中村秀一「年金が先進国並みに頼れる制度となった1973年以後、社会保障の歩みは、この年に設定した給付をスリム化する歴史でもありました」
中村秀一氏は、「福祉元年」と言われた1973年に厚生省(現・厚生労働省)に入省。1990年に老人福祉課長、2002年から老健局長を務めるなど、老人福祉や高齢者介護を担当し、2010年からは内閣官房社会保障改革担当室長に就任。以後、菅内閣、野田内閣、第二次安倍内閣のそれぞれで「社会保障と税の一体改革」の事務局長を務めた。現在、国際医療福祉大学大学院教授として教鞭をとる傍ら、医療介護福祉政策研究フォーラムの理事長として、社会保障制度の策定に関わる人たちをバックアップする社会保障のキーパーソンに、日本の変遷について忌憚なく語っていただいた。
文責/みんなの介護
認知症介護の問題を描いた『恍惚の人』が売れた1973年は、日本の福祉元年となった
みんなの介護 東京大学法学部を卒業して国家公務員になるというのは、典型的なコースだと思いますが、どうして旧・厚生省を選んだのですか?
中村 私の実家は長野県にあるんですが、先祖を遡れば松代藩の御典医をしていたという家で、この家に生まれた男子は代々、医師として勤めていました。父はその6代目で、長男の私は子どもの頃から「お前も医者になるんだぞ」と言われて育ちました。花火で遊ぼうとすると、「指を怪我したらどうするんだ」と叱られるような次第で、かえって反発したんですね。大学での進路は文系に進み、医師になったのは弟のほうでした。
とはいえ、医療そのものについては強い関心を持っていましたから、厚生省に入省するというのは私にとって自然な選択でした。
みんなの介護 当時の日本は、どんな状況だったのでしょう?
中村 私が入省した1973年は、その前年に認知症の老人の介護問題を描いた小説『恍惚の人』がベストセラーになり、老人福祉の立ち遅れが指摘されました。それと同時に、「福祉元年」とも言われた年です。日本の社会保障においても画期的なことが起こった年でもありました。
まず、1月には老人福祉法の改正によって、老人医療費の無料化制度がスタートしました。 9月には厚生年金法等の改正法が公布され、厚生年金の水準は現役労働者の標準報酬の60%を確保する「5万円年金」が実現しました。年金の給付水準を物価と賃金の変化に対応させる、物価スライド制と賃金スライド制が導入されたのもこのときです。
また、10月には健保法の改正が行われ、家族給付率が5割から7割に引き上げられるとともに、高額療養費制度が創設されています。
みんなの介護 日本の社会保障が1973年を境にいろいろ動き出した感がありますね。
中村 ええ、そうですね。ただ、国民の人口が1億人を超えたのは1967年のことで、当時は65歳以上の高齢者が占める割合(高齢化率)も7%に過ぎませんでした。高齢化率が27.3%の現在から見れば、日本はかなり若い国だったのです。
ですから「福祉元年」とはいっても、福祉の分野はまだまだマイナーな分野で、予算をとるのに大変な苦労を強いられるのが日常でした。ちなみに1973年、年金は先進国並みに頼れる制度となりましたが、その後の社会保障の歩みは、この年に設定した給付をスリム化する歴史でもありました。
その典型が、老人医療費の無料化です。この政策によって破綻に瀕した国保財政を救うため、10年後の老人保健法の制定によって無料化は廃止され、2002年10月の健保法の改正によって1割定率負担になって現在に至っています。
国民皆保険制度が成立して10年ちょっとの頃、「国鉄」「米」「健康保険」が大赤字の3Kと呼ばれていましたね
みんなの介護 そもそも日本の社会保障は、何を目標にして進んできたのでしょうか?
中村 ひとことで言えば、「先進国並みの福祉国家の樹立」ということになるのでしょうが、実は「福祉国家」という考えは、人類の歴史の中でもそう古いものではありません。
そもそもの起源は第ニ次世界大戦が始まる直前の1941年、アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトとイギリス首相のウィンストン・チャーチルがカナダ沖の海上で交わした大西洋憲章に遡ります。当時、アメリカはまだ参戦していませんでしたが、連合国側の戦後構想の一つとして「福祉国家」を定義したのです。ナチス・ドイツをはじめとする枢軸国を「戦争国家(Warfare State)」と捉えたとき、その対義的な位置づけとして「福祉国家(Welfare State)」という考えが生まれました。
そして、その構想は早くも戦時中のイギリスで提出された経済学者のウィリアム・ベバリッジの報告書によって方向づけられました。ベバリッジは、「ゆりかごから墓場まで」という言葉で表現したように、健康保険、失業保険、年金など、あらゆる国民がその対象になるような統一制度の整備を示したのです。
みんなの介護 日本は枢軸国側にいたため、連合国よりも「福祉国家」の樹立が遅れたわけですね?
