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香取照幸「戦後、国土のほとんどが焼け野原になった状況のかなで社会保障の理想と理念がはじまった」

最終更新日時 2019/11/04

香取照幸「戦後、国土のほとんどが焼け野原になった状況のかなで社会保障の理想と理念がはじまった」

香取照幸氏は、1980年に厚生省(現・厚生労働省)に入局。人口減少と高齢化という深刻な社会問題と真っ向から対峙し、「介護保険法」や「子ども・子育て支援法」など、数々の重要法案の策定に尽力してきた。また、内閣官房内閣審議官として「社会保障と税の一体改革」を取りまとめた人物の一人である。2016年に厚労省を退官し、現在、駐アゼルバイジャン日本国特命全権大使をつとめる香取氏に、日本の社会保障を支えた舞台裏の出来事について、あれこれ聞いてみた。

文責/みんなの介護

世の中に、何か意味のある仕事をしたかった

みんなの介護 東大法学部を卒業して官僚の道に進むというのは、王道中の王道だと思いますが、香取さんはなぜ、そのなかで厚生省(現厚生労働省)を選んだのでしょう?

香取 今の東大法学部生のことはわかりませんが、当時の東大法学部の学生には3つの階層(笑)がありました。「超」頭のいい上位2割の学生、そうではない下位2割の学生、それから上位でも下位でもない真ん中の6割の学生という階層です。

この6割の「真ん中」の学生はみんな留年します。というのも東大法学部の場合、本郷での2年間に90単位を履修しなければならないんですが、普通の学生には2年間では短すぎるんですね。

上位2割の学生は、司法試験なり、国家公務員試験に4年ですんなり合格して、90単位も履修して社会人生活を颯爽とスタートさせます。残りの8割の学生は、留年か、あるいは運よく4年で卒業はするものの、法律家や官僚になる道を選ばずに民間の企業に就職するんです。

私は当然留年組(笑)で、5年目に公務員の道を選び、世の中に何か意味のある仕事をしたいと思って厚生省に進む道を選びました。

みんなの介護 世の中に意味のある仕事…というと?

香取 国家公務員試験に合格した後、採用志望を提出する前に志望者はいろいろな官庁をまわるんです。今でも同じだと思いますが、「官庁訪問」と言われているものです。

ギスギスして息苦しそうなところもあれば、世の中のためではなく自分のために仕事をしている人が集まっていそうな雰囲気のところもあったりして、やはりどこを選ぶか迷いましたが、唯一、肌が合いそうだなと思ったのが厚生省でした。

これは入ってみてわかったことですけど、厚生省には家族にハンディキャップを持つ人、単親家庭で育った人、兄弟に難病患者のいる人など、いろんなバックグラウンドを持つ人がいて、社会のいろいろな問題を解決したいというモチベーションを持ってこの職場を選んだ人がたくさんいるということがわかりました。

自分の選択は間違っていなかったと思いましたね。

金をばらまくのは、もっとも簡単で稚拙な政策

みんなの介護 1980年というと、高齢化率(65歳以上人口割合)が9.1%です。現在、27.7%であることを考えると、当時は今とは別世界だったでしょうね。

香取 私が最初に配属された部署は国民健康保険課というところでしたが、そこで見習いとしてたずさわった仕事は、老人保健法を制定するための準備業務でした。

老人保健法は1982年に制定されますが、この法律は、1973年施行の老人福祉法で無料化された老人医療費に「一部負担」を導入する、そして老人医療費を医療保険者が持ち寄りで賄う制度に変える、というものでした。

しかしこれが、大変に困難な仕事だったわけです。

みんなの介護 1973年の老人医療費の無料化は、ポピュリズム政策の産物として語られ、評判がよくないですね。選挙に当選するため、政治家が財政を無視した公約を掲げて空約束をしたわけですから。

香取 無料(ただ)で配るというのは、政策手段としてはもっとも簡単、というか安易な手法なんです。老人医療の問題を解決するためにやらなければならないことはいろいろあるのに、金を配るだけで大したことをしたように見せてしまう。そのことで本当に取り組まなければいけないことから政治家も国民も目をそらしてしまう。その意味では安易という以上に稚拙で間違った政策選択です。

よくいうでしょう。ただのランチはない、無料(ただ)より高いものはない、って。実際、全国に先駆けて無料化を実施した東京都の病院は高齢者のサロンと化し、医療は不効率で不公平なものとなり、財政も逼迫しました。

この問題を解決し、あるべき姿に戻すために制定されたのが老人保健法です。1973年から10年をかけて、ようやく「一部負担」を入れることができた。その後、1割の「定率負担」が実現したのは2002年10月のことですが、それまでには30年もかかったことになります。

