権丈善一「理想の社会を具体的に設定すれば目の前の課題も具体的に見えてくる」
慶應義塾大学商学部教授で、社会保障のスペシャリストとして知られる権丈善一(けんじょう よしかず)氏。塾内で教鞭をとるかたわら、「社会保障制度改革国民会議(国民会議)」の委員などをつとめる。政府だけでなく、ときには偏向報道を行うメディアに対しても舌鋒鋭く「あるべき社会保障のあり方」を論ずる。当人は、基本、脱力系だからという権丈氏に、現代の日本社会が抱える問題の解決策を聞いた。
文責/みんなの介護
今の高齢者は「若返り」をしている
みんなの介護 超高齢社会の到来によって、現行の社会保障制度にさまざまな問題が発生していると指摘されています。日本の年金や医療、介護制度にはどんな改革が必要なのでしょうか?多くの人が、シルバー・デモクラシー問題があるためになかなか解決が進まないといわれていますが。
権丈 シルバー・デモクラシーって、まぁ、流行っているようですけど、実は、僕にはよく分からないんですよね(笑)。医療は、病院完結型の治す医療から、地域で治し・支える地域完結型に変えていく、介護は、地域完結型医療との境目をなくして、医療と共に地域包括ケアの構築を図るとともに、被保険者期間を年金と同じ20歳からとして介護に関する消費の平準化を強化する――
つまり、高齢期の介護消費のための負担に、より長く関わって単年度の負担を少なくする。年金保険は、マクロ経済スライドのフル適用を視野に入れながらも、次は被用者保険の適用拡大を力強く進めるとともに、被保険者期間を延ばして将来の給付の増加を図る。こうした改革を進める上で、シルバーが反対することってありますかね。
シルバー・デモクラシーを言う人たちは、昔から、世代間格差、世代間対立だと言ってきた人と相当部分重なるわけですけど、彼らは、まぁ、長いこと世の中の漠とした不安や不満を煽り、ファンを募ってきた、あまり建設的な話をしてこなかった人たちですよね。僕ら、そして皆さんとも、おそらく人間の質が違うんだと思うくらいで良いと思いますよ。
超高齢社会の到来ということを視野に入れるとすれば、必要な改革の方向性についてはそう難しい話ではないです。その方向性とは、「希望するみんなが長く社会に参加して、社会との繋ながりを持つことができる制度に変え、医療や介護に不安のない社会の構築」という感じでしょうか。
もし、これが実現できれば、今の制度の観点から問題と言われていることの多くは消えてしまうと思いますよ。
みんなの介護 そんな手品のようなことが可能なんですか?
権丈 できるでしょう。まずは、「社会への参加、社会との繋がり」のほうから考えてみましょうか。
昨年の2017年1月、日本老年学会と日本老年医学界は合同で、高齢者の定義に関する提言を行いました。両学会は、2013年から高齢者の定義を再検討する合同WG(ワーキング・グループ)を立ち上げて、高齢者の定義についていろいろな角度から議論を重ねてきたらしいです。以下、リリースから引用します。
現在の高齢者においては10~20年前と比較して加齢に伴う身体的機能変化の出現が5~10年遅延しており、『若返り』現象がみられています。従来、高齢者とされてきた65歳以上の人でも、特に65~74歳の前期高齢者においては心身の健康が保たれており、活発な社会活動が可能な人が大多数を占めています。
そこで両学会は、これまで「高齢者」と呼ばれていた65歳以上の人を「准高齢者」として区分し、75~89歳までを「高齢者」、90歳以上を「超高齢者」と呼ぶことを提言したんですよ。
みんなの介護 確かに、昔と比べると多くの人が「若返り」しているのは実感としてわかりますが、年金の支給開始年齢の引き上げや、社会保障の切り捨ての言い訳に使われそうで怖いですね。
権丈 こんな話をするとすぐに、「支給開始年齢」という言葉がでてくるんですよね。ほんっと困ったものです(笑)。では聞きますけど、年金はいくつから受け取ることができると思いますか?
みんなの介護 65歳ですよね。
権丈 う~ん、あまり知られていないので困っているんですが、今の日本の公的年金保険は、実際のところ、60歳から70歳までの「受給開始年齢自由選択制」なんです。60歳での給付水準を1とすれば、受給を遅らせると給付額が割り増されていって、70歳からの受給まで待てば、60歳で受給を開始する場合のおよそ2倍に増え、それが終身、つまり亡くなるまで給付されます。
そして、いま、年金方面で進めようとしていることは、受給開始の年齢をなにも70歳に留めておく理由もないだろうから、75歳まで受給開始を自由に選択できるようにしようというものですね。スウェーデンの報酬比例年金の受給開始は、61歳以上だといつでもOKという制度です。日本はそこまでいかなくて、75歳までだったら自由に選択できて、年金数理上、齟齬が生じないようにしながら、受給期間が短くなった分、ちゃんと割り増ししていきますよという話です。
みんなの介護 年金とはつまるところ、いったい何なのでしょうか。
権丈 公的年金って、ようやく少しばかり普及してきたようなんですけど、自分ではいつまで長生きするか本当のところはよくわからないということから生まれる生活リスク、僕らは「長生きリスク」と呼んでいますけど、この長生きリスクに対する保険なんですよ。
ところが年金研究者をはじめとして、多くの人が貯金かなにかと誤解してきたんですよね。だから、僕らは、制度全体の話をするときには「公的年金保険」と呼ぶようにしています。
余命幾ばくと宣告されていない人が、当面の生活費を工面することができるならば、可能な限り遅く受け取りはじめることをおすすめしますよ。もし、70 歳での受給開始を決めている時に69 歳で亡くなってしまったとしても、別に良いではないですか。少なくともそれまでは、自分は70 歳以降に割と高めに割り増された年金が終身で保障されているために生活に困ることがないという安心感を得られていると思いますし、保険というのはそういう安心を与えるのが大きな役割なわけです。
さて、こうした日本の60歳から70歳までの自由選択制の下では、先ほどおっしゃっていた「支給開始年齢」は何歳だと思いますか?
みんなの介護 60歳でしょうかね。
権丈 うん、まぁ、そう思っておいても良いし(笑)、だいたいもって、「支給開始年齢」という、普通にその6文字の漢字をみれば、その年齢までは年金を受け取ることができないと受け止められる日本語は使わない方が良いんですよ。だから、いまは、年金に関して年齢の話をする際には、自由選択のニュアンスを持つ「受給開始年齢」という言葉を使っています。厚労省の年金局をはじめとした政府も、「受給開始年齢」という、見た瞬間にイメージがわく言葉を使っています。
時々、「支給開始年齢」という言葉に、この6文字の漢字が示唆する以外のいろんな意味を詰め込んで使っておきながら、それを見た人から、その年齢まで年金をもらえないのか?と質問されると、いやいやそういう意味ではないという弁解をして、話をややこしくする人もいます。でももう、そういう人たちは、放っておいていいです(笑)。
年金周りではいつもそうした雑音が混ざってくるのですけど、それは無視して本題に入れば、日本老年学会・老年医学会の75歳高齢者説は、かなり明るい話だと思いませんか。
みんなの介護 確かに、そうとも考えられますね。
権丈 健康ビジネスの世界が、営業のために健康寿命の増進にはあれをどうぞ、これもどうぞと言っていて、政府もそうした健康ビジネスに少々便乗しているために、みんなが健康だから長寿になったんだということが見えにくくなっているんですね。でも、若返りが進んで、年長者が以前よりも元気で健康になったから長寿社会になったんですよ。
だったら、年をとっても、幸せの一番の要素である「社会への参加」がしやすい社会をつくっていく。心身ともに健康で、活発な社会活動ができる「准高齢者」にとっても、僕らにとっても良い話じゃないですか。もちろん、年をとると、元気さにはいろいろと差が出てくるでしょうから、そうした人たちには、社会的にしっかりとしたサポートを準備していくのは当然のことです。
僕が今翻訳をしているLSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)の先生、ニコラス・バーさんが2012年に書いたThe Economics of the welfare stateに次の言葉があるけど、全くその通りだと思いますよ。
最近まで、真の解決策――引退年齢の引上げを捉えることに完全に至った提案はほとんど存在しなかった。珍しい例外は、UK Pensions Commission(2004a, b; 2005)の報告書である。論理は簡単である。現在の人々は、100年前よりも長く生きる。それは、私たちすべてが賞賛すべき素晴らしい結果である。高齢化の‘問題’をグロテスクに話題にすることは、的外れである。問題は、人々が長生きしていることではなく、彼らがあまりにも早く引退していることである。
「不公平だ!」と騒いで喜ぶのは、現役世代ではなく企業
みんなの介護 年金制度では、現在の受給者と将来の受給者との世代間格差が問題になっています。それについてはどうお考えですか?