中村 その通りです。戦後の復興で必要であり、日本が社会保障の骨格である国民皆保険・皆年金を達成したのは1961年ですから、10年から20年くらいの遅れをとっていたわけです。
今では日本の社会保障、特に国民皆保険制度は世界的にも評価されていますが、私が厚生省に入省した頃、すなわちこの制度が成立して10年ちょっとの頃は、深刻な財政赤字に陥っていました。「国鉄」「米」「健康保険」の3つの頭文字をとって「大赤字の3K」という言葉があったほどです。
みんなの介護 財政的に問題があった日本の社会保障が、国際的にみても遜色のないものとなったのはいつ頃ですか?
中村 60年代から70年代にかけての高度経済成長期、特に1973年に給付の改善が図られ、80年代頃にはようやく安定してきたと言えるのではないでしょうか。
ちなみに、先進35ヵ国が加盟するOECD(経済協力開発機構)が2016年に公表したデータによると、日本の国内総生産(GDP)に占める保健医療支出の割合が2014年度で11%を超え、アメリカとスイスに次ぐ世界第3位になっています。
ホームヘルパーサービスの普及を目指していた当時は、「ここは日本。スウェーデンとは違って他人を家にあげたがらない」と言われました
みんなの介護 1981年から3年間、中村さんはスウェーデンの日本大使館に出向していますが、これは福祉先進国の現状をご自身の目で見たかったからなのでしょうか。
中村 実際、スウェーデンというのはとてもユニークな国だと思うんです。戦前は非常に貧しく、多くの国民がアメリカへの移民になるほどでしたが、第二次世界大戦では中立主義を貫いたことで戦争の悪影響から免れ、早くから福祉国家を実現することができました。
スウェーデンにいる間は、さまざまな高齢者介護施設を見て回りましたが、良い勉強になりましたね。中でもホームヘルパーによる在宅ケアの充実ぶりには、目を開かれる思いがしました。
みんなの介護 そのご経験は、そのようにして日本の福祉へ反映されたのでしょうか。
中村 このときの経験が活かされることになるのは、スウェーデンから帰国して6年後の1990年、老人福祉課長になったときのこと。
その前年末、今日の高齢者介護の発展の口火ともなった高齢者保険福祉推進10ヵ年戦略、通称「ゴールドプラン」が策定され、その実施を促進するための老人福祉法等(福祉8法)の改正が行われたのです。
ゴールドプランは税金を財源にした措置制度であり、それまで「低所得者」中心だった介護サービスをいかにして国民各層のニーズに適合させ、サービス量を増やしていくかが大きな課題でした。そのためには介護施設の入所措置権を都道府県から市町村に委譲する必要がありましたが、それに向けて福祉8法が改正されました。
結局のところ、介護サービスがどんなものかを知らなければ、ニーズは生まれない
みんなの介護 措置制度によって都道府県が行っていた介護事業を市町村に委譲する──。言うは易しですが、実際に行うのはかなりの難事に思えますね。
中村 ゴールドプランでは、2000年までにホームヘルパーを10万人まで増やすこととしていました。そこで、各市町村の首長にお会いして、「みなさんの地域のホームヘルパーさんをもっと増やしてください」と売り込む仕事をしたわけですが、もちろん、おっしゃる通りの難事業でした。
そのとき、多くの首長さんから聞いたのは、「中村課長はスウェーデン帰りだと聞くけれど、ここは日本です。日本人は、ホームヘルパーのような人を自分の家にあげたがらない」という言葉でした。当時、ホームヘルパーは100%が自治体に所属する公務員でしたが、「うちの役場にもヘルパーはいるけど、みんな事務所でお茶を飲んでますよ」という言葉も聞きました。
みんなの介護 28年前の話とはいえ、今の状況と比較してみると信じられない話に聞こえます。
中村 当時の状況を数字で分析するのは難しいんですけど、いろいろな資料をまとめてみると、自宅で寝たきりの高齢者が約24万人いたことが推計されています。それに対して、市町村に所属していたホームヘルパーが介護サービスを行っていたのは、一人あたり年間で48日。週1回に満たないんです。
現在の数字と比較すると、当時はホームヘルパーがいかに普及していなかったかがわかります。2016年10月の時点だと、要介護でホームヘルパーを利用している方は約130万人いますが、その人たちのヘルパーの平均利用回数は年間207日です。
