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名越康文「人間の悩みや苦しみは身体だけの問題ではない」

最終更新日時 2019/06/06

名越康文「人間の悩みや苦しみは身体だけの問題ではない」

精神科医、コメンテーター(テレビ・ラジオ)、評論家(映画評論・漫画分析)──さまざまな分野で活躍する名越康文氏。『ひとりぼっちこそが最強の生存戦略である』『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』『自分を支える心の技法』『生きるのが〝ふっ〟と楽になる13の言葉』等々、心理・精神医学に関する著作も数知れない。今回の賢人論のテーマは「心と介護」。人間の深奥を探求する名越氏へのインタビューは、若き日の「漠然とした不安」の話から始まった。

文責/みんなの介護

答えの出ない問いに取り憑かれてしまった自分が、自問自答しながら取り組める仕事が精神科医だった

みんなの介護 テレビやラジオでコメンテーターとしてもご活躍の名越さんですが、そもそも、なぜ精神科医を志望されたのですか?

名越 「自分の仕事はこれしかなかった」と言うと聞こえがいいんですけど、実際は消去法の末の選択です。そんな大それた話ではないんですよ。

みんなの介護 名越さんの多芸多才はつとに有名ですが、何か他にやってみたい職業や夢があったのでしょうか?

名越 夢はいっぱいでしたね。小学校に入学した頃はオペラ歌手になりたかった。4年生になるとこんどは漫画家。文字通り本当の「夢」です(笑)。

でも、学年が進んで才能の世界の厳しさを知るにつれて夢から醒め、やがて親に奨められるまま医学部を受験することになった。とまあ、残念ながらこの話も劇的展開とはまったく無縁です。

ところが、医学部へ進んではみたものの、僕は身体医学というものに全然興味が持てなくて。結局、人間の悩みや苦しみは身体だけの問題じゃないでしょう?ちゃらんぽらんなくせに、意外と深刻に物事を考えていたんです。

みんなの介護 何か悩みがあったのですか?ひょっとして、自分探しのような哲学的悩みですか?

名越 僕は客観的には冗談ばかり言ってる明るくてお気楽な学生だったんですが、どういうわけか「なぜ人間は生きてるのか」「なぜ自分は生まれてきたのか」という問いが、ずうっと頭から離れなかったんです。今思えば一種の神経症ですね。

とにかく、そういった答えの出ない問いに取り憑かれてしまった自分が、それについて自問自答しながら取り組めそうな仕事といったら精神科医しかなかった。ほら、「これしかなかった」でしょ?(笑)

みんなの介護 名越さんの経歴には、近畿大学医学部を卒業後、大阪府立中宮病院(現・大阪府立精神医療センター)に勤務。そこで精神科救急病棟の設立などに携わられた後、1999年に退職と記されています。精神科の救急という文字を見ただけで勝手に過酷な現場を想像してしまったのですが…。

名越 いや、そこに思いを至らせてくれる人はあまりいないので嬉しいです。僕の専門は思春期精神医学で、精神療法で中宮病院に勤務した期間は13年です。

始めの6年はほとんどが閉鎖病棟、後半の7年が主に緊急救急病棟。そして、退職までの4年間、緊急救急病棟の責任者でした。

スタッフは3交代制で常勤の精神科医が5名から6名、看護師が約30名。365日24時間体制で救急患者を受け入れていたんですが、年間で200人以上の患者が運ばれてきて毎日がいわば鉄火場。とにかく、その日一日を乗り越えるのに必死でしたね。

心は一瞬でころころ変わる。一貫性も連続性もないもの

心は窓を開け放しにした一軒家のように、内と外がつながり、影響し合っている

みんなの介護 私たちは普段「心とは何か」といった深いテーマについて考えないまま生きています。そのため、いざ、心の問題について語ろう、あるいは思いをめぐらせようとしても、どこを糸口にして入っていけばいいのか皆目見当がつきません。

そこで質問です。心とはどういうものと考えればいいのでしょう?名越さんのイメージする心の世界についてお聞かせください。

名越 一言でいえば、心は「開かれたもの」でしょうね。外部の世界と相互につながって影響を与え合っている。

例えば、今、僕はこうしてインタビュアーのあなたから質問を受けている。わからないことを聞かれたら「困ったぞ」と不安になるし、違う質問では「ああ、そうだ、僕は今日、これを話したかったんだ」と喜びが湧き上がってくる。

あるいは、僕の説明を聞いているあなたが納得のいかない表情を浮かべたら不安に逆戻りしてしまうし、その反対ならまた喜んでしまう。

そんなふうに、心は相手の反応や周囲の環境などの外的要因の影響を受けながら一瞬でころころ変わっている。そこに一貫性や連続性はありません。

みんなの介護 なるほど。風通しの良い世界が頭に浮かびました。しかし、心というと、どうしても自分の内面にあるもの、他者に対して「閉じている」もの、というイメージがあるのですが?