権丈 そうしたことも、いまシルバー・デモクラシーとか言っている人たちが、昔から言っていたことですよね。彼らが年金保険の世代間格差の指標としてきた給付負担倍率って、公的年金が私的な親の扶養を公的に切り替えていった歴史や、年金が保険であることを知らなかった人たちが計算しては、世代間格差だと騒いでいたバカバカしい指標ですよ。彼らのキーワードは、いつも「対立」。なんか、もういいよ。つかれますよね。
それと、「『現役世代』の人たちが『退職世代』の人たちの給付を負担している。不公平だ!」という意見もあるけど、僕は、「現役世代」、「退職世代」というような言葉を使うから話がおかしくなるんだと言っています。両者を「現役期」と「退職期」という言葉に置きかえてみてください。
つまり、「現役世代」と「退職世代」という異なる世代の人たちがいるのではなく、誰もが「現役期」を経験し、次に「退職期」をむかえるんです。目くじら立てて対立するような話ではないはず。「子ども叱るないつか来た道、老人笑うないつか行く道」です。
みんなの介護 しかし、世代間格差についての不公平論は根強いものがあります。なぜでしょう?
権丈 「不公平だ!」と声を大にして盛り上げたいのは、企業とか企業の代弁者でしょう。そして経済界が、いわゆる世代間対立論者をスポークスマンとして盛り立てて、世論に大きな流れをつくり、その流れの中で、企業の負担を避けようとする。そんな感じでしょうか。不満や不安を煽ると支持者が増えるというのは、民主主義の中では古代ギリシアの昔から見られることで、そうした話でしょうね。民主党や、その後継の民進党も、随分と同じようなことをやっていました。国民の無知につけこんで不満や不安を煽る、あれはもう、デマゴーグの類でしたね。
私は企業のことを、よく「予備校の先生」と呼んでいます。というのも、予備校の先生が相手にするのは受験生で、その受験生が大学生になって社会人になったら縁が切れる。企業もそれと似たところがあって、「現役世代」、すなわち、働いている期間の人としかつき合いがないですから。
だから、社会保障費の負担を求められそうになると「勤労世代に負担をかけるのか!」と、あたかも正義の味方のようなことを経済界が言うんだけど、勤労世代の人たちはいずれは、引退して退職世代になるわけですし、退職期の医療・介護、年金が十分でなければ、なかなか辛いものがある。でも、勤労期の人としかつきあいのない企業は、それでも別に困らない。
だから、僕は次のように書いていたりもしてるんですよね。
「高齢者」や「退職世代」が負担するとか,「現役世代」・「勤労世代」が負担するという言葉を使っていると,医療保険制度や介護保険制度,そして,実は年金制度の意味を,勘違いして捉えられかねません――だから僕の本では,時々,普通の人だったら「高齢者」「退職世代」「現役世代」「勤労世代」と書くところを,「高齢期」「退職期」「現役期」「勤労期」と書いておくというイタズラをすることがあるかもしれませんので,あしからず……。権丈(2018)『ちょっと気になる医療と介護 増補版』96-97頁
みんなの介護 よくわかりました。ただ、今の若い世代の人たちが年をとったときに受け取る年金の給付水準を引き上げることは大きな課題ですよね?
権丈 正解!公的年金保険は、ご承知のように、2004年に大きな改革が行われて、当時からみれば将来の、昨年2017年9月の保険料を上限として固定し、今後は、その保険料で年金財政に入ってくる収入を給付していくということにしました。いわゆる、2004年以前の給付建て・段階保険料方式から、2004年以降は拠出建て・保険料固定方式になったわけです。
ここで大切なことは、2004年の改革時に、当時の給付水準を維持していくためには厚生年金で22.8%、国民年金で2万700円(2004年価格)と試算されていたということです。だけど、2004年改革では、厚生年金の固定保険料が18.3%、国民年金では1万6,900円(2004年価格)に決まったというか、その水準まで経済界をはじめとした人たちに値切られました。したがって、将来の給付水準はかなり下がることが運命づけられました。
さらに、2004年改革時には、デフレはそんなに続かないだろうという期待の下に、デフレの時には、今の年金受給者から将来の年金受給者への仕送りを意味するマクロ経済スライドはやらないというルールも設けられました。
しかし想定以上にデフレが続いたために、今の年金受給者から将来の年金受給者への仕送りが滞りました。公的年金は、5年に一度、「財政検証」という健康診断をやるわけですけど、2004年改革から5年経った2009年の健康診断の時に、マクロ経済スライドを効かせないままだと、総量が限られた年金資金を、2004年改正時に予定していた額よりも多くが今の年金受給者に分配され、逆に、将来の年金受給者に分配される額が予定よりも少なくなることが、しっかりと可視化されました。
そしてその影響は、基礎年金部分に強く表れることが、2009年の財政検証の後、公的年金の制度設計を考えている人たちにとって共通の問題意識として認識されるようになったわけです。
みんなの介護 なるほど…でも、”健康診断”だけでは当然、根本的な解決にはなりませんよね。
権丈 そこで、将来の給付水準の引き上げ、特に基礎年金を引き上げる3つの方法が、2013年8月の社会保障制度改革国民会議の報告書で提案されることになります。この提案が2013年12月のプログラム法で法制化され、この法律に基づいて、2014年6月に行われた財政検証では、次の3つのオプション試算が行われたんですね。
オプションⅠ/マクロ経済スライドの仕組みの見直し
オプションⅡ/被用者保険の更なる適用拡大
オプションⅢ/保険料拠出期間と受給開始年齢の選択制
オプションⅠに重点を置いた改革が2016年に行われた「平成28年年金改革」です。そして次の財政検証が行われる2019年に詳細が明らかにされることになるのでしょうが、そこで行われる前回のオプションのような試算に基づいて、オプションⅠを再考しながら、Ⅱ、Ⅲに焦点をあてた改革を進めるということが、2020年に行われるでしょう。
公的年金保険は財政検証をCheck、すなわちCとするPDCAサイクルで回されていますから、次の動きはおおよそ予測できます。そして、今の若い世代の人たちのためになされる次の年金改革を実現するためには、このあたりの正確な知識を国民が広く共有することが大切だと思っています。
世の中まんざら捨てたもんじゃない、「話せばわかる」世界だと思うよ
みんなの介護 オプションⅠで書かれている「マクロ経済スライド」とは、現役被保険者の減少や平均余命の伸びを給付水準の算定に反映させる仕組みのことですね?
権丈 そういう丸暗記型の理解の仕方も悪くはないけど(笑)、今の年金受給者が、将来の年金受給者である彼らの孫、ひ孫に年金資金をできる限り多く残しておくために、被保険者の減少率や平均余命の伸び率という客観的な人口指標を使って制度が設計されたと考えた方がわかりやすいでしょうかね。先ほども言ったように、マクロ経済スライドというのは、今の年金受給者から将来の年金受給者へ、年金のお金を「仕送り」するものですね。その毎年の仕送り額を、客観的な人口指標を用いて算出していく。
みんなの介護 今の高齢者が我慢をする仕組みですから、これに抵抗する人がいるはずですよね?
権丈 うん。だけど、これだけ筋の通った制度に、年金受給者達が、本当にただ反対と言うのかなぁというのはありますね。人間、特に日本人って、そんなに利己的にぎすぎすしてないんじゃないかと思うんですよね。2016年に僕のゼミの3年生たちが、退職者団体の人たちに年金についてのインタビューに行ったんですよ。
みんなの介護 将来、年金を受けとることになる若い学生と、現在、年金を受けとっている退職者団体の高齢者を対面させたんですね。どんなことが起こりましたか?