みんなの介護 介護を受けている高齢者の数は5倍、平均利用日数は4倍に増えていますね。
中村 結局のところ、介護サービスがどんなものかを知らなければ、ニーズは生まれないということだと思うんです。
ところで、ゴールドプランは1989年4月に税率3%で導入した消費税を財源としたものでしたが、90年代半ばには消費税5%の引き上げを見越して整備目標を上方修正した「新ゴールドプラン」と、少子化対策の充実を図った「エンゼルプラン」が、翌年には「障害者プラン」も導入され、介護サービスの内容は充実していきました。
そうした中、さまざまな論議を経て2000年に介護保険制度が始まり、「措置から契約に」転換することによってサービス量の拡大がさらに容易となって現在に至ります。
介護保険制度の準備をしていた1990年代末、国民は月額5千円以上の負担に耐えられないと言われていた
みんなの介護 厚生労働省は、65歳以上の高齢者が支払う2018~20年度の介護保険料の全国平均が前年度から355円増えて月額5,869円になるとの集計結果を発表しました。介護保険がスタートした2000年度の保険料が月額2,911円だったことを考えると、約2倍に膨れ上がったことになります。さらに、団塊の世代がすべて75歳以上になる2025年度には約7,200円になるとの推計も出されました。中村さんは、このことについてどう思いますか?
中村 私は1990年代末に大臣官房政策課長として、介護保険制度の施行準備を応援していたんですが、その頃、月額5千円以上の負担に国民のみなさんは耐えられないだろうという「5千円限界説」が定説でした。
介護保険制度は3年ごとの定期見直しが仕組みとして定められているんですが、2003年、老健局長として最初の見直しにたずさわったときは、2000年以降のデータを見ながら慎重に行いました。
このとき目立ったのは、利用者が急増していることでした。2000年4月に要介護認定を受けた人は218万人でしたが、2002年8月には321万人と約100万人増、伸び率47%を示していたのです。介護サービスの利用者も、この間に149万人から238万人と67%増となっていました。
みんなの介護 介護保険の全国平均の保険料が「5千円限界説」を超えて5千円以上に達したのは2014年度のことですが、それは初めて行われた定期見直しである程度、予測されたことだったのですね?
中村 介護保険が始まった2000年の総費用は3.6兆円でしたが、現在は10兆円を超えています。
要するにこれは、「負担が増えた」という側面だけではなくて、「利用する人も増えた」ことの結果として見ていかなければならないと思います。
もちろん、高齢者介護の規模をこれだけ拡大することができたのは、従来の「措置制度」を「介護保険制度」に切り換えたからです。税金だけでは決して支えきれなかったでしょう。
みんなの介護 政治の世界では、介護保険制度に反対する動きもあったのですか?
中村 実際、2000年の実施前には「延期論」や「凍結論」が叫ばれて、実施が危ぶまれることがありました。もしこのときの抵抗で介護保険が実施できていなかったら、日本の高齢者介護は今のように機能していなかったはずです。
特養は当時、「見捨てられた親が子に入れられる」というスティグマで、なかなか利用が進まなかった
みんなの介護 高齢者介護を支えるために、そもそもなぜ介護保険制度が必要だったのでしょう?
中村 私自身が介護保険の必要性を実感したのは、1990年代前半に老人福祉課長として特別養護老人ホームの整備を担当し、その現状を探るリポートを書いたときです。
当時の特別養護老人ホームは措置制度で運営されていましたので、低所得の人は安いお金を払うだけで利用することができました。しかしその反面、中間所得層の人は応能負担となっていましたから、例えば一ヵ月に20万円の費用がかかるとすると、それをそのまま負担しなければならなかったのです。
また、特別養護老人ホームは当時、「見捨てられた親が子に入れられる」というスティグマがあって、なかなか利用が進まないという問題がありました。
みんなの介護 「老人ホーム=姥捨て山」という負のイメージがあったわけですね?
