いいね!を押すと最新の介護ニュースを毎日お届け

施設数No.1老人ホーム検索サイト

入居相談センター(無料)9:00〜19:00年中無休
0120-370-915

藤原和博「医療・介護は、今以上に国民が負担せざるを得なくなるのに、それを政治家が言い出さないのは絶対におかしい」

最終更新日時 2016/10/10

藤原和博「医療・介護は、今以上に国民が負担せざるを得なくなるのに、それを政治家が言い出さないのは絶対におかしい」

リクルートに入社後、数々の事業を手がけ、47歳のときに東京都初の民間出身の校長として杉並区立和田中学校校長に就任した藤原和博先生。教育現場においても改革を推進しながら、執筆活動もさかんに行い、「処生術―生きるチカラが深まる本」「人生の教科書 よのなかのルール」「藤原先生、これからの働き方について教えてください。 100万人に1人の存在になる21世紀の働き方」 など著書は数十冊に及ぶ。現在は奈良市立一条高校の校長として教鞭をとる藤原先生から、ありがちな社会保障論へ警鐘を鳴らす言葉を伺うことができた。

文責/みんなの介護

“元気な高齢者”“経済的に恵まれている高齢者”と“弱者”を一緒くたにして論じるのはまるで意味がない

みんなの介護 今日は、年金制度をはじめとする日本の社会保障制度に関することで、先生がお感じになっている危機感のようなものはありますか?

藤原 私が思うのは、高齢者の医療や福祉について、おしなべて平均的な話をするのはまったくの無駄だということです。例えば、「高齢者」とはどのような人を指しているのか?ってね。

みんなの介護 「高齢者」といえば、一般的には65歳以上の人です。介護保険の第一号被保険者も65歳以上ですし。

藤原 今、団塊の世代の人が65~70歳になっていますが、元気な人は本当に元気なんです。どれくらい元気かというと、私とテニスの打ち合いができるくらい。その人たちが法律上は「高齢者」ということになるんだけれど、中には大企業の社長を退任したあとに財団で理事をしていて、「年金もらっているんですか!?」とこちらが思ってしまうくらい、経済的に非常に豊かな人もいるじゃないですか。

みんなの介護 内閣府によれば、貯蓄額が4,000万円以上の高齢者世帯の割合は全世帯のうち18.3%というデータが出ています。

藤原 とにかく元気な人や経済的にも恵まれている人と、ある種の弱者の人を一緒くたに論じるのはまるで意味がないと思うし、元気な高齢者は全高齢者の半分以上いると思うんですよね。そういう人たちより、むしろ若者のほうが“介護”を必要とするんじゃないの?と思ってしまいます。

みんなの介護 それは所得から見て、の話ですか?

藤原 そうですね。もう、一般論では通じない世界になってきているんじゃないでしょうか。色分けをして議論をしないと、って思うんです。私の母は85歳ですが、今のところ、あらゆる福祉や介護はいらないくらい元気なんです。でも、今の70代、80代でそういう人ってたくさんいますよね。中には90代の人でも。そう思いません?

みんなの介護 おっしゃる通りです。健康寿命も毎年少しずつ伸びていますし。

藤原 負担するべき人が負担するという部分、つまり、ある年齢以上は負担しないのだ、という感じに線引きしてしまうと、財政が今そうなっているように破綻への道を歩むしかなくなってしまう気がするんですよね。

「賢人論。」第25回(前編)藤原和博さん「昭和30年生まれの私の世代以下は日本の制度が間に合わなかった。団塊世代の資産を相続する人は経済的なメリットが大きいはず」

若者が高齢者を支えるというよりも、むしろ若者が高齢者に支えてもらう傾向が強まっていく

みんなの介護 以前、先生が意見されていたことで「おじいちゃん、おばあちゃんのお金をそのまま若者たちに相続することで、高齢者は若者を支えているんじゃないか」といったことが印象に残っています。