権丈 学生たちは「出ていけ!」と怒鳴られました…というのは冗談で(笑)、退職者団体の人たちは、こういう機会を持つことができて本当に良かったという感じでした。学生たちは、連合や政治家、財務省、厚生労働省の官僚にもインタビューに行ったんだけど、学生たちがそうした人たちにインタビューに出かける前に、退職者団体の人たちが、学生に年金の授業を行ってくれて、おかげで、3年生たちの年金の知識は一気に僕並みになりました(笑)。
退職者団体の人たちからみれば、学生って、孫のようにかわいいんだと思いますよ。退職者団体のおじさんたちは、学生が研究成果を報告したユース年金学会にも来てくれていたし、その後の懇親会でも、学生たちと一緒に楽しく話をされていました。
みんなの介護 なんと…
権丈 その翌年の2017年7月には、年金受給者団体としては国内2番目の規模を誇る日本退職者連合が、政府に対する年金制度の要望内容を変更して、それまで掲げていた「名目下限堅持」の要望――要するに、デフレの時にはマクロ経済スライドの発動に反対するという要望を、外されました。
その声明には、「孫、ひ孫」という言葉がありました。こんな感じです――「現在の年金水準を守り通すことが、将来世代への制度の維持をさらに危うくしています。退職者連合は、年金受給者団体として、より良い給付を確保するために全力を尽くすことは当然ですが、同時に将来世代(孫、ひ孫世代)にもしっかりとした制度を引き継いでいかなければなりません。その責任を、現在の政府・与党に押しつけるだけでは問題解決にはなりません」。
世の中、そんなに捨てたもんじゃないと思うし、学生たちがそれをわかってくれたことは大きかったかな(参照:彼らが作った年金動画)。本当は、僕らが生きているこの社会は、「話せばわかる」という世の中だと思うんです。
みんなの介護 人間って、ハートウォーミングなんですね…。社会の中で大きな力を持つ”団体の役割”はどうあるべきなのでしょう。
権丈 経団連や経済同友会という経済団体も、個々の企業の要望である短期的な利潤極大化を求める市場の声に拡声器をつけるだけではなく、大所高所、長期的な観点から社会全体のことをも視野に入れることができる団体であるからこそ存在意義があるんだと思ってます。
医師会や病院会などの団体もそう、先に話した退職者団体もそうで、構成員の一人ひとり、個々にとって好都合であるとしても全体を合計すると不都合が生じるという「合成の誤謬」という問題を調整・解決する機関として、これらの団体は存在意義を持っているんだろうと思うんです。
だから僕らは、相手が誰であっても、その人たちが社会全体の持続可能性を考えている限り、話せばわかってもらえるような、筋の通った制度を考えていくことが大切なんだと思うんだよね。
それでも時代は良い方向に向けて少しずつ動いている
みんなの介護 オプションⅡの「被用者保険のさらなる適用拡大」は、第1号被保険者の4割を占める被用者に厚生年金を適用することですね。
権丈 おっしゃる通りで、被用者の多くは基本、生産手段を所有していない賃金労働者、まあ、労働運動とかをしている人が好きな呼び方をすれば「プロレタリアート」だから、引退後の生活では公的年金が大きなウエイトを占めることになります。その人たちに、基礎年金という「1階部分の上に2階部分として報酬比例部分も乗った年金」をなんとか保障したいわけです。厚生年金に入っている人には、国民年金という定額の基礎年金と、厚生年金という報酬比例の年金が給付されます。
一方、ご承知のように、保険料の支払いは賃金に比例して負担するのみですね。その結果、厚生年金の被保険者が受け取る年金は、現役時代の所得が高いほど多くはなるんですけど、高齢期に受け取る年金給付を現役世代の平均所得で割った比率(これを所得代替率と呼ぶわけですが)が、現役時代の所得が低くなるほど高くなるんですね。
つまりは、厚生年金というのは、所得が高い人から低い人に再分配しているわけです。そうした制度から、経済的に弱い立場の人たちが外されているというのは、あってはならないことですね。
みんなの介護 2014年の財政検証のオプションⅡでは、適用拡大を図れば、基礎年金の給付水準も上がることが示されていましたよね。
権丈 そうなんですよ。2014年の財政検証の「オプションⅡ/被用者保険のさらなる適用拡大」では、適用拡大を進めると、基礎年金の給付水準が高くなることも示されました。その理由は、こういうこと。
国民年金と厚生年金は、それぞれ独立に積立金を持っています。その理由は、国民年金にしか入っていない第1号被保険者と、厚生年金の被保険者の保険料を混ぜることができない実務上の理由があるからで、それと同じ理由のために、公的年金の一元化ができていないわけですね。
みんなの介護 そのあたりは、先生の『ちょっと気になる社会保障』の知識補給「日本の年金の負担と給付の構造」にありましたよね。
権丈 ちゃんと予習してきてますねぇ、素晴らしい、おかげで僕の方も調子も上がってきますね。
いま、適用拡大が進むと、第1号被保険者の数が少なくなる。そうなると第1号被保険者1人当たりの積立金の額が大きくなる。
みんなの介護 なるほど。そうすると、基礎年金の額が多くなりますね。
権丈 そうなんだけど、それだけじゃない。基礎年金には、国庫負担が2分の1入っています。したがって、基礎年金の保険料部分が大きくなると、それとパラレルに、国庫負担も増えることになる。
みんなの介護 それもわかります。
権丈 再びそれだけではなく、公的年金というのは、第1号被保険者の基礎年金の給付額がまず算定されて、その額が第2号・第3号にも適用され、それから報酬比例部分が算定される仕組みになっています。
みんなの介護 ということは、適用拡大が行われると、年金受給者全員が受給する基礎年金の給付水準があがって、そのために報酬比例で分ける総額が減る。
権丈 そのとおり。先ほど、適用拡大が進むと、厚生年金が持つ所得再分配機能の恩恵を受ける人が増えると話しましたけど、その上に、適用拡大が進むと、報酬比例部分から基礎年金の方へと年金資金の移転も起こるんですよ。
2014年の財政検証の中で行われた「オプションⅠ/マクロ経済スライドの仕組みの見直し」は、いまの年金受給者から将来の年金受給者へという「世代間の再分配」の話でした。それに対して、「オプションⅡ/被用者保険の適用拡大」は、高所得者から低所得者への「世代内の再分配」の話になる。わかるかな?
