近内悠太「エッセンシャルワーカーに払うべき「敬意」ではなく「見合った対価」」
コロナ禍によってリセットされた社会を回復させるのは、“見返りを求めない「贈与」のシステムである”と説いた哲学書『世界は贈与でできている』(NewsPicksパブリッシング)が反響を呼んでいる。著者で教育者・哲学研究者の近内悠太氏に、「生きる意味」や「仕事のやりがい」、「大切な人との関係性」といった、金銭的価値に還元できない大切なものをどうすれば手にすることができるのか。「贈与」の仕組みと、コロナ禍におけるエッセンシャルワーカーについて語っていただいた。
文責/みんなの介護
「贈与」とは手渡されたときにお礼を言いたくなってしまうもののすべて
みんなの介護 近内さんのデビュー作『世界は贈与でできている』が発売されたのは今年3月。「コロナ後の世界の生き方を予言した書」と評されて話題となりました。執筆時点でコロナ禍は始まっていませんでしたが、何か予感めいたものがあったのでしょうか。
近内 本当のことを言うと、僕はこの本を3.11東日本大震災に対する自分なりの解答のつもりで書いたんです。小松左京さんのSF小説『復活の日』をモチーフの1つとして、まず、一見安定しているように見える僕たちの社会は、あるパズルのピースが欠けただけでいとも簡単に崩れてしまう「不安定性」のうえに成り立っているのだということを説明するつもりでした。ところが、出版のタイミングが緊急事態宣言と重なり、あたかもコロナ禍を予言していたかのような形になった。この偶然に僕自身、驚きました。
みんなの介護 哲学書というと通常は難解なのが当たり前なのですが、近内さんの語り口はとてもわかりやすく、物語のように楽しく読み切ることができました。本の中で印象に残ったいくつかのキーワードを切り口に解説をお願いしたいと思っています。まず「贈与=お金で買えないもの」という説明がありましたが、詳しく教えていただけますか。
近内 「贈与=お金で買えないもの」という定義は、文化人類学や哲学の見地からすると少々飛躍しています。ただ、「贈与」という言葉にまつわる一般的なイメージと、ここで言う「贈与」が異なる意味であることを明確に提示するために、あえて「お金で買えないもの」と表現しました。本を書き終えてからは、さらに理解しやすくするために「贈与=手渡されたときにお礼を言いたくなってしまうもののすべて」と説明しています。
いずれにせよ、受け取ってもすぐに対価を払わせてもらえず、「どうしたらこの“ありがとう”を伝えられるのだろう」という思いが受け取り手の「負い目」となって残ってしまう点は同じです。一瞬で完結する金銭とモノの「交換」とはそこが大きく違っていて、伝えられずにいたその感謝の念を行為として他の誰かに手渡す=「贈与」することによってのみ「負い目」は解消されます。
そして手渡された人はまたしても「負い目」を抱き、次の誰かに行為として感謝の念を伝える。こんなふうに連鎖していくのが「贈与」の大まかなイメージです。
資本主義社会の中でも相手に行為の見返りを求めない「贈与」
みんなの介護 資本主義社会における人間関係の大半は経済活動が伴っているように思います。金銭を媒介させない「贈与」の成立はとても難しいのではないでしょうか。
近内 市場経済における金銭を介した商取引=「交換」では売り手と買い手は横並びです。需要と供給のバランスによって立場の強さは変化しますが、基本的に対等の関係になります。そして、受け取ったからには必ず対価を支払わなければなりません。
「交換」の相手は対価さえちゃんと払えるのなら誰であってもかまわず、商品と金銭の「交換」という行為は瞬時に終わります。支払いまで時間差があるケースもありますが、その場合は金利がついて価格に上乗せされる。時間も金銭に置き換えられて「交換」されるわけです。
反対に「贈与」は一方的な行為で、しかも“差出人”と“受取人”は縦の関係にあって階層差があります。対等ではないんです。しかも、“受取人”は受け取ったことにそのときは気づいておらず、“差出人”もそれとは気づかせない。一番わかりやすい例がサンタクロースです。親がサンタクロースだったと気づいたとき、すでに子どもはたくさんのプレゼントを受け取っています。でも、それに気づいたからといって、親は子どもにお返しを要求したりはしません。
