護のことだけで視野が狭くなってしまっていました。
父も倒れたばかり。要支援2の状態でリハビリ病院から退院して1か月ぐらいしか経っていなくて、父の介護サービスに関わる人たちとのサービス担当者会議が頻繁にありました。
「こんな状況で子どもを産むなんて、親戚から何を言われるか……」。もう、パニック状態でした。
夫とも何度も何度も話し合って、子どもを諦めそうになりましたが、「やっぱり、この子を産みたい」と強く思ったんです。

岡崎
つらいことを思い出せてしまってごめんね。

藤田
2人とも、心のバランスを崩して心療内科に行ったりしていましたよね。介護をしていると、介護に加えて何か問題が降りかかってくるとパニックになるのはよくわかります。
それを解決するためには時間が必要だったり、それぞれの心の強さが違ったりするからこそ、やはり1人で抱え込んではダメだと思うんです。

鈴木
私は心の“許容量”が小さいのに1人で抱え込んでしまいがちだったから。

藤田
そうなる前に誰かと繋がるというか、相談や頼ったりする人や場所をいっぱい持っていたいと、ずっと思っています。1人で抱え込むとどんなことにも冷静に向き合うことができなくなる。だから、あのときは私が必死で止めることしかできなかったです。
「産む」決断をしたという連絡を鈴木さんからもらったときには、親の介護で自分が本当に望んでいることを諦めずに、選択してくれたことはすごくうれしかったですね。
介護を1人で抱え込み、介護で頭がいっぱいになって冷静さを失えば、鈴木さんのように本心ではなく、親を一番に考えた選択をしてしまうこともあるのかもしれません。
日々の介護と向き合う中で新たな問題が起こったときに、相談ができたり、頼ることができたりする場所があることは、介護生活において大きな“救い”になるようです。そういった場所や人を探し出して、繋がるような心掛けも大切なのではないでしょうか。
後編では、育児と介護の両方を行ってみて気づいたこと、ダブルケアならではの悩みなどを語り合っていただきます。

取材・文:岡崎杏里
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