みんなの介護 わかります。オプションⅠは世代間、オプションⅡは世代内、覚えやすいです。
権丈 とにかく、年金政策の課題は、限られた年金資金をいかにして必要度の高い人たちに分配していくかにあるわけで、適用拡大というのは、相対的に所得の低い人たちに報酬比例という2階部分を準備すると同時に、基礎年金全般を上げていくという感じで、一粒で2度美味しい政策なんですよ。
みんなの介護 アーモンドグリコ…古すぎます(笑)。でも、所得の高い人の厚生年金が低くなるということは、前回おっしゃられていた、筋の通った政策という側面があるために、高所得者も反対しづらいと思うのですけど、基礎年金が高くなるときは国庫負担が増えますよね。それに関して、財務省とかはクレームをつけてこないのでしょうか。
権丈 質問、ありがとう、そこは聞いてほしかったところです。そこはね、こういうことです。厚生年金の適用が拡大する際には、同時に、国民健康保険から組合健保や協会けんぽという被用者医療保険に、被保険者が移動することにもなります。そして国民健康保険は、半分近くが国庫負担でまかなわれているわけですね。だから、厚生年金への適用拡大が進めば、国民健康保険の国庫負担を節約することができるようになり、財務省からみた国庫負担は”行って帰って”で相殺されることになる。だから財務省も文句を言わない。
みんなの介護 なるほど。「適用拡大こそが年金改革の王道」と先生が言われ続けてきた理由がわかります。
権丈 うん、僕が昔から適用拡大が最も重要な年金改革と言っているのは、この改革が将来の貧困者を減らすのに極めて有効であるというだけでなく、これを僕らが声を大にして言わないと、経済的弱者である当人達は、毎日の生活に精一杯で、とてもじゃないけど政治活動なんかできるわけがない「政治的弱者」だからでもあります。
幸い僕らは、こういうインタビューのような情報発信を通して人に伝えて説得する機会が与えられているから、投票権は1票しか持っていないけど、民主主義的な政策決定の中での投票者としてのウェイトは1以上にもなります。そんな僕らが、政治的弱者の分まで発言していかないと、政策形成過程ではなかなかバランスがとれなくなります。
みんなの介護 でもこの適用拡大は、長く言われながらも挫折し続けてきた問題なんですよね。
権丈 イエス。でも、僕は長くこの問題の展開を見てきたわけだけど、制度改革を行うタイミング的に「いまだっ!」というときに、メディアもあんまり報道してくれなかったし、町行く普通の人たちは、まったくもって何も知らなかった様子でしたよ。そんなんじゃ政治家にとって、いくらそれが正しい政策であっても、それを押し通していく”うま味”はない。やっぱり政治家にとって、この正しい政策を実行すれば、なんか現世御利益がありそうだなという流れを作らないとですね。
みんなの介護 制度改革は、次の財政検証が行われる2019年以降ですね。
権丈 みんなの年金…いや、介護さんは、よくわかっていますね(笑)。時間は2年ほどある。それまでに何ができるか、いかに正確な情報を世の中に伝えることができるかですね。
昨年12月の第2回ユース年金学会で、僕のゼミの3年生たちは「短時間労働者に対する厚生年金保険の適用拡大――議論への参加とパブリック・リレーションズのあり方」の報告を行っていました。彼らはこの問題をPRの問題だと考えているようです。彼らがユース年金学会で報告した様子を僕がまとめた文章(勿凝学問397)がありますので、この場で紹介させてください。
この文章の中に学生が作ったスライドがありますので、是非ダウンロードしてみてください。先ほど話した「適用拡大が持つ所得再分配効果」や「適用拡大における基礎年金と国民健康保険との間の国庫負担の相殺」などはアニメーションを使った方がはるかにわかりやすいです。学生たちが大変な力作を作っています。また、10分程度の動画も準備中です。
これから2年間かけて、適用拡大の意義をどれだけ多くの人に知ってもらえるか。学生のスライドの中に「やるべき改革(商品)はすでに決まっている。あとはそれをどう実行する(売る)か」というのがあり、年金改革ってマーケティングの話だよねと、彼らはいつも話しています。
みんなの介護 労働市場の逼迫(ひっぱく)も追い風ですよね。社会保険の適用もしない”ブラック企業”のレッテルを貼られるのは、いまの時代、企業にとってきついですし。
権丈 そこそこ。かつて適用拡大を進めようとして、対象となるスーパーマーケットや外食産業などの断固たる抵抗にあった時というのは、景気の下降局面で労働力がだぶついていた時期でした。
ところがいまはそうではない。団塊の世代の影響もあって労働力人口が急減したこともあるのですが、有効求人倍率は軽く1を超えていて、企業側も、自分の会社は働く人を大切にしている企業ですよとアピールしなければならない。社会保険の適用もしない企業というのはブラック企業そのものですから、企業が人手不足を解消するために、社会保険適用を会社の魅力としてアピールする動きが出てきていますね。
中でも、以前は猛烈に適用拡大に反対していたスーパーマーケット業界などからも、「適用拡大をもっと徹底すべきだ」との意見が出るようになってきたようです。労働市場が逼迫したために、市場の力に押されて適用拡大を進めた彼らは「ウチの業界はちゃんと社会保険を適用しているんだから、他所も適用しないと不公平だ、ダンピングだ」と、実に素晴らしいことを言ってくれています。
かつて二重労働市場という問題が言われていたけど、この問題を高度経済成長が解決したように、万人による説得よりも、市場の力というのは圧倒的に強力です(笑)。まあ、歴史を大きく動かしていくのは、本当のところは「相対価格の変化・市場の力」なんですよね。
被保険者期間を先行して45年にし、問題となる財源は増税を待つべき
みんなの介護 そうですね。では次に、オプションⅢの「保険料拠出期間と受給開始年齢の選択制」についても説明してください。
権丈 「受給開始年齢の選択制」については前回すでに、日本の公的年金が60歳から70歳までの「自由選択制」になっていることを述べました。「年金受給開始年齢自由選択制」であること、そして「年金は保険」であることの理解が進み、その上で、公的年金保険の賢い利用が進めば、長生きがリスクではない社会に一歩近づくことができると思います。
みんなの介護 『ちょっと気になる社会保障』の知識補給「保険としての年金の賢い活用法」ですね。
権丈 すごいすごい(笑)。保険料拠出期間については、被保険者期間を現在の40年(20~60歳)から45年(20~65歳)に延長することができれば、45/40と1.124倍、1割強も給付水準を改善することができます。2004年改革時の厚労省の原案は、厚生年金の保険料が固定される上限は20%だったんです。
でも前編で話したように、18.3%に値切られたため、18.3/20と0.915、1割程度原案よりも将来の給付水準が低くなりました。被保険者期間を40年から45年にすると、給付水準を2004年の厚労省原案の水準に戻すことができます。
みんなが長く働くことができるような社会を作るために、いまはまず、65歳までの定年延長を図ろうとしています。65歳までの民間の再雇用や公務員の再任用では、人材活用がうまくいかなかったいという経験に基づいて、定年延長をしっかりと実現することを目標として準備が進められています。
みんなの介護 そのためにはどのような方法が考えられますか?
権丈 日本って、労働市場の慣行を大きく変更するときは公務の方を先行させて、民間に「仕方ないな」と社内を説得してもらって実現していくという方法を採らざるを得ないところがありますので、今回も、そうした方法を採るのではないですかね。
でも、そうした”週休二日制を普及させた頃に採った方法”を今度もやろうとすると、「公務員を優遇するのか!」という人が出てくるのがいまの時代。だけど、定年を延長するというのは、給与体系、人事制度の全面的な見直しが必要で、これってえらい大変なことなんですよ。そうした汗かきを公務がまずやる。そして民間は「もう既定の路線だから仕方がないんですよ」と言って社内を説得する。
とにかく、定年延長を図り、引退年齢を引き上げなければなりませんから、雑音を雑音として受けとめられるリテラシーが国民に求められる重要な時期にさしかかっていると思います。そして、そうした動きと並行して、年金の被保険者期間も40年から45年にしなければならない。
といっても最大の難点は、基礎年金に入っている国庫負担です。いま、2018年度予算で、国庫が11兆6,000億円入っています。40年から45年に被保険者期間を延長すると、11.6×(40/45-1)=1.45兆円の追加財源が必要になる。
みんなの介護 とんでもない額ですね。
権丈 2013年の社会保障制度改革国民会議が開かれていた頃は、消費税が予定通りに2015年10月に10%になった場合の、次の社会保障機能強化の目玉として「被保険者期間の延長」を掲げ、そのために次の増税を進めるというシナリオを描くことはあり得たと思います。
だけどその後2度の増税先送りで、すみやかなる次の増税への期待というものは、永田町・霞ヶ関界隈では消えた感がありますね。だから、追加財源が1.45兆円程必要となる40年から45年への被保険者期間の延長は、国庫負担がつかない妥協の策となる可能性が大きい。しかし、それでも先行して実現して、将来の増税を待つという姿勢で進めるべきでしょう。
そして、厚生年金の被保険者が45年の納付を行うとなると、基礎年金への財政拠出を通じて国民年金の財政が楽になり、結果、基礎年金の給付水準が上がるという側面もあるんですけど、そのあたりは、今日は省略。
いずれにしてもこれらの年金改革は、いまの若い人たちが将来、高齢者になっても貧困に陥ることを防ぐために行われるもので、刀折れ矢尽きるまで前向きに進めなければなりません。そのためには、うちのゼミの学生たちではないですけど、PRが大切です。となれば、「年金局の明るい広告代理店化大作戦(笑)」も進めてもらいたいし、「みんなの介護」のこのインタビューを、本当にみんなが読んでくれることも期待したくなりますね。
みんなの介護 任せてください(笑)。
権丈 そしてできれば、日経のやさしい経済学に書いた「公的年金保険の誤解を解く」も。ここには、積立方式にすれば少子高齢化の影響を受けないなんて大ウソで、賦課方式だけでなく積立方式も少子高齢化の影響を受けるという話や、年金積立金の運用の評価でつまずきやすいポイントなどの話が書いてあります。
介護保険の負担年齢は、制度設計時は「20歳から」を視野に入れていた
みんなの介護 これまで、年金改革についてお話をうかがってきましたが、制度の持続可能性が危ぶまれている現在の介護保険について、どんな改革が必要だと思いますか?
権丈 財源調達を考えない社会保障論を、僕はこれまで「空想的社会保障論」と呼んできました。空想的介護保険論にならないよう介護保険も、まず財源を考える必要があります。
かつて高齢者福祉制度と医療保険の中で対応されていた高齢者への介護が、介護保険として独立したのは2000年のことです。
介護保険発足時は、いずれは介護保険の被保険者を20歳以上として、若年障害者と高齢障害者の両方を対象とした一つの社会保険にするということが想定されていました。若年障害者と高齢障害者が別々の制度というのは、日本くらいしかないですし。
みんなの介護 えっ、そうなんですか。現在、介護保険の被保険者は40歳からですが、それを疑う人は誰もいないと思います。
権丈 2000 年に施行された介護保険法附則第2条には,次の規定が設けられていたんです.