藤原 福祉と言っていいかはわからないけれど、どちらかと言えば、今は若い人たちがお金に余裕のある高齢者に支援してもらっているんじゃないかと思います。家庭内での場合は、子どもの教育費、結婚、出産に関わる費用を祖父母から子や孫へ贈与するといったときに、1500万円までは非課税になった。これは非常にいい制度だと思いますよ。設計するのは大変だったと思うけどね。

よく“若者が何人で高齢者を支えている”なんていう図が出てきますよね。昔は“お神輿”だったのが“騎馬戦”になって、その次に“肩車”…というふうになっていく、という。人口としては確かにそうかもしれないけれど、お金がどこにあるか?という面で冷静に見ると、若者が支えてもらう傾向が強まると思うんです。

みんなの介護 これからは高齢者に支えてもらう若者が多くなっていく…と。

藤原 団塊の世代の前の人たち、大正から昭和初期の人たちは戦争を経験して非常に厳しい時代を耐えてきました。でもそれだけに、特に女性って、辛抱強いし尊敬できます。価値観がガラリと変わった時代を何度も経験してきて、ちょっとのことではあまり動じないというか。その世代の人たちの多くは100歳まで生きて、今の長寿社会を引っ張ってくれるんじゃないでしょうか。

みんなの介護 これからも日本人の平均寿命が伸びていきそうですね。

藤原 一方で、「団塊の世代の人たちは若いときに荒れた食生活をしていたので、どうだろう?」という説もあるんですよ。この世代が90歳、100歳までトレンドを伸ばしていくと医療費がさらに膨らんでしまう可能性があるわけだけれど、もしそうではなかった場合、今度は団塊ジュニアに対する家の相続が行われる。おそらく、団塊世代の人たちは家を持っている人が多くてローンも払い終わっているでしょう。退職金も、使い切ってはいないんじゃないかな。彼らは日本の雇用システムや制度的保障が間に合った世代なので。

私は昭和30年生まれで、自分の世代以下は日本の制度が間に合わなかったと思っていて。団塊の世代の人たちの資産が下の世代に相続された場合、団塊ジュニアとそのジュニアたちには経済的にかなりメリットがあるんじゃないかと思います。

「賢人論。」第25回(前編)藤原和博さん「きちんと自立して生活しているまともな高齢者の方は、若者の未来を食ってはいけないということへの理解力と包容力がある人たちだ」

“将来の若者たちの利益を利食いしてはいけない”という分別のある高齢者に対して逆に失礼

藤原 仮に、東京の都心に住んでいて一番生活費がかかりそうなケースだとしても、バブル前のような年収じゃなくても、まあ暮らせると思うんですよ。衣食については安くなってきたからね。

みんなの介護 今は夫婦共働き世帯も増えていますよね。

藤原 そうですよね。さらに住むところさえあれば、例えば住宅が相続されれば、今言われている若者の貧困問題もだいぶ緩和される可能性もあるんじゃないかと。介護の問題は“高齢者の福祉”だけではないということは指摘しておきます。

みんなの介護 豊かな高齢者もいる一方で、生活に困っている高齢者の方もいらっしゃいますが、今は全員がまんべんなく年金を受け取れることになっています。

藤原 そこにはメスを入れないと、制度がもたなくなってしまうんじゃない? みんなわかっているのに、政治の世界ではタブーになっている。医療・福祉については今以上に国民が負担せざるを得ないのに、それをどの政治家も言い出さないのはおかしい。これをきっちりと言う政治家がいたら、信用してもいいと思ってるんですけどね。

みんなの介護 政治家も、高齢者世代からは敵視されたりするのはやりづらかったりするんでしょうか。

藤原 そうだと思いますよ。選挙に行く習慣ができているのも65歳以上の人なので、どうしてもそうなっちゃいますよね。

でも私が思うに、きちんと自立して生活しているまともな高齢者の方って、将来の若者たちの未来を食ってはいけないというか、若者たちの利益をあらかじめ“利食い”してはいけないということに関しては、きちんとわかるだけの理解力と包容力のある人だと思います。その人たちを票田としてお金を配ることしか言わないというのは、逆に失礼なんじゃないでしょうか。

