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小池龍之介「「欲望があるからしんどい。だから、欲望を捨てる工夫をする」ブッダの教えはシンプルです」

最終更新日時 2018/10/08

小池龍之介「「欲望があるからしんどい。だから、欲望を捨てる工夫をする」ブッダの教えはシンプルです」

宗派仏教を超えた立場で自身の修行を行うかたわら、著作や一般向けの座禅・瞑想指導を行っている小池龍之介さん。そもそも仏教の宗派というものは、過去の時代の空気に影響を受け、形を変えて生まれてきたものだが、小池さんは開祖であるブッダの教えを見直す中で、現代に生きる人の心に響く仏教を復活させようとしているように見える。鎌倉市にある拠点のひとつ、月読寺を訪ね、そもそも「彼が何を求めているのか」を聞いてみることにした。

文責/みんなの介護

他人の悪口を言ってはいけない、食べ過ぎてはいけないなど、ブッダは素朴だった

みんなの介護 ひとくちに仏教といっても、日本国内だけでもさまざまな宗派があり、その教義や修行の実践法などは異なります。小池さんは仏教を、どのように捉えていますか?

小池 ブッダは、仏典というものを遺しませんでした。まるで、文字にすることで教えの内容が変わってしまうことをほのめかしたかのように。

それでも、最古にまとめられたものと言われる「ダンマパダ(発句経)」という仏典には、その肉声に近いであろう、いくつかの素朴な言葉が記されています。

その中で、「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)」といって、ブッダの教えをひとつの偈(詩句)に要約した一節があるんですが、私はその言葉を今のわかりやすい言葉に訳して毎日、節をつけて唱えています。また、瞑想指導をする際にも集まった方々と一緒に唱和しています。こんな風に。

身口意(※1)の悪 遠ざけて
すべて善きことのみぞする
かくて心 浄むること
すべての覚者(※2)かく教えり
耐えぬくこと 苦を忍ぶこと
これぞ至上の修行にて
涅槃(※3)をうることのみだけぞ
至高の幸福なることと
かくは覚者 説きたもう
他人を悪しく言うなかれ
あなたが気分を害すなら
道を踏み外す者となる
ののしらずして 傷つけずして
聖なる戒(かい)を守りぬき
食べ過ぎずして 満ち足りて
ひとり静かに寝起き坐す
かくて内観に励むこと
すべての覚者 かく教えり

※1 身口意(しん・く・い)/身体と言葉、心のこと。一切の業(ごう)が生まれる原因とされる。
※2 覚者(かくしゃ)/目覚めた者、悟った者のこと。サンスクリット語では「ブッダ」という。
※3 涅槃(ねはん)/仏教における修行の究極目標のこと。サンスクリット語では「ニルヴァーナ」という。

みんなの介護 「般若心経」のように漢字の並んだお経ではなく、とてもわかりやすい言葉になっていますね?

小池 しかも、悪いことを遠ざけて善いことをしなさい、他人の悪口を言ってはいけない、食べ過ぎてはいけないという具合に、内容もわかりやすいものです。ブッダは本来、このような素朴なことをおっしゃる方だったと思います。

欲望を捨てることは難しい。しかし、不可能ではない

みんなの介護 ブッダの本来の教えとは、どんなものだったのでしょう?

小池 それは、とてもシンプルなものです。どんなことなんだろうと数分間、考えを巡らせなければ理解できないようなものではなく、パッと聞いてパッとわかるような。説明すると、次の2行で済んでしまいます。


欲望があるからしんどくなる。
だから、欲望を捨てる工夫をしましょう。

ここで言う「欲望」は、「期待」と言い換えても良いでしょう。

例えば、「大事な人として扱われたい」というような期待、それが欲望です。そういう欲望を持った人にとって、人から非難されるようなことは苦しい経験になります。悲しくなったり、イライラして怒りだす人もいるでしょう。

こういう感情は、何もないところから自然に起こるのではなく、「大事な人として扱われたい」という欲望から生まれるものです。悲しみもイライラも、欲求が満たされないことで起こる感情です。

ですから、欲望を捨てることで人は楽になる。苦痛から離れることができる。それがブッダの教えの本質だと私は考えています。

みんなの介護 なるほど。しかし、「大事な人として扱われたい」と思っている人が、簡単にその欲望を捨てられるでしょうか?

小池 難しいでしょうね。簡単なことではありません。でも、それは挑戦しがいのあることです。根気強く続けていけば、少しずつ登っていける。不可能ではないと私は思っています。

「賢人論。」第74回(前編)小池龍之介氏「煩悩を潰すために瞑想をして欲望の記憶を観察し、圧縮し、クリーニングする」

瞑想で欲望が消せると思えても、油断すると心はすぐに乗っ取られてしまう

みんなの介護 小池さんの著書『坊主失格』(幻冬舎文庫)を読むと、小池さん自身、幼いころから強い欲望を抱えて苦しんでいたことが書かれていますね?

小池 その通りです。私は人一倍、欲の深い人間でした。特に、先ほど述べた「大事な人として扱われたい」という欲望は幼いころから強かったです。

大学時代でも、友だちと会っているときに会話がとぎれたり、相手がつまらなそうな顔をしたりすると、イライラしてすぐに機嫌を悪くしてしまうことがありました。「こんなはずじゃない。自分は人の興味を惹ける、おもしろい人間なんだ」と反発して、気持ちを乱してしまうんですね。突然、会話を打ち切ってその場を去ってしまうこともありました。

同じようなことは家族や恋人との間でも起こりました。相手が親しい人だと、攻撃的な言葉を吐いて、わざと傷つけようとしてしまうんです。ひとことで言えば、まったくの“自己中”人間です。

みんなの介護 そんな小池さんが欲望を捨てるためにどんなことをしましたか?

小池 まずは、自分を見つめることが大事だと思って、自分がなぜいつも怒ったり、イライラしているのか、理由を考えてみることにしました。そう、自己中心的だった頃は、自分の乱れた感情が欲望の影響を受けていることに気づいていなかったのです。

その気づきの助けになったのが、瞑想です。そのいきさつは『坊主失格』にも書きましたが、あまりに心の乱れた生活をしていたため、僧侶である父に勧められたのです。はじめは気が進みませんでしたが、「1週間だけやってみよう」と期限を決めて、試しにやってみたのです。

すると、瞑想によって心の乱れが鎮まったり、それがどのようにして起こったのかを客観的に観察できるようになりました。

とはいえ、その後は朝の起床後や就寝前に少しだけやってみる程度で、自分の内面にしっかりと意識を向けられるようになるまでは1~2年くらいかかりました。

みんなの介護 その間、どんな変化が訪れてきましたか?

小池 普通に生活をしている場でも、「あ、今、自分は機嫌が悪くなりそうだぞ」と、自分の心の中で自己愛が発動する瞬間を自覚できるようになりました。そして、自覚して感情を手放すことができるようになったのです。

そうやって自分の心を観察してみると、イライラしたり人に怒りを感じてしまうときというのは、いつも同じパターンなのです。「大事な人として扱われたい」という欲望があって、それが満たされていないと感じたときに機嫌が悪くなっていく。なんだかバカバカしいなぁと思いました。

みんなの介護 そうやって自分の欲望に気づくことによって、欲望を消すことができたわけですね?

小池 もちろん、すぐに消すことができたわけではありません。はじめの段階では、このまま瞑想を続けていけば心の乱れを消すことができる、という方向性がわかっただけで、消えたと思っていた欲望が気づくとまたポッ、ポッと出てきたりする。

欲望が湧いてくれば、その都度消せば良いと思っていても、油断をすれば、欲望に心が乗っ取られてしまうこともある。まさに一進一退です。

煩悩から開放されると、それまでの考え方の形がいっきに砕け散る可能性がある

みんなの介護 先ほど小池さんは、「欲望を捨てることは難しいことだけど、不可能ではない」とおっしゃいましたが、その挑戦は今も続いているのですね?