附則第2条 介護保険制度については,…被保険者及び保険給付を 受けられる者の範囲,…を含め,この法律の施行後五年を目途として その全般に関して検討が加えられ,その結果に基づき,必要な見直し等 の措置が講ぜられるべきものとする.
ここで考えられていたのは、介護保険の施行5年を目途として、介護保険制度の被保険者範囲を見直すことでした。もちろんその際には、介護保険創設当初から考えられていたように、若年障害者には高齢障害者とは異なる固有のニーズがあるために、そうした若年障害者ニーズを介護保険の2階におきながらも、20 歳以上の人たちを、普遍化された介護保険の被保険者とすることは意識されていました。しかしながら、いろいろとありまして、それは現在に至るまで実現していません。
みんなの介護 20歳というと、大学に進学していればまだ社会人にもなっていない時期です。そんな大学生を新卒として採用する企業はとても嫌がるでしょうね。
権丈 某焼き肉屋のように「よろこんで!」というわけにはいかないでしょうね。でも、日本人としてディーセントな生活を保障することのできる付加価値、つまり、所得を生むことができないビジネスというのが、この日本にあっていいと思いますか?昔々は児童労働を使っていたけど、それは、はるか前に禁止されました。
社会というのは、児童労働の禁止をはじめとして、ある条件を満たすことのできる企業、社会的に定めた一定水準以上の労務コストを負担することができる企業にしか、その社会での存在意義を認めないという判断をしてきたんです。そしていまは、日本で働く人たちの生涯の生活を保障する付加価値を生むことができる企業の営業を認めている。もしそれができていないのであれば、できるように時間をかけてでも業態を変えてもらう。そんな感じでしょうか。
みんなの介護 なるほど。ところで、年金と医療介護の類似性って、先生おっしゃってますよね。
権丈 現在、日本人の65歳以上の人口は総人口の25%を占めているのですが、介護給付費の中で、その人たちが使っている割合は98%です(医療費は58%)。つまり、介護(および医療)の費用支出は高齢期に集中しているわけです。これって、年金と基本的には同じですよね。年金の場合は、20歳から保険料を払うことによって、高齢期に必要となる年金額の負担を平準化(smoothing)しているわけですけど、介護の場合は、40歳以上の人たちからのみ財源を調達している。だから、当然ながら無理が出ます。
介護の場合は、保険料で負担すべき総額を被保険者総数で頭割りして、40歳から65歳以下の第2号被保険者と、65歳以上の第1号被保険者に負担を割り振るわけです。もし、被保険者を40歳から20歳にすることができれば、今の40歳以上の人たちの負担をかなり平準化できて、今後の引上げ余地が生まれてきます。
だから当初の構想通り、20歳以上に引き下げることはやらないと、介護保険は今のようにただひたすら撤退戦を繰り返すばかりでしょう。
みんなの介護 でも、どうして実現できなかったんですか?
権丈 これまで、若年障害者と高齢障害者を一つの制度にする議論は何度か行われてきましたが、その度に見送られてきました。
極めつけに、野党時代に「障害者自立支援法を廃案にする」という公約を掲げていた民主党政権が誕生し、当時の長妻厚労大臣は、自立支援法を違憲とする裁判を起こしていた原告団・弁護団の訴えを認め、2010年1月に基本合意文書を取り交わして和解してしまった。
そのため、介護保険の普遍化は公に議論することがタブー視されるようになりました。だって、会社の社長がその方針は採りませんって宣言したようなものですから、霞ヶ関からはなかなか口に出せません。でも、この負の歴史はこれから克服していかなければなりません。
民主党は、年金に関しては実は何もできなかったんですけど、2つほど大きな禍根を残しました。ひとつは、2010年1月に大臣と原告団とが和解し、介護保険の「被保険者範囲及び、給付を受けられる者の範囲」の見直しをタブーとしたこと。いまひとつは、これは政権獲得前にさかのぼりますが、2008年4月の高齢者医療制度の施行後、4月末に山口で行われた衆院補欠選挙もあって、高齢者医療制度を最大限に政治利用して、この国で終末期の医療のあり方について議論する芽、それはQOD(Quality of Death)――死に向かう医療の質を高めるための議論の芽を摘んだことですね。後者のQODを高めるための議論に関しては、いまようやく止まった時計が動き始めたところですけど、前者の介護保険の見直しに関してはまったくという状況です。
総理の珍論に対抗した「波平さん理論」
みんなの介護 日本の社会保障が、政治の力学によって歪められてしまうこともあるんですね?
権丈 そんなの、数えきれないですよ。社会保障が政治力学で歪められていない側面を言う方が難しいくらい(笑)。当時は民主党にびったり寄り添っていた政治学者や社会保障学者などもいて、それはそれは山ほどおもしろい話があるわけですけど、まあ、民主主義というのは忘れっぽいから、もうみんなすっかり忘れていますけどね。当時の首相は施政方針演説でこんなことも言ってました。
「多くの現役世代で1人の高齢者を支えていた『胴上げ型』の人口構成は、今や3人で1人を支える『騎馬戦型』となり、いずれ1人が1人を支える『肩車型』に確実に変化していきます。今のままでは、将来の世代はその負担に耐えられません」
だいたいもって、こんな話を聞かされたら、誰だって日本はもう終わったと思うんじゃないですかね。また、困ったことに、高校の「現代社会」の教科書などにもそうした話がご丁寧に図入りで解説されていたりする。
みんなの介護 教科書にも載っていたりすれば、誰もが疑いを持ちようがないですよね。
権丈 でもね、それはまったくの誤解で、扶養負担を示す指標は「65歳以上の高齢者に対する65歳未満人口の比率」でみるのではなく、「就業者と非就業者の比率」でみるべきなんですよ。そしてその値は、過去何十年間もほぼ安定していて、年金の財政検証で前提とされている「女性や高齢者の就業率」を組み込むと、将来もあまり変わらないんです。その図は昨年の厚生労働白書でも紹介されていましたね。
みんなの介護 教科書にウソが書いてあるってことですか?
権丈 教科書って、けっこうそうだったりします(笑)。2011年10月に「社会保障の教育推進に関する検討会」というのが立ち上げられて、僕はそこの座長をやったんだけど、まず事務局に取り組んでもらったことは高校の教科書のチェック。
するとビックリするくらいに、社会保障に関しておかしなことが書いてあった。僕の『ちょっと気になる社会保障』で、教科書から引用して間違いを指摘しているのは、そうした作業をやったことの反映です。武士の情けで、教科書会社の名前は出していませんけどね。どうも教科書で社会保障を担当している人たちは、新書版なんかを読んで書いているようで、トンデモ論が書いてある新書が出て数年経つと、トンデモ論が教科書に出てきたりする。
ところで、2012年の総理の施政方針演説に話を戻せば、やはり総理が、肩車型になるのは大変なことであって、そのために増税しなければならなくなったというので大騒ぎになってきました。そこで僕が、彼ら政治家に対抗するために(笑)考えたのが、「波平さんは、いくつだと思う?」という話でした。1946年、福岡の『夕刊フクニチ』で漫画「サザエさん」の連載がはじまった当時のサラリーマンは55歳定年制で、波平さんは定年1年前の54歳という設定だったんですね。
この頃の55歳男性の平均余命は15.97年(1947年「第8回生命表」)で、2010年の65歳の平均余命も18.74年でした。だから今の時代に65 歳定年が実現できて、あと2、3年社会参加できるようになれば、その後の余生の長さは、サザエさんが始まった戦後すぐの日本とそれほど変わっていないとも言えます。
みんなの介護 波平さんの年齢については、いろいろなメディアに取り上げられて話題になりましたね。
権丈 この話は新聞の社説などでも紹介されたからかなり話題になって、国会の予算委員会などでも「総理、波平さんはいくか、ご存知ですか?」なんて質問が飛ぶようになりました(笑)。2012年当時は”波平さんはいくつだと思う?”に続けて、”では最近3度目の結婚をした郷ひろみさんは?””じゃあ中島みゆきさんは?”と尋ねては、波平さんは54歳、郷ひろみさんは56歳、中島みゆきさんは60歳なんだよなあと言って遊んでいました。胴上げ、騎馬戦、肩車なんて、なんか暗いよね。
国民すべてが「正確な情報」を得るのはムリ
みんなの介護 最近、ネット世論が入り乱れ、既存のメディアに対する不信感が叫ばれています。そのような状況の中、私たちは何を信じればいいのでしょう?