バブル崩壊以降の社会では正解がなくなっていくのに、まだ、正解を当てるのが得意な情報処理力の高い子を増産している

みんなの介護 先ほど、若者は高齢者に支えてもらう傾向が強まっていくと伺いました。ここからは少し話題を変えて、将来の日本を背負って立つ若い世代に向けたお話を伺っていきたいと思います。

藤原 これは多くの場所で話をしてきたことですが、日本では1997年に成長社会が終わった。その年に何が起こったかというと、北海道拓殖銀行と山一証券が倒産して、その翌年にバブルが崩壊して成熟社会に入っていきました。成熟社会とは正解のない社会で、すべてのものが多様化・複雑化して変化が激しくなります。実は、私はちょうどその年にロンドン、パリから戻ってきて、40歳で会社を辞めてフェロー(特定の専門分野で業務委託の契約を交わす)という形で働くことになりました。

みんなの介護 先生が帰国されたのがちょうど、成長社会が終わった年だったんですね。

藤原 成長社会から成熟社会に入るときですね。とりわけ成熟社会とはどういう社会で、どういうことを身につけないとズレてしまうのか、ということをずっと書籍や講演などで布教してきました。成熟社会の本質を伝道する伝道師のような感じですね。

成長社会では、あるモデルが存在していました。例えば、日本には“アメリカンライフスタイル”のようなモデルがあって、我々はそれを追いかけていた。モデルが存在する社会では正解がたくさん用意されていますから、正解に向かって早く正確に処理していく“情報処理力”が身についていれば、サラリーマンあるいは公務員として成功したと思うんです。そのような正解がある時代から、98年以降はどんどん正解のない時代に移行しています。すでに10数年たっていますが、2020年代中にはもっと成熟社会が進行すると思います。

みんなの介護 2020年には東京五輪が控えていますね。

藤原 その2020年が大きな時代の変わり目になると思うんですね。アテネ五輪後のギリシャ、北京五輪のあとの中国を見てもわかるように、オリンピックは国の一大行事だからどうしても過剰投資が行われて、先進国にとってはリターンが少ない。2020年代中に経済がかなり沈むことが成熟社会を加速させるんじゃないかと。

成熟社会という「正解」がどんどんなくなっていく社会へ突入しているのに、今の日本では、まだ、正解を当てるのが得意な情報処理力が高い子を増産している。本当は、みんな一緒に正解を当てようとするんじゃなくて、それぞれ一人一人の“希少性”を磨いていかなければならないのです。成熟社会では経済が従来ほどは伸びていきません。社会が多様化して複雑化していけば、一人ひとりがバラバラになっていくのは当たり前の話です。“みんな一緒”の社会から、それぞれがバラバラになっていきます。

イギリス、フランスという約100年前に成熟社会に入った社会を90年代に見たときに思ったのは、そういう社会では何が大事かというと、正解をただ早く正確に当てるのではなくて、正解がない中でも一つひとつのケースで“納得解”を出していくことなんです。納得解とは私がそう呼んでいるんだけれど、自分が納得し、かつ関わる他者が納得できる解のことです。頭を柔らかくして試行錯誤しながら、納得解を作り出す力が大事になってきます。

みんなの介護 正解を早く出すことを求められた社会が終わり、今後は物事を発想する力が求められているんですね。

藤原 頭を柔らかくして納得解を紡ぎ出す力のことを“情報編集力”と呼んでいます。これまで求められていた情報処理力がまったく不要というわけではなく、情報編集力だけでいい、ということでもありません。今の日本は情報処理力と情報編集力のバランスで見ると、教育制度においては、おそらく97%対3%の割合になってしまっています。

「賢人論。」第25回(前編)藤原和博さん「小学校の教育目標は、だいたいが“みんな一緒に、仲良く元気良く”。そんな教育を受けた子どもはよく考えられる大人にはなれない」