名越 こういうことです。あなたは学校の先生だとしましょう。学校に来ない生徒の家を訪問しています。お母さんに招き入れてもらって家の中に入り、2階へ上がって生徒の部屋のドア越しに声をかけましたが返事はありませんでした。仕方がないので1階へ降りてお母さんとコーヒーを飲みながら話をすることにしました。

そのとき、生徒はというと、お母さんとあなたがいったいどんな話をしているのか気になって、ドアに耳を当ててじっと息を潜めて聞き耳を立てていました。さて、生徒の心は「閉じている」と思いますか? 

みんなの介護 …閉じていません。

名越 そうです。むしろ、開け放たれて外を向いている。まるで、窓が全部開けっぱなしの一軒家です。

みんなの介護 なるほど、イメージできました。窓が開いてますね。

名越 そう、心は絶えず外の世界とつながりっぱなし。AIスピーカーのアレクサみたいなもん。でもあれ、思わぬときに反応してびっくりすることもあるでしょう(笑)。

重要なのは心を落ち着かせ、平静な自分でいること

みんなの介護 名越さんは「心は自分ではない」とも著書で述べています。この表現がとても気になるのですが、どういう意味が込められているのでしょうか?

名越 言葉で説明してもおそらくわかりにくいので、試しに背筋を伸ばして目を閉じ、そのまま動かないで3分間、自分の心の中を観察してみてください。実際、やってみるとわかりますが、ほとんどの人は次から次に頭に浮かんでくる考えやらイメージやらの情報量の多さにびっくりします。

とにかく、まずは、自分はその心の状態をまったく自覚せず、気付かないまま生活していたということを体験を通じてわかってください。つまり、心は絶えず変化に変化を繰り返していて、自分という固定したイメージとはほど遠い。「心は自分ではない」というのはそういう意味です。

みんなの介護 わかりました。でも、そのことを自覚すると何が変わるのでしょう?

名越 少なくとも、あらかじめ自分の中にコントロールできない心の動きがあることを自覚できていれば、不意にネガティブな感情が湧き上がってきて囚われそうになっても「自分と心との距離をとること」で落ち着いていられます。

何をするにしても、大事なのは心を落ち着かせ、さわやかな自分でいること。心の中が荒れていると必ずそれは周囲にも伝わり、何らかのマイナスを生じさせてしまいますので。

ただ、心の動きを自覚しただけでは十分ではありません。次に目指すのは自分の意思で心をコントロールする手段の修得。それは「瞑想」なのですが、簡単な説明を読んだくらいで身に付けられるものではありませんので、また、別の機会に。

目前の「死」のストレスを解消するすべを知らない。だから、見て見ぬふりをしている

みんなの介護 救急医療の現場も経験している名越さんにお聞きします。毎日のように死と向き合っている医療者は、いったい患者の死とどう折り合いをつけているのでしょう?

名越 僕の知る限りにおいては、何も対応していないというのが実状です。特に医師は「死」に対してどういう態度をとるべきかまったく決めていない。

というより見て見ぬふりをしている。なぜなら、医療にとって「死」イコール「敗北」。ですから、医療者も「死」の前では一般人と何も変わらない。それが私の知る実状です。

みんなの介護 医療現場には、既に「死」と対峙するためのノウハウが蓄積されているものと思っていましたが、そうではないんですね。ある種、現象のひとつと捉えられているのでしょうか?

名越 そうです。そうなんですが、僕たちの心身は「死」をただの現象で済ませることはできません。だからストレスにさらされる。それなのに解消するすべを何も知らないから、スルーするしかなくなってしまうんです。

みんなの介護 でも、実際、何もなかったことにはできませんよね?

名越 もちろんです。とりわけ、患者さんと日々接し、臨終に立ち会うことも多い看護師さんは。僕が東京に出てきたばかりの頃、よく彼らから質問を受けました。

自分たちはどういう態度で「死」に臨めばいいのか。あるいは、どう家族の不全感に対応すればいいのか、と。みんな悩んでいましたね。

真剣に「死」の問題に向き合うには、宗教を知識として学ぶ必要がある

みんなの介護 今、介護現場での看取りが増え、介護職員も被介護者の「死」に直面して悩んでいます。何か良い対処法はないものでしょうか?