権丈 わかりません(笑)。学生には「僕の言うこともあんまり信用しない方が良いよ」と言うくらいしかアドバイスのしようがない。そこで彼らが僕を信用しなくなるというのも、僕の言うことを信じたことになるわけだから、あんまり良いアドバイスではないですかね(笑)。
2004年に、「(現行制度は)間違いなく破綻して、5年以内にまた替えなければならない」と言っていた政治家を、過去のことなどすっかり忘れて、いや知らないままにか、今、熱狂的に支持する人たちが出てくるわけだから、政治家の世界はモラルハザードの世界であり続けるでしょう。世論が牽制力になりそうもない。研究者に対してもそうだから、モラルハザード蔓延の無責任な世界が続く。でも、年金報道に関していえば、2004年の頃と比べるとメディアは捨てたもんじゃないと思わされることもありますよ。
2016年、オプションⅠの「マクロ経済スライドの見直し」、つまり現受給者から将来世代への仕送りの話が国会で議論されていた頃、民進党(旧・民主党)の国会対策委員長は、「年金カット法案」と呼ぶネガティブ・キャンペーンを展開しました。このときメディアは、民進党のキャンペーンに総攻撃をしかけていました。僕は、2015年に出した本に、次のように書いていたんですよね。
彼ら野党の政治家がわかっていないのは、9年前の2004年頃と比べてメディアが賢くなっているということですね。9年以上も年金のことを眺めてきた記者たちは、野党の政治家たちよりも圧倒的に年金まわりのことを理解しています。この人たちの存在はこの国の立派な財産だと思います。(出所:権丈(2015)『年金、民主主義、経済学』
なのに、年金を政争の具に使おうとするから、メディアから総攻撃される。そういう牽制力がないと、民主主義は機能しない。きわめて希なことが、2016年の年金改革の時に起こっていたわけです。そのあたりは、『ちょっと気になる社会保障 増補版』知識補給「年金どじょうは何匹いるのかな?」にあります。年金どじょう…何を言いたいのかわかりますよね?
みんなの介護 そうそうウマい話が転がっているものか?と。
権丈 付け加えますと、「年金カット法案」と言って2016年改革を批判していたのは民進党の衆議院だけで、参議院では「これを我が党は、年金カット法案、衆議院で言っていたわけですが、ご案内のように参議院は、私含めて5人おりますが、年金カット法案と一言も言っていません」(足立信也参議院議員 厚生労働委員会2016年12月9日)と発言されていたりもする。
実は、2004年7月の参議院選挙の時以来、選挙の度に野党が争点に掲げていた年金の抜本改革は、2017年10月の総選挙で、はじめて旗が降ろされていました。当時の民進党の前代表が2017年10月に、「生活の支えとなる年金カット法案を強行裁決した」と新潟の方で話したり、北海道の方で希望の党の新人が「年金カット法案」と言っていたという報道はありましたけど、国民の耳には届いていなかったと思います。そういう意味で去年の総選挙を、僕は、2004年以来はじめて年金が政争の具とされなかった選挙として記憶しています。
みんなの介護 良きにつけ悪しきにつけ、メディアが取り上げることもなくなってしまったわけですね。
権丈 前半で話した2014年財政検証から2016年年金改革までが動いていた2016年の春。当時、残念ながら、オプション試算という言葉さえも世の中であまり取り扱われなくなっていたので、僕は「平成26年財政検証の歴史的文脈の中での意味は大方の年金論者には理解されず、いつの間にかオプション試算という名の政策提言に関する議論は世間では聞かれなくなってしまった。厚労省は、そうした誰も味方がいない孤軍奮闘の環境の中で、なんとかキャリーオーバー方式をメインとする年金改革法案の提出にこぎ着けたというところであろうか」(「将来世代のために今やるべき公的年金の改革」21頁)と書いています。
当時、永田町、霞が関の動きを眺めながら、もし、年金研究者をはじめとした国民の多くが、やらなければならない年金改革の意義をしっかりと理解していたら、厚労省は孤軍とはならず、将来の給付水準を高めるために、もっと実効性のある改革を進めることができたのに、と思っていたんですね。
でも考えてみると、かつてトンデモ論を言っていた年金論者にとっては「平成26年財政検証の歴史的分脈の中での意味」など、受け入れたくもなく触れられたくもない苦い過去なんだと思います、人間ですからね。そうしたことがあって、僕はそれまで関わりたくなかった年金学会に入ったりして、年金を積極的に論じる人間になってしまった。
「あれだけ年金の世界を嫌っていたのにどうしたの?」と聞かれると、「雷に打たれたからだ」と答えていますけど。年金学会に入るときには、入会の理由をA4で1枚書かなければならないそうで、僕は、「仕事でときどき年金に関わるから」と1行書いただけだったのですが、入会を認めてくれました。その数ヵ月後に幹事(役員)に選ばれてるから、入会を待っている人も結構いてくれたみたいで(笑)。
みんなの介護 (笑)。ところで、どうして年金の世界が嫌いだったんですか?
権丈 だって、年金の世界の混乱って、ずっと人災なんです。バカバカしくってですね。官邸のホームページに、過去にどんなトンデモ論があったのかを紹介した文章がアップされていますので、ご参照下さい(第20回社会保障制度改革国民会議で権丈委員追加提出資料をクリック)。
みんなの介護 なるほど、そういうことですか。年金に留まらず、国民一人ひとりが社会保障について判断をするには、自ら勉強して、正しい知識を得ることが重要なんですね。
権丈 理想はそうだけど、ムリですよね(笑)。僕がもう何十年と言い続けていることに、「投票者の合理的無知」というのがあります。どんな人にとっても、1日は24時間と有限です。その24時間を自由に使って良いですよというときに、公共政策を勉強しますか?
みんなの介護 よほど興味がある人でないと無理、でしょうね。
権丈 仮に時間やお金というコストを費やして公共政策に詳しくなったとしても、選挙の時には1票しか投票権がない。でも投票者はみんな、公共政策の勉強に使うコストを、リターンが確実に見込めることに使うこともできるわけです。だったら、合理的に判断すれば、普通は、公共政策を勉強しないで、そのコストを他に使うのではないでしょうか。そうなると、投票者が合理的に選択をすると公共政策に無知になる。
投票者の合理的無知が常態となれば、民主主義社会というのは、実は、うまくいく方が珍しいくらいに、かなり危ない基盤の上に立っているのが常態だということになる。さらには、この民主主義の中に組織化された団体があって、しっかりと情報を収集、分析して、合理的無知な状態にある未組織有権者に情報発信したり、政治家に圧力をかけたり、選挙協力をしていたりもする。そして政治家は、自らの失業を恐れて、正しさというよりも得票率を極大化できるような方になびきがちなのは自然の理。こういう状態の根幹は、投票者が合理的無知な常態にあり正確な情報を持っていない側面が強いからで、そうしたことがわかっていないと、地に足のついた公共政策論を考えることができません。
だから僕の社会保障の授業では、僕が授業を始めた20年ほど前から「民主主義の情報問題」という話をしていますし、投票者の合理的無知は、社会保障論のテストで毎年でてくるキーワードでもあります(勿凝学問387の「民主主義と情報、および持続可能性への視界」参照)。
みんなの介護 「合理的無知」の状態にある国民が、政治家や利益集団が自分の都合の良いように流すフェイクな情報に惑わされないためには、どうしたらいいのでしょう?
