山本一郎です。このところ、身の回りで立て続けに介護離職される人を見送ることになってしまい、株主としては実に忸怩(じくじ)たるところがあります。まだまだ働ける人が大事な親族を見守るために仕事を離れるのは忍びない気持ちになる一方、人として幸せに生きるというのはどういうことなのだろう、と柄にもなく深刻に感じてしまうことが多いわけですよ。

人間、いずれ死んじゃうんだとしたら、いい生き方をどう模索するかが大事じゃないですか。人は働くために生まれてきたわけじゃない、カネで生きているんじゃないと思うのです。

介護・看病疲れが原因の自殺は250人超え…
健康を理由とする自殺も含め、
超高齢社会に潜む問題が見え隠れ

その一方で、先日報じられましたように福祉に携わる人の賃金がようやく少し改善されました。カネ回りだけが人間の尊厳ではない、カネだけが人生ではないと思うものの、家族を養い、将来に対する不安を払拭して、仕事に誇りを持てるだけの収入がなければ、介護職員をはじめ福祉に携わる人の気持ちはなかなか充足できないことでしょう。

先日、文春にも記事を寄せたのですが、連合など労働組合も頑張っているんだろうけれども賃上げから置き去りにされる人たちも少なくなく、将来への蓄えも満足に確保できないのでは、世間に恨み言の一つも言いたい人がたくさんいるのもわかります。

で、先日厚生労働省が昨年の「介護・看病疲れ」を理由とする自殺者が250人を超えたことを発表しておりました。昨年比8人増と、全体的に自殺者の減少が続いている日本において、増加しているという現象はヤバイとみるべきでしょうか、あるいは、老々介護や介護離職が一般化する中で高齢社会の介護事情に対する理解が進んでこのぐらいで収まっているとみるべきでしょうか。

内閣府が発表している原因・動機別自殺者数を示した棒グラフ,介護・看病疲れを理由に自殺した人が251人いることがわかる

ケアマネージャーの皆さんなど業界の目線で見る介護疲れ自殺事情はすでに「みんなの介護」でも詳しく状況について解説されておりますが、自殺関連全体に目を向けてみると減少傾向になっている「健康を理由とする自殺」の中にも高齢者問題が見え隠れしているというのが実情です。

死にたいと考えたことがある高齢者は
およそ3人に1人の割合。その自殺の原因が
はっきりとしない闇もまた深く…

警察庁「自殺統計」では健康問題で自ら命を絶つ人のかなりの割合がうつ病など精神疾患と薬物依存による自殺になっています。一方で高齢者に目を転じてみると、がんなどで闘病の長い方や、身体に障害を持たれて将来を悲観し自殺を決断してしまうケースも多数見受けられます。

内閣府発表の、健康問題を原因とした自殺者数動機別内訳,うつ病等の精神疾患と薬物乱用が約53%を占めていることが見て取れる

身体の病気を原因・動機とする自殺死亡率の推移を表したグラフ,80代は40代の約5倍に跳ね上がっていることが確認できる,内閣府発表

とりわけ「死にたい」と思ったことのある高齢者は3人に1人に上り、自殺を考える理由も「元の体に戻らないようであれば死んだほうがまし」と思い詰めてしまったり、病気の将来を悲観して「楽になりたい」と考えるケースが圧倒的です。

また、高齢者の自殺については単純に身体的な問題、とりわけがんなどの闘病生活で苦労をして生きる希望をなくすという単体の原因よりも、病気をきっかけに将来を悲観してうつ病にかかってしまう、思い通りの生活ができないストレスで統合失調症などの精神疾患に陥るという複合的な要因も数多く見て取れます。

しかも、これといった遺書もなく高所から飛び降りてしまう、あるいは電車に飛び込むというケースが一般的なため、本当に思いつめた結果の自殺なのか、ふと死にたいと思ってやってみた的なことなのかも良くわからない場合が多いのです。

日本財団が発表している自殺念慮の世代別統計,40代ではおよそ3人に1人,60代でもおよそ5人に1人が自殺を考えたことがあるということが示されている

そして、高齢者自殺の特徴としては以下の2つがあります。それは、ひとつが「内科にはかかっていたけど精神科には行かなかった」というケースが多い点と、もうひとつが自殺者の94%が家族と同居している点です。

高齢者の自殺の原因特定が困難な理由は、心理的剖検(家族や友人などからの情報収集により、故人の生前の様子を明らかにしようとする調査手法)も曖昧にならざるを得ないことにあります。「お爺ちゃん、最近塞ぎ込みがちだったわね」とか「母がこのところ頑固になってしまって家族の言うことを聞きませんでした」などというヒヤリング結果が、自殺に関係する何に影響するのか良くわからないわけですよ。

そこへ認知症や老齢による性格の変化などが併発しているのはごく普通のことですが、これが高齢者の自殺や、場合によっては介護疲れからの介護殺人、無理心中にまで発展してしまうわけですから、深刻です。

また、一口に「将来の展望が開けない」と悲観されたところで、介護の現場にあっては本人や家族、関係者一同で励まし合って暮らしていく以外にこれといった解決策はありません。何しろ、70代80代になってもどこも悪くない人というのは少数ですし、病気になったらあとは死ぬだけ、ならば自分で人生にケリをつけたほうが…と考える人が一定の割合おられるのだというのは理解しておかなければなりません。

高齢者自殺の数字が訴えかけている事とは?
人生の自己決定として死を選ぶことから
「死に方の”べき論”」という展開へ

こういう議論になると、必ず尊厳死の話が出てきます。人生の自己決定として死を選ぶことを容認するかどうかや、肺炎となって入退院を繰り返す高齢者のためにも治療を行わないという方針が一般化されて受け入れられるには、やはりなお時間が必要なのではないかと思います。

「いつ死ぬか、自分で決める」ことが普通になる日も来るのかもしれませんが、そういう決断をしなければならないとしたとき、果たして自分は正気でいられるのだろうか、周りの人たちに迷惑をかけていないかどうか、いまからでもすごく悩むのですよね。実際、 闘病の果てに自ら命を絶たれる方の3割程度は、介護を手伝ってくれていた家族への感謝やねぎらいの言葉を遺しておられるようです。

その一方、うつ病の症状が出てしまって死を選ぶ人は、通勤電車でふらふらっと飛び込んでしまい、通勤途中の何万人かに迷惑をかけるということもあるわけでして、やはり我が国はもう少し国民の議論として「死に方の”べき論”」みたいな思想、哲学を考えておいたほうがいいんじゃないかと改めて感じます。

まあ、少なくとも学校や職場で「どう死ぬのが人として理想なのか」なんてことは教えることがありませんからね。みんな結構簡単に死と向き合うことを語りますが、そういうのは時代観や人生経験から導き出される千差万別のものなのかなと深く感じたりします。

以前、週刊朝日によって「終活」なる言葉が発明され、生前贈与や遺言信託といった死に支度の制度も拡充、成年後見制度や相続税改定など様々な変革が一気に押し寄せてきている感はあります。いずれ誰もが経験する死をどう迎えたいか、高齢者の自殺を見ていると数字が何かを叫んで訴えかけたいように感じられてなりません。