小池 欲望を含め、身心を乱し悩ませる心の活動を煩悩といいますが、すべての煩悩から解放されて、自由な心境になることを解脱といいます。

言い換えれば、世界のすべての現象はすごい勢いで移ろっている、そこに執着することはできない、自分なんていないんだということを気づく、というより、そのことが体験的にバーンとわかる。それまでの考え方の形がいっきに砕け散るようなことが起こるんです。

これまで瞑想によって何度かそれに似た体験をしたことがありますが、実はそれですべての煩悩がなくなったわけではありません。これまで積み重ねられてきた煩悩はまだ記憶の中に眠っていて、それらを一つひとつ潰していくという地道な作業があるんです。

みんなの介護 それはどんな作業なんですか?

小池 瞑想すると、過去の自分のある時期の感情の群のようなものに触れることができるようになるんですが、その都度それらをクリーニングするように洗い流すんです。

具体的に言うと、つい先日は20代半ば頃の私が好んで聞いていた音楽から受けていたマインドコントロールを解くことをしていました。修行生活に入って音楽を聴かなくなって久しいにもかかわらず、その当時に聴いていた言葉が無意識の中に今でもこびりついているんです。それを浮かび上がらせて潰していく。

そのほかにも、食欲とか、性欲などについての欲望の記憶があって、それらを瞑想によってじーっと観察して、圧縮して、クリーニングしていくのです。1時間の瞑想でそれができるときもあれば、1日かけてもできなくて、翌日に持ち越すこともあります。

みんなの介護 なんだか、途方もない作業のようにみえますね。

小池 本当に途方もない作業で、私自身、生きている間に終えられるかどうかわかりません。

客観的というよりは、ガンジス河のほとりから眺めるように自分を見つめる

みんなの介護 瞑想は、自分を「無」にすることを目的としているのでしょうか?

小池 「無」になることは副作用としてあるかもしれないけれども、私にとって、それ自体が目的になることはありません。

私が瞑想に求めているのは、「気づき」と「集中」、そして「無執着」です。心の乱れが自分の欲望から起こっているのだと気づき、そんな自分を集中して見つめ、最後は「まぁいいか」という無執着に至るための行いです。

みんなの介護 頭をからっぽにする必要はないのですか?

小池 何も考えない状態は、確かに気持ちの良いものですけど、それでは「自分が何を考えているのか」への気づきは得られませんよね。とはいえ、論理的にものを考えて、分析して、理解するという思考法とも違います。

例えば、自分がイライラしていたり、怒っていたりする心の乱れが、「大事な人として扱われたい」という欲望から来ているという「気づき」は、そのような論理的な思考によって起こることですけど、それだけでも満足感を得られはするでしょう。

瞑想では、そこで満足してしまうのではなくて、さらにもう一歩進んで、自分を集中して見つめます。すると、「ああ、自分は今、気づきを得て、気持ちがよくなっている。他の人より頭がよくなった気がして満足している」と、まだ知識欲という欲望にとらわれている自分を発見するんです。

みんなの介護 客観的な目で、いろいろな角度から自分を見つめるということですか?

小池 客観的というより、ずっと遠くの別世界から見つめると言ったほうが適切かもしれません。ガンジス河のほとりで、向こう岸を眺めるかのように。

普通、物事を観察すると、観察した対象から何らかの影響を受けるものです。例えば、仕事がうまくいかなくてイライラしている自分の姿は、遠くから眺めたとしても、イライラした感情が生々しく伝わって、そこから逃れられなくなってしまいます。

でも、そのイライラしているのがドイツに住んでいるシュタインさんという人だったとするとどうでしょう?「この人は仕事がうまくいかなくてイライラしているんだな。欲望に支配されてしまっているんだな」とひとごとのようにして観察すれば、その人がどんな状態にいたとしても、「まぁいいか」という気持ちになりますよね。

瞑想が深くなると、自分をそのようにして見つめることができるんです。

みんなの介護 そんな瞑想が行えるようになるには、それなりの訓練が必要なのでしょうね?

小池 そうですね。私が瞑想を始めたばかりの頃は、さすがにガンジス河の向こう岸という具合にはいきませんでした。

でも、これを続けていけば、心の乱れに悩まされることはなくなるという実感があって、何度も回を重ねることで瞑想を深められるようになりました。

瞑想は騒音の中でも行える。「自分は今、騒音を不快だと思っている」という気づきのきっかけにすらなる

みんなの介護 瞑想するときの姿勢についてですが、やはり仏像のように結跏趺坐(「けっかふざ」。両足の甲を反対の腿に乗せる)が理想でしょうか?

小池 両足で組むのが難しければ片足だけでも良いですし、普通のあぐらをかいた状態でも構いません。

両足でしっかり組むのは、身体の安定を保つためです。瞑想が佳境に入ってくると、過去の自分の感情のエネルギーがうわーっと上がってきて、身体全体を激しく震わせたり、左右前後に傾いて倒れたりすることがあります。そのとき、足をしっかり組んでいれば、うまく力を外に逃がすことができるんです。

みんなの介護 瞑想を行う場所は、静かなところが良いですか?

小池 最初のうちは、そのほうが集中できるでしょうね。でも、多少慣れてくれば、うるさい音を聞いて、「今、自分は騒音を不快だと思っているな、どうしてだろう」と、気づきのきっかけとして利用することができるようになるでしょう。

みんなの介護 「起床後や就寝前にやる」という風に、時間を決めて日課にすると効果はあがりますか?

小池 規則性というのは、効果とあまり関係がないように思いますね。場所も問いません。屋内でも良いし、野外でも良い。いろいろな環境で試してみれば、いろいろな気づきを得られるかもしれません。

先日、インドの仏跡を巡礼しながら瞑想をする旅をしてきたんですが、最初に降り立ったとき、首都デリーの大都会の喧噪に驚きました。四六時中、車のクラクションが鳴っていたりして、音のシャワーを浴びたような気になりましたが、すぐに慣れました。

「賢人論。」第74回(中編)小池龍之介氏「感情をコントロールすることの先に待っているのは、無執着です」

小さなことで心が乱れなくなってくると、世界がシンプルに見えてくる

みんなの介護 瞑想を続けていくと、心にどんな変化が現れてきますか?

小池 小さなことで心を乱すようなことがなくなる、心が乱れそうになっても感情のコントロールができるようになるというのが最初の段階だとすると、次の段階では、世界が非常にシンプルに見えてくるようになります。

目の前の「これ」や「それ」、「あれ」などのいろいろな要素があって、そのどれをも選べる状態が人間にとっての自由であり、幸せな状態なんだと思う人もいるかもしれません。

しかし、「これ」を選んだときに、「あれ」を選んだほうが良かったんじゃないかと後悔の念が湧けば、「あれ」も選びたい、「それ」も選びたいと次々に欲望が生まれ、とらわれてしまいます。

瞑想を通じて欲望から遠ざかることができたとき、見えてくるのは「これ」でも良いし、「あれ」でも良い、もちろん、「それ」でも良いという景色です。

みんなの介護 ものに対する執着なしに、「まぁいいか」とすべてを受け入れることができるわけですね?

小池 その通りです。以前、私はお米や野菜などの食べ物について、化学肥料を使っていない、無農薬のものを選びたいというこだわりを持っていました。そのほうが身体に良いことに加えて、薄めの味つけでも充分に食材の味が引き出されるからです。

ところが、身体に良いものを食べたいというのも、ある種の執着なのではないかと気づいてからは、そんなことはどうでもよくなりました。

コンビニから買ってきたおにぎりだって、卵焼きだって、充分に美味しい。「一流の料亭で作った出汁巻き卵は、もっと美味しいんじゃないか」なんて考えは浮かびません。

みんなの介護 「これじゃなきゃダメ」という執着が、自分を縛ってしまうのでしょうね。

小池 「これ」しかない状態というのは、例えば東京に住んでいる人が、岡山県にあるレストランで食べた料理の味が忘れられず、「また食べたい」と常に願っている状態と似ているでしょう。

「また食べたい」という願望を満たすためには、お代を払うだけの経済力を維持していなければいけませんし、忙しい時間の中から暇を見つけて岡山県まで出かけていく時間と手間を割かねばなりません。

無事にレストランで料理を味わうことができたとしても、ずっと食べ続けるわけにはいきません。お腹はすぐにいっぱいになってしまうし、東京にも帰らなければなりません。すると、「また食べたい」という願望にまた現れてきて、満たされない思いに苦しむのです。

「好きな人、嫌いな人」というグループ分けがなければ、誰とも別け隔てなく、見返りを求めずに接することができる

みんなの介護 「これ」でも良いし、「あれ」でも良いというものの見方は、人間関係についても言えることですか?

小池 それはとても良い視点ですね。「この人は好き、でもあの人は嫌い」という具合に人をグループ分けしてしまうと、ものの見方はとても窮屈なものになるでしょう。

好きな人に裏切られたとき、「自分はこんなに好きなのに、なぜ裏切ったりするんだろう」と強い憤りの感情を呼ぶことになりますし、逆に嫌いな人に嫌なことをされたときも、強い憎しみにとらわれてしまう。

「好きな人、嫌いな人」というグループ分けがなければ、余計な感情のフィルターを通さずに相手の行動を評価することができます。もしかしたら、その行為は裏切りなどではないと気づけるかもしれないし、そもそも最初から裏切りであるとも思わず、素直にその人を受け入れることができるかもしれない。

その他、「この人は味方、でもあの人は敵」とか、「この人は友だちだけど、あの人は友だちじゃない」といった見方についても、同じことが言えます。

そうしたグループ分けをしない癖をつけていくと、誰に対しても分け隔てなく、見返りも求めず、人として親切に接することができるようになれるのではないでしょうか。

苦しみを生み出す「ラベル」を「事実」から剥がしてあげる

みんなの介護 超高齢社会の日本では、多くの人が自らの「老い」とどう向き合うべきかについて悩んでいます。そんな時代をどのように生きれば楽になると思いますか?

小池 自分が老いていくことに苦しみを感じてしまうのは、「老い」という変化を受け入れられないからでしょう。

若い頃には普通にできたことが、歳をとるにつれてできなくなる。それはごく普通の変化なのですが、「そんなはずはない。本来の自分ならばできるはずだ」という自己イメージがあって、その変化に抵抗しようとしてしまうのでしょう。現代人が食べ物にこだわったり、スポーツジムで身体を鍛えたりするのは、その抵抗の現れなのでしょうね。

ただ、そういうことを自然に行っているのならまだ良いのですが、それがエスカレートすると、「こんなに努力したのだから」とか、「こんなにお金を払ったのだから」と、自らの投資にリターンを求めるようになってしまいます。つまり、努力すればするほど、お金を費やせば費やすほど、欲望が大きくなってしまうのです。

みんなの介護 「老い」は止められないものなのだから、それに抵抗しても無駄、なのですね。

小池 その通りです。生まれて、老いて、病んで、死んでいくのは、人間が思うように変えられない「事実」です。

それを無理に変えようと思うから、苦しみや悲しみが生まれるのですね。老いたことで、できなくなることが増えた。そんな自分を受け入れられずに「こんなはずじゃない」と心を乱してしまうのです。

みんなの介護 そういう人が、自らの老いを受け入れるには、どうすれば良いですか?

小池 老いて、若かったことにできたことができなくなるのは、動かしがたい「事実」です。

その一方で、「こんなはずじゃない」とそれに抵抗しようとしているのは、自分の頭が勝手につけ加えた「ラベル」のようなものです。苦しみはその「ラベル」から生まれているのですから、「事実」からラベルを剥がしてあげて、じっと見つめてみると良いでしょう。

すると、「この苦しみは、自分が頭の中で事実に対してラベルを付け加えているから生まれているんだなぁ」ということに気づけます。同じことは、死の恐怖や病気の痛みや不快感などについても言えます。

「人は必ず死ぬ」「病気は痛みや不快感をともなう」という「事実」に、自分がどんな「ラベル」を貼っているのかをよく考えてみると良いでしょう。

「賢人論。」第74回(後編)小池龍之介氏「人の心は苦しみや悲しさなどの感情を通して、「老い」という変えようもない「事実」から目を遠ざける」

親の老いをありのままに受け入れるためには、長年の関係の中で積み重ねられた自分の感情を見直さなければいけない

みんなの介護 老いた高齢者の介護をしている人にとっては、自らの「老い」だけでなく、相手の「老い」が苦しみを生むケースもよくあります。例えば、認知症の親を介護する子は、元気だったころの親の姿を知っているだけに苦しみが深くなります。その苦しみは、どうすれば軽くなるでしょう。

小池 確かに、「老いていく親」の姿を「事実」として受け入れるのは辛いでしょうね。

認知症によって子どもである自分のことを忘れてしまったり、老いて自分の力でトイレにも行けなくなったりするのは、自分の力では変えることのできない「事実」なのですが、それをありのままに受け入れるためには、親に対して抱いてきた愛情や依存心、あるいは近親憎悪からくる怒りや蔑みの心など、長年の関係の中で積み重ねられた自分の感情を見直さねばならないでしょう。

人の心というのは「事実」を見るのが苦手で、どうしても自分の苦しみや悲しさなどの感情のフィルターを通して、「人が老いていく」という変えようもない「事実」から目を遠ざけてしまうのです。

みんなの介護 親の介護の場合、「子が親の面倒をみるのは当たり前」という世の中の常識に縛られて苦しむ人もよくいます。

小池 そのような世の中の常識も、人間が「事実」に勝手に貼った「ラベル」に過ぎません。「事実」をしっかりと見て、「自分には無理だ。親にとっても良くない」という判断に至れば、介護の専門家に頼むのが得策だと思います。

介護には、見返りを求めず、無条件で相手を承認できる心の強さが必要

みんなの介護 介護の現場で働く人たちは、「自らの老い」を「事実」として受けとめられない高齢者を相手にするケースもよくあります。そうした仕事に誇りをもって働くには、どんな心構えが必要だと思いますか?

小池 介護の仕事をする人にとっては、相手から「ありがとう」と喜ばれることがやり甲斐だと思いますが、自らの老いを認めずにイライラしている人は、人に素直に感謝する余裕などないので、相手にそれを求めるのは難しいですね。

人からの介護を受けても、「ありがとう」という気持ちになれない人にそれを強要しても、反発心をあおるだけですから。ある意味で介護は、見返りを求めず、無条件で相手を承認してあげることのできる心の強さが求められる仕事かもしれません。

みんなの介護 修行を重ねたお坊さんでもない人が、そのような強い心を持つにはどうすれば良いでしょう?

小池 瞑想でなくても良いから、「気づき」と「集中」、そして「まぁいいかという無執着」の3つに取り組んでみるのも良いのではないでしょうか。

なぜ自分はこんなに辛いのだろう、悲しいのだろうと考えて、その原因となるものを見つけられればしめたもので、「まぁいいか」という精神で、自分の感情にとらわれないことを目指すと良いでしょう。

【インタビュアー追記】

2018年9月29日、鎌倉の月読寺で定期的に行われてきた、最終日の瞑想セッションを訪ねた。住職を辞して一人の瞑想者となった彼が月読寺を「消滅」させてしまったため、鎌倉での最終セッションは寺にほど近い稲村ヶ崎海浜公園の松の下で行われた。

この日はあいにく、大型の台風が沖縄に上陸した日にあたり、海辺では大波に挑戦するサーファーたちで賑わっていいたものの、雨がひたひたと降る中、老若男女の40~50人におよぶ参加者たちは暴雨・防寒の装備を整え、小池さんとの瞑想セッションを行った。セッションの休憩中、そして終了後には、さまざまな人が彼にあいさつし、教えを乞うていた。

【本人追記】

いったんの挫折を経た今になって思いますと、この記事の初出時、「自分がもうすぐ解脱できるのだ」という妄想を見ており、それに基づいて思い上がった発言や、罪深く感じられることを申してしまっていました。

その罪深さをほんの少しでも洗い流したく、本文の該当箇所を削除・修正させていただいております。

撮影:編集部

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森田豊
医師・医療ジャーナリスト
2022/11/07
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