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斎藤環「これからの医療は“病気を治す”より“健康の増進”。CureからCareへの転換です」

最終更新日時 2018/05/07

斎藤環「これからの医療は“病気を治す”より“健康の増進”。CureからCareへの転換です」

精神科医として思春期・青年期の精神病理学を研究していた斎藤環氏は、およそ30年前からひきこもりの人々と向き合い、1998年に『社会的ひきこもり??終わらない思春期』(PHP新書)を上梓。ひきこもり研究の第一人者として世界的に知られる存在となった。その後、美術・映画・漫画に対する深い造詣をベースに、批評家デビュー。2013年には、ヤンキー文化を解き明かした『世界が土曜の夜の夢なら』(角川書店)で角川財団学芸賞を受賞する。そんな、多方面に鋭くアンテナを張り巡らせている斎藤氏に、直近で最も関心を寄せているという「健康」について語っていただいた。

文責/みんなの介護

健康とは単に、病気でないこと“ではない”

みんなの介護 斎藤さんは、『人間にとって健康とは何か』(PHP新書)という著書の中で、現代社会における「健康」の概念がここ十数年の間で変わってきていると指摘しています。具体的には、どのように変化しているのでしょうか?

斎藤 従来の「健康」の定義は、「病気ではない」という、ごく消極的な意味合いのものでしかありませんでした。それに対して、WHO(世界保健機関)が提案している「健康」の定義は、「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること」とされています。1998年に新たな定義として「身体的・精神的・霊的・社会的に完全に良好な動的状態であり、単に病気あるいは虚弱でないことではない」が提案されていったん可決されたものの、採択が見送られたという経緯があります。

いずれにせよ、「健康」は単に「マイナスがない状態」ではなく、「複数の次元においてプラスの状態が保たれていること」という、より積極的に評価すべきものへと変わってきています。同時に、「健康」の概念はよりきめ細かくもなってきています。特に、心の健康を表す言葉として「SOC」と「レジリエンス」が注目されています。

SOCは「センス・オブ・コヒーレンス」の略で、「首尾一貫感覚」と訳されるもの。一方のレジリエンスは、定訳はありませんが、ストレスに対抗して病気にならない力という意味で「抗病力」と訳されることもあります。SOCにしろ、レジリエンスにしろ、どちらもより程度の高いほうが健康度が高いと見なされます。

みんなの介護 SOCとレジリエンスの概念について、もう少し噛み砕いて教えてください。

斎藤 それぞれの概念がどのように創出されたのか、その背景から語る方がわかりやすいかもしれません。

SOCは、ユダヤ人の医療社会学者アーロン・アントノフスキーが提唱したもので、アウシュビッツから生還した人たちの追跡調査をベースに生まれました。

第2次大戦当時、アウシュビッツの強制収容所に収容されていた人々は、極限のストレスにさらされていたため、運良く生きのびることができても、全体の7割の人が重篤なPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しんでいました。ところが、残り3割の人は、悲惨な体験を経たにも関わらず、健康的な生活を送っていたのです。

なぜ彼らは、最悪なストレスにさらされながら健康でいられたのか。アントノフスキーが彼らの特質について詳しく調べたところ、彼らに共通するある特性が明らかになりました。それがSOC、すなわち、過酷な状況に置かれても自分らしさをキープできる、首尾一貫感覚だったのです。

みんなの介護 ”レジリエンス”が生まれた経緯はどのようなものなのでしょう

斎藤 レジリエンスの方も、ホロコーストからのサバイバー研究がルーツになっています。

アメリカの心理学者サラ・モスコヴィッツは、ホロコーストから生還した子どもたちのその後に注目しました。するとここでも、深刻な健康状態に陥っている子どもと、健康で幸せな生活を送っている子どもの双方の存在が確認できました。そこで、健康に生活している子どもたちの共通点を調べたところ、どんな変化にもしなやかに対応できる、ある種の柔軟性とも言うべき特性が明らかになりました。この柔軟性こそがレジリエンスと呼ばれるものです。

今日では、SOCもレジリエンスも、健康を維持するために必要な特質だと考えられています。面白いのは、それらが共通点を持ちつつ、対照的とも言える特質だということ。「SOC」は、どんな状況に置かれても「変わらないこと」で健康を維持し、「レジリエンス」は逆に、変化する環境に合わせて柔軟に「変わること」で健康を維持します。

みんなの介護 この記事を読んで、自分自身のSOCとレジリアンスのレベルが知りたくなった人は、どうすればいいでしょうか?