中村 その結果どうなるかというと、中間所得層の多くの人が、介護が必要になった親を病院に入れていたのです。老人医療費の無料化は1983年に廃止されましたが、有料になってからも一ヵ月9千円で済むという低負担でしたから。
みんなの介護 一ヵ月20万円の老人ホームと、一ヵ月9千円の病院──。比べるまでもなく、誰もが後者を選びますね。
中村 ところが、病院に入れば幸福かというと、そうではありません。病院も高齢者をただベッドに寝かせておくわけにはいきませんから、検査をしたり、注射や点滴、投薬などもします。
高齢者には身体の負担になるばかりか医療費もかさみむので、少しも良いことがありません。
みんなの介護 介護保険制度は、こうした問題を解決するのにうってつけの手段だったわけですね?
中村 そうです。費用は保険システムでまかないますから、所得に関係なく、加盟者全員が同じ条件でサービスを受けられます。
また、保険料を払っている人にとっても、そのサービスを受ける際にも「親を見捨てる」というスティグマを持つこともなくなりますよね。
とにかく大事なのは、行政がサービスを割り振るのではなく、介護保険による契約関係によって、利用者がさまざまなサービスを選べるということなんです。
予防から治療、リハビリまでの高齢者医療を確立することは、ずっと以前からの課題でした
みんなの介護 現在、医療と介護の連携を目指した「地域包括ケアシステム」の構築が全国で進められています。長年、その推進にたずさわってきた中村さんは、どのように見ていますか?
中村 私が老健局長をしていた2003年に、局内に設置された高齢者介護研究会が「2015年の高齢者介護」という報告書をまとめましたが、「地域包括ケアシステム」という言葉はその中で初めて書かれたものです。
とはいえ、医療と介護が連携し、予防から治療、リハビリまでの高齢者医療を確立することは、ずっと以前からの課題でした。
それでも、それがなかなか思うように進まなかったのは、医療界と介護界の仕組みの違いという障壁があったからです。
みんなの介護 医療界と介護界では、どのような仕組みの違いがあるのですか?
中村 大きな違いは、これを担当する行政機関です。医療は都道府県が行い、介護は市町村が行ってきたのです。これを一つにまとめるのは至難の業で、実は私が1981年からの3年間、駐在していたスウェーデンも同じ問題に直面していました。
その解決策として、県が運営している老人病棟(長期入院病棟)と、市町村が担当している老人ホーム(サービスハウス)を別フロアにして、同じ建物の中に置いたのです。
それでも、所管が異なるフロアに高齢者を移動させるには複雑な手続きが必要で、容易ではないという声を何人もの職員から聞きました。
みんなの介護 場所を同じにしても、制度の壁は越えられなかったわけですね。
中村 その通りです。この課題の最終的な処方箋になったのは、1992年のエーデル改革です。スウェーデン政府はこの改革で、老人医療を担当する看護師などを県から市町村に移管することに成功し、医療と介護の連携を実現させることができました。
地域包括ケアシステムは「病院完結型」から、地域全体で治して支える「地域完結型」への転換を目指している
みんなの介護 「地域包括ケアシステム」もまた、都道府県が担当している医療行政を市町村に移そうとする動きと言えそうですね。具体的にはどのように進められてきたのですか?
中村 まずは1997年に成立した介護保険法で、それまで医療サービスとして行っていた老人訪問看護と老人保健施設、通所リハビリなどを介護保険の屋根の下で一元化しました。
また、要介護認定には3人以上の専門家が行うことになっていますが、そのうち1人は医師などの医療関係者に関わってもらうことを定めたのも、そのための第一歩でした。
みんなの介護 介護保険制度は、医療と介護の連携にも一役買っているのですね?
中村 ええ、そうです。介護保険法は3年ごとに定期見直しされると先述しましたが、1回目の見直し後に制定された2005年度の介護保険法改正では、介護の予防や要支援者のケアマネジメントなどの相談機能を持つ「地域包括支援センター」が創設され、各市町村に置かれることになりました。
地域包括支援センターを置くことで、高齢者の「自立支援」と「在宅医療・介護の連携」を目指した体制づくりをしたわけですが、財源の乏しい市町村には荷が重かったようで、なかなか進みませんでした。
本格的にこれが進んだのは2005年の介護保険法の改正で、地域包括支援センターの設置費用を介護保険のお金に当てて良いと定めたことです。
地域包括支援センターの数は現在、本所だけで4,800ヵ所、支所を含めると7,000ヵ所以上となっています。
みんなの介護 「地域包括ケアシステム」は、最終的にどんな世の中を目指して整備されているのでしょう?