一度、無料化したことで、日本の高齢者の医療行政はかなりの遠回りを強いられたと言えるでしょうね。

「自助・共助・公助」の考え方が戦後、すでに存在していた

みんなの介護 先ほど、社会保障の「あるべき姿」という話が出ましたが、香取さんの著書『教養としての社会保障』(東洋経済新報社)には、1950年の社会保障制度審議会勧告の中ですでにそのことが明確化されていたと書かれています。

香取 そうです。1950年というのはまだ連合国の占領下で、国民皆保険制度など影も形もなかった時代ですが、社会保障制度について、こんにちでもよく言われる「自助・共助・公助の組み合わせ」という原則がすでにこの審議会勧告のなかに盛り込まれているのです。

今の言葉で教科書的に要約すると、次のようになります。

すべての国民が社会的、経済的、精神的な自立を図る観点から、

(1)自ら働いて自らの生活を支え、自らの健康は自ら維持するという「自助」を基本とし、

(2)これを生活のリスクを相互に分散する「共助」が補完し、

(3)そのうえで、自助や共助では対応できない状況を「公助」で保障する。

要するに、大前提としてあるのは「国民の自立」を実現すること。その自立を支えるのが「自助」であって、自立した人同士がリスクを分散するための制度が「共助」です。現行の制度では、医療保険や介護保険、年金保険、雇用保険などが「共助」の機能を果たしています。

みんなの介護 つまり、何でもかんでも無料化して税金でまかなう「公助」のシステムでなく、お互いの将来のリスクを共有する「共助」のシステムを並行して動かして行こうというわけですね。

香取 起源をたどれば日本でも無尽講(むじんこう)、頼母子講(たのもしこう)など、昔から行われていたことです。

社会保障は「お上の施し」ではありません。一人ひとりが自立して主体的に生きていけるよう、社会生活の中で直面する不確実性=リスクを共同でヘッジしていく仕組み、私たち自身が参加しお互いを支え合う制度。それが社会保障の基本です。

戦後、国土のほとんどが焼け野原になった状況の中、そうした社会保障の理想的な理念がスタートしたわけです。

日本の仲間はずれをつくらない「共助」の考えに基づく皆保険制度は世界のどこを見渡してみてもありません

日本の社会保障ができたのは、奇跡のような出来事だった

みんなの介護 1961年にスタートした日本の国民皆保険・皆年金制度について、香取さんは「奇跡のような制度」と著書の中で評していますね?

香取 社会保障というのは、付加価値の分配ですから、それなりに社会が豊かでないとつくれない制度です。

1961年当時の日本の1人当たりGDPは21.7万円で、アメリカの5分の1、イギリスとフランスの4割程度に過ぎなかった。つまり、そんなに豊かでなかった時代に日本は「すべての国民に医療を保障します、老後生活を保障します」という皆保険・皆年金の制度をつくったのです。

日本のような「共助」の考えに基づく皆保険制度の国は、実は世界のどこを見渡してみてもそうありません。というのも、ドイツやフランスなどヨーロッパ諸国の多くは社会保険制度が中心ですが、超高額所得者や保険料を支払う能力のない低所得者層は保険制度の枠から外している場合が多いのです。超金持ちは「自助」で、低所得者層は「公助」の制度で救済する、ということにしています。

ところが、日本はそうしなかった。もちろん、日本でも本当に最低生活を送れなくなった人は生活保護、すなわち「公助」で対応するわけですが、保険料を負担することができない人も仲間はずれにせず、保険料を減免した上で共助の仲間=保険制度に入れる。で、その分は税金で補填する、ということにしたのです。落ちこぼれをつくらないという、徹底した哲学に貫かれている。

例えば今、中国は急速に経済成長をしてGDPが世界第2位になるほど豊かになりましたが、同時に大きな所得格差が生まれました。都市部と農村部の所得格差、生活水準の差は恐ろしく大きい。農民と都市住民の間にあれだけ格差が開いてしまうと、両者が同じ保険料を払って同じ給付を受ける、なんていう「平等」な制度はもはやつくれないでしょう。

みんなの介護 他の国には真似のできない制度を、どうして日本はつくることができたのでしょう?

香取 1961年は戦争が終わってまだ16年で、復興の途上にあり、所得格差もまだ広がっていなかった。みんな貧しかった。他方で社会には「共同体意識」というか、みんなで支えあって頑張っていく、という意識が残っていた。だからこそ、「お互いに助け合う」という考えが受け入れられたのでしょう。

日本の社会保障制度は、非正規雇用の増加と人口減少で変革を余儀なくされている

みんなの介護 日本の介護保険は、2000年にスタートしました。香取さんはその渦中の厚生省高齢者介護対策本部で制度の立ち上げに尽力されたわけですが、これもかなりの難事業だったのではないですか?