名越 あります。いちばん良い方法は信仰を持つことです。でも、現状、それは無理でしょうね。オウム事件をきっかけに、日本国民は宗教に対して強烈なアレルギーを発症してしまいましたから。

みんなの介護 信仰ですか…。宗教に偏見を持っているつもりはありませんが、たしかに抵抗を感じます。ほかに方法はありませんか。

名越 宗教以外に、死に関する知識や思索を積み上げて来た学問は多分ありません。真剣に「死」の問題に向き合おうとするならば、教養としての冷静な立場からで良いので、仏教、キリスト教、イスラム教の内どれか1つでも、何を説いているのかを学ぶ。

自分にとっていちばん近しい宗教が「死」をどのように捉えているのか、あるいは何百年、何千年の間、どのような文化を培ってきたのかを、授業として、知識としてきちんと学ぶことが有効であり必要な手段です。

みんなの介護 入信しなくても得られるものはありますか?

名越 もちろん。人間には知性があります。知性を使って興味を持って学べば成果は上がります。

それにしても、まあ日本人の宗教嫌いは凄まじい。先ほどの医療者の話ともつながりますが、日本では国民全体が「死」から徹底して目を背けている。神経症になってるんです。まずはそこを改めないと、解決の糸口は掴めないと思います。

人は、閉鎖空間では「退行」して感情を抑えられなくなる。それは十分予測できる事態です

「人間に興味のある人」だけが問題を解決する

みんなの介護 介護現場ではストレスの余り、被介護者に対し介護職員が暴行を働くケースが後を絶ちません。なぜ、そんな痛ましいことが起きてしまうのでしょうか?

名越 「死」に対する無知と関係している部分もあると思います。

介護職員に限らず、現代社会では、きちんと「死」に向き合うために必要な技法や思想、教養を身につける学びの機会もなければ、訓練もいっさい行われていない。だから「死」を前にすると、無力感からストレスが重なり感情をコントロールし難くなって行きます。

みんなの介護 寝たきりやそれに近い状態のお年寄りに対する暴力も、目前に迫りつつある「死」への恐怖や無力感が背景にあるのですか。

名越 無意識的な部分ではあると思います。ただ、その場合には「同一視」も原因のひとつにあげられます。

子どもを虐待する一部の親に見られるんですが、彼らは小さな子どもと同じ精神年齢になって、些細なことで「馬鹿にされた。無視された」と腹を立てているんです。

お年寄りの多くは体の自由がきかなかったり、何らかの理由でコミュニケーションがうまくできなくなっているだけで、反抗しているわけではありません。それを「馬鹿にしているからそんな態度を取るんだろう」とか「怠慢だ」とかネガティブな受け止め方をして怒ってしまうわけです。

暴力を働いた介護職員の場合、「退行」して子どもに返ってしまい、感情を抑制できなくなっていたとも考えられます。冷静に相手の立場に立って物事を考えられなくなっていますから、人生の大先輩たちへの尊敬の念もモラルも消し飛んでいる。これは閉鎖空間の中でよく起きる現象で、特別に介護施設や介護職員に限られるケースでもありません。

みんなの介護 何か対策はあるんでしょうか?

名越 やはり、本気で解決しようと思うなら「人間はどう死んでいくべきなのか」「看取りをする側はどういう態度を取るべきなのか」といった「死」に関する教育を、根本的な「人はなぜ生きるのか」というところから始めないと。

やみくもに、ああしてはいけません、こうしてはいけません、こんな接し方をしなければいけません、とマニュアルでぐいぐい締め付けたからといって、それで解決するものじゃありません。

ただ、この種の教育は、そもそも「人生とは何だろう」と自分に問いかけたことのある「人間に興味のある人」でないと効果は期待できません。必要なのは興味を持てることと、それを引き出す教育です。

もっと互いを赦しあって、自分は一歩引いてみる

みんなの介護 本来、命を預かる医療者や介護職員は、名越さんのおっしゃるとおり、責任感があり、人間に対して健全な好奇心を持っている人に就いてもらいたい職業です。

ただ、そういう条件を満たし、意欲も高い介護のプロほど「燃え尽き症候群(バーンアウト)」に苛まれて離職する確率が高いという報告もあります。なぜ、そんな矛盾が起きてしまうのでしょう? 

