箭内道彦「故郷に対する感情が「憎」から「愛」に傾いていった」
タワーレコード「NO MUSIC, NO LIFE.」、リクルート「ゼクシィ」など、既存の枠組みにとらわれない広告キャンペーンを数多く手がけるクリエイターの箭内道彦(やない みちひこ)氏。本業のほかにテレビやラジオのパーソナリティを務めたり、バンド活動にも旺盛で、東日本大震災が起こった年には、猪苗代湖ズのギタリストとしてNHK紅白歌合戦にも出演。2015年には、福島県クリエイティブディレクターに就任し、自治体のブランドイメージを創造するクリエイターの先駆けとなった。そんな箭内氏に故郷・福島県への思いについて、話を聞いてみた。
文責/みんなの介護
「207万人の天才。」からすべてが始まった
みんなの介護 故郷・福島県で音楽フェスを開催したり、猪苗代湖ズとして活動している箭内さんを見ている者には意外ですが、最初から「故郷大好き」というわけではなかったようですね?
箭内 僕は東京藝術大学に入学するのに3浪しているんですけど、その過程で田舎では「才能ないんだからやめればいいのに」とか、「いい年して親に迷惑をかけて何やってんだ」といった噂の標的になるんです。家族でご飯を食べてるとき、ポジティブな話より、そういうネガティブな話がおいしい「おかず」なんですよね。
そういうのが嫌で、自分を知る人が誰もいない東京に出ていったわけですから、福島には愛憎の「憎」の部分のほうが大きかった。
だから、サンボマスターからCDジャケットの制作を依頼されたときは、同郷の山口(隆)くんと福島の「嫌いなところ」で盛り上がって。その結果、ままどおるズというユニットを組んで『福島には帰らない』なんて曲を作ってライブで披露したりしてました。
みんなの介護 2007年6月、箭内さんが『情熱大陸』(TBS系)に出演した際、その曲を演奏する様子が紹介されて、箭内さんの「福島嫌い」は全国的に知れわたることになります。
箭内 そう、それがきっかけで放送直後、地元の新聞、福島民報社の営業部の副部長がノーアポで僕を訪ねてきて、「福島県民を元気にする広告を作ってほしい」と依頼してきたんです。
当然、「『こんな色の髪の毛じゃ福島には帰れない』なんて歌詞を書いてる人間は適任者じゃない」って断ったんだけど、「福島のネガティブな部分を知ってる人にこそやってほしい」とねじ伏せられて、断る理由がなくなりました。
こうしてできたのが、「207万人の天才。」という広告で、これが2007年8月1日付の福島民報の創刊115周年記念号の誌面に掲載されたんです。
みんなの介護 207万人というのは当時の福島の人口ですね?
箭内 そうです。震災があって、今では200万人を割ってしまいましたけど。
福島県民というのは、自分をアピールするのが苦手というか遠慮深いところがあるんです。そんな人たちに、自分で気づいてなかったり、隠してたりする才能を見つけて欲しい、そんなメッセージを込めました。
今思えばそのメッセージは、県民に伝えたかったという以前に、福島に対して「憎」の感情を抱いていた自分に向けて言いたかったことだったのかもしれません。
自分の至らなさを福島のせいにしていた
みんなの介護 そのころは、福島に対する思いは「愛」のほうに傾いていたんですか?
箭内 そうですね。いちばんのきっかけは2010年8月に、僕がMCをつとめる『トップランナー(NHK)』に友人でもある福山雅治さんがゲストとして出演してくれたことです。
そのとき、話の流れでふるさと談義になりまして、彼が自身の故郷である長崎に対してこんな発言をしたんです。
自分(福山)は、やりたいことができないとか、自分の殻を破れないと思ったとき、いつも長崎のせいにしていた。だけどあるとき、悪いのは自分の至らなさを故郷のせいにしている自分のほうだと気づいた──と。
その言葉は、ぐっと僕の胸に刺さりましたよね。まさに自分のことを言い当てられたような気がしました。福山さんは僕より5歳も若いんだけど、こんな風に、アニキのように大事な示唆を与えてくれる人なんです。
みんなの介護 同年の9月、箭内さんは同郷のミュージシャンたちと「猪苗代湖ズ」を結成しますが、これにはどんなきっかけがあったんですか?