斎藤 SOCをチェックするための13項目は、ネット上にもありますので「SOC尺度」で検索してみると良いでしょう。また、レジリエンス尺度やそれを高める方法について解説しているサイトもあるので、興味を持たれた人は各自チェックしてみてください。

ただし、私の本にも書きましたが、私自身はSOCやレジリアンスが高いことを、手放しで賞賛するつもりはありません。なぜなら、SOCが高いということは、ある種の鈍感さにつながる場合があるからです。また、レジリエンスの高い人は他人にだまされやすい傾向があるとも言われており、詐欺やマルチ商法に引っかかりやすい可能性があります。

「病気を治す」のではなく、「健康を増進させる」という考え方

みんなの介護 現代社会において、「健康」の概念が変わってきたのには、どのような背景が考えられるでしょうか?

斎藤 なぜ健康の概念が変わってきたのか。その背景にあるのは、医療の現場において、大規模なパラダイムシフトが起こりつつあるということ。難しい言い方をすれば、「疾病生成論」から「健康生成論」への転換です。

これまでの医療は、「病気の原因を見つけて叩く」というのが基本的な考え方でした。特に内科的医療においては、細菌感染症に対する抗生剤こそが理想的な医療モデルと言えるでしょうね(もっとも、最近は耐性菌の増加でそうも言えなくなりつつありますが)。原因となる細菌を見つけ出し、抗生剤で撲滅してしまえば、病気は治る。このモデルに従うなら、まずは正確な診断で病気の原因を明らかにし、それに見合った治療を行えば良いわけです。

みんなの介護 私たちが医療に対して持っている基本的なイメージですね。

斎藤 ところが近年、精神医療分野をはじめ、このモデルではうまく治療できない病気が増えてきました。例えば、いわゆる難病や、神経内科で扱う病気(ALSなど)の多くは、こうした従来の医療モデルでは治療できません。あるいは、ある種の精神障害のように、環境の側にストレスがあって起きている病気については、個人の治療だけしても解決しない。これまでのように、病気という「マイナス」を「0」に戻そうとするだけの医療モデルでは、もはや限界があることがわかってきたのです。昔から言われる「一病息災」なんていう考え方も、これに近いかもしれません。

そこでいま、医療現場で叫ばれているのが、「キュア(cure=治療)」から「ケア(care=介護・看護)」への転換です。たとえキュアできない病気であっても、ケアすることなら可能です。しかも、ケアすることでQOL(生活の質)を確実に上げることができる。言い換えれば、「病気に着目して、キュアでマイナスを0に戻す」発想から、「健康に着目して、ケアで小さなプラスを積み重ねていく」発想へ。これからの医療では、「病気を治す」ことより、むしろ「健康を増進させる」ことに力点を置こうという考え方ですね。

みんなの介護 斎藤さんの著書を拝読すると、「一方の極に『健康』、反対の極に『病気』を配置した直線軸をイメージしてみよう」と書かれています。健康生成論は、そのような直線軸をイメージするとわかりやすくなるかもしれませんね?