権丈 あんまり悲観する必要もないわけで、「不正確な情報に基づく不健全な世論」を少しでも「正確な情報に基づく健全な世論」に変えていくために、「明日に向かって、打つべし、打つべし」で情報発信をして、正確な情報へのアクセスを限りなくゼロ・コストにする。できれば教育に組み込むことでマイナス・コストにすることですね。とにかく今までは、正確な情報にアクセスしようにもコストが高かった。対して、珍論、暴論、トンデモ論は、直観的で難易度低いし、メディアにとっても国民にとってもアクセス・コストが低かった。
みんなの介護 打つべし、打つべし、あしたのジョーですね。
権丈 うん、明るくやることが大切だね(笑)。
先ほど話したように、去年12月のユース年金学会の時に、ゼミの3年生が「短時間労働者に対する厚生年金保険の適用拡大」を報告したんですが、僕は彼らに、「もし、日本中の有権者が君らと同じ情報を持っていたとすると、どうなると思う」と尋ねると、「未組織の有権者の数は、組織化された団体に属する有権者よりも圧倒的に多いわけですから、きっと世の中はいい方向に進むと思う」と。ならば、明るく、どんどんやって大いに遊ぼうということになりますよね。それが、彼らが作った年金動画であり、文章(勿凝学問397)なわけです。
民主導で発展してきた日本の医療体制の特殊性
みんなの介護 医療制度の改革についても、財源の調達をどうするのかという問題があると思いますが、どのようにお考えですか?
権丈 医療の場合は、財源の問題もあるのですけど、仮に所与の財源の下であっても、やらなければならないことがある。僕が2013年4月に社会保障制度改革国民会議で報告をした際のテーマは、「国民の医療介護ニーズに見合った提供体制改革への道筋――医療は競争よりも協調を」(報告スライド)でした。そして今進められている改革は、国民の医療介護ニーズに見合った提供体制に向けてのものですね、「医療は競争よりも協調を」のスローガンの下に。
みんなの介護 医療介護の改革は、社会保障国民会議の報告書に基づいていて、その報告書の中の「医療・介護分野の改革」の部分を、先生が起草されたんですよね。
権丈 いや、またよく勉強してこられましたね。年金ばかり質問されるから、このままで終わるのかとハラハラしてました(笑)。
みんなの介護 「自己負担率を上げよ」とかジェネリックの利用促進なんかの話ならばよくわかるんですけど、提供体制の改革というのは、いきなりわからなくなるんです。もう後編になってしまいましたから、手短にお願いできますか。
権丈 了解。話をナイチンゲールが『看護覚書』を著した1860年にさかのぼりましょう。この本には、「病気とは回復の過程である」と書いてあります。当時、病気というのは基本的に治るものだと考えられていて、看護教育も医師の養成も、そして医療を提供する病院制度も、急性期の患者を治すために合目的的に組織化されていきました。
みんなの介護 今でも病院は、「病気を治すための機関」だと思っている人は多いと思いますが…。
権丈 それ自体、おかしくはないんですけどね。ただ。人類というのは随分と頑張りまして、治すことのできる病気はある程度克服してきたんですね。そうすると、急性期向けに整備された病院の中に、複数の慢性疾患を抱えた高齢者が多くいるようになりました。これがニーズと提供体制のミスマッチの根本です。
死は敗北だと教えられてきた医師が急性期病院で複数の慢性疾病を抱えた高齢者に誠心誠意向き合うと、残念ながら誰も嬉しくないようなことが起こる。こうした問題は、20世紀半ばには多くの先進国で意識されるようになって、多くの国は改善を図っていきました。ところが日本は、なかなかうまくいかなかった。なぜだと思います?
みんなの介護 そこ、予習してきています。国民会議の報告書には、「日本の医療政策の難しさは、これが西欧や北欧のように国立や自治体立の病院等(公的所有)が中心であるのとは異なり、医師が医療法人を設立し、病院等を民間資本で経営するという形(私的所有)で整備されてきた歴史的経緯から生まれている」とありますよね。
権丈 そのあたり、僕が書いているから読み上げるけど、「公的セクターが相手であれば、政府が強制力をもって改革ができ、現に欧州のいくつかの国では医療ニーズの変化に伴う改革をそうして実現してきた。医療提供体制について、実のところ日本ほど規制緩和された市場依存型の先進国はなく、日本の場合、国や自治体などの公立の医療施設は全体のわずか14%、病床で22%しかない。ゆえに他国のように病院などが公的所有であれば体系的にできることが、日本ではなかなかできなかったのである」なんですよ。
みんなの介護 民主導で整備した日本の医療システムは、世界的には珍しいケースなんですね。
権丈 ヨーロッパ諸国と比べると、珍しいと言えるでしょう。戦後、国家財政に余裕のかけらもなかった貧困の時代、他の国では公や教会が整備してきた病院や、今で言う福祉施設などを、民に頼って整備してきたと言えば良いでしょうか。数年前のNHKの連続テレビ小説「梅ちゃん先生」で描かれたような小さな診療所が、近隣の医療機関と競争しながら規模を拡大していって提供体制が整備されていったわけですね。民ゆえに、けっこう安価で効率的に運営されてきたということはあったのですが、所有が民間であるという性格上、医療提供体制の計画的整備はとてもむずかしかったわけです。
みんなの介護 難しいからといって諦めるわけにはいかない話ですよね。
権丈 だから、国民会議では改革の準備をしていくことになります。まずは、医療の定義を変える。つまり、「救命・延命、治癒、社会復帰を前提とした病院完結型の医療」から、「病気と共存しながらQOL(Quality of Life)の維持・向上を目指す医療」へと。こうした医療は、「かつての病院完結型から、患者の住み慣れた地域や自宅での生活のための医療、地域全体で治し、支える地域完結型の医療、実のところ医療と介護、さらには住まいや自立した生活の支援までもが切れ目なくつながる医療に変わらざるを得ない」というようにね。
みんなの介護 病院で治す病院完結型医療から、地域で治し、支える地域完結型医療へ、ですね。
権丈 うん。後者は、「治し、支える」。だから要注意。「支える」だけじゃ医療の実態にそぐわないですから。続けて、改革の目的を次のように規定します。すなわち、「救急医、専門医、かかりつけ医(診療所の医師)等々それぞれの努力にもかかわらず、結果として提供されている医療の総体が不十分・非効率なものになっているという典型的な合成の誤謬(ごびゅう)ともいうべき問題が指摘されていたのであり、問題の根は個々のサービス提供者にあるのではない以上、ミクロの議論を積み上げるのでは対応できず、システムの変革そのもの、具体的には「選択と集中」による提供体制の「構造的な改革」が必要となる」。合成の誤謬は前編にも出てきてまして、公共政策を論じる際の最大と言って良いほどのキーワードですね。
みんなの介護 壮大な話なんですね。
権丈 さらに「高齢化の進展により更に変化する医療ニーズと医療提供体制のミスマッチを解消することができれば、同じ負担の水準であっても、現在の医療とは異なる質の高いサービスを効率的に提供できることになる」。これが、先ほど話した、「仮に所与の財源の下であっても、やらなければならないことがある」ということです。
そして日本の政策環境については、「医療政策に対して国の力がさほど強くない日本の状況に鑑み、データの可視化を通じた客観的データに基づく政策、つまりは、医療消費の格差を招来する市場の力でもなく、提供体制側の創意工夫を阻害するおそれがある政府の力でもないものとして、データによる制御機構をもって医療ニーズと提供体制のマッチングを図るシステムの確立を要請する声が上がっていることにも留意せねばならない」と論じる。市場の力でも政府の力でもなく、「データによる制御」も、今、この国で進められている医療改革の重要なポイントです。
みんなの介護 介護についてはどうですか?