箭内 その前年に僕の地元、郡山市で「風とロックFES福島」という野外ライブイベントを開催したんだけど、この年から「風とロック芋煮会」と名前を変えて毎年恒例のイベントになっていくんです。
このときの参加メンバーの中には、ままどおるズの山口隆(サンボマスター)をはじめ、僕と別のユニットを組んでいた福島県出身のミュージシャンがいました。ゆべしスというユニットの松田晋二(THE BACK HORN)と、薄皮饅頭ズの渡辺俊美(TOKYO No.1 SOUL SET)です。そこで、この「風とロック芋煮会」を機会に、すべてのユニットがひとつにまとまったのが猪苗代湖ズでした。
そのときできた「アイラブユーベイビー福島」という曲は、実に福島愛にあふれた歌なんですけど、当時は僕の中の郷土愛もまだ「未発達」で、一緒に歌うのが気恥ずかしくてモゴモゴした感じで歌っていたのを覚えています。?
震災を前に、自分に何ができるかを試されている気がした
みんなの介護 猪苗代湖ズが結成されておよそ半年後の2011年3月11日、東日本大震災が起こります。
箭内 あんなにつらく、厳しい出来事が故郷に起こるなんて、もちろん予期していたわけではありません。だけど、そのことが起こる前に何年かかけて、準備させられていたのかもしれませんね。
もし、「207万人の天才。」の広告をきっかけにはじまった活動がまったくなくて、相変わらず福島に「憎」の気持ちしか持っていなかったとすると、震災が起こったときに何もできず、ただ呆然とするだけだったと思いますから。
みんなの介護 2011年3月11日(金)の14時46分、箭内さんはどこで何をしていましたか?
箭内 神奈川県川崎市の溝の口にあるスタジオで、長澤まさみさんたちが出演するCMの撮影をしていました。
夕方に撮影を終えて、電話がなかなかつながらない中、安否確認をするうち、福島が大変な状況にあることがわかってきて、自分に何ができるのかを試されているようにも感じました。
でも、はじめのころは無力感しかありませんでした。すぐにでも福島に駆けつけたかったけれど、今、僕が福島に行ったところで足手まといになるだけだと福島の友人たちに言われたんです。それで、僕の事務所に仲間のミュージシャンたちを呼んで、東北へのメッセージをインターネットを通じて配信したりして、東京でできることを精いっぱいやろうとしていたけど、電気が止まっている被災地ではそれを見ることができないわけですから。
そんな風に立ち往生しているところ、山口隆が「あの歌があるじゃないですか」とレコーディングを提案したんです。
みんなの介護 猪苗代湖ズの「アイラブユーベイビー福島」が復興チャリティーソング「I love you & I need you ふくしま」として生まれ変わった瞬間ですね。
箭内 そうです。この曲の配信で寄付を募って被災地にお金を届けるという方法に気づいたわけです。
猪苗代湖ズのメンバーが、電力不足の影響のない名古屋市のスタジオにレコーディングに向かったのが3月17日のことでした。
広告という仕事で培ったスキルを、震災復興支援に全投入
みんなの介護 震災後の9月には、「LIVE福島 風とロックSUPER野馬追」と題した音楽フェスを福島県内の6ヵ所で開催し、3万人近い観客を動員。それに引き続いて年末にはNHK紅白歌合戦に出演して「I love you & I need you ふくしま」を披露しました。福島を応援する手段として、見事な流れだったと言わざるを得ません。
箭内 それまでに築いてきた人脈や、広告業界で学んだスキルをフルに生かすつもりでした。
広告って、何かをたくらんだり、仕掛けたりして人の目を惹きつけたり、行動につなげたりする力がありますよね。それだけに、「怪しい」とか、「騙されないぞ」と悪し様に言われることがあるけど、たくさんの人にメッセージを届けるスキルは、世の中を良い方向に導くこともできると僕は信じています。
NHK紅白歌合戦という番組は、アメリカのNFLスーパーボウルのように国民の大多数が見る番組ですから、どんなCMを打つより効果があります。ですから、メンバーには夏頃から「大晦日のスケジュールは空けておけ」と言っていました。メンバーは3人とも、「本当にオファーなんてくるの?」って怪訝(けげん)な顔をしてましたけど、僕には根拠のない自信がありました。
みんなの介護 第62回NHK紅白歌合戦は、震災後の自粛ムードの中、中止も検討されたそうですから、猪苗代湖ズが福島の今を伝える絶好の場を与えられたのは何よりのことだと思います。
箭内 とにかく、猪苗代湖ズの紅白出演は、それまで僕が手掛けてきた広告の中で、もっとも重たい使命を果たさなければならなかった仕事でした。
NO TOMORROWを目指していた自分が、はじめて「約束」をしたいと思った
みんなの介護 震災をきっかけにして、福島に対する思いはずいぶん変化したと思いますが、箭内さんにとってどんな変化でしたか?
箭内 とても大きな変化です。自分の事務所に「風とロック」という名前をつけている通り、ロックな生き方に憧れ続けてきた僕にとっては、「NO TOMORROW」、すなわち「明日なき疾走」が何よりの信条でした。安定することを拒否して、今日だけのことに全力を尽くしてきた。
ところが、震災後の福島の姿を目の当たりにしたとき、今日と明日がつながっていることが、どれだけありがたいことかって気づいたんです。それはもう、頭をガーンと叩かれたような衝撃的な気づきでした。
そんなことがあって震災直後、福島のテレビ局の報道番組にコメントを求められたとき、「僕は一生、福島を支えていきます」とカメラの前で言っていました。
NO TOMORROWに生きてきた僕にとって、「一生」の約束なんて、あり得ないこと。だけど、そのとき僕は福島の人たちに「約束」をしたいと思ったんです。放射線のことや、避難生活がどれだけ続くのかといったことを、誰も約束してくれない状況にいる被災地の人たちに僕ができる、せめてものこととして。
そのためには、長生きしなければいけないとも思いました。これも、それまで一度も思ったことのなかったことです。その変化には、とても驚かされました。震災をきっかけに、世の中の見え方が180度変わってしまった。
みんなの介護 それは箭内さんにとって、好ましい変化ですか?
箭内 いや、これは好き嫌いで語れることではなくて、有無を言えない絶対的な変化と表出なんです。僕は、福島が復興する過程を最後まで見届けなくてはならないし、そのためにはできる限り長生きして、福島の人たちとつながり続けなければならない。その信条は、今後も変わることはないでしょう。
入社して最初の7年間は暗黒時代だった
みんなの介護 箭内さんが博報堂の入社面接で、高校時代に作った「焼肉の歌」というコマーシャルソングをギターで弾き語りしたという伝説がありますが、本当に起こったことなんですか?
箭内 ええ、本当です。博報堂は第一志望じゃなかったので、緊張もせずに好き勝手やってましたから。
みんなの介護 第一志望は、どんな会社だったんですか?
箭内 サンリオです。僕がデザインした便せんに中学生がラブレターを書いて、それで恋が実ったら素敵だな、なんて夢を持ってまして。だけど、その年は「男子は採らない」と社員の方に言われて片思いに終わってしまったんです。
一方、博報堂のほうは最終の役員面接まで進むことになって、「この会社に入って何がしたい?」と質問された僕は、あいかわらずキラキラした目で「人を幸せにしたいんです」なんて答えていました。
そのとき、当時の副社長だった人にこう言われました。「君はそんな考えでウチに来たら、挫折するよ」と。
そんな感じでしたから、役員面接での僕の評価は最下位で、それでも現場の人たちが「アイツは面白そうだから」って僕を引っ張りあげてくれたということを、後になって知りました。
みんなの介護 「人を幸せにしたい」って、とても立派な夢だと思いますけどね。
箭内 立派なのは確かかもしれないけど、それを実現するのはすごく大変なことなんですよ。入社してすぐに壁にぶち当たって、そのことに気づかされました。
何もかも自分の思い通りに行かなくて、もがき続ける日々が7年くらい続きました。その中には、仕事がひとつも来ない数年間というのがあって、とにかく暗闇の中で暮らしているような日々でした。
そんな状態から何とか抜けだそうと、デザイナーからCMプランナーへの配置替えを希望しても、なかなか受け入れてもらえなかったですしね。
みんなの介護 CMプランナーを希望したのは、デザイナーのように一部分で仕事をするのではなく、全体を統括する仕事をしたかったからですか?
箭内 いや、そこまでは考えてなかったですね。前編のインタビューで、自分の限界を福島のせいにしていたことをお話しましたけど、それと同じです。
仕事が上手くいってないのはデザイナーという職種のせい、今のチームのせい、上司のせいって、自分以外のところに責任をなすりつけてたんだと思います。
「7年後にやってきた転校生」になるため大奮闘
みんなの介護 とはいえ、数年後に職種転換が認められてからの箭内さんは、タワーレコード「NO MUSIC, NO LIFE.」を手掛けるなど、大ブレイクします。その選択は、大正解だったのでは?
箭内 結果として、たまたまそうなっただけなのかもしれないと思ってましたね。だから、自分が作った広告が褒められて、メディアから取材を受けたりすると、なるべく過激なことを言おうとしてました。
「広告の既成概念をぶっ壊したいんです」なんて大口を叩いて自分を大きく見せて、次の仕事をとろうなんて考えて(※編集部注 その発言の一端は講談社刊『87156』などの語録集にまとめられている)。
みんなの介護 過激に見えて、けっこう計算高かったんですね?
箭内 いやらしいですよね(笑)。今思えば、7年間の暗黒時代に戻るのが怖かったんだと思います。「7年遅れの1年生」じゃ意味がなくて、「7年後にやってきた転校生」にならなきゃならないって、自分に言い聞かせていた。
みんなの介護 でも、ミュージックビデオの監督にCMの撮影を依頼したり、CMに出演したことのないミュージシャンや俳優を起用したり、箭内さんが「広告の既成概念をぶっ壊す」CMをつくり続けていたのは事実ですよね?
箭内 それが、7年生のCMプランナーたちと競い合うための自分なりの手段だったんです。
みんなの介護 髪を金色に染めたのは、その頃ですか?
箭内 CMプランナーになって2年目の年です。「見た目はチャラくて、仕事がイマイチ」だとカッコ悪いですよね。外見に見合う面白いものを作らなくては、という状況に自分を追い込んだわけです。
ある役員は、そんな僕と廊下ですれ違うたび、「カッコじゃなくて、つくるもので目立てよ」と呆れ顔で言ってましたけど、自分の中では確固たる理由がありましたから、独立後の今に至るまでこのスタイルは変えていません。改めて数えてみると、もう21年も黒い髪の自分の顔を見たことがないことになります(笑)。
生まれ変わっても、広告の仕事をやりたい
みんなの介護 2003年4月、箭内さんは博報堂を退社し、個人事務所「風とロック」を設立します。広告というものに対する考え方は変わりましたか?
箭内 何がきっかけだったかははっきりしないですけど、独立する以前のある時期から僕は、広告が持つ機能を「応援すること」ととらえるようになっていました。
商品のPR広告なら、商品そのものを応援したり、その商品を食べたり飲んだり使ったりする人たちを応援するのが、「広告」のあるべき姿だと思うんです。
応援する対象は、そのほかにも商品をつくっている企業そのものだったり、製造している人や営業や販売に携わっている人たちなど、さまざまです。
みんなの介護 どんな手法でそれらを応援するんですか?
箭内 シンプルに言えば、対象となる人やモノの魅力を見つけて、それを多くの人に効果的な方法で伝えるということ。応援すべき魅力は千差万別ですから、過去に成功したパターンがあっても同じ手法は二度と使えません。すべてがオーダーメイドです。
そう考えてみると、広告ってすごく素敵な仕事だなって思うんです。博報堂の入社面接で「人を幸せにしたい」と発言した僕の夢は副社長の予言通り、挫折ではじまったのかもしれないけれど、「応援」という形で実現したわけですね。サンリオに入社してラブレターの便せんをつくりたかったのも、よくよく考えてみるとそれに通じるものがあると思います。
みんなの介護 広告の仕事は、自分の天職だと思いますか?