子どもは本当の“差出人”に気づかずに何年か過ごしていたからこそ、お返しのことなど考えず、純粋にプレゼントを受け取ることができていた。親が名乗らずにサンタクロースを演じ続けていたため、その間、親と子の間で「贈与」が成立していたわけです。
いっさいの見返りを期待することなくものが移動する。文化人類学や哲学の世界ではこれを「純粋贈与」といいます。
みんなの介護 徐々に「贈与」のイメージが形になってきました。では、互いに助けあう「ギブ&テイク」のような関係はどう捉えればいいのでしょう。これは「贈与」とは違うのでしょうか。
近内 「ギブ&テイク」というのは、この人によくしておけばいつかお返しがあるだろうと見返りを期待して何かを行うこと。これは相手を道具として利用する行為ですので「贈与」とは呼べません。
「互助」とも「贈与」は違います。「互助」というのは対等の関係で行われる。「贈与」が行われるのは、先ほども言ったようにあくまで縦の関係においてです。だからこそ、自分がお礼をしていないことが「負い目」になってしまう。
親から子への無償の愛は次の連鎖を生み出す
みんなの介護 先ほどから「負い目」という言葉を繰りかえし使われていますが、もう少し具体的に説明してもらえますか。
近内 誰もが最初に抱く「負い目」は子どもが親から受けた無償の愛に対する思い、すなわち「被贈与感」です。親は見返りを求めて子どもを育てるわけではありません。しかし、親の庇護の下でなければ生きていけない無力な子どもは「自分には育ててもらえるだけの根拠も理由もない。にもかかわらず不当に愛されてしまった」と、宿命的に「負い目」を感じてしまう。
そしてこの「負い目」は、いわゆる親への恩返しという直接的な形ではなく、自分の子ども、あるいは他者を愛することによってようやく「相殺」されるんです。
みんなの介護 なるほど。「負い目」は「贈与」のシステムを動かす原動力になっているのですね。
「わたしはヒーローなんかじゃない」看護師の悲痛な叫び
近内 よく「人のために役立ちたい」と口にする人がいますが、「役立ち“たい”」は自分の欲求で、本当の目的は他者に「ありがとう」と言われたい、感謝されたい、あるいは自己肯定感を高めたいという願望で、つまり自分の利益のためです。それは「交換」であって「贈与」ではありません。こう説明するとけっこうハッとされるのですが、案外、この違いに気づいていない方が多いです。
コロナ禍のさなか、SNSで看護師の方が「わたしはヒーローなんかじゃない。拍手なんか要らない。お金のために、生活のために仕事をしているだけなんだからヒーロー扱いしないで」といった悲痛な叫びを綴った投稿を見かけました。
過酷な状況の中で働く医療従事者への「ありがとう」は、裏返せば「これからも社会のシステムを守るために犠牲になってください」というプレッシャー、あるいは「呪い」にしかならない。本当に必要なのは彼らの頑張りに見合う「対価」であって、感謝の言葉なんかじゃないのだという切実な訴えでした。
みんなの介護 「拍手を送ればそれでよい」という考えが少なからずあるのかもしれませんね。
近内 何が言いたいのかというと、ふだんから社会機能の維持のために身を投げ打って働いているエッセンシャルワーカーでも、ある一線を越えてしまうと、世のため人のためと自らを律するより、「これが自分の仕事」「ギブ&テイク」だと考えることで気持ちを落ち着かせ、正しく振る舞おうとする場合もあるということ。とはいえ、彼らの大半は「自分は対価をもらうための仕事をしている」と割りきれるだけの待遇も保障されていない。だからなおさら「わたしはヒーローなんかじゃない」という看護師のSNSでの投稿に僕は胸を打たれたんです。
「自己責任」を求めていたのは私たちではなく市場経済
みんなの介護 誰にも迷惑をかけずに生きようとする態度を取り続けることが“大人”としての常識となっているわけですが、近内さんはそんな生き方に疑問を呈していますね(『世界は贈与でできている』第2章 ギブ&テイクの限界点より)。近内さんが考える生き方について教えてください。
近内 まず“自分のことはすべて自分でやらなければならない世界”とは、言い換えれば“誰からも頼りにされない世界”のことです。僕らはこの数十年、そんな状態を「自由」と呼んできたわけです。
確かに、頼りにされるというのはときに面倒くさくて、僕らはそれを「しがらみ」や「依存」と呼んで、できる限り身の周りから排除してきました。その代わり、資本主義には、ありとあらゆるものを「商品」へと変えようとする指向性がありますから、それまで誰かに与えてもらっていたものも商品化され、それらをすべて自前で買わなければならなくなってしまった。何もかもが経済に取り込まれてしまったんです。
そして、生きていくために必要なものを1人ですべて整えることができる人は、市場経済にとって最も好都合であり、誰もがそういう人間になることを目指せば益々経済も発展すると、みんながそう信じていました。
しかし、2000年を過ぎたあたりから「もしかして、それって無理なんじゃないの」と疑問を抱く人が徐々に増え始めたように思います。そして2011年3月に東日本大震災が発生。その被害からの復興もままならないうちに、今コロナ禍によって世界全体が壊滅的ダメージを受け、多くの人々が自力だけでは生きていけない状況になってしまった。誰にも頼らず生きていける社会というのは幻想でしかなかったんです。
親鸞が説く自力では救われない人間の弱さ
近内 少し前、あるオンライン読書会に著者として参加した際、「近内さんの考える世界最大の贈与者とは誰ですか?」という質問を受けました。そのとき、ふと、親鸞(しんらん)のイメージが頭をよぎり、咄嗟にそう答えていました。
今の世の中、みんな自力で生きていると思っていますよね。でも、親鸞は人間というのは正しくも賢くも強くもない存在で、「自力では救われない」「救いには他力が必要」と説いている。僕はそれまで意識していなかったのですが、最近は「もしかすると、本に書いた『贈与」の考え方もそれに通底していたのではないか』と、そんな思いを強くしてるんです。
人間は弱くて嫉妬深くて意地らしいものだと思っています。親鸞はそういう情けない人間でさえもちゃんと救われると言っている。そういう人間観にとても惹かれるというか、共感を覚えるんですよ。
ただ、自力だけで生きていけないとわかっていても、昔みたいな共同体の生活に戻ることは難しいでしょう。現時点で享受している自由気ままな生活は手放せないし、古き良きサザエさん的なご近所付き合いというのも、個人的にちょっと無理だと思うんです。
みんなの介護 コロナ禍で物理的な人との距離感だけでなく、人付き合いのあり方も変わってしまいましたね。
近内 人と人がつながらない理由ができたわけですが、僕はむしろ、「何があってもこの人とは会いたい」という強い思いや、人と会うことに対する覚悟もはっきり自覚するようになりました。ただし、会うにしても会わないにしても、その都度、それなりの決意を持って日々決定を下しながらの生活というのも息苦しいとは感じてますが。
平和な世の中では姿の見えない影の功労者「アンサング・ヒーロー」
みんなの介護 『世界は贈与でできている』で最も印象的だったのが「アンサング・ヒーロー」(陰の功労者。歌われざる英雄)についてのくだり。非常事態宣言下でも社会機能の安定のためにリスクを冒して働くエッセンシャルワーカーたちの姿とも重なりました。彼らはコロナ禍によって脚光を浴びましたが、逆に言えばこれまでどれだけ社会から軽んじられてきたかが浮き彫りなった感もあります。このジレンマについて近内さんはどのようにお考えですか。
近内 エッセンシャルワーカーが軽い存在と捉えられていることの原因として、「社会や人間を健全な状態に保つためには経済的・精神的に莫大なコストがかかる」という、当たり前のことが理解されていないことが挙げられます。それもこれも、「人間は強い存在だ」という誤解、あるいは「常に社会を完璧な状態にマネージメントできて当然だ」という考えを皆が持っているからでしょう。平時より彼らが払っている努力が見えないんです。
一方、アンサング・ヒーローたるエッセンシャルワーカーの多くは、そもそも何も起こらないことを1つの達成だと認識して自らを透明の存在にしている。自分が差し出している何かを受け取る相手が気づかないということは、社会が平和である何よりの証拠と、無意識に感じているのかもしれません。したがって、僕は本来、これまで彼らが大きく称賛されたり感謝されたりしないのもあり得ることだと思っていました。
今回エッセンシャルワーカーの存在が脚光を浴びたのは、あくまで「新型コロナ」という災厄を誰も未然に防ぐことができなかったからです。
社会の変化に適応するには、常に認識や心を調整し続けなければならない
みんなの介護 日本では介護の担い手が慢性的に不足している中、高齢者が増加。彼らの暮らしを支えていくための社会保障の拡充・整備が重要です。今後の日本社会のあるべき姿について、近内さんはどのように考えていらっしゃいますか。