中村 医療・介護について言えば「病院完結型」から、地域全体で治して支える「地域完結型」への転換ということになります。
医療と介護が手をたずさえることで、予防と治療・介護まで、地域全体が一体的に取り組んでいく社会が望まれています。
その大切な第一歩は、すでに踏み出されています。「地域包括ケアシステム」の歩みには、常に注目していきたいですね。
人手不足を解消するために、外国籍の人たちの人口を10%以上にするのは5年10年では無理です
みんなの介護 現在、介護業界は深刻な人材不足に悩んでいます。団塊の世代が75歳以上になる2025年には、約38万人の需給ギャップが生じるとする政府の推計もあります。この問題に解決策はあるのでしょうか?
中村 2017年の産業別就業者数を見てみると、働いている人が最も多い産業は「小売・卸売業」で1,075人、次に多いのが「製造業」で1,052人、そして3番目に多いのが「医療・福祉」で814万人となっています。
814万人という数字は全体から見ると「8人に1人」という割合になりますが、今年の5月に開かれた経済財政諮問会議での厚労省の報告によると、2040年にはほぼ「5人に1人」になるのが望ましいそうですね。
果たして、それだけの人材を確保できるのかは難しい問題ですね。ちなみに2002年から2016年の間で「医療・福祉」に就労している人は350万人増えましたから、かなりのペースだということは確かなんですが、それでは間に合わないという見方もあります。
みんなの介護 解決策の一つとして、外国人を受け入れるという方策が挙げられていますが、どう思いますか?
中村 EPA(経済連携協定)による外国人の看護師・介護福祉士の受け入れについては、2000年代後半に議論が始まりました。私が社会・援護局長を務めていた頃も、介護福祉士の部分について、臨時国会での協定の審議に加わりました。しかし省内でも意見が分かれ、どちらかというと否定的な意見が多かったのを覚えています。
その後、介護福祉士候補者の受け入れは、2008年度にインドネシア、2009年度にフィリピン、2014年度にベトナムから実施されました。受け入れ者に対する国家試験は2011年から始まり、2015年度までの5年間で402人が合格しています。
みんなの介護 具体的な人数を聞くと、根本的な解決にはなりにくいように思いますね。
中村 私もそう思います。現在、日本にいる外国籍の人たちは人口の約1%だといいますが、これをヨーロッパ諸国のように10%、あるいはそれ以上の割合にするのは5年や10年では無理でしょう。ヨーロッパ諸国は、長い歴史の中で議論を重ね、移民の受け入れ体制を少しずつ整えてきたのですから。
今後はアジア各国も高齢化するため、日本の介護問題のためにわざわざ来日してくれる人が増えるかは疑問
みんなの介護 この施策を進めていくうえで、他に必要なのはどのようなことでしょうか。
中村 外国人にとって、日本が働く場所として魅力的なのかということも考えていくべきでしょう。今後はアジア各国でも高齢化が進みますから、日本の介護問題のためにわざわざ来日してくれる人が増えていくかということも疑問です。
みんなの介護 外国人に頼れないとなれば、介護ニーズを減らしていくしか方法はなさそうですね。
中村 2003年に最初の介護保険見直しをしたとき、私は次の3つの点を重要課題として指摘しました。
1.要支援の該当者を要介護としないよう、介護予防を強化する
2.要介護者に対しては、介護度を改善し、できるだけ悪化させないための介護サービスが求められる
3.介護が必要な状態になっても、可能な限り在宅で暮らし続けられる介護サービスを提供する
要約すれば、「自立支援」と「在宅の重視」となりますが、このときから15年後の現在でも、この課題はまったく変わっていないことに驚かされます。
その他の施策としては、センサーや介護ロボットなどの技術革新や、ICT(情報通信技術)を活用して事務処理を効率化し、生産性を上げていくことが考えられます。もしかすると、例えば「5人に1人」という現状を「6人に1人」くらいに和らげることができるかもしれません。
小規模が経営面のデメリットなのであれば、複数の事業者が連合して研修や送迎を共有する方法も考えられる
みんなの介護 ところで、東京商工リサーチの発表によると、2017年度の「老人福祉・介護事業」の倒産件数が、介護保険法が実施された2000年度以降、最多の115件に達したそうです。業種別に見ると、「訪問介護事業」が47件、デイサービスなどの「通所・短期入所介護事業」が44件、「有料老人ホーム」が9件、サービス付き高齢者住宅などを含む「その他の老人福祉・介護事業」が8件だったそうです。これをどう分析しますか?