斎藤 そうですね。では、直線軸のイメージを使って、改めて説明しましょう。

これまでの疾病生成論による医療は、「0=健康」と「?1=病気」という」2つの目盛りしか存在しませんでした。そして、「?1」になってしまった人を診断し、その原因を探り、「0」にまで戻すことが医療とされていました。

それに対して、健康生成論による医療では、「-1=病気」と「1=健康」を連続した直線で結び、すべての人がその直線上のどこかに存在すると考えます。ある人は「?0.2」のところにいるかもしれないし、ある人は「+0.05」のところにいるかもしれない。

共通しているのは、この直線上では、つねに個人を病気のほうに押し流そうとする圧力が働いており、個人はその圧力に逆らうかたちで自らの位置を定めているということです。いわゆる「動的平衡」状態ですね。放っておけば誰もが「-1」の方向へ少しずつ落ちていってしまうこと。そうならないためには、つねに「+」の要素(=健康に良いこと)をプラスし続けたほうが良い。これが健康生成論の考え方です。

みんなの介護 なるほど。健康生成論では、「病気か健康か」の2者択一ではなく、「病気と健康の間」にいくつものレベルが存在すると考えるわけですね。では、先ほど解説していただいたSOCやレジリエンスといった概念は、健康生成論の中でどのように位置づけられるのでしょうか?

斎藤 特に予防医学の分野で有用性が指摘されていますね。

「病気を治す」医療から「健康を増進させる」医療へと転換する場合、その中間点として「病気を予防する」という発想も重要になってきます。しかも、病気は治療するより予防する方が圧倒的にローコストで済む。つまり、医療費の増大に歯止めをかける意味でも、予防医学の重要性は早くから指摘されていました。

そこで注目されているのが、SOCやレジリエンスといった概念です。これらの概念にはもともと、予防医学的な要素が含まれています。すなわち、SOCやレジリエンスであらかじめ健康度を上げておけば、それだけ病気になりにくいという考え方ですね。

特にSOCは、産業医学の分野で注目されています。産業医学とは、労働環境の中で、職業病などから労働者の健康を守ろうという学問。近年、ビジネスマンのうつ病が問題になっていますが、普段からSOCを高めるように生活指導していれば、うつ病の発症が抑えられ、企業の生産性を維持することができる。先ほどご紹介したように、SOCのレベルは13項目の質問で手軽にチェックできるため、産業医の現場でも活用されやすいようです。

「賢人論。」第65回(前編)斎藤環氏「幸福と健康の関係は、戦争と平和の関係に似ている。健康は平和と同様、物語性に乏しいんです」

健康って空気みたいに透明なんです。なかなか意識できるものではない

みんなの介護 最近あちこちで、「人生100年時代をどう生きるか」といったフレーズを耳にします。世界的に長寿化が進んでいることも、健康観の変化に影響を与えているのでしょうか?

斎藤 もちろん、影響を与えています。たとえ100歳まで生きながらえたとしても、そのうち20年間を寝たきりで暮らすのであれば、人生100年を享受できません。長寿化が進めば進むほど、いかにQOLを上げるか、健康寿命をいかに延ばすかが大きなテーマになるはずです。

例えば2000年代頃まで、自分で食事を摂れないご高齢の患者に対して、「胃ろう」という施術がごく一般的に行われていました。胃ろうは、栄養投与の方法としてはそれなりにメリットがありますが、QOLの尊重という観点から見れば疑問が残ります。そのせいか、最近では胃ろうを行うケースがめっきり減ってきています。

みんなの介護 本日伺ったような健康観の変化によって、私たちの暮らしはどう変わっていくでしょうか。

斎藤 健康って透明なんですよね。空気みたいに透明で、普段はなかなか意識できません。だから病気になって初めて、健康の有難味に気づいたりします。しかし、健康生成論の考え方に立てば、「0.5」とか「0.01」とか、健康にもさまざまな度合いやレベル(段階)があることに気づくでしょう。そして、健康にレベルがあるのだとすれば、自分の健康がどのレベルなのかチェックしたくなるし、「自分のレベルをより高めよう」と意識することも容易なはずです。

現代日本は格差社会だと言われています。実は「健康格差」というものもあって、これは経済格差と連動していて、富裕層のほうがより健康で長生きできるというデータもある。しかし、たとえ富裕層でなくても、自分の健康を高める意識さえ持ち、プラスの方向へと努力を積み重ねていけば、より健康的に長生きできるようになります。健康への意識を変えるだけで、自分が健康になるためのアクションを起こしやすくなるわけです。

健康に度合いやレベルがあることを意識すれば目標にしやすい

みんなの介護 斎藤さんは著書『人間にとって健康とは何か』の結論として、「過程としての健康を求め、状態としての幸福を享受する」と書かれています。これはどういう意味でしょうか?