権丈 そこは、「医療から介護へ、病院・施設から地域・在宅へという流れを本気で進めようとすれば、医療の見直しと介護の見直しは、文字どおり一体となって行わなければならない」。さらに「この地域包括ケアシステムは、介護保険制度の枠内では完結しない。医療・介護サービスが地域の中で一体的に提供されるようにするためには、医療・介護のネットワーク化が必要」という感じで、医療と介護の一体改革を進めていきながら、地域包括ケアというネットワークを構築しようと唱えています。
みんなの介護 新春の、先生と横倉義武日本医師会会長、国民会議の事務局長だった中村秀一さんの鼎談(ていだん)を読んで、「緩やかなゲートキーパー機能」というのは興味深かったです(新春鼎談 2025年の医療と介護――「国民会議」3氏が語る)。
権丈 国民会議ではそのあたりは次のように書かれています。「ともすれば“いつでも、好きなところで”と極めて広く解釈されることもあったフリーアクセスを、今や疲弊おびただしい医療現場を守るためにも“必要な時に必要な医療にアクセスできる”という意味に理解していく必要がある。そして、この意味でのフリーアクセスを守るためには、緩やかなゲートキーパー機能を備えた“かかりつけ医”の普及は必須」として、「まず、フリーアクセスの基本は守りつつ、限りある医療資源を効率的に活用するという医療提供体制改革に即した観点からは、医療機関間の適切な役割分担を図るため、“緩やかなゲートキーパー機能”の導入は必要となる。 こうした改革は病院側、開業医側双方からも求められていることであり、大病院の外来は紹介患者を中心とし、一般的な外来受診は“かかりつけ医”に相談することを基本とするシステムの普及、定着は必須であろう」と。
みんなの介護 鼎談の中では、「緩やかなゲートキーパー」を、「相談・紹介者」と訳していて、このあたりの改革の必要性が、まだ広まっていないと話していますね。
権丈 緩やかなゲートキーパー機能という名言は、日医の今村副会長の言葉です。国民会議で、僕がフリーアクセスについてどう思われますか?と質問したとき、「やはり日本の医療の最大の利点であるとは思いますけれども、それが権丈先生のおっしゃるようにいろいろな問題点が生じているのは間違いないと思います。私は強制的にゲートキーパーでここを通らなければ次にいけないというようながっちりしたものではないと思います。“緩やかなゲートキーパー”の機能というものをかかりつけ医が持って、必要なときにはきちんと最終的に必要な医療につながるという意味でのフリーアクセスというものがきちんと維持できていければ良いのではないかと思っています」。この発言に基づいて、先ほどの「いつでも、好きなところで」から「必要な時に必要な医療にアクセスできる」という報告書の文章が生まれます。
みんなの介護 なるほど!そのあたりが、先生からみれば、まだあまり広く知られていないというわけですね!
これからの未来は、医療と介護の境目がなくなっていく
みんなの介護 それから、先生は、医師の養成のところにも関わられていますよね。
権丈 医師需給分科会というところで、医師の地域偏在、診療科偏在問題などを議論しています。この世界では、Homecoming Salmon Hypothesis=鮭の母川回帰仮説という言葉を覚えてほしいですね。鮭が生まれた川に帰っていくように、医師って生まれ育った地元で医師になるという傾向が世界的に観察されているんです。このエビデンスに基づいて、地元の人に地元の医学部に入学してもらって地域医療に貢献してもらおうという考えが生まれる。この方向性はWHOも推奨していますし、ランダム化比較試験 (RCT) を中心として臨床試験を評価しているコクランのシステマティック・レビューでも推奨されています。
だから今、医学部入学時点での地元枠を広げようという改革案が出てきたりしているわけです。このあたりは、最近の医学部進学熱との関係もあるので、僕のインタビュー「医師偏在と医学部進学熱の本質 ─ まずは「地元枠」の拡充を」(『日本医事新報』2016年10月29日号)をご笑覧あれ。
みんなの介護 医師の地域偏在、診療科偏在では、選択の自由か規制かという議論が、我々には聞こえてくるのですが、先生はどっちですか?
権丈 なんか、かわいい質問をしますね(笑)。まず、日本医師会・全国医学部長病院長会議の2015年「医師偏在解消策検討合同委員会」報告書には「この課題解決のためには,医師自らが新たな規制をかけられることも受け入れなければならない」とあって、事態はそういう段階にあることを押さえておきましょう。
次に、医師需給分科会で福井先生(聖路加国際大学学長)が次のように発言されている意味も考えてもらいたい。
「内面的なインセンティブというか、地域医療をやりたいという心持ちに医学生がなるよう、そもそも医学教育がそういう方向で行われていないというのが実情です。…ある大学で、入学時には医学生の50%がプライマリ・ケアを将来やりたいと答えていたのですけれども、卒業時には2、3人になりました。それはなぜかと言うと、私も経験がありますけれども、総合診療部なんか入るなと、そういうメッセージをいろいろな臓器別専門診療科の先生方は学生に言い続けるわけです。したがって、「ジェネラルをやる」「全身的に診る」という理想的に反して、高度な医療機器も使えない、そういう診療をやるのはレベルが低いというメッセージを、6年間ずっと伝え続けられます」。
さて医学教育がこういう状況にあるとき、選択の自由か規制かという問いかけってどういう意味を持つと思いますか?このあたりはじっくりと考えてください。先ほども言いましたように、今進められている改革はニーズに見合った提供体制の改革です。医学教育が国民の医療ニーズに見合うものとして行われているのであれば、選択の自由で良いのかもしれないけど、そうでないとすれば…。
みんなの介護 おっしゃりたいことはよくわかった気がします。いよいよ時間もせまりました。最後に、先生は日本医師会の「生命倫理懇談会」や厚労省の「人生の最終段階における医療の普及・啓発の在り方に関する検討会」に参加されてます。ここでは今、どういう議論が行われているのでしょうか。
権丈 僕が呼ばれるようになったのは、国民会議の報告書にQOD(=Quality of Death)、つまり死に向かう医療の質の話を書いたからです。この問題については、昨年12月に行われた「人生最終段階の医療…」会議での僕の発言のポイントを紹介しておきます。
いま、2007年に作られた厚労省の「人生の最終段階における医療の 決定プロセスに関するガイドライン」(旧名 終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン)の見直しが進められているわけですが、そのガイドライン案に対する、僕の見解です。ガイドラインは10年ぶりに見直しているわけですけど、その間、いくつかの変化が起こっています。その変化を、ガイドライン案は反映していると思うよ、という話ですね。
みんなの介護 詳しく教えてください。
権丈 ひとつは、ACP(Advance Care Planning)というものが新しく出てきたこと。ACPとは、新しいガイドライン案に「患者の意思は変化しうるものであることを踏まえ、医療・ケアチーム により、患者が自らの意思をその都度示し、伝えられるような支援が行われ、 患者と話し合いが繰り返し行われる」と書かれていることです。これまでの終末期のさまざまなプロセスが、ACPに落ち着こうとしています。ACPは、まだ意味はわからなくてもいいですから、10回くらい唱えて、まずはこのACPという言葉を覚えてください。
もうひとつは、病院完結型の治す医療から、地域で治し、支える地域完結型医療へという大きな変化が起こっていることです。さらにもうひとつ、「かかりつけ医」という考え方が明確に以前と違って性格づけられてきました。具体的には2013年8月に、日医・4病院団体協議会が合同で「かかりつけ医は、自己の診療時間外も患者にとって最善の医療が継続されるよう、地域の医師、医療機関等と必要な情報を共有し、お互いに協力して休日や夜間も患者に対応できる体制を構築する」という提言していることはあまり知られていませんけど、いまの医療改革はこの方向に向かっています。
さらには、この10年間の間に、終末期医療のあり方はQOD、Quality Of Death、死に向かう医療の質を高めるという観点から議論しましょうということが明確に出てきた。何のためにこの議論をしているのかと言えば、死に向かう医療の質を高めるためであって、あとは余計なもの。
みんなの介護 “死に方のデザイン”とでも言いましょうか。
権丈 生命倫理懇談会が出した「超高齢社会と終末期医療」という報告書の中にも、QODという言葉がありますし、ACPはもちろんあります。老年学会や老年医学会がQODを掲げて終末期医療のあり方の見直しに取りかかっているのは、死に向かう医療の質を極大化する医療と現実になされている医療が乖離しているという問題意識があってのことだと思います。そうした状況の変化の中で、いま、ガイドラインの見直しと、ACPの普及啓発が行われているところです。
みんなの介護 ヘビーな内容でしたけど、かなりわかりました。では本当の最後に、この4月に国民健康保険の都道府県化が行われます。この計画は、先生は随分と前からおっしゃっていたわけですけど、一言だけお願いします。
権丈 一言ということでしたら、国民会議報告書に「国民皆保険制度発足以来の大事業」と書かれている出来事ですので、4月には、事務上のトラブルが起こる可能性はありますし、保険料が高くなる人も出てくる。昔から新税は悪税と言われるように、変化の先にあるものは基本的に悪と見られがちなところがある。その隙を政治家やメディアが突いてくることは、2008年の高齢者医療制度のことを振り返っても大いにあり得る。しかしこの改革は、日本の医療をニーズに見合った方向に変えていくために必須なものであることを理解していただいて、幹と枝を見極める心構えを持って迎えてもらえればと思っています(国保の都道府県化については「社会保障国民会議が岩盤に穴」『FACTA』2013年6月号参照)。
さて時間になったようだけど、医療と介護、まださわりの部分だし、肝心要の給付先行型福祉国家の財政運営のあり方の話や、子育て支援の財源調達の話なんかはぜんぜん触れることもできなかったですね。また遊びに来てください(笑)。
撮影:公家勇人
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