箭内 ええ、思いますね。「風とロック」を設立して以降は、毎回大赤字の0円のフリーペーパーを発行したり、音楽フェスやラジオ局を開局したりしていますけど、仕事と趣味の境界線があいまいになっていった感じがあります。
僕にとっては仕事が趣味だし、趣味が仕事。天職って、そういうものでしょ?もし生まれ変わってもう一度、職業を選ぶ機会があったとしても、僕は広告の仕事を選ぶでしょう。
行政と関わることに、最初の頃は葛藤した
みんなの介護 2015年4月、箭内さんは前年に福島県知事に当選した内堀雅雄さんに請われ、福島県クリエイティブディレクターに就任します。どんな経緯があったのですか?
箭内 実は内堀さんとは、震災が起こる前からの知り合いで。2008年頃、僕が作った「207万人の天才。」の広告に興味を持った内堀さんが、ままどおるズのライブの楽屋を訪ねて来られたんです。内堀さんは当時、副知事をつとめられていました。
でも、反体制が信条のロックを掲げている人間として、政治家と仲良くするなんて考えられないじゃないですか。そういうわけで、あいさつするのを渋っていると、横にいた山口隆に「箭内さん、大人になりなよ」と諭されて会うことにしたんです。
話してみると、内堀さんは僕と同い年で、長野県の出身であるにもかかわらず、福島への熱い愛を持っている人であることがわかって意気投合して。
みんなの介護 他県の出身者だからこそ、福島の良さを容易に発見できたのかもしれませんね。
箭内 そうかもしれません。
みんなの介護 そうした話を聞くと、箭内さんの福島県クリエイティブディレクター就任は自然な流れだったような気がしますね。
箭内 いや、それでも葛藤はありましたよ。
ただ、内堀さんを通じて行政の人たちの仕事ぶりに触れると、誰もが福島の危機を救いたい、今の福島を少しでも良くしたいと必死で頑張っているのがよくわかりました。
だけど、被災している人たちにとって、行政の人たちが批判の対象になってしまっていることが少なくなかった。
それってすごくもったいないことだなと思って、行政と市民が手と手を合わせることに少しでも役に立てるならと、福島県クリエイティブディレクターをお引き受けすることにしたんです。
みんなの介護 福島県クリエイティブディレクターとして、福島の農産物を紹介する「ふくしまプライド」などのプロジェクトを進めている箭内さんですが、それとは別に個人として音楽フェス「風とロック芋煮会」を毎年開催するなど、福島の支援を続けていますね。
箭内 福島の人には故郷に誇りを持ってほしいし、他県の人たちにも「福島っていいなぁ」「福島羨ましいなぁ」って思われたいんですよ。それが今の僕の、いちばんの野望です。
スランプに陥って実家に帰った浪人時代
みんなの介護 東京藝術大学はかなりの難関校として有名です。でも、浪人時代の箭内さんは、予備校の中でもデッサン力がピカイチで、有望な受験生だったそうですね。
箭内 はい、自分で言うのも恥ずかしいくらい、有望視されていました。「明日が試験でも受かる」って、1年目の年から講師の先生に太鼓判を押されてましたからね。それで落ちても、「まぁ、浪人経験も後々で役に立つから」なんて慰められたりして。
ですから、自分でも天狗になっていたところがあったんですけど、さすがに浪人して3回目の試験に落ちたときはショックが大きかった。合格発表の掲示板の前で腰が抜けて、一緒にいた仲間に上野駅までおぶってもらわないと帰れなかったくらい。
みんなの介護 そのショックをきっかけに箭内さんは、スランプになってしまったそうですね。
箭内 ええ、大スランプです。1年間、毎日休まず絵を描いてきて、それでもダメって何やったらいいの?という感じ。
でも、それまでの自分を反省してみると、まるでロボットが描くように絵を描いてきたんだなってことに気づいたわけです。描きたい絵を描きたいという衝動がないまま、受験に受かるための絵をただ機械的に描いていた。確かにそんな絵で受かるはずがないというのがそのときの結論で、僕は実家に帰ることにしました。
みんなの介護 実家に帰るほど思い詰めてしまったんですか。
箭内 実家の商売がうまくいってるとは言えない頃でもあったし、少しでも自分が力になれるのであれば帰る意味もあるかなと、絵を描かない自分を正当化するための帰省でもありました。
認知症で祖父が変わっていくのを見るのは辛かった
みんなの介護 帰省してからは、どんな日々でしたか?