斎藤 精神科医の中井久夫さんが、戦争と平和について、示唆に富んだ指摘をしています。戦争は「過程」であり、平和は「状態」である、と。

「過程」には始めと終わりがあり、物語性があるから、誰でも戦争について語りやすいし、アクションを起こす目標にもなりやすい。一方、平和は「状態」を指しているので、始めと終わりがわかりにくく、物語性に乏しく、アクションの目的になりにくい。確かにそうですね。だからこそ「戦争ができる国にしよう」という主張は勇ましく説得力を帯びますが、「平和を守ろう」という主張は弱腰で消極的に聞こえやすい。

みんなの介護 なるほど。我々は世界を”物語”で理解しているわけですか。

斎藤 幸福と健康の関係は、実は戦争と平和の関係に似ています。健康は平和と同様、多くの人にとっては、普段の当たり前の「状態」なので、始めと終わりが曖昧であり、行動目標にもなりにくい。一方、幸福は「過程」だから、始まりと終わり(=不幸の始まりなどと言う)があり、行動目標にもなりやすい。だから、「世界一幸福になりたい」という言い方はあっても、「世界一健康になりたい」という言い方はありません。

しかし、これまで述べてきたような健康生成論の立場に立って、健康に度合いやレベルがあることをイメージすれば、健康も「過程」として、目標にしやすくなります。また、幸福を「過程」としていたずらに追いかけるのではなく、他からもたらされる「状態」としてとらえることができれば、他人との比較にあくせくしないで、もっと生きやすくなれるでしょう。

「過程としての健康を求め、状態としての幸福を享受する」という一文は、そのような思いを込めて書きました。

ひきこもりは、ダムに流入する砂と同じ。蓄積する一方なんです

みんなの介護 斎藤さんが『社会的ひきこもり』(PHP新書)を上梓し、「ひきこもり問題」を社会に提起したのは1998年。あれから20年が経ちました。厚生労働省の現在の定義によれば、「ひきこもり」は、「仕事や学校にゆかず、かつ家族以外の人との交流をほとんどせずに、6ヵ月以上続けて自宅にひきこもっている状態」を指すのだとか。ひきこもりの最新事情は、どのようになっているでしょうか?

斎藤 2018年現在、ひきこもり人口は最低でも200万人はいるだろうと個人的には推計しています。1998年時点で100万人と推計していましたから、この20年間で倍増したと考えているわけです。ちなみに、2015年に実施された内閣府の調査では、引きこもりの推計人口をおよそ54万人としていますが、これは調査対象を子ども・若者(15?39歳)に限っているため。実際には、ひきこもりは40歳以上も相当数存在していますから、こういう年齢制限には意味がありません。

みんなの介護 ひきこもりはなぜ、増え続けているのですか?

斎藤 人は、一度ひきこもってしまうと、ひきこもりの状態から容易には抜け出せないからです。ダムに流入する砂と同じで、流出量に比べて流入量が圧倒的に多いから蓄積していく一方なんですね。ひきこもりの平均年齢は年々上昇していて、1998年の最初の著書には21歳とありますが、2016年の私の調査では37歳と、16歳も上昇していました。それだけ、ひきこもり人口の年齢構成は中高年の方向へと拡大しています。この調査時点での、ひきこもり平均月数は155ヵ月(12年11ヵ月)。なお、ひきこもりの親の平均年齢は66歳でした。

みんなの介護 男女比はどうなっていますか?

斎藤 かつては、男性のほうが多いと考えられていました。というのも、わが国には未だに男尊女卑の傾向が強く、「社会に出て働かなければならない」というプレッシャーは、男性のほうが女性より受けやすいからです。

例えば、学校を出た子どもが働かずに家にいる場合でも、女性なら「家事手伝い」でとりつくろうことができますが、男性なら即「ニート」「ひきこもり」などと後ろ指を指されてしまいます。その分、男性のひきこもりのほうが、どうしても顕在化しやすいわけですね。とはいえ最近の知見では、女性にも顕在化しないひきこもりが相当数いることが判明しており、男女比はニートと同様、それほど変わらないことがわかってきました。

ひきこもりの人が100人いたら、社会復帰できるのは5人弱

みんなの介護 一度ひきこもりになってしまった人が、社会に復帰できる確率はどれくらいあるのでしょうか?

