中島岳志「私たちは、 誰もが「弱者」であることを 忘れてはいけない」
報道ステーションなどニュース番組のコメンテーターとしても知られる東京工業大学教授の中島岳志氏。同氏は『石原慎太郎-作家はなぜ政治家になったか』『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』など多数の著作でわかるように、ジャンルを超えて活躍する気鋭の政治学者だ。そんな中島氏は、相模原事件や国会議員の「生産性」発言に対して、「弱い立場の人々が『不要なもの』とされつつある」と日本社会に警鐘を鳴らしている。今一体、日本社会に何が起きているのか、お話を伺った。
文責/みんなの介護
コミュ力がない人間は「不要な人間」だとみなされる時代
みんなの介護 以前、中島さんが2016年に起きた相模原事件について書かれたコラムの文中に「不要なものとされる不安」という表現がありました。それまでニュースなどを見ていて漠然と感じていた気持ちの正体を言い当てられた気がしてとても印象に残っています。
中島 相模原殺傷事件の3ヵ月後に書いたコラムですね。あのとき、私は何人かの著名人が発した暴言を例に挙げて次のような仮説を提示しました。
社会によって暗黙のうちに決められた〝標準モデル〟の中にいることが日本社会での「集団的価値」になっている。そのため、そこから一歩外れれば「不要なもの」とみなされてしまうのではないかと皆が不安を抱えている。
おそらくは相模原事件の犯人もそんな不安を抱えており、〝標準モデル〟に適合しない「障がい者」を憎んで排除することで、自分は集団的価値の側にいると認めてもらいたかったのではないか。
事件の背景には、ある時期から日本の社会に根ざしてしまった〝必要な人間〟〝不要な人間〟という暴力的な二分法が影響を及ぼしているのではないか。
みんなの介護 そこでいう〝標準モデル〟〝必要な人間〟というのは、例えばどんな人を指していたのでしょう?
中島 ひとつ例を挙げるなら「コミュニケーションが上手で人間関係を円滑化できる人」となります。
実際、企業も採用の際にはコミュニケーション能力を重視していますし、学生の話では合コンで一番モテるのも話し上手や、場を盛り上げる男子だそうです。
逆にコミュニケーションの苦手な人は「コミュ障(コミュニケーション障がい)」というレッテルを貼られて敬遠されてしまう。昔はひとつの物事に集中して寡黙に取り組む姿勢は日本人の美徳として評価されていましたから、この1点を見ただけでも日本社会の〝集団的価値〟が明らかに変わったことがわかります。
こういった基準の流動化が「いつ何時、自分も〝必要ではない人間〟の側に立たされるかわからない」という不安を多くの人々に抱かせ、それを解消しようとする方へと向かわせているのだと私は考えています。
「リア充」に見えたひとりの若者が抱えた、心の闇
みんなの介護 相模原事件を起こした植松聖被告も、実は自分自身を「不要な人間」とされてしまうことへの不安を抱えていたということでしょうか?
中島 一見、植松という人は若者言葉でいえば「リア充」。彼女もいればパーティーを一緒に楽しむ友達もたくさんいる。決定的な行き詰まりに直面しているようなタイプとはほど遠い。それだけに、はじめは私も首をひねりました。
そのうち、彼が教師を目指したものの挫折していたこと、自分の人生が思うようにいかないことに対して悔しさや不満を持っていたことが徐々にわかってきた。
そして植松被告を知るうえで最も興味深かったのが、事件の半年前、彼が衆議院議長宛に出した犯行予告の手紙でした。
そこには陰謀論やナショナリズム、そしてスピリチュアリティー(神秘主義)、ナチズムに対する思い入れや持論が書かれていました。この持論が論理的であるかどうかはさておき、それら4つの事柄をつないでいくと見えてくるものがあります。
なぜ、今弱い立場の人々へ「暴力」が向かうのか
中島 まず「陰謀論」に飛びつく人は、とにかく何か邪悪なものに世界が支配されていて、本来あるべきもの、純真・純粋なるものが歪められているというイメージを持っています。自分の人生がうまくいかないのもすべてそのせいだと考えれば納得できるからです。
よって本来的なものに回帰しようという発想に至りやすく、結果、陰謀論者はナショナリストになっていくケースが少なくありません。
次に、その陰謀によって隠されている真実にたどりつくには常識を超えたパワーや超常現象が必要だという発想が連結されます。それが「スピリチュアリティー(神秘主義)」。UFOが見えるとか波動を感じられるとかは、純粋なるものを知る選ばれし者だけに備わった特別な能力だという理屈です。
そしてそれらの行き着く先にあるのは〝不純物〟は排斥しなければならないという排除の論理。植松被告にとってその不純物が〝障がい者〟でした。
みんなの介護 〝不純物〟が「本来あるべき世界を邪魔する邪悪なもの」はわかります。しかし、それがなぜイコールで〝障がい者〟となってしまうのでしょうか?
中島 植松被告が拘置所の中で描いた絵を見ると「美」へのこだわりが格別で、一方、「醜」に対して強い憎悪を抱いていることがわかります。
衆議院議長に宛てた手紙でも美容整形に言及し「進化の先にある大きい瞳、小さい顔、宇宙人が代表するイメージを獲得したい」などと述べていました。一見、意味不明ですが、彼なりに理想とする幸福のイメージがあり、それがすなわち〝美しいもので満たされた世界〟であったことが読みとれます。
そしてその価値観に照らせば障がい者は醜くて価値のない存在で、さらに、障がい者福祉にお金と時間が奪われているせいで、本来、皆を幸福にする「美」へ金が回っていない──だから障がい者は〝不純物〟=〝本来あるべき世界を邪魔する邪悪なもの〟なのだというのが植松被告の主張でした。
みんなの介護 その植松被告の考えが、どう今の日本社会とつながっているのでしょうか?
「生産性」発言と相模原事件に共通する問題
中島 植松被告の歪んだ考えを妄想の一言で済ませるのは簡単です。しかし、その向こう側にそのまま今の日本の社会が透けて見えてしまう。だからそうはできない。そこが一番の問題なんです。
例えば少し前の、杉田水脈(みお)衆議院議員による「LGBT(性的少数者)の人たちは子どもを作らない。つまり〝生産性がない〟」という暴言からも同じ構造が見てとれます。
性的マイノリティーの生き方を否定し、子どもをつくることを「生産性」などという言葉で語る態度は、結局、障がい者を〝不要なもの〟と見なした考え方と何も変わらない。そんな偏見に満ちた差別的発言を現役の国会議員が公然と発信している。
それが今のこの国のあり様なんです。
みんなの介護 杉田水脈代議士の発言に対し、中島さんは即座に「弱くある自由を守らなければならない」と反論を述べられていました。この〝弱くある自由〟とはどういう意味でしょうか?
中島 大前提として、私たちは「弱者」であることを忘れてはいけません。
誰しも最初は親の保護がなければ生きられなかったし、年老いてしまえば、また誰かに助けられなければ生きていけなくなる。いつ、交通事故に遭うかわからないし、突然、難病や大病を発症する可能性だってある。
自分が強いと思っていられるのは、実は人生の一時期に過ぎないんです。
だから、社会が弱い者に手を差し伸べなければならないのは人間本来のあり方であって、「弱くある自由」とは「弱さが人間の本質」だと受け入れ、互いに認め合うことに他なりません。
今日と同じ明日を迎えられるかはつねに不透明です。身体の不順やリスクに対して自己責任論を適用するのは大きな誤りといえます。
なのに、そんな自明の理さえ想像できない人、あるいは頑なに認めようとしない人が増えている。それもこれも世の中全体が、短いスパンの中でしかものを考えられなくなってしまったからです。これは大変な不幸だと思います。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた時代をひきずり続ける日本社会
みんなの介護 インターネットの書き込みを読むと、必ずといっていいほど特定の個人や団体に対する誹謗中傷が目に入り荒んだ気分になります。最近のこういった「不寛容」とされる傾向についてはどのように思われていますか?
中島 SNSでの炎上やネット右翼の問題ですね。最近、それについては社会学者たちの調査が進み、ようやく実体が見えてきたところです。中心は30代から50代の男性。比較的高学歴・高収入の40代が中心だといわれています。
みんなの介護 意外です。もっと若い層なのかと思っていました。
中島 今の若者はバブル以前の好景気の時代を知りませんから、そもそも日本はこんなものだと思っている。したがって、その意味ではたいして不満を持っておらず、現状がこれよりも悪くならないようにしてほしいという心性を示します。これは右傾化とは異なります。
みんなの介護 なるほど。しかし、分別のある40代・50代の男性が、なぜ、あれほどまでヒステリックに他者を攻撃するのでしょう? 若者に比べればずっと豊かで生活への不満も少ないはずなのに。
中島 今は会社員として高収入を得られていても、局面が変わればそれもどうなるかわからない。しかも、一度落ちてしまったら二度と浮き上がれないかもしれない。彼らはそういった不安に苛まれているようなんです。
それに加え、たとえば中国や韓国をバッシングしている人たちは、日本はこれまでずっとアジア諸国の中で最上位に立っていると思ってきた。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた時代の感覚をひきずっているため「日本のGDPが中国に抜かれた」とか「半導体シェアは韓国が世界一」とか聞くと、まるで自分の人生を否定されたような感覚に陥って怒りを覚えてしまう。現実を認めたくないんですよ。
今、私たち日本人は、史上はじめて人口減少という局面に直面しています
みんなの介護 中島先生はこうした右傾化現象と人口問題が関係しているとお話しされていますが、それはどういうことでしょうか?
中島 1980年代から傾向は顕在化しつつありましたが、戦後50年を迎えた1995年あたりがターニングポイントと考えられます。この時期に右肩上がりの経済成長を前提にして築いてきた日本の社会が違う局面に入った。
みんなの介護 違う局面といいますと?
中島 今、私たち日本人は、史上はじめての局面に直面しています。つまり、人口の減少です。
江戸時代の日本の人口は約3000万人。それを思えば明治以降に増加した人口がどれだけ膨大であったかおわかりになるでしょう。人口が増えれば消費者も増えて経済が拡大する。100数十年、そんな右肩上がりの経済成長期が日本人にとってずっと当たり前だった。そのプラス成長が完全に止まり、ゼロ成長時代に突入した。
場合によってはマイナス成長という局面もあり、成長したとしてもかつてのような右肩上がりの時代にはならない。景気による微増程度です。
この国が縮み始めたというショッキングな出来事を、いまだに政府も国民もきちんと直視できず戸惑っている。それが平成以降の私たちの姿なんです。
田中角栄の「バラマキ」がセーフティネットの役割を果たしていた
みんなの介護 現在のような急速な人口減少は予測できなかったのでしょうか?
中島 日本の少子高齢化は、すでに70年代に予測されており、それは政府も織り込み済みでした。少子高齢化に対応すべく、高度成長期につくられたシステムの見直しを図ろうという動きもありました。
そもそもは「55年体制」(注/自民党が1955年から長期にわたって政権につき、政権交代が行われなかった時期)によって汚職が続発して政治への信頼が大きく揺らぎ、このままではいけないという危機感が自民党内に生じたのがきっかけでした。
当時の自民党は、経済成長を背景に絶大な権力を行使して高所得者や大企業から高い税を徴収し、それを社会的弱者──低所得者、失業者、障がい者などへ「再分配」する政策を取っていました。
意外に思われるかもしれませんが、保守の自民党は長い間、再配分重視の政治を行なっていたんです。
みんなの介護 「バラマキ」は保守ではなく左派の政治手法だと思っていました。
中島 そして、その典型的な政治家が田中角栄でした。自分の地元に新幹線を引き、工場を誘致し、業界団体にどんどんお金を下ろすというあのやり方も、結果として地方の雇用安定につながり、事実上、セーフティネットの役割を果たしてたんです。
とはいえ、手段を選ばない賄賂や裏金が横行するような政治は決して許されません。田中政治の本質は、業界団体や村落のヒエラルキーー構造を利用した「不透明な再配分」です。そういった不公正なかたちでの再配分にメスを入れようとしたのが政治改革だったのですが、うまくいきませんでした。
そうこうしているうちにバブル経済が崩壊し、一気に日本経済がどん底に突き落とされ、経済成長とともにあった自民党は求心力を失いました。そして1993年の細川護熙政権の成立をもって55年体制は終焉を迎えたわけです。
「個人の境遇」はこれまでの行動の結果なのだから自己責任?
中島 本来、政治改革の目的は再配分に透明性を持たせることと、人口減少と税収減に備えることにありました。
ところが、それが遅々として進まなかったため、従来の自民党政治を全否定するような流れが加速。それが「新自由主義」の台頭でした。
新自由主義というのは政府による市場への介入を極力減らし、市場原理に基づく自由競争によって経済成長を促すという考え方。国家主導のもとに経済活動を目指す「大きな政府」に対し、こちらは「小さな政府」と呼ばれます。
具体的には公務員数の削減や政府予算の規模縮小を行い、規制を緩和して民間にできることは民間へ移管。それによって国民の税負担なども少なくて済むというメリットもあります。
これを強力に推進したのが2001年に発足し、長期政権となった小泉内閣でした。
みんなの介護 理念を聞く限り、新自由主義は正論だという気がします。実際、小泉首相は非常に人気もありました。何か問題があったのでしょうか?
中島 さきほど、自民党による「再分配」の話をしましたが、田中角栄の是非はともかく、高所得者や大企業から高い税を徴収し、それを低所得者、失業者、障がい者といった社会的に弱い立場の人たちのために使うという「富の再分配」は国家の本来的な役割のひとつでした。
ところが、新自由主義の考えでは高齢者の貧困や格差などの「個人の境遇」は、これまでの行動の結果であり自己責任。したがって政府に救済措置や補助を求めるべきではないとなってしまう。
みんなの介護 「自己責任論」ですね。
中島 はい。市場の自由競争にしても、規制を撤廃すれば大資本の圧倒的有利は動きません。結果、裕福な者はより裕福になり、社会的弱者との格差は拡大してしまう。小泉内閣で行われた「労働者派遣法」の規制緩和も、非正規労働者の立場をさらに厳しいものにしました。
つまり、小泉内閣の頃、従来は社会全体で互いに持ち合ってきたリスクを「自己責任」の名のもとに個人が負うことになり、それができない弱者は「福祉を食いものにしている」との批判を受けるようになった。
そして約20年が経過するうち、その考え方が国民の間に定着してしまったんです。
「相模原障害者施設殺傷事件」の植松被告の歪んだ発想や「LGBTの人たちは生産性がない」という杉田水脈氏の発言も、言うまでもなく、あの時代の極端な政策に端を発していると私は考えています。
小泉環境大臣が育休を取るだけで大騒ぎになっている
みんなの介護 「少子化問題」について、中島さんはどのような考えをお持ちですか?
中島 それについては、まず、少子化を悪だとする見方に異議を唱えたいと思います。
フランスの歴史人口学者エマニエル・トッドによると、出生率低下の原因は女性の識字率の向上にあります。つまり少子化も、近代以降、教育の機会を得た女性が社会進出を果たし、さまざまな生き方を選択できるようになった結果であって、むしろそういう世の中になることを私たちは目指してきたはずなんです。
結婚しないことや子どもを産まないことを悪のように決めつけるのはおかしい。そこを議論の出発点にしない限り、有効な解決策は見つからないと私は思います。
みんなの介護 第1に女性の自主性を尊重すべきとうことですね。
中島 そうです。とはいえ、少子化問題をどうにか軟着陸させたいのであれば、女性ばかりにしわ寄せがいかないように皆で努力する必要があります。
実際、今、身の周りを見渡しても安心して子育てができるような状況とは程遠い。小泉環境大臣が2週間の休みを取るだけで大騒ぎになっている〝育休〟の問題をみてもわかるように、子育ては女性がするものという意識に変化はありませんし、保育園の〝待機児童問題〟も未解決のままですから。
それ以前に、経済的に不安定であることを理由に子どもを持つのを諦めている人がたくさんいることもわかっています。
とにもかくにも両親が共働きをしながら子どもを育てられる環境を整えることが急務です。そしてこれらは、いずれも国家が政策として着手しなければならない再配分の問題であり、自己責任の問題ではありません。
政治の役割はバランスを取ることにある
みんなの介護 かつては子どもの面倒を祖父母や隣近所が協力してみてくれていた時代がありました。しかし、今は核家族化が進み、都市化などで地域コミュニティも消えつつあります。
たしかに、そういう孤立無援ともいえる状況の中で子どもを産んで育てるのは困難です。といって、どこまで行政に求めていいものなのかわかりません…。
中島 この国では、子育てや親の介護をはじめとする社会福祉の問題について議論しようとすると、すぐに国が面倒をみるべきか個人が面倒をみるべきかというような極端な話になってしまいます。
本来、極論と極論をぶつけ合って白か黒か決めることが政治ではありません。
極論と極論の間にある無数の選択肢のどこを取るべきかを決めてバランスを取る。それが政治の役割であり、議論もそうあらねばならないんです。
今の高齢者だって若い頃は政治に無関心でした
みんなの介護 中島さんは日頃から学生たちに接しているわけですが、今の若者は政治に関心を持っていますか?
中島 今の高齢者だって若い頃は政治に無関心でしたよ。投票に行っている若者の割合をデータで見ると、実は昔からたいして変わっていないんです。
というのも、若いうちは自分でやれることが多いし、できると思っているので政治に頼ろうとしない。結婚したり、親の介護をしたり、子どもができてからです、さまざまな制度の問題にぶつかって政治にコミットするようになるのは。これはいつの時代も同じ。普遍的に変わらない構造です。
ただ、政治離れは世界中で起きている現象で、とくに先進諸国に共通する病といえます。
「ポスト・デモクラシー」によって国民が政治に興味を失っている
中島 先進諸国で起きている政治離れは「新自由主義」の台頭に端を発しています。 まず、先進国がこぞって〝官から民へ〟と〝小さな政府〟を目指し、さまざまな問題をマーケットの論理に委ねた結果、政治の力でやれることが縮小し、投票に行くことの意味が希薄になってしまった。
次に、主要国では〝2大政党制〟と〝小選挙区制〟が採用されてきたのですが、1選挙区で1人しか選出されない小選挙区制では多数派の支持を得ないと当選できません。そのため、2つの政党の主張が似たり寄ったりなものになり、投票する側からすればはじめから選択肢がないのと同じになってしまった。
こうして「新自由主義」「2大政党制」「小選挙区制」という3つの要因が〝ポスト・デモクラシー〟と呼ばれる「主権者が主権から疎外されていると感じる状況」をつくり上げ、若者に限らず、あらゆる世代の主権者から政治参加の意欲を奪ってしまったんです。
みんなの介護 なるほど、選挙が機能不全に陥るプロセスがよくわかりました。 では、中島さん自身はこれから日本の政治はどうあるべきだとお考えですか?
中島 私は自身の立場を〝リベラル保守〟と規定しています。多くの人は〝リベラル〟と〝保守〟は相容れないものと勘違いしています。しかし、本当は、この両者は相性がいいんです。
みんなの介護 とおっしゃいますと?
中島 そもそも左派の思想は合理的に物事を進めていけば必ずいい方向へ進歩し、やがて理想的な世界を作ることができるという進歩主義に他なりません。それに対し、保守とは人間が時間をかけて紡いできた経験知や良識=伝統や慣習を重視する考え方を指します。
重要なのは、保守の根底には「人間は過ちを犯しやすい」という懐疑の念がつねに存在している点です。当然、それは自らにも向けられており、自分にも間違いがあるかもしれないと疑っているため反対意見にも耳を傾けられる。
そして、相手に理があればそれを認めて歩み寄り、微調整を重ねながら少しずつ前へ進むことができる。つまり、大切なものを守るために、現状に合わせて適切に変化していけるのが本来の保守政治のスタイルなんです。
ところが、近年の日本では保守と呼ばれる政治家たちが議論や対話を尽くさず、合意形成もないまま極端な構造改革や行き過ぎた新自由主義を主導している。
あえて言わせてもらいますが、彼らの一方的な態度は保守とは真逆。ただの権威主義にすぎません。
繰り返しになりますが、私たちは不完全で過ちを犯しやすい。だから、自分の力を過信せず、他者とのつながりを大事にして調和を目指してゆく必要がある。
子育てや介護という重要な問題についても自己責任論を振りかざすのではなく、今一度、社会全体の問題という認識に立ち、真摯な議論を行うべきだと思います。
撮影:公家勇人
中島岳志氏の著作『石原慎太郎: 作家はなぜ政治家になったか (シリーズ・戦後思想のエッセンス)』
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