箭内 実家で暮らすようになってしばらくたった頃、夜中に、住んでいた祖父母の家から「うぉーっ」という叫び声が聞こえたんです。
何が起こったのか、すぐにはわかりませんでしたが、認知症になった祖父の声であることは明らかでした。
みんなの介護 認知症になると「夜間せん妄」といって、夜間に気分が不安定になって多動になったり、興奮状態になることがよくあるようです。
箭内 当時はそんな知識もありませんから、みんな動転してしまって。昔の家は戸のガラスも薄かったですから、父が拳骨でそのガラスを割って、血だらけの手で鍵をあけて家の中に入っていたときの光景は、今も強烈な記憶として残っています。
その後、暴れる祖父をなんとか鎮めることができたものの、これが一時的な出来事でないことは明白でした。祖父の認知症が進めば、同じようなことや、それ以上にひどいことが起こるに違いありません。ですからその日、父は祖父の布団を自分の家に運んで、住まいを移そうとしたんですけど、僕はそのとき、「冷静に全体の状況を把握したうえで行動したほうが良い」と言ったんです。
父は8人兄弟の3番目でした。それが、隣に住んでいるというだけの理由で祖父の介護をすべて抱え込むと、家庭にも遅かれ早かれ、大きな負担がくるのは時間の問題だと、21歳の浪人生の立場ながら考えたわけです。ただ、ちょっと冷たい考えだなと、当時もそして今も、罪悪感を感じないわけではないですけど…。
みんなの介護 でも、親の介護がきっかけで子どもたちの兄弟仲が悪くなるというケースは珍しくないですよ。箭内さんの判断は、ある意味で正しかったと思います。
箭内 そう言っていただくと、少し救われます。結局のところ、介護に直接かかわるのは近くに住んでいる者の役割になるのは必然であり、母が担当する部分は多く、そして当然、浪人生の僕も、母と交替で祖父の食事の介助をしたり、おむつを変えたりしました。
祖父が亡くなったのがその年の12月で、その直後に祖母も亡くなるんですが、その数ヵ月の間、認知症が進んだ祖父が、僕の知っている祖父でなくなっていくのを見るのは辛かったですよ。
それから、病院の方々が、子どもに話しかけるように祖父と接するのにも違和感があって、そのたびに勝手に悲しくなりました。
みんなの介護 老いは誰もが避けられないことですが、とてもつらい局面を見てしまったわけですね。
箭内 そう、だからこのときの体験があって、「NO TOMORROW」とか、「明日なき疾走」といったロックの精神に惹かれていったのかもしれません。後先考えずに、死ぬときは絶対ポックリ逝きたいと。
そんな考えが東日本大震災をきっかけに180度変わったことは、前編のインタビューで述べたことですけど。
みんなの介護 ところで、受験のほうはその後、どうなったのでしょうか?
箭内 帰省中は今まで話した通り、いろいろなことがありましたから1枚も絵を描いていませんでしたし、「絵を描きたい」という衝動も湧いてきませんでした。
東京藝大の試験って、朝の9時から夕方の4時まで、1枚のデッサンをずっと描く実技があるんです。すると、画用紙に向かった途端、すーっと無心になって描きたい気持ちが浮かびあがってきたんです。
奇跡のような瞬間ですが、それが祖父の介護の体験と関係があるかどうかはわかりません。絵を描いていなかったおかげで、たまたまそのとき、「描きたい」という気分になったというだけなのかもしれません。
ともあれ、4度目の正直で僕は東京藝大に入学することができました。
年をとった人には、年をとったなりのスキルがある
みんなの介護 箭内さん自身、老いを避けることはできません。そのことについて、どう考えていますか?
箭内 僕は、ACC(全日本シーエム放送連盟)が発行している「ACCtion!」という会報誌に「広告ロックンローラーズ」という連載をしています。60代から80代になっても広告業界の一線で仕事をしている方々との対談記事なんですけど、毎回、教えられることが多いんですよ。
みんなの介護 記事の一部は、ACCのホームページから読むこともできますが、ユニークな方々が登場していますね。
箭内 50歳を過ぎて今だに金髪で派手な格好をしている僕が浮いちゃうくらい、みんな落ち着いた風格のある方々ですけど、だからといって枯れているわけじゃなくて、それぞれがそれぞれの「楽しいこと」にますます没頭してイキイキとしているんですよ。
そんな人たちの生き方に触れると、年をとることが怖くなくなりますよね。よく、年をとると、「時」の経つのが早く感じるといいますけど、ここに登場する人たちは良い意味で加速しているんです。そんな風に「年をとることは楽しい」と思わせられる大人って、カッコいいですよね。
みんなの介護 老いても第一線で活躍しているということが、良い加速をうながしているのでしょうか?
箭内 役割を失ったと感じたときに人は老けていくのかもしれません。自分は社会に参加しているんだ、誰かから必要とされているんだという実感も人間には大切なんでしょうね。
僕はかつて、博報堂から独立して「風とロック」という会社を作ったとき、もうひとつ、別会社を作ろうと計画を立てたことがあるんです。 会社名も決まっていて、「CREATE OR DIE(クリエイト オア ダイ)」と言います。
どんな会社かというと、高齢になったクリエイターを集めて介護用のおむつとか、入れ歯クリーナーといった高齢者が使う商品の広告を専門に作る会社です。いわば、広告業界のシルバー人材センターのようなものです。
こういう商品の広告って、若い人間が作るより、年をとっているんだけどまだバリバリ現役で働いている高齢のクリエイターのほうが当事者目線で作れるじゃないですか。
みんなの介護 それは、素晴らしいアイデアだと思います!
箭内 ところが、「面白いね」と賛同してくれた人たちを集めて話し合ったところ、「年寄りが使う商品の広告なんてつくりたくない。若者向けの仕事をさせろ」という意見が多勢を占めて、とうとう会社設立の話は流れてしまったんです(笑)。
年をとった人には、年をとったなりの重要なスキルがある。そんな僕の目論見がはずれてしまったわけですけど、もしかすると当時よりも高齢者が増えた今なら、実現できることなのかもしれないですね。
みんながちょっとずつ違う、社会の多様性に目を向けたほうがいい
みんなの介護 日本は今、すごい勢いで高齢化が進んでいて、2036年には国民の3人に1人が65歳以上の高齢者になるという推計もあります。どんな社会になると思いますか?
箭内 広告業界では顧客となるターゲットを年齢で把握する習慣があります。僕はあまり好きじゃないですけど。
例えば、20歳~34歳の女性なら「F1(エフワン)」、35歳~49歳の女性なら「F2(エフツー)」、そして50歳以上の女性を「F3(エフスリー)」と呼んで、広告のターゲットを設定するんです。
今よりもさらに高齢化が進んだ社会になれば、こうした枠組みは変わらざるを得ないでしょうね。
みんなの介護 現在の広告業界では、トレンドに敏感で購買意欲の高いF1層に訴えることが重要視されていますが、それよりもF3層に注目が集まるということですか?
箭内 いや、そうではなくて、「老人」というのは「60歳になったら定年」みたいに、ある年齢に達したらデビューするというものではないということです。
「老人」というと、僕らは昔のイメージに引っ張られて「盆栽でも始めてみれば?」とか、「赤いチャンチャンコを着ましょう」なんてなりがちだけど、今の老人はパソコンもスマホも使える、現代に生きている人たちなんです。
要するに、ステレオタイプにものを見るのではなくて、高齢化してもみんながちょっとずつ違う社会の多様性に目を向けたほうが良いということ。社会が高齢化すれば、高齢化したなりの幸せって、僕はきっとあると思うんです。
撮影:公家勇人
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