香取 医療、特に急性期医療というのは、言うなれば非常時のサービスですよね。健康だった人が病気になったり、事故で怪我をしたりしたときに受けるサービス。治療を受けて健康を取り戻すことができたら、もとの日常生活に戻っていきます。

ところが、高齢社会の医療や介護はそうではありません。老いは誰にでも訪れます。要支援・要介護になった高齢者は、病気や要介護状態と折り合いをつけながら生きていく。そしてそれを医療や介護のサービスが支えていく。当時介護本部で使っていたフレーズで言えば、高齢社会の介護は「看取りの介護」から「生活を支える介護」になるわけです。

なので、本格的高齢社会の介護サービスは、特定の人々の問題ではなく、すべての高齢者にとっての問題になります。介護保険制度ができる前の「介護」は、老人福祉制度の下、「措置」の枠組みで提供されていました。税金で賄われるので所得制限があり、行政が予算の範囲内で必要と認めた人だけに与えられる「配給」サービスです。この形のままでは、財源的にもサービス量という面でも増大していく高齢社会の介護を支えることはできません。

私たちは、高齢者自身も必要な費用を負担し、すべての高齢者に介護サービスを権利として保障する仕組みとすることが必要だと考え、保険制度で実現する案を提唱しました。

当時も今も、介護というか、高齢者の長期ケアをすべての高齢者に権利として保障する制度を実現できている国は極めて少ないです。

みんなの介護 つまり、日本の皆保険・皆年金制度と同様、介護保険制度も「奇跡のような制度」というわけですね。

香取 北欧諸国は、これを地方自治体の提供するサービスで支えるという形で実現しました。財源は地方税で、地方自治体が公共サービスとして医療や介護を提供する、という仕組みです。

実際に行ってみればわかりますが、北欧の地方自治体は「住民の生活協同組合」のようなもので、仕事の大半は教育と福祉です。地方税は協同組合の組合費のようなもので、仕組みも簡単だし透明で、「税金には紐がついていて引っ張ると戻ってくる」という言葉もあるくらいで、どこにいくら財源を配分するかは自分たち(つまり地方議会)で決めています。

日本の介護保険制度は保険料が半分、あとの半分は税金(国4分の1、都道府県と市町村が8分の1)でまかなうという形です。

財源構成から見れば「共助」と「公助」が半々、サービスの中身を見ても療養型病院や訪問介護など「医療」に属していたサービスと「特養」や「在宅介護サービス」など「福祉」に属していたサービスを取り込んでいます

そして、サービスは「措置」ではなく「契約(保険契約)」で提供され、サービスの中身は本人が選択します。その選択を支援するための仕組みがケアマネジメントです。

みんなの介護 聞けば聞くほど、むずかしいことのように聞こえます。

香取 それを実現できた、もっとも大きな理由は、皆保険による医療制度があったからだと私は思っています。

つまり、保険料を拠出することによって、不平等感のない、納得のいく医療が給付されるという保険制度の枠組みに対する信頼が国民のあいだにあったからです。

もし、保険証を持っていればどこの病院でも同じ金額で医療を受けられるという、世界的にもまれな優れた日本の医療保険制度がなかったら、介護保険制度を今の形で実現するのは不可能だったでしょうね。

振り返ってみると、制度創設当初の日本の医療保険制度は今から比べると貧弱で、例えば国民健康保険は5割負担。入院は事前承認制で、投薬には剤数制限があり、給付期間の制限もありました。保険では制約が多すぎて充分な治療ができないから、保険医療はしないという医者もいたくらいです

日本の皆保険制度が今のように充実したのは、高度経済成長のおかげと言っていいでしょう。申し上げたように社会保障は豊かさの分配です。

高度成長によって生まれた付加価値を社会保障制度を通じて国民に分配する。ベースに極めて平等主義的に作られた皆保険制度がありましたから、高度成長の果実はすべての国民に公平平等に分配することができた。21世紀を迎えた今、日本の社会保障制度を支えてきたさまざまな状況が大きく変わっています。雇用の安定は大きく揺らぎ、被用者の3分の1は非正規雇用で、この人たちは被用者保険(健康保険・厚生年金)の適用がありません。

少子化が進み日本は人口減少社会になりました。経済成長も鈍化し、分配できる付加価値は多くありません。他方でまだ当分のあいだ高齢者は増え続けます。そんな中で日本の社会保障は、さまざまな改革を重ねて社会の変化にどうにかこうにか対応してきている。そう言えるのではないでしょうか。

みんなの介護 その「どうにかこうにか」の奮闘ぶりについて、その渦中で制度設計に尽力した香取さんの具体的な仕事の話をうかがいたいと思いますが、その話は次回にまわすことにしましょう。読者のみなさん、お楽しみに。

デンマークの福祉政策に見た、日本の活路

みんなの介護 介護保険は、それまで日本に存在しない制度でしたから、その創設には大変な苦労があったと思います。香取さんご自身は、始めから実現可能だとお思いでしたか?

香取 私が最初に介護保険のことを意識したのは1990年、埼玉県庁に出向して、そこの老人福祉課長をしていたときのことです。

埼玉県は当時、高齢化率が10%にも届かないほどの若い県で、当時厚生省で老人福祉課長をしていた中村秀一さん(「賢人論。」第70回(前編)中村秀一氏 参照)から「在宅福祉施策後進県ナンバーワン」なんてレッテルを貼られてイジメられていました(笑)。

中村さんはスウェーデン大使館勤務経験があり、1990年のゴールドプランが実施されたとき、「2000年までにホームヘルパーを10万人に増やす」という目標を達成するための陣頭指揮を執っていたんですね。

当時の埼玉県知事は畑和(はた・やわら)さんで、80歳を過ぎたばかりのころだったせいかどうかはわかりませんが、「福祉先進国の視察をしてみたい」と言い出したんです。そこで、私がデンマーク視察のアテンドを担当して、知事と一緒にあちらの国の福祉施設を見て回りました。

みんなの介護 デンマークは、すべての国民が医療や教育を無償で受けられる、世界最高レベルの福祉国家として有名ですね。

香取 デンマークでは高齢者施設のことを「プライエム」というんですけど、そこで行われているサービスの内容や費用、制度の仕組みなどを現場の人や自治体関係者からくわしく聞きました。

24時間巡回介護をしているヘルパーさんに付いて高齢者の自宅も回りましたし、配食サービスやデイサービスも見てきました。自助具と呼ばれている福祉用具の貸与システムも見てきました。そこで私が得た結論は「世の中にマジックはない。制度を整え、財源をきちんと確保できれば、日本でも同じレベルのサービスをつくれる」という確信でした。

みんなの介護 一時期、「北欧病」といって、北欧諸国のように社会保障を厚くすると国民が努力しなくなる、社会が停滞すると言う人がいましたが、香取さんはそうは思わなかったのですね?

香取 ええ、思いませんでした。当時の見聞記は「週刊社会保障」という社会保障の専門誌に連載しましたのでご興味のある方は探して読んでいたければと思いますが、ポイントはサービスを利用する人の主体性です。

つまり権利性を保障し、当事者として運営にコミットして拠出する仕組み、サービスを提供する人とサービスを利用する人とを直接つなぐことができる仕組み、つまりはニーズがサービス提供に反映する仕組みをキチンとつくれば、うまく回っていくはずだと考えました。

当時、日本型福祉では「年寄りの面倒は家族が見るべき」という考えが蔓延していた

みんなの介護 驚くべき先見の明ですね。

香取 いや、先見の明でも何でもありません。その背景には当時、措置制度として行われていた日本の高齢者福祉が明らかに行き詰まっていた、ということがありました。

そもそも措置制度というのは、「配給」制度です。言い方は悪いのですが、戦中戦後の配給制度と変わらないんです。

行政がサービスの対象者も中身も全部決めます。利用者は受け身で何の権利もありません。「措置」される対象です。平等と言えば平等なのかもしれないけれど、財源は税金で予算制約の中で限られた資源を配分するのですから、こぼれ落ちる人が必ず出てきます。

埼玉県が全国でもトップクラスの若い県だったことはすでに述べましたが、そのせいで埼玉県の特別養護老人ホームには東京都や他県の高齢者が必ず何人かいたものです。

なぜかというと、特養待ちの高齢者のために埼玉県の施設の空いたベッドを東京の自治体が「買う」んです。

老人病院のひどさも、社会問題になっていました。当時、日本型福祉とか言って「年寄りの面倒は家族が見るべき」という古い考えがまだ蔓延していていました。

介護はまず家族がやる。家族が介護に耐えられなくなって崩壊寸前になって初めて福祉が登場する。追い詰められた家族が捨てるように高齢者を老人病院に押し込める。入院医療が必要でない高齢者が病院に溢れ、ベッドに寝かされた高齢者は昼間でも薬漬けで眠らせられている。

「社会的入院」とか「寝たきり老人」「寝かせきり老人」なんて言葉が新聞の社会面に踊っていた、そんな時代です。

こうしたやり方には限界がある、何とかしなければならないという問題意識があったからこそ、デンマークの福祉政策に活路を見ることができた。

デンマークの介護から学んだのは、サービスの厚さとか財源ではありません。その理念です。「自立支援―help to self-help」であり「継続的・包括的ケア」 Comprehensive and coherent」、そして有名な「高齢者福祉3原則」((1)生活の継続性の保障(2)自己決定の尊重(3)残存能力の活用)です。

この考え方は、現在の地域包括ケアにもつながる、介護保険の基本を支える理念です。

つまりはそういうことです。

香取照幸

利用者本位ではないサービスは、誰も幸福にしない

みんなの介護 1994年4月、厚生省は高齢者介護対策本部を設置し、介護保険制度の導入に向けての第一歩がスタートします。1997年度から3%から5%に引き上げになる消費税を財源とした新ゴールドプランの予算編成とともに、すべてが動き出したわけですね。

香取 もう今では誰も見ないと思いますが(笑)、新ゴールドプランの概要には在宅サービスや施設サービスなどの整備目標が具体的な数字で列挙されています。

その最後に「より効率的で国民誰もがスムースに利用できる介護サービスの実現を図る観点から、新しい公的介護システムの創設を含めた総合的な高齢者介護対策の検討を進める。」と書かれていますが、これが介護保険のことです。

ちなみに、「介護」という言葉はこの頃、まだ一般的に使われていなくて、対策本部にあったパソコンを叩くと「悔悟」という文字に変換されたりしました(笑)。

みんなの介護 そんな状況の中、「新しい公的介護システム」を構築するのは大変な作業だったでしょうね。

香取 基本的な考え方は、在宅介護を重視するということです。

施設をいくら増やしても、寝たきりの高齢者も家族は救われない。大事なのは、住み慣れた地域でその人らしい自立した生活を送れるようにするための支援です。生活の継続性の保障、ということです。一人暮らしや高齢者のみの世帯がこれから増えていくというデータも、このとき念頭にありました。

ところが、この基本方針には、ほうぼうから反対の声があがりました。

みんなの介護 在宅支援を重視することになぜ、反対するのでしょうか?

香取 「在宅3本柱」の充実、と厚生省は言っていましたが、実際のサービスは量的にも質的にもまったく不十分でした、なので当時は「在宅介護」とは結局「家族介護」のことだ、と理解している人も多かったと思います。

要するに「在宅サービスで高齢者を支える」というのがイメージできない。「在宅サービスは施設サービスより金がかかる」とか「施設に放り込んだほうが家族も喜ぶ」なんて意見が地方自治体をはじめ、いろいろなところで飛び交っていました。

だけど、そのとき気づいて欲しかったのは、そういった意見はサービスを利用する人の目線ではなく、提供する側の目線から発せられたものだということです。

高齢者自身に聞けば、ほとんどの人は「施設には行きたくない」「住み慣れた自宅・地域で過ごしたい」と回答します。

利用者本位ではないサービスは、誰も幸福になりません。

みんなの介護 確かに、おっしゃる通りだと思います。

香取 財源を税金だけではなく保険料でまかなう、つまり高齢者自身にも負担を求める仕組みを作るとか、世界中で誰もやったことのない要介護認定の基準を決めるとか、自治体に保険者になってもらうことを同意してもらう。

そのための財政調整の仕組みを作るとか、そういう「制度・仕組みづくり」をやることが政治的にもテクニカルにもとてもハードルの高い作業だったことは間違いありませんが、大変だったのはそれだけではありませんでした。

本当に大変だったのは、サービスの中身作りです。新しい介護保険制度が本当の意味で国民にとって意味のある、役に立つ制度にするための中身づくりです。

どういうサービスを提供するか、何を優先すべきなのかを考えながら、医療と福祉の枠組みで行われていたサービスを統合して新しいサービスの中身を設計することでした。

介護保険制度は「在宅重視」という方針で進められた

みんなの介護 介護保険制度が始まるとともに、それ以前になかった介護サービスが登場しました。それらは、「在宅支援を重視する」という介護保険の基本理念から生まれたものなんですね?

香取 そうです。例えば認知症高齢者向けのグループホームは、スウェーデンなどで普及していたものをモデルとしていますが、「共同住宅」として位置づけて介護保険の在宅介護の枠組みの中に入れました。

小規模な共同生活の場、それがすなわち「グループホーム」というわけです。

また、当時の有料老人ホームやケアハウス(軽費老人ホーム)は一般的に「施設」として整理されていましたが、これを「ケア付き住宅」という新しいサービスとして導入することにしました。

みんなの介護 有料老人ホームやケアハウスについては、「特定施設入居者生活介護(特定施設)」の規定が設けられたのも、介護保険制度がはじまってからのことですね?

香取 そうです。当時の有料老人ホームの中には、「終の棲家です」ということを謳っておきながら、介護が必要になった途端、特養まかせにするような施設がけっこうありました。

そういうことにならないように、有料老人ホームについても、ホーム内で提供される介護サービスについては介護保険を適用してしっかりとした介護が行われるよう、特定施設という規定を設けて「ケア付き住宅」を広めることを徹底したわけです。

この「特定施設入居者生活介護」というのは、施設介護と在宅介護の垣根を取り払う仕組みでもあります。要するに施設介護(たとえば特養)を「介護サービス+住宅」に分解して考える。そうすると、介護部分については自宅でも施設でも同じように保障する、という考え方が出てくる。その延長線上に「ケア付きの共同住宅」という、特養とは違う「施設ではないケア付きの居住施設」という概念ができる。

「住宅」ですからもちろん個室だしプライバシーもある。何よりもそこは「自分の家(部屋)」ということになる。これはグループホームも同じことです。そうすると、特養だって同じように考えれば、「4人部屋」ってのはおかしい、あれは「人の住むところー終の棲家と言えるのか?」という疑問が出てくる。

この流れは、特養の個室化、ユニットケア、そして現在の高専賃へとつながって行く、高齢者ケアの大きな改革の流れとなりました。

介護保険制度は、みんなでつくった制度だから、みんなで支える

みんなの介護 大熊由紀子・著『物語 介護保険』(岩波書店)には、こんな一節があります。

「介護対策本部の日常生活は、毎日ほぼ徹夜でした。内輪の会議は未明4時から開いて、朝8時ころからの会議に資料を間に合わせるというのが通例でした」

香取さんは、そんな超多忙生活をどんな気持ちで送っておられたのですか?

香取 いや、意外に淡淡としていましたよ。まだ若かったですし。どんな仕事でも同じだと思いますが、自分がやっていることには意味があるんだという信念と、目標に対するゴールが見えていれば、どんなに大変なことでも頑張れるんじゃないでしょうか。

みんなの介護 介護保険制度は、準備段階から各方面から横槍が入って、頓挫してもおかしくないような危機が何度もあったと聞きます。香取さんがデンマーク視察のときに得た「日本でも同じレベルの制度をつくれる」という確信が揺らぐことはありませんでしたか?

香取 ありませんでしたね。なぜなら、介護保険で新たに導入したサービスは役人が頭で考えたものではなく、現場で先駆的に実践されていたサービスです。

現場の人たちが感じていること、問題意識としていることを聞き取り、それが反映されているものだからです。グループホーム、小規模多機能型居宅介護、個室・ユニットケアなど、ほとんどが現場の実践から生まれているんです。

介護保険はたくさんの人たちに支えられて実現しました。現場の人たち、自治体の人たち、研究者、マスコミ、政治家、たくさんの人たちが様々な場面で協力し、行動して生まれたものです。だから、「介護保険制度は自分がつくった」と胸を張って言うことができる人がたくさんいて、彼ら彼女らが今でも介護保険を支えてくれています。

つまり、みんなでつくった制度なんだから、みんなで支える。そういう意識を多くの人が共有しているという実感がつねにありました。

みんなの介護 介護保険制度は2000年にスタートしましたが、香取さんが達成感を味わったのは、いつごろですか?

香取 しばらく経ってからですね。デイサービスの自動車が、当たり前に街中に走っているのを見るようになったときです。

デンマークには、プライエムという高齢者施設があることはすでに述べましたが、同時に市町村による在宅サービスがとても充実しています。

 デンマークの在宅サービスの中心はホームヘルパーですが、日本ではヘルパーが自宅に入るというのはなかなか抵抗があってすんなりとは普及しませんでした。なので、まずは通所サービスから始めて在宅サービスを普及させようと思いました。いわば介護生活の入門編としてデイサービスを位置づけたのです。

そのデイサービスの自動車が走っているのを見て、「ああ、ようやくこれで介護保険制度が一歩を踏み出したんだな」と実感したのをよく覚えています。

国の借金はGDPの2倍。これは非常事態である

みんなの介護 赤字国債による国の借金は、現在1,100兆円。GDPの2倍以上の規模になっていますが、これまでにない危機的な状況と言えそうですね。

香取 日本の債務がGDPの2倍を超えたことは、実は今が初めてではありません。いつがそうだったかというと、日本が戦争に負けて焼け野原になったときです。

旧大蔵省(現・財務省)が編纂した『昭和財政史』という本を読むと、大蔵省が戦時中から日本の債務をどのように返済し、日本を復興させるかを懸命に考えていたことがわかります。

そこで彼らがとった手段が、財産税法です。10万円以上(現在価格で約5,000万円以上)の財産を保有する個人に最高税率90%(資産1,500万円超)を課税したのです。

1948年に発表された財産税の納税番付のトップは天皇家です。その納税額は37億4,300万円におよび、残りの皇室財産は国有財産になりました。

そのほかにも財閥解体、華族制度の廃止、農地解放、預金封鎖、デノミ敢行、新円発行、ドッジ税制などなど、できることはすべてやって、ようやく危機を乗りきったのです。連合国の占領下だからできたことには違いありませんが、これはもう革命に近い出来事ですよ。

みんなの介護 今の国の借金を返すには、敗戦時と同じ革命を起こさねばならないわけですね。何だか空恐ろしい感じがします。

香取 今の借金は、橋を架けるとか、鉄道を敷くとか、港湾を整えるといった、将来世代の成長につながるようなインフラ整備とは訳が違います。

人口が減少し、社会が高齢化した結果として社会保障関係費が膨らみ、税収で払いきれなくなった分を借金しているわけですから、将来世代の成長を先食いしているのと同じことになります。

負担のない「社会保障」はあり得ない

みんなの介護 「社会保障と税の一体改革」は、まさに今の日本に必要不可欠な改革だと言えますね。

香取 この改革によって消費税率は5%から8%になり、そして予定より4年遅れで10%になりました。

計5%の増収分のうちの4%は、「社会保障の安定化」のために使います。これは、後代への負担のツケまわしを軽減するためのお金です。

「社会保障の充実」のために使うのは、残りの1%です。ですから、「負担が重くなるんだから、その分サービスに対する給付を多くしろ」というのは残念ながら無理筋です。せめて自分たちが受ける分のサービスくらいは自分たちの負担でまかなう、子供や孫の世代に付け回しをしないための増税です。今の現役世代に返せる分はこれで精一杯、ということです。

多くの人は、給付はして欲しいけど負担はしたくないと考えます。だから改革は、なかなか進まない。だけど、負担のない給付はないんです。実際のところ、今の社会保障費をすべて消費税でまかなおうとしたら、税率10%どころか、欧米なみの20%にしなければならないですよ。

みんなの介護 ともあれ、この改革によって消費税の使い途が高齢者3経費(基礎年金、老人医療、介護)から「子ども・子育て支援」が加えられて4経費になったことは大きな変化ですよね。

香取 戦後間もなくのころに創設された日本の社会保障制度が貧弱なものだったことは、前編のインタビューでもお話ししましたよね。それが高度経済成長期、団塊の世代を中心とする大量のサラリーマンが働くことで充実したものになっていった。

当時のサラリーマン家庭の多くは専業主婦でしたから、子育て支援は地域の中で解決することができた。それから、サラリーマンを雇っている企業の保障も手厚かったから労働政策はそれほどやらずに済んできたのです。

ところが、雇用が不安定になって社会の不確実性が高くなった今、現役世代にも様々な支援が必要になりました。特に「子ども・子育て支援」は喫緊の課題です。ですから、これからは現役世代の支援を含めた「全世代型社会保障」でやっていくということです。

今まで2ページ目トップに持ってきていた写真

必要なのは「少子化対策」ではなく、「家族政策」

みんなの介護 香取さんは「少子化対策」という言葉を好まないそうですね。なぜですか?

香取 好まないどころか、大嫌いですね(笑)。なぜなら「少子化対策」という言葉は「上から目線」の言葉です、さらに言えば、政府が経済成長率や物価上昇率のように「出生率」や「出生数」の数値目標を掲げて、早く結婚しましょうとか、子どもを産みましょうと女性けしかける、というか追い詰める政策を連想するからです。

英語には、「少子化対策」という表現はありません。強いて言うなら、「ファミリー・ポリシー(家族政策)」とか、「ファミリー・アンド・チルドレン・ポリシー(家族・子ども政策)」と言います。

この問題は「女性」の問題なのではなくて、「家族・家庭」の問題なんですよ。男女の違いに関係なく、私たちの生活の基盤である「家族・家庭」がその機能と役割を十全に発揮できるよう社会が支援するということが重要です。

そもそも家庭を持ったり子供を持ったりすることは国民の義務でも責務でもありません。国民の権利であり意思であり希望です。政府のすべきことは、それが実現できるように社会の条件を整備すること。だから、政策の名宛人は国民ではないし、まして女性ではありません。名宛人は政府自身、そして企業ではないでしょうか。

「産業としての社会保障」は、期待すべき成長産業である

みんなの介護 香取さんの著書『教養としての社会保障』(東洋経済新報社)には、「社会保障は『単なる負担』ではなく、経済成長のエンジンたりうる」という一説があって、目からウロコが落ちた思いがしました。これについて、少し解説していただけますか?