斎藤 社会復帰にはさまざまなパターンがあるし、追跡調査できないケースも多いので、正確なところはわかりません。精神科医として、ひきこもりを30年以上診断してきた私の経験則からごく大ざっぱに言えば、病院や行政窓口に家族が相談に来るケースが全体の50%。そのうち、ひきこもり本人も相談に訪れるケースが30%。本人の通院後、就業にまで結びつくケースはさらにその30%。つまり、社会復帰できる確率は0.5×0.3×0.3で、4.5%ほどでしょうか。ひきこもりの人が100人いたとして、治療によって社会復帰できるのは5人弱という計算になります。これはあくまでも1医療機関あたりの推計ですが。

みんなの介護 それにしても、なかなか厳しい数字ですね。

斎藤 とはいえ、地域ぐるみでひきこもり対策に取り組み、大きな成果を上げている自治体もあります。例えば、秋田県藤里町。町の社会福祉協議会が民生委員、自治会、PTAのネットワークを駆使して全町くまなく調査したところ、人口3,800人の小さな町ながら、113人のひきこもりが見つかりました。人口比で約3%。そこで、ひきこもりの人たちに丁寧なヒアリングを実施し、積極的に就労支援を行ったところ、113人のうち50人が家を出て、さらに36人が働き始めたとか。

みんなの介護 藤里町のひきこもり対策が成功した要因は何だったのでしょう?

斎藤 まず、一軒一軒をていねいに戸別訪問して、ひきこもっている本人と直接コンタクトが取れたこと。こうした戦略は、小さな町だから可能だったのかもしれません。また、町役場の協力を得て、働く人にきちんと最低賃金が支払える就労支援施設を開設できたこと。特に大きかったのが、菊池まゆみさんという天才的なリーダーに恵まれたことですね。藤里町社会福祉協議会の事務局長である彼女は、ひきこもり支援について、あえて普遍的なモデルを作らなかったのです。

例えば、厚生労働省などのお役所がひきこもり支援に乗り出す場合、どの地域でも流用できるような、普遍的な支援モデルを構築しがちです。まず最初に、ひきこもり専門の精神科医1名、臨床心理士3名、精神保健福祉士3名などといった中心メンバーを選出し、そこに職員と予算をこれだけ付けて…などという風に、どうしても形から入ってしまうんですね。

みんなの介護 一般的な企業においてもよくみられるアプローチですね。

斎藤 はい。しかし、そんなステレオタイプの組織が、すべての地域の実情に即しているとは限りません。菊池さんがユニークだったのは、そういった「型」にハマらなかったこと。精神科医、臨床心理士、精神保健福祉士といった専門家は1人も入れずに、社会福祉協議会のスタッフを中心に支援の組織を作りました。

アプローチも天才的です。ひきこもり支援を始める場合、通常は実態を把握するところからスタートさせます。例えば、「あなたのお宅にひきこもりの人は何人いますか?」といったアンケート用紙を各家庭に配布するなど。ところが、菊池さんは、まずニーズの把握から始めました。「今度、こういう就労支援窓口を作りますが、利用したい人は何人いますか?」と、各家庭に尋ねたのです。「ひきこもり」という文言は一切使わずに。この逆転の発想は、お見事というほかありません。

みんなの介護 菊池さんは、どこにでも通用する普遍モデルではなく、まさに「藤里モデル」を作ったわけですね。

斎藤 私は、ひきこもり支援は「文化」であると考えています。どんな地域にも通用する普遍的なモデルが存在するわけではなくて、その地域の事情や実情に根ざした、独自のモデルが存在するはず。そんな、オリジナルでオーダーメイドのモデルを作るべきです。型にとらわれているとスピード感が出てこないし、自分たちで作っていくという熱意も生まれません。ひきこもり支援にしろ、高齢者支援にしろ、これから何らかの支援に取り組む場合は、その地域の文化を活かす方向で考えてほしいですね。

「賢人論。」第65回(中編)斎藤環氏「半分が所得税でまかなわれる年金。就業経験ゼロのひきこもりが2030年から受給し始めます」

所得税を1円も納めたことのない人が年金を受け取る…心配です

みんなの介護 ひきこもりに関連して、斎藤さんは「2030年問題」に警鐘を鳴らしています。2030年問題とはどういうものでしょうか?

斎藤 先ほど、ひきこもりの平均年齢は37歳だと言いましたが、一定のボリュームゾーンを形成するひきこもり第1世代が、今、50歳台を迎えています。ひきこもりの子どもを世話している親御さんは、わが子の将来を考え、子どもの分の国民年金保険料を支払っているケースが多い。すると2030年には、少なくとも数万人いると思われるひきこもり第1世代の人々が65歳に達し、年金受給資格を獲得します。そのとき、私たちの社会が彼らに対してどんなリアクションをとるのか、私としてはとても心配です。

というのも、公的年金の財源の半分は所得税でまかなわれているから。一方、ひきこもりの多くは就業経験がゼロなので、所得税を納付したことがありません。つまり、所得税を1円も納めたことのない人が、所得税を財源(の一部)とする国民年金を受け取ることになるわけです。

そのとき、彼らはフリーライダーと見なされ、社会からバッシングを受けるおそれが大いにあります。あるいは、バッシングをおそれた人は年金受給を諦め、孤独死する道を選ぶかもしれない…。もちろん、彼らの親御さんは彼らの分の年金保険料を納めていますが、それが充当されるのは年金受給額の半分だけ。もう半分は、結局誰かの納めた税金で補充されることになるわけです。

みんなの介護 斎藤さん以外に、この2030年問題に関して発言している政治家や有識者はいらっしゃらないのですか?

斎藤 私が知る限り、1人もいません。ひきこもりの人が100万人単位で存在することはすでに明白ですし、2030年問題は、統計データで確実に予測できる「未来」でもあります。にもかかわらず、為政者はもとより、識者ですらもこの問題に触れようとしないのは実に不可解なことですね。

2030年には、中高年男性の単身生活率が25%を上回るという野村総研のデータもあり、私たちの社会のあちこちで孤独や孤立が深刻化するのは確実でしょう。おそらく、そこから一足飛びに、超高齢社会が進行していくのではないでしょうか。

2018年1月、イギリスのメイ首相は「孤独省」を新設し、社会的孤立や孤独に苦しむ人々の救済に着手しました。こうした発想は、これからの日本にも必要になってくるかもしれません。

親が認知症となり将来を悲観、ひきこもりの子どもが無理心中するケースも…

みんなの介護 斎藤さんは、20年前の著書『社会的ひきこもり』の中で、すでに明るくない未来を予見していますね。今はひきこもりの子どもを世話している親も、やがて高齢に達し、体力的にも経済的にも、子どもを支えきれなくなるときが来る。子どもが働けないのであれば、そのときは親から世帯を分離して、生活保護や障害者年金の受給を検討すべきだ、と。

斎藤 20年前に抱いた危惧が、すでに現実のものになってきています。ひきこもり世帯の親が高齢化して働けなくなり、認知症などの重い病気を発症したりすると、将来を悲観した子どもが無理心中をはかるケースも出てきたわけです。逆に、重病を患った親が成人した子どもを道連れに無理心中を試みるケースもありました。子どもを世話していた高齢の親が自宅で病死し、たった1人残され、家庭内ホームレスとなった子どもが、そのまま孤独死するケースもいずれ出てくることが予想されます。

みんなの介護 そんな悲惨な事件が起こる前に、ひきこもりの人を救済する手立てはないのでしょうか?

斎藤 ひきこもり世帯の側からSOSを発信するのは難しそうですね。当事者も自暴自棄になりやすく、他者に助けを求めるのが苦手な方が多いです。だとすれば、福祉行政の側から、ある意味「攻めの姿勢」で、ニーズを掘り起こしていくしかないでしょう。生活保護や生活困窮者自立支援制度の必要性を聞いてまわる、とか。生活保護の受給者は、現時点でさえすでにバッシングを受けていますが、日本は先進諸国の中で、福祉に最もお金をかけていない国でもあります。せめて他の先進国並みに福祉の枠組みを拡大してもらえるよう、こちらは国に期待するしかありません。

とはいえ、明るい話題もあります。ここ数年、障害者枠の就労支援事業が拡大していて、ひきこもりの人も就業しやすくなってきたのです。これには非常に助かっていますね。ひきこもりの人にとって、障害者枠に応募するのには抵抗があるようですが、なにしろ十数年間一度も働いたことのない人がほとんどですから、見込みがありそうな人には「ここは割り切って、まずは就業経験を積もう」と説得しています。

介護をロボットに任せ過ぎると、される側の精神が荒廃してしまう恐れがある

みんなの介護 「ひきこもり」と「介護」の問題は、構図が似ています。前者は、ひきこもった子どもを親がどう支えていくかがポイント。後者は、介護が必要になった親を子どもがどう支えていくかがポイント。支える人・支えられる人の関係は真逆ですが、家族間のサポートが重要である点に変わりありません。ひきこもり問題の専門家である斎藤さんから、介護の問題解決につながるヒントを教えていただければ幸いです。

斎藤 先ほど、引きこもり支援は文化であると述べましたが、介護もまた、文化の一つとして考えるべきだと思います。今、私が注目しているのは、介護や看護など、人が人を支援する業界で「新しい人間主義」というべきものが台頭してきていること。「新しい人間主義」は、たとえば次の4つの「手法/思想」に象徴される動きです。

まず、介護業界における「ユマニチュード」。これはご存じの通り、フランスのイブ・ジネストさんらが開発した、対人接触の際のメソッドのこと。「目と目が合ったら2秒以内に話しかける」など、個人の尊厳を徹底的に重視した150の手法で構成されていて、認知症ケアの現場で圧倒的な成果を上げています。

精神医療の分野で注目されているのが、「オープン・ダイアローグ」というケアの手法(であり思想)です。これは、精神障害を持つ人に対してその関係者ごと治療に参加してもらい、治療チームとの対話を重ねながら関係性の修復をはかるというやり方。統合失調症やうつ病にも有効であると言われています。私がいま、最も啓発活動に力を入れている分野でもあります。

みんなの介護 やはりどちらも”人間”中心のアプローチなのですね。残り2つについても教えていただけますか?

斎藤 薬物依存症の現場では、「ハーム・リダクション」という考え方が話題になっています。これは、薬物依存の人に対して、「薬をやめますか、人間やめますか」と突き放すのではなく、「できれば薬を止めてほしいけど、たとえ止められなくても支援しますよ」と、相手に歩み寄る手法ですね。具体的にいえば、「ヘロインの常用はさすがに認められないけど、もう少し毒性の低いメサドンに置き換えるなど、薬物依存を命に別状のないレベルにとどめていきましょう」という手法です。

そしてホームレス支援では、「ハウジングファースト」といって、ホームレスの人にまず住居を提供しようという運動が広がりつつあります。これまでのホームレス支援では、手始めにフードスタンプを配布するなど、ホームレスの人が段階的に社会復帰できる仕組みを模索していました。ところが、実は最初から思い切って住む家を提供してあげたほうが、社会復帰率が高まることがわかってきたのです。

みんなの介護 これらを総じて説明する特徴とはどのようなものなのでしょう。

斎藤 これらの新たな手法/思想に共通しているのは、その中心に、常に人間がいること。それも、人間の現前性、身体性、言語を重視するという点が特徴的で、ちょっと古いタイプのヒューマニズムに通じるものがあります。

ただし、この新しい人間主義がかつてのヒューマニズムと決定的に違うのは、科学的なエビデンスを持っていること。かつてのヒューマニズムのように哲学や思想の文脈で正当性をアピールするよりも、「実際に人が関わったほうがこんなにも成果を上げている」と具体的にエビデンスを提示するわけです。そのため、一時的に”ポストヒューマン”的な意味で「人間離れ」が起きていた私たちの社会も、「人が関わることの重要性」を再評価せざるを得なくなってきました。

みんなの介護 ICTやAIなどの技術革新によって、社会の効率化や省力化が加速する一方、新たな別の動きが出てきたわけですね。

斎藤 その通りです。AIやロボット技術がどんなに進化したとしても、介護の未来は新しい人間主義の方向以外あり得ない。そう私は確信しています。

もちろん、介護の現場におけるロボットの有用性は否定しません。ヘルパーさんの負担を軽減し、介護をアシストしてくれるロボットの活用は大賛成。ただし、全面的な代替は不可能で、AIやロボットにできることには限界があります。それをしっかり見極めた上で、ロボットを活用すべきでしょう。

例えば、介護のほとんどをロボットに任せてしまうと、介護される側の精神が荒廃してしまう恐れがあります。省力化したつもりが、かえって手間が増えてしまうという、よくあるパラドックスが起こりそうですね。人として言葉を交わし、人として相手に敬意を払うこと。介護の現場では、やはり人にしかできないことの方が圧倒的に多いのです。一見手間がかかりそうなユマニチュードも、結果的には患者さんの自立度を高めるかたちで、介護者の負担を軽減しています。結局、人薬(ひとぐすり)にまさるものはありません。そのあたりは、実際に現場で働いている人たちのほうが実感なさっているのではないでしょうか。

「賢人論。」第65回(後編)斎藤環氏「介護の人手不足は待遇改善しかない。“惨めさ”を“希望”に変えるような発展可能性が必要」

介護現場に欧米人が1人加わると、歪んだヒエラルキーが一発で改善します(笑)

みんなの介護 ご存じの通り、介護業界では深刻な人手不足の状態が続いています。求人に人が集まりにくく、一度職に就いても、離職率が高い。この現状を打開するには、どうすれば良いと思われますか?

斎藤 私は経済の専門家ではないので、言いたいことを言います。介護の仕事が職業としてもっと尊重されるようになり、給与も全産業平均並みにアップさせること。つまり、介護職員の待遇改善しか打開策はありません。

私が最近提唱している理論に「惨めな責務理論」があります。これは、「惨めな気持ちになることがわかっているのに、どうしても果たさなければならない責務を履行する現場では、とかく暴力が横行する」というもの。一例として、理不尽な校則に従って生徒を指導しなければならない体育教師、などが挙げられるでしょう。体育教師が、自分でもバカバカしいと思いながら生徒の髪色チェックをしなければならないような現場では、得てして体罰などが常態化するものです。

みんなの介護 意に反して…というのはよく聞こえてきますね。

斎藤 このような惨めな責務は、精神医療の現場にも確かに存在します。もし、介護の現場にも存在するのであれば、少なくとも当事者が惨めさを感じないような、何らかの待遇改善が望ましいでしょう。たとえば自己裁量権を増強するとか、「この仕事を続けていれば、より高いポジションに上がることができる」といった発展可能性があるだけでも、「惨めさ」は「希望」に変わり得るのではないでしょうか。

みんなの介護 介護職の人材を確保するために、外国人労働者を受け入れるという考え方もあります。斎藤さんはどう思われますか?

斎藤 介護という仕事は、機械やロボットではなく、人にこそお願いしたい。先ほど、私はそう申し上げました。だから人であれば、国籍は問いません。外国人労働者を受け入れるのもアリです。現状では、アジア系外国人を想定しているのでしょうが、可能であれば、欧米人に来てほしいですね。これは私の先輩が実際にの経験したことですが、職場に欧米人が1人でも加わると、日本型組織の歪んだヒエラルキーが一発で改善します(笑)。そうすれば、多くの人が“惨めな責務”から解放されるかもしれません。

撮影:公家勇人

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森田豊
医師・医療ジャーナリスト
2022/11/07
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