これからは“みんな一緒”という価値観から脱するときの寂しさに耐えられる子を育てなければいけない

藤原 小学校も中学校も今はほぼ、正解を早く出すことを鍛える教育になっています。本当は、教育における情報処理力と情報編集力のバランスは7対3くらいが適切だと思います。どうも、最近の国の政策を見ていても、2020年代中に情報編集力の比重を3割くらいまでにもっていこうとしてるんじゃないかな。

保育園や幼稚園では比較的自由にさせていますよね。おままごとのようなロールプレイングゲームもやる。そういった正解が一つではない遊びをさせているのに、小学校に入って3年生くらいからガラリと変わって「正解主義」になってしまうのです。

とは言っても、情報処理力側の基礎学力も相変わらず大事です。ディベートするにしても、下調べのときに多くの情報から必要な知識を得て、その中で優先順位を決めていく処理能力が必要なんですね。だから、高校で情報処理力側:情報編集力側=5:5くらいの割合にできればいいかな。そして大学では100%情報編集力側へシフトして、正解が一つのことはやらない。そうすると社会全体として7対3くらいのバランスになるでしょう。

みんなの介護 情報処理力を身につける教育は維持しつつ、情報編集力を鍛える要素を増やしていく、ということですね。

藤原 さらにつけ加えるならば、情報処理力というのは、部屋に閉じ込めて「自分一人でカンニングせずに、何時までにどれだけやりなさい」という話じゃないですか。多様で複雑な成熟社会では正解がないわけだから、本当だったら、誰と組んでもいいんだよね。誰かに聞いちゃうと学校のテストの論理ではカンニングになってしまうんだけれど、今は協働性というもののほうが大事で、知っている人に聞いたり共に考えたりして問題解決にあたることが求められるんです。あるいは、ネットを通じてブレストを行い、自分の脳を拡張して、人の知恵や技術をつなげるのもいい。自分とは違う見方があるかもしれない、といった複眼思考が大事なんです。一人でウーンと悩んでいるのは前時代のやり方。

小学校の教育目標はだいたい“みんな一緒に、仲良く元気良く”なんですよね。最近の流行りは、これに「よく考える子」というのを取ってつけたように加えている。私が疑問なのは、みんな一緒に仲良く元気よくワーッて騒ぐ子が、どうしてよく考えられるようになるのか。不思議でしょうがないですよ。よく考える子って、オタク系だったり大人しかったり、いじめられがちだったり、図書館に逃げたり。必ずしも群れるタイプじゃない。これからは、みんな一緒のほうに行けば行くほど、本来その子が持っている価値が薄くなる時代ですから。

希少性のあること、価値あることを追求していくと、パッと後ろを振り返ったときに誰もついてこない可能性もある。そういう寂しさに耐えられる子を育てなければいけないのに、義務教育全体のコンセプトがまだそこまではいっていないんです。

「賢人論。」第25回(前編)藤原和博さん「「自殺は是か非か?」そんな両極端な意見がある中で自分をどこにポジショニングするか。 それを考えられるようにするのもこれからの教育だと思う」

例えば安楽死の議論にしても、きれい事ばかりを述べていては自分の意見なんてものは育たない

藤原 一条高校では、生徒の人柄が非常に良くて落ち着いているということと、生徒と先生の距離が近い。信頼関係が厚いんです。だったらできるんじゃないかということで、生徒個人のスマホを持ち込ませて授業で使用する、ということをやっています。「生徒個人のスマホを授業に活用し、積極的なアクティブ・ラーニングを行う学校」として、スーパー・スマート・スクール(SSS)を目指します。

1学期間は端末をWi-Fiにつなぐまでが大変でした。生徒所有の1000台を超えるスマホをつなぐわけです。すると、学校のようにセキュリティレベルが高いWi-Fi接続に対応していない機種も出てくるので。そこはリクルートのスタッフにも入ってもらいながら一つずつクリアしていって、今では1年生はほぼ100パーセントつながるようになりました。

みんなの介護 ものすごく画期的な取り組みですね。スマホを使った授業は、どういったものになるんでしょうか?