中村 かつて、通所介護施設の推移を調べてみたことがあるんです。日本には中学校が1万1千校あるんですが、2008年頃は一中学校区に通所介護施設が0.8ヵ所しかありませんでした。しかし現在では一中学校区あたり4ヵ所を超えているんです。そのため、3年ごとに行っている介護報酬の改定では、2015年度と2018年度の2回で通所介護施設にマイナスの改定が行われました。
もちろん、そのような調整の結果が事業者の倒産に直接関係しているかどうかはわかりません。「人材不足」や「競争の激化」など、他にもさまざまな要因が考えられますので。
みんなの介護 介護事業者のほとんどが小規模事業者で、少しの業績低迷にも絶えられないということが要因であるとも言われています。
中村 規模が小さいことで経営面でのデメリットになっているのであれば、複数の事業者が連合してスタッフの研修や利用者の送迎などを共有するといった方法も考えられます。
そもそも、倒産件数が少ない状態が理想的かというと、必ずしもそうとは言えないのではないでしょうか。「競争の激化」というのは事業者にとっては厳しい状況には違いありませんが、利用者にとってはさまざまな事業者の中から自分に合ったサービスを選べるというメリットに繋がります。今はその過渡期にあって、事業者にとっても、利用者にとっても理想的な形を模索している時期と言えるのでしょう。
2040年をピークにして高齢者と医療・介護サービスの需要は減る。そこから先は”撤退戦”です
みんなの介護 団塊の世代が75歳以上になる2025年まで、あと7年。「社会保障と税の一体改革」が目指している「あるべき医療・介護の提供体制」の構築は、順調に進んでいると言えそうですか?
中村 「社会保障と税の一体改革」において、2025年という未来が設定されたのは、政府が政策を決めて実行していこうとするとき、どんなに長期的な計画を立てたとしても10年が限度だからです。ですから、高齢者人口の増加に対応する、医療・介護サービスの量的な確保は、2025年で終わりというわけではありません。
全人口に占める高齢者割合(高齢化率)は現在27.3%ですが、2040年には35%を超えると推計されています。
つまり、団塊の世代の子どもである団塊ジュニアが高齢者になる第二の波が来るわけです。ですから、「社会保障と税の一体改革」の次のステップとして、2040年までの「あるべき医療・介護の提供体制」の構築を考えていかねばなりません。
みんなの介護 つまり、2025年からさらに10~15年先の未来を今から考えておくべきというわけですね?
中村 その通りです。ただし、高齢者人口は2040年をピークにして減っていきます。それと同時に、医療・介護サービスの需要も減ることになりますから、そこから先は撤退戦ということになります。
みんなの介護 2040年以降は、サービスを拡大していく必要がなくなるわけですか。
中村 ちなみに国民全体の医療費が2016年に40兆円を超え、以後も増え続けて毎年のように「過去最高」と報道されていますが、高齢化で医療費が増加するのは2030年頃までです。医療設備や技術、薬剤などの高度化で医療費があがる可能性を抜きにして考えれば、2030年以降は人口の減少が医療費の上昇を抑えてくれるのです。
みんなの介護 よくわかりました。ちなみに2030年というと、中村さんは82歳。2040年は92歳ということになります。なんとかそこまで生きて、日本の社会保障が無事に機能している様子を見届けたいと思いませんか?
中村 寿命ばかりは自分でコントロールするわけにはいきませんので、何とも言えません(笑)。とはいえ、私は2014年2月に内閣官房での「社会保障と税の一体改革」の任から離れましたが、それ以後も国際医療福祉大学の大学院で慣れない教授職に就いたり、医療介護福祉研究フォーラムで勉強会を開いたりしているのは、私に「手を貸してほしい」という求めがあるからです。そのように人から求められるのは非常に幸せなことで、これからも力のある限り頑張っていきたいですね。
撮影:公家勇人
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