香取 医療や介護、保育などの財源は税と社会保険料ですから、国民の負担であることは確かなんですが、これらの分野は同時に立派なサービス産業なんですよ。

日本の主要産業の市場規模のデータを見ても、医療と介護を合わせた産業分野は、建設産業や自動車産業を凌駕するほどの市場規模になっています。

さらに、医療・介護の分野で先端医療やデータヘルス計画などを通じたイノベーションが進行し、地域医療と介護基盤の強化が達成できれば、2025年の市場規模は現在の1.8倍にあたる90兆円になるという推計もあります。

みんなの介護 社会保障は産業として見ると、今後の成長がもっとも期待できる産業と言えそうですね。

香取 しかもこの分野は、全国あまねく需要がありますから、一極集中はなく、地域経済の下支えにもなります。つまり、社会保障の理解のためには、「負担」だけを見るのではなく、経済や産業・雇用に与えている影響にも目を向けるべきだと思うのです。

人生は、最後に帳尻が合うようにできている

みんなの介護 いま、日本社会は「高齢化」という大きな波に直面しています。誰もが人生の終わりに対峙するこの「老い」について香取さんご自身は、どう考えていますか。

香取 そう聞かれて思い出すのは、今から30年以上前に出会った一冊の雑誌です。菅原弘子さん、のちに「介護の社会化を進める一万人市民委員会」の事務局長をされることになる方が編集長だった『いっと』という雑誌。

この雑誌は一貫して「老いを考える」ということ書いてきた雑誌です。深沢七郎、田村隆一、水上勉、藤本義一、安岡章太郎、佐多稲子、曾野綾子、井上光晴、住井すゑ、津島佑子、村松友規、谷川俊太郎、色川武大、暉俊康隆、早川一光、80年代から90年代にかけての文壇を飾る錚々たる方々が、自分の老いについて語っています。今読んでも、飛んでるというか、斬新な素晴らしい雑誌です。

たとえば、藤本義一さんはとある号の巻頭随筆のなかで「「老い」とは「追い」ということ。老化というのは自分になっていくプロセスだ」と語っています。「外見も感覚も脳も、自分になっていくこと、円熟することだ」と。

「老いを知り、受け入れ、つきあう」と書かれた特集号もありました。1990年、30年も前に「老いとは拒否するものでも妥協するものでもない。自分を追求すること、自分になっていくのが老化だ」と。こんなことを書いている雑誌は今でもないんじゃないでしょうか。たしか、この言葉は佐藤愛子さんの文章だったと思います。

つまりは、こういうことです。若いときというのは、世間に対して自分をこう見せたいという願望があって、服を着飾るようにしていろいろな属性をまとっていく。だけど、年をとるとそういう願望が薄れてきて、そういうものを1枚1枚、脱いでいく。そして、自分本来の姿に戻っていくというわけ。その過程が、年をとるということだ、と。

みんなの介護 今でも覚えているということは、当時の香取さんの心を強く打った言葉なんですね。

香取 1980年代半ばの、まだ世間がバブル景気に浮かれている空気の中で、こういう先進的な雑誌があったということが驚きで、強く印象に残ったんだと思います。

実は7年前、親父の88歳の米寿のお祝いの席でも、この雑誌のことが思い出されました。

みんなの介護 なぜ、その席で思い出したのでしょう?

香取 親父が私にこんなことを言ったんです。

「この年になって、初めてわかることがある。俺は今、人生でいちばん幸せだ」と。その言葉が気になって、あとで理由を聞いてみました。

すると、「俺はできることは全部やった。軍隊にも行った。いろいろなことがあったが、この歳になって世の中の仕組みがわかるようになった。人生というのは、最後に帳尻が合うようにできているんだ」としみじみと語るんです。

思わず、「世の中の仕組みってなに?」と聞き直すと、「お前の年じゃ、わからん」と一蹴されましたけどね(笑)。

まぁ、親父の言う通りなのかもしれないけれど、不思議な縁あってアゼルバイジャン共和国と日本を結ぶ特命全権大使という職についている今、「世の中の仕組みが改めて見えてくる」というのがどんな感じなのか、何となくわかるようになってきました。

だから私は、年をとるということにネガティブなイメージを持っていません。

だって、見てみたいじゃないですか。年をとって、本来の姿になった自分を。そして、そんな自分がどんな風に世の中の仕組みというものを見ているかを。楽しみ以外のなにものでもないでしょ?

撮影:公家勇人

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森田豊
医師・医療ジャーナリスト
2022/11/07
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