藤原 何かについて意見を聞くときに、40人の教室で“みんな一緒型”の授業をやっていると手を挙げさせることが多いでしょう。たとえば、「あなたは死刑制度に賛成か反対か、その理由は?」のような、正解のない問いかけをやるとします。先生が教壇で「意見がある人?」と聞くスタイルだと、いつも手を挙げ慣れている成績優秀者5人くらいと、あと2、3人の目立ちたがり屋が挙手をするけれど、それ以外の生徒は思考停止している状態になりがちですよね。これが、典型的な“みんな一緒型”の授業です。

これからの授業は「賛成か反対か、その理由は?」と問いかけて、スマホから打ち込ませるんです。今の高校生って両手打ちをしたら2分くらいで200字くらい打ち込んでしまうから、まるで人種が違う(笑)。その高度なテクニックを通常は抑えてしまうでしょ、学校では。それを抑えるのではなく、伸ばそうと。そのために一斉にWi-Fiにつないで、賛成と反対の理由を一気に打って送信ボタンを押せば、先生のタブレットに集約できます。

みんなの介護 誰がどういった発言をしたかは見えるようになっているんですか?

藤原 スクリーンに映して共有することも可能です。挙手制を取ったときには、控えちゃって出てこない意見がバンバン出てきます。例えば、自殺や安楽死の是非を議論するような時には、すごく極端な意見として「自分の命なんだから、何をやったって勝手じゃん」というのが出てきます。こんな意見、手を挙げさせたら出てこないでしょ。道徳的なバイアスがかかるから。その反対に「代々つながっている命なんだから大事にしないといけないんじゃないか」というような意見も出る。その2つの意見の間で、自分の意見のポジショニング(位置取り)もできるようになるんです。

私の経験上、大胆な意見を言うのはだいたい男子。それに対して、女子がしっかりした意見を言ってバランスを取る。そうすると、両者の間を取るような“条件付き”の条件を考えられることになります。考えていく中で「宗教によっては自殺を是としているところもあるよね」といった気づきを得られることも。さまざまな考え方がある中で、自分の意見をどこにポジショニングするか、ということだから。

みんなの介護 今までの日本の教育ではなかったことですよね。

藤原 これまでは道徳的に答えるしかなかったですから。もし、そういうきれい事しか許されないムードだと、2人、3人が「正解」っぽい意見を発言していくと、どんどんそこに収束していくでしょ。そんなことばかりやっていたのでは、自分の意見なんてものは育たないですよ。まず両極端な意見を知らせることを、これからやるべきなんです。

みんなの介護 いろいろな意見があると知った上でディベートしたほうが、考える力も身につきますよね。

藤原 「誰それの言う通りだと思います」というのでは、ディベートにならないでしょう。“どういう条件だったら”という話を考えさせる必要がある。そうすると、安楽死の場合では「ある条件のもとなら、賛成できるんじゃないか?」というように大抵の人は思うものなんです。そうした議論を深めていくことが「命の尊厳とは何か?」を議論することに結びつくんです。

あらゆる面で「命の尊厳が大事」と上から下に言っているだけでは、思考停止状態になってしまいます。その思考停止から解かれるためには、正解主義で教えるだけではだめなんです。自分の意見をプレゼンテーションする機会をもっと圧倒的に増やすためには、スマホの使用が有効ではないでしょうか。

ちなみに、タブレットでは早く打てないじゃないですか。私も校長室で使っていますが、ただ単にウェブを見るにはいいんだけれど、発言するというメディアではない気がします。彼らにとってスマホでの発信は、まったく苦にならないですからね。

Googleからは“好きオーラ”は出てこない。人間的なものが最後まで残る

みんなの介護 先ほど、生徒の個人スマホを用いた取り組みを伺いました。藤原先生はこれまでも多くの教育改革をされてきましたが、今回お聞きした取り組みもそうなんですね。

藤原 橋下さんが大阪府知事のときに、大阪の柴島(くにじま)高校で人権教育担当の先生と一緒に研究したんだけれど、自分のスマホから意見を打たせたほうが、自己開示が図られるということが明らかになったんです。生徒にとって最も身近な端末であるスマホは、自分の一部だと思ってますからね。もっと利用が進めