タワーレコード「NO MUSIC, NO LIFE.」、リクルート「ゼクシィ」など、既存の枠組みにとらわれない広告キャンペーンを数多く手がけるクリエイターの箭内道彦(やない みちひこ)氏。本業のほかにテレビやラジオのパーソナリティを務めたり、バンド活動にも旺盛で、東日本大震災が起こった年には、猪苗代湖ズのギタリストとしてNHK紅白歌合戦にも出演。2015年には、福島県クリエイティブディレクターに就任し、自治体のブランドイメージを創造するクリエイターの先駆けとなった。そんな箭内氏に故郷・福島県への思いについて、話を聞いてみた。
取材・文/みんなの介護
「207万人の天才。」からすべてが始まった
みんなの介護 故郷・福島県で音楽フェスを開催したり、猪苗代湖ズとして活動している箭内さんを見ている者には意外ですが、最初から「故郷大好き」というわけではなかったようですね?
箭内 僕は東京藝術大学に入学するのに3浪しているんですけど、その過程で田舎では「才能ないんだからやめればいいのに」とか、「いい年して親に迷惑をかけて何やってんだ」といった噂の標的になるんです。家族でご飯を食べてるとき、ポジティブな話より、そういうネガティブな話がおいしい「おかず」なんですよね。
そういうのが嫌で、自分を知る人が誰もいない東京に出ていったわけですから、福島には愛憎の「憎」の部分のほうが大きかった。
だから、サンボマスターからCDジャケットの制作を依頼されたときは、同郷の山口(隆)くんと福島の「嫌いなところ」で盛り上がって。その結果、ままどおるズというユニットを組んで『福島には帰らない』なんて曲を作ってライブで披露したりしてました。
みんなの介護 2007年6月、箭内さんが『情熱大陸』(TBS系)に出演した際、その曲を演奏する様子が紹介されて、箭内さんの「福島嫌い」は全国的に知れわたることになります。
箭内 そう、それがきっかけで放送直後、地元の新聞、福島民報社の営業部の副部長がノーアポで僕を訪ねてきて、「福島県民を元気にする広告を作ってほしい」と依頼してきたんです。
当然、「『こんな色の髪の毛じゃ福島には帰れない』なんて歌詞を書いてる人間は適任者じゃない」って断ったんだけど、「福島のネガティブな部分を知ってる人にこそやってほしい」とねじ伏せられて、断る理由がなくなりました。
こうしてできたのが、「207万人の天才。」という広告で、これが2007年8月1日付の福島民報の創刊115周年記念号の誌面に掲載されたんです。
みんなの介護 207万人というのは当時の福島の人口ですね?
箭内 そうです。震災があって、今では200万人を割ってしまいましたけど。
福島県民というのは、自分をアピールするのが苦手というか遠慮深いところがあるんです。そんな人たちに、自分で気づいてなかったり、隠してたりする才能を見つけて欲しい、そんなメッセージを込めました。
今思えばそのメッセージは、県民に伝えたかったという以前に、福島に対して「憎」の感情を抱いていた自分に向けて言いたかったことだったのかもしれません。
自分の至らなさを福島のせいにしていた
みんなの介護 そのころは、福島に対する思いは「愛」のほうに傾いていたんですか?
箭内 そうですね。いちばんのきっかけは2010年8月に、僕がMCをつとめる『トップランナー(NHK)』に友人でもある福山雅治さんがゲストとして出演してくれたことです。
そのとき、話の流れでふるさと談義になりまして、彼が自身の故郷である長崎に対してこんな発言をしたんです。
自分(福山)は、やりたいことができないとか、自分の殻を破れないと思ったとき、いつも長崎のせいにしていた。だけどあるとき、悪いのは自分の至らなさを故郷のせいにしている自分のほうだと気づいた──と。
その言葉は、ぐっと僕の胸に刺さりましたよね。まさに自分のことを言い当てられたような気がしました。福山さんは僕より5歳も若いんだけど、こんな風に、アニキのように大事な示唆を与えてくれる人なんです。
みんなの介護 同年の9月、箭内さんは同郷のミュージシャンたちと「猪苗代湖ズ」を結成しますが、これにはどんなきっかけがあったんですか?
箭内 その前年に僕の地元、郡山市で「風とロックFES福島」という野外ライブイベントを開催したんだけど、この年から「風とロック芋煮会」と名前を変えて毎年恒例のイベントになっていくんです。
このときの参加メンバーの中には、ままどおるズの山口隆(サンボマスター)をはじめ、僕と別のユニットを組んでいた福島県出身のミュージシャンがいました。ゆべしスというユニットの松田晋二(THE BACK HORN)と、薄皮饅頭ズの渡辺俊美(TOKYO No.1 SOUL SET)です。そこで、この「風とロック芋煮会」を機会に、すべてのユニットがひとつにまとまったのが猪苗代湖ズでした。
そのときできた「アイラブユーベイビー福島」という曲は、実に福島愛にあふれた歌なんですけど、当時は僕の中の郷土愛もまだ「未発達」で、一緒に歌うのが気恥ずかしくてモゴモゴした感じで歌っていたのを覚えています。

震災を前に、自分に何ができるかを試されている気がした
みんなの介護 猪苗代湖ズが結成されておよそ半年後の2011年3月11日、東日本大震災が起こります。
箭内 あんなにつらく、厳しい出来事が故郷に起こるなんて、もちろん予期していたわけではありません。だけど、そのことが起こる前に何年かかけて、準備させられていたのかもしれませんね。
もし、「207万人の天才。」の広告をきっかけにはじまった活動がまったくなくて、相変わらず福島に「憎」の気持ちしか持っていなかったとすると、震災が起こったときに何もできず、ただ呆然とするだけだったと思いますから。
みんなの介護 2011年3月11日(金)の14時46分、箭内さんはどこで何をしていましたか?