近内 僕は社会システムについて提言できる立場にはありません。ですが、1つだけ言えるのは、もっと人々が人間の弱さや社会の脆弱さを理解しない限り、たとえどんなにすばらしい社会保障システムをつくりあげたとしても機能しないし、維持することもできないということ。そこでまず、今からすぐにでも取り組まなければならないのは、システムを下支えする人々の認識や心を整えるボトムアップ。僕が役立てることがあるとすれば、そういうことなのかなと思っています。
みんなの介護 新型コロナへの対応を見てもそうですが、人間は認識の誤りに気づいてもなかなかそれを改めることができないように思います。その場合、どうしたらよいのでしょうか。
近内 人間の脳の構造は7万年前から変わっていません。ところが、それに比べて社会環境や制度はすさまじい勢いで変化してきました。とくに近代以降は数十年スパンでどんどん変わっている。進化論的に見ても、僕らの脳はそのスピードには到底追いつけるはずもなく、現実とのズレや齟齬が常に発生しているんです。
だからこそ、僕らは思想や知性によって認識や心を整え、なんとかアジャストさせなければいけない。考え続けるしかないんです。
数学の明快さに心が安らいだ
みんなの介護 慶應大学理工学部卒の近内さんが、なぜ哲学の研究者になったのでしょうか。「数学」と「哲学」の出会いについて聞かせてください。
近内 僕の中には子ども頃から、確実な知識に対してしか心が落ち着かない感覚があって、理科の授業などで何かの法則を習っても、「そんなこと、どうやったらたしかめられるの?」と気になって納得できず、気持ち悪さがずっと尾を引いていました。
それに対して数学は、「三平方の定理」も「素数が無限個存在すること」も自分で確かめることができる。カント哲学で言うところの「共通する理性」を持っていれば誰でも検証できて納得できる。その明快さにとても心が安らいだんです。
それから、ひたすら確固たる知識、確実な世界認識としての「数学」を学ぼうという思いで大学まで進んだものの、そこで挫折。この先どうしようかと迷っているとき、ウィトゲンシュタインの言葉「すべてを疑おうとする者は、疑うところまで行き着くことができないであろう。疑いのゲームはすでに確実性を前提としている」(ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』、第115節)に出会いました。その瞬間、「これはもしかしたら僕が子どもの頃から漠然と感じていた“知的不安”に対する答えなのではないか」と直感。以来、彼の哲学を追求し続けているわけです。
科目を分けずに連続的な知識を獲得する「知のマッシュアップ」
みんなの介護 近内さんが知窓学舎で実践されている、学問分野を越境する「知のマッシュアップ」とはどのような試みなのでしょうか。
近内 一言でいうと科目を問わずに全部混ぜちゃえばいいという教え方です。僕は主に高校生を教えているんですが、例えば「ロジック(論理)がなぜ必要か」という話をするとします。
僕はその答えの1つとしてまず「民主主義」を挙げ、意見が対立する人と一緒に社会をつくっていくときには、“私はこう考えています。なぜならば…。例えば…”と言葉を継いで、他者を納得させる必要があると説明します。
そして次に「民主主義はどこから始まったと思う?」と問いかけて歴史の話へ飛び、「古代ギリシャでは民主制と同時に、演劇と数学と哲学が誕生。これらはすべて他者を理解するための方法で、人々は演劇によって人間のさまざまな生き方を、数学の確実な論証によって誰であってもここまで辿り着けるという考え方を、哲学によってどうすれば共同体としての認識が成立するのかを知ろうとした。じゃあ、そのロジックの最たるものである数学の『集合と論理』の問題を解いてみようか」といったふうに、気がつけば科目の垣根を越えているという進め方をしています。
みんなの介護 それはとてもおもしろそうな授業ですね。すべての知をつなぎ合わせて理解することで、各分野への興味も高まるように思います。
近内 そうなんです。そもそも数学は雑談を交えにくい科目ですが、1クラスの生徒数が10人程度ということもあって、こうした対話的な授業が可能になっているんです。僕が重視しているのはその場の臨場感や即興性。生徒一人ひとりとのやりとり次第でどんな方向にも授業の流れを変えていく。そういったライブ感を生かすように心がけています。
硬直した「使命」より「他力」のしなやかさ
みんなの介護 では、いよいよ最後のテーマです。慢性的人手不足、遅々として改善が進まない労働条件にもめげず、コロナ禍にあっても介護に携わるプロフェッショナルたちは奮闘しています。おそらくそれを支えているのは「使命感」だと思われます。近内さんは著書で「使命」についても言及しておられますが、これについてお話いただけますか。
近内 『世界は贈与でできている』では、「倫理、義務感、誇り、プロ意識、勇気といった定量的に測ることのできない内的動機に基づいて、消防や教育という公共的な仕事はかろうじて成立しています。これらの内的動機は、一言でまとめれば『責任』です。それも外から押し付けられた責任ではなく、自らが気づいたうちなる責任の自覚です。もう少し強い言葉を使えば、『使命』です」と書いています。
しかし、最近ではこの内的動機の考え方ついて、「使命」より「他力」という表現の方がしっくりくるような気がしています。
みんなの介護 お話のあった親鸞(しんらん)の言うところの「他力」ですね。
近内 「使命」というと明確な意思や目的を持った行為者が世界にかかわっているイメージが思い浮かびます。確かにプロフェッショナルと呼ばれる人たちはそういうイメージですよね。ただ、こう考えたらどうでしょうか。
例えば保育士の方が子どもになんらかの危険が迫ったとき、咄嗟に身を挺して助けたとします。そのとき、保育士は「使命感」で助けたのか。おそらく体が勝手に動いてしまったのであって、決して頭で考えてから行動したわけではなかったはずです。あるいは、考えるまでもなくそうせざるを得なかったのではないかと。
何かをしてあげるつもりだったわけでもなく、気づいたときにはそれをしていた。もっと言えば自分の意思とは違う何かに衝き動かされてそうしてしまった。この場合なら、子どもがいたから保育士は「助ける」という行為ができたと捉えることもできます。これはあきらかに「使命」という自己決定より、他者がいることによって生まれる力「他力」によってもたらされた結果です。ひょっとすると、そういう衝動に抗えずに行動してしまう人が、周りからは「プロフェッショナル」に見えるのかもしれません。
もちろん、絶えず変化する現場において取るべき態度や、行動を正しく選択する能力は日頃の学びや訓練によって身につくものです。誰にでも無条件に「他力」が作用するわけではないこともつけ加えておきます。
助けを求める弱さは芯の強さに転じる
近内 いずれにせよ、「使命」というのは“?しなければならない”という西洋的な一神教の考え方に基づいており、「すべてを救おう」という博愛主義にも由来しています。しかし、いつでもそう考えながら仕事をするのはプレッシャーですよね。
みんなの介護 確かに介護従事者の中でも、心身の負担を抱えながら仕事をした結果、燃え尽き症候群になってしまうケースが少なくないようです。現場で働く方はどう考えていけばよいのでしょうか。
近内 「他者がいるから自分は何かできる」と思ってみると、心の持ち方ががらりと変わります。とくに広い意味で臨床といえる医療・介護・教育の従事者は、仕事を「使命」より「他力」と捉えた方がずっと気持ちも安らぎ、自力だけで解決できない局面にぶつかったときに素直に「助けて!」と声を上げられるようになります。
さらに、弱さというのは一定の限度を超えると強さへ転ずるもので、「もうこれ以上は無理だ」と悟った瞬間から、叫んだり足掻いたりする力が湧いてきます。それに対して、中途半端な強さを持っている人は叫ぶことも足掻くこともできなければ、「助けて」と弱音を吐くこともできない。だから案外、簡単にぽっきり折れてしまうんです。
本には「甘えるというのは本当は自分でできることを他人に頼むという意味であり、頼るというのは自分ではできないことを他人に頼むことを意味する」と分けて書きましたが、読者からのさまざまな意見や親鸞について考えるようになってからは「甘えたっていいじゃん」と考えるようになりました(笑)。これも、本を書いたことで自分や他者と出会い直すことができたおかげです。
撮影:荻山拓也
近内悠太氏の著書『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』(NewsPicksパブリッシング)
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