神奈川県横浜市の大口病院にて、20名以上もの高齢者が不審死を遂げるという衝撃的な連続殺人事件がありました。そして、容疑者はこれらの患者の面倒をみるはずの女性看護師であるとして物議を醸しています。もちろん、これはあくまで容疑の段階ですので、この看護師の女性が犯人であるとは決まったわけではないのですが、投げかける問題は大きく、改めて高齢者と医療の問題について深く考えずにはいられません。

人間誰もが全員平等に歳をとる
ムカつくけど、受け入れざるを得ない

ネットでは、快復の見込みがない高齢者の入院について、実際に世話をしている現場の看護師が「制度と現実との間の矛盾と戦いながら日々処置している姿」がありありと説明され、異論・べき論が飛び交うものの、事実関係としては概ねこのようなものであろうと思います。

とりわけ、医療制度において社会保障費の増大の原因である後期高齢者に対する医療が大変だという話はこの20年ぐらいずっと話し合われてきました。まあ、生きてるんですからそりゃ不調があったら治療してほしいと願うのは当然のことですし、それ自体は問題ないのです。しかしながら、人間誰もが歳をとります。歳はとりたくないと言いつつ、生きていれば自動的に誕生日を迎え、全員平等に一個ずつ歳をとっていきます。ムカつくけど受け入れざるを得ない現実がそこにあります。

一方で、この「高齢化による老衰、機能低下」というのは、果たして病気なのだろうか、治療が必要で、治療すれば元通りに回復するものなのだろうか、という問いは常に残ります。明らかに快復がむつかしい高齢者を無理に生かし続けるような、胃ろうによる延命措置の件数が減少してきたのは、いまでこそ事実です。一方で、今回、看護師が現場で対応している患者は「痰を引かなければ3日もあれば命を落とす高齢者」であり、実際もしも看護師の犯行だったとして「大口病院のナースが自分の勤務で看取りをしたくないと言った理由もわからなくありません」とまで正直な感想を吐露されています。

残酷な延命措置、年金目当てでまともに見舞いにも来ない身勝手な家族、本当にこれらは最長寿国家・日本の姿として望ましいものなのだろうか、という問いに対しては沈思黙考せざるを得ません。もちろん、政策面では「健康寿命の延伸だーっ」って言われるわけですが、具合が悪くなって”老病”をかこってから不自由な状態になって亡くなるまでの期間、医療や家族、お金の面での負担は著しく大きく、高齢者本人にとっても辛い状況なのではないかと思うわけですね。

家族は自宅で面倒をみなくて良いうえ、
2ヵ月に一度の年金支給というボーナス付き

こういう殺人事件が出て、ようやく「なんでそんな高齢者が入院してたの?」という現状にスポットライトが当たります。つまりは、高齢者を優先的に受け入れて、現場の看護師に無理な思いをさせてまで延命する理由は、「後期高齢者の医療負担を減らしてあげよう」という理想のもと、一割しか負担せずに多くの医療費を使っても腹が痛まないという構造にあります。高齢者を入院させている家族からすれば自宅で面倒をみなくて良いうえに、1ヵ月4万4,400円程度の負担で、また2ヵ月に一度は高齢者年金が支給されるという、いわばボーナスステージになってしまっている現状があります。

出典:全国健康保険協会 更新

どのくらいお見舞いをし、入院している高齢の肉親の世話をしているのかには家族により差があると思いますが、家族にとってはオイシイ話でも、社会全体にとってみれば「100万円の月間医療費を使わせて、高齢者世帯には5%しか負担させずに、おそらく回復することのない延命措置に費用をかけている」ということにもなりかねません。もちろん、これらの費用を実質的に負担しているのは社会保障費であり、つまりは一般国民です。

厚生労働省も問題を認識している一方、医療業界はこの手の「みなし末期論」は、最近になってようやく議論される機会は増えましたが、いまだに積極的に論じたがらない医療関係者も少なくないのが現状です。上記の問題は、1990年代に社会学者の広井良典氏によって問題提起された、まさに「患者の死は、医師が決めるものなのか」という話に直結します。もちろん、誠心誠意対応してくださる医療業界の献身的な努力には頭が下がります。日本の医療水準がここまで高く、世界的な評価の対象となっているのは、真の意味で医師や看護師全体を含めた医療業界の研鑽と努力の賜物であることは言うまでもありません。

政府公認の自殺業者も出てきかねない
ディストピア感は強めですが…

一方いまの医療業界で見るならば、散々指摘されているように、過酷すぎる職場でフル稼働している医師や看護師が疲弊し、ブラックな職場で散々な思いをしている研修医や勤務医がたくさんおられるのもまた事実であります。また、看護師も命を預かる職場で身をすり減らしながら、赤の他人の病気の世話をしていることを考えると、もう少し矛盾のないしっかりとした制度で患者と向き合える仕組みを構築することが求められているのではないか、と思うわけです。

出典:厚生労働省 更新

これらの問題を考えるに、一口に「医療から介護へ」と言えば、また介護業界や地域、家庭の負担が激増し、クビが回らなくなる事実が一個増えます。なぜ「医療から介護へ」というツケ回しのような議論が起きるかといえば理由は簡単で、医師は育成するのも活躍してもらうのも社会にとってコストがとても高いからです。予算を増やさずに問題に対応できるキャパを増やそうとすると、より安いほう、弱いほうへ、問題はしわ寄せされてしまいます。正直、みんなが満足する解決など模索のしようもないのです、状況が悲惨過ぎて。

しかし、先の社会福祉士による老人ホームでの殺人事件、あるいは、今回の連続殺人を読み解くに、もしも無理に共通項を見出そうとするならば、弱者である高齢者に対する保護をめぐる問題であることは指摘できると思います。高齢者がここまで増えると、もはや高齢者自らが頭の回るうちに「終活」を考えることがマナーになるかもしれません。

あるいは、制度として「かかりつけ医だけでなく、万一の時に誰にどう頼るのか、事前に計画書面を出し、保護者や保証人をつけることを求める」ことまで考えることになりかねないでしょう。一口に「無縁仏」と言えば可哀想だな、残念だなとなりますが、これらは結局誰かが処理しなければならず、その費用は公的機関や自治体がどうにか手配し、作業をするのは生きている日本人の両手に他ならないからです。

さらに、これからの高齢化問題は身寄りの家族もいない「おひとりさま高齢者」激増の時代を迎えます。誰からも看取られず、一人で死んでいく社会となる今後を見据えて、医療や介護、地域、家庭も含めた行政の在り方が今後は問われていくのではないでしょうか。そのうち、きっと政府公認の自殺業者でも発想として出てきかねないなと思いますね。ディストピア感は強いですが、高齢者先進国はどうしてもそうならざるを得ないのではないか、とすら思います。