名越 まず、いろんな人がいて社会が成り立っているということを受け止められないと、どんな仕事の現場でもつらくなるでしょうね。僕も13年勤めていた病院を辞める直前は、燃え尽き症候群の一歩手前だったかもしれません。

みんなの介護 そうなんですか。

名越 まだ30代だった僕は「これからの公立病院はこうあるべきだ!」と目標を掲げて突っ走っていましたね。ところが、いざ、その理想を実現すべく賛同者を集めようにも、人を説得して自分の理解者を増やしていく能力がまったく足りていなかった。それで絶望的な気分を味わいました。

今思うと、理想それ自体は間違いじゃなかったんですが、自分が正しいと思うあまり、「正義」をふりかざし過ぎていたように思います。「正義」は魅力的ですから、つい、歯止めがきかなくなっていたんです。そういう人間は排他的になりがちだし、摩滅しやすいんです。

みんなの介護 やり過ぎの「正義」が孤立を招く。わかる気がします。

名越 一生懸命、人一倍仕事をしているのに職場で空回りしているように感じている人には、僭越ながら僕はこうおすすめしています。

もっと相手を赦(ゆる)して、一歩引いて広い視野を持つようにしてみてください。そして、誰かが困っていたら手を差しのべて協力を申し出る。

仏教ではこれを「方便」と呼んでいます(注/著書『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』には「方便というのは仕事や日常の人間関係の中で相手を理解して適切に振るまい、貢献するということ」と記されている)。

逆に、自分が手一杯になっているときは率直に弱さも見せて協力を仰ぐ。

もっとも、燃え尽きるまで仕事をしてしまう人は「助けて」の一言がどうしても口に出せませんし、たった1日休みを取るのさえ罪悪感を覚えてしまうものです。だから、まずは強くもなければ完璧でもない自分を認めて赦してあげましょう。心がポッキリ折れてしまう前に。

社会に家族の面倒をみてもらうのは恥なのか

みんなの介護 なぜ、私たち日本人は「介護は家族がするもの」という呪縛を解くことができないのでしょうか?

名越 なかなか難しい問題ですね。理由はいくつかあります。まず、日本人の中には昔からモラルとして「他人に迷惑をかけてはいけない」という不文律があって、そこでいう「他人」とはイコール「社会」なんです。

つまり、「他人に迷惑をかけてはいけない」というのは「社会に迷惑をかけてはいけない」と同じ意味。確かにそういう真面目さは僕たち日本人の美徳ではあるんですが、それが高じて「社会に家族の面倒をみてもらうのは恥」という頑なさにつながってしまっている点が、根深い問題なのだと思われます。

さらに「燃え尽き症候群」(中編)のところでも話しましたが、責任感が強くて一生懸命な人ほど、自分の力で問題解決ができないことを恥に感じる傾向が強い。そのため、なかなか意識を変えられないのではないでしょうか。

なぜ、大切な家族に激しい感情をぶつけてしまうのか

みんなの介護 でも、日本人は他人に対しては神経質なまでに気をつかっているにもかかわらず、相手が家族となるとかなり我儘に接しているとよく言われますね。その我儘が「介護をする側」と「介護をされる側」になったとき、さらにエスカレートして互いを傷つけてしまっている気もします。なぜ、私たちは最も近しい大切な家族に、激しい感情をぶつけてしまうのでしょうか?

名越 僕自身、長い間、親に対して他人には湧かないような怒りがどうしても出てきてしまうのを自覚していました。ですから、その救われない気持ちは非常によくわかります。結論から言うと、それは日本人に特有の「二重帳簿」の典型です。

みんなの介護 「二重帳簿」とは、どういうことですか?

名越 少々、説明を要します。僕が学んだ「アドラー心理学」は人間関係における「縦の関係」を改めて、人と人とが対等な「横の関係」を結ぶべきだと提唱しています。

とても簡潔に言えば、役割としての「上」「下」はあったとしても、人間としての価値は同じ。互いに尊敬に基づいて、相手に配慮しつつ率直に言うべきことは伝え、「横の関係」を育てて、いろいろな問題を解決しつつ生きてゆこうという考え方です。まず、そういう考え方があるのだという前提でお話しさせて下さい。

みんなの介護 わかりました。

名越 この前提から私なりにみてみると、日本人は会社や組織の中で、相手や局面に応じて都合よく「縦の関係」と「横の関係」を使い分けています。それを称して「二重帳簿」。「二枚舌」と言い換えても結構です。

母親との関係でいうと、僕は外ではある程度「横の関係」を結べていたのに、家に帰れば母親と「縦の関係」しか結ぶことができなかった。僕は後からそのことに気づいて愕然としました。

でも、それはほぼすべての日本の家族に共通する傾向で、実は、どこの家でも「縦の関係」一辺倒なのでした。職場や学校ではカタチの上だけでも「横の関係」を結べている人たちも、家庭では徹底して「縦の関係」の中で生活している。その現実はアドラー心理学の存在が知られるようになってからも何ら変わりがありません。

人間はそう簡単に変われない。しかし「横の関係」が大事だとわかれば、人生を有意義にできる

全身全霊で赤ちゃんは怒ってる

みんなの介護 「怒り」について伺わせてください。著書『自分を支える心の技法』での、「赤ちゃんは怒っている」という名越さんの仮説は非常にユニークですね。人は生まれてすぐ、泣き喚くことで母親を動かし、それによって自分の不快を解消させる術を身に付けてしまう。その際、原動力になっているのが怒りのエネルギーであると。

名越 僕の脳裏にその仮説が最初によぎったのは、もうずいぶん昔になります。

田舎の家の軒下のツバメの巣の中で親鳥に餌をねだるヒナたちを眺めていて思ったんです。「うわっ、この子ら必死だ」、と。「カワイイ」ではなく「必死」。

親鳥がくわえてきたミミズに我先にと群がるヒナたちの目はたしかに血走っていて、開かれたクチバシの奥から絞り出される啼き声は悲鳴のようでも絶叫のようでもあり、その時、僕は「みんな怒ってる」と直感したわけです。

続いて、僕は人間の赤ちゃんの泣いている様も観察してみたんですが、こちらもまさに全身全霊。「オギャー!」と鬼瓦のような形相で喉も張り裂けよとばかり。「ツバメのヒナも人間の赤ちゃんも、たしかに怒ってる」。そう、はっきりと確信したんです。

みんなの介護 思いのほかタフな弱者の生存戦略がきっかけだったんですね。しかし、名越さんはその戦略がのちに宿命的な過ちを招いたとも著書で語っています。

〈僕らのコミュニケーションは怒りによって他者を動かすというところからスタートしている。しかも、大切な相手であるほど、その怒りは噴出しやすいように宿命づけられている。そういう非常に不幸な生い立ちを持っているということを認めないと、心の問題は語れない〉(名越康文著『自分を支える心の技法』より)

まさにこの指摘こそ、家族介護が内包する爆弾の正体を言い当てているように思えてなりません。

名越 そうですね。家族介護は最小単位の「家庭」という閉鎖空間で行われていますよね。それでなくても自分勝手な欲求がむき出しになりやすい環境ですから、ドメスティック・バイオレンス全般に共通する問題が、そこに集約されていると思います。

理論を学ぶだけのアドラー心理学では意味がない

みんなの介護 そういった、欲望むき出しの介護環境を改善するための方策というのは、あるのでしょうか?

名越 すぐにできることは、家族に対する身勝手な怒りが湧き上がった瞬間の心の状態を覚えておくこと。そして怒りが再燃したら、必ずその場、その部屋から1分間で良いので離れるようにすることでしょうね。その間に随分心が静まるはずです。

それと、先ほど話した「縦の関係」を「横の関係」に変えてみること。ただ、「横の関係」というのはそう簡単には作れません。本を読んで理論を学ぶだけじゃ無意味。

当面、1年くらいはしかるべき指導者に複数回は講習を受け、その都度「あのときはああだった、こうだった」と振り返る。仲間内でも定期的に話し合う機会を持つ。そして2年目、各々の現場で2週間に一度の短いスパンで振り返りの演習を行なってみる。

そういう地道な演習を繰り返し、繰り返しやっていくと、ようやく「『横の関係』というのはこういう感じなのかな」と感覚が掴めてきます。

みんなの介護 どれくらい演習をすれば「横の関係」の極意のようなものが修得できますか?

名越 筋の良い人で2年(笑)。まあ、普通、3年はかかるんじゃないでしょうか。

ただ、ある程度身に付いたとしても、演習とフォローアップを怠っていると、すぐに心もとなくなってきます。

こういう話をすると、真剣にこの記事を読んでくれた人が脱力するかもしれませんが。でも、そういうものです。人間が変わるのには即効薬はありません。

僕としては人間関係の上で「縦の関係」より「横の関係」が素敵だということを知ってもらい、人生を有意義なものにするきっかけにしてもらえれば嬉しい限り。いずれにせよ、どんな形でも人の心のありようと向き合う時間を持つことは、決して無駄にはならないはずです。

撮影:公家勇人

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森田豊
医師・医療ジャーナリスト
2022/11/07
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