箭内 神奈川県川崎市の溝の口にあるスタジオで、長澤まさみさんたちが出演するCMの撮影をしていました。
夕方に撮影を終えて、電話がなかなかつながらない中、安否確認をするうち、福島が大変な状況にあることがわかってきて、自分に何ができるのかを試されているようにも感じました。
でも、はじめのころは無力感しかありませんでした。すぐにでも福島に駆けつけたかったけれど、今、僕が福島に行ったところで足手まといになるだけだと福島の友人たちに言われたんです。それで、僕の事務所に仲間のミュージシャンたちを呼んで、東北へのメッセージをインターネットを通じて配信したりして、東京でできることを精いっぱいやろうとしていたけど、電気が止まっている被災地ではそれを見ることができないわけですから。
そんな風に立ち往生しているところ、山口隆が「あの歌があるじゃないですか」とレコーディングを提案したんです。
みんなの介護 猪苗代湖ズの「アイラブユーベイビー福島」が復興チャリティーソング「I love you & I need you ふくしま」として生まれ変わった瞬間ですね。
箭内 そうです。この曲の配信で寄付を募って被災地にお金を届けるという方法に気づいたわけです。
猪苗代湖ズのメンバーが、電力不足の影響のない名古屋市のスタジオにレコーディングに向かったのが3月17日のことでした。
広告という仕事で培ったスキルを、震災復興支援に全投入
みんなの介護 震災後の9月には、「LIVE福島 風とロックSUPER野馬追」と題した音楽フェスを福島県内の6ヵ所で開催し、3万人近い観客を動員。それに引き続いて年末にはNHK紅白歌合戦に出演して「I love you & I need you ふくしま」を披露しました。福島を応援する手段として、見事な流れだったと言わざるを得ません。
箭内 それまでに築いてきた人脈や、広告業界で学んだスキルをフルに生かすつもりでした。
広告って、何かをたくらんだり、仕掛けたりして人の目を惹きつけたり、行動につなげたりする力がありますよね。それだけに、「怪しい」とか、「騙されないぞ」と悪し様に言われることがあるけど、たくさんの人にメッセージを届けるスキルは、世の中を良い方向に導くこともできると僕は信じています。
NHK紅白歌合戦という番組は、アメリカのNFLスーパーボウルのように国民の大多数が見る番組ですから、どんなCMを打つより効果があります。ですから、メンバーには夏頃から「大晦日のスケジュールは空けておけ」と言っていました。メンバーは3人とも、「本当にオファーなんてくるの?」って怪訝(けげん)な顔をしてましたけど、僕には根拠のない自信がありました。
みんなの介護 第62回NHK紅白歌合戦は、震災後の自粛ムードの中、中止も検討されたそうですから、猪苗代湖ズが福島の今を伝える絶好の場を与えられたのは何よりのことだと思います。
箭内 とにかく、猪苗代湖ズの紅白出演は、それまで僕が手掛けてきた広告の中で、もっとも重たい使命を果たさなければならなかった仕事でした。
NO TOMORROWを目指していた自分が、はじめて「約束」をしたいと思った
みんなの介護 震災をきっかけにして、福島に対する思いはずいぶん変化したと思いますが、箭内さんにとってどんな変化でしたか?
箭内 とても大きな変化です。自分の事務所に「風とロック」という名前をつけている通り、ロックな生き方に憧れ続けてきた僕にとっては、「NO TOMORROW」、すなわち「明日なき疾走」が何よりの信条でした。安定することを拒否して、今日だけのことに全力を尽くしてきた。
ところが、震災後の福島の姿を目の当たりにしたとき、今日と明日がつながっていることが、どれだけありがたいことかって気づいたんです。それはもう、頭をガーンと叩かれたような衝撃的な気づきでした。
そんなことがあって震災直後、福島のテレビ局の報道番組にコメントを求められたとき、「僕は一生、福島を支えていきます」とカメラの前で言っていました。
NO TOMORROWに生きてきた僕にとって、「一生」の約束なんて、あり得ないこと。だけど、そのとき僕は福島の人たちに「約束」をしたいと思ったんです。放射線のことや、避難生活がどれだけ続くのかといったことを、誰も約束してくれない状況にいる被災地の人たちに僕ができる、せめてものこととして。
そのためには、長生きしなければいけないとも思いました。これも、それまで一度も思ったことのなかったことです。その変化には、とても驚かされました。震災をきっかけに、世の中の見え方が180度変わってしまった。
みんなの介護 それは箭内さんにとって、好ましい変化ですか?
箭内 いや、これは好き嫌いで語れることではなくて、有無を言えない絶対的な変化と表出なんです。僕は、福島が復興する過程を最後まで見届けなくてはならないし、そのためにはできる限り長生きして、福島の人たちとつながり続けなければならない。その信条は、今後も変わることはないでしょう。
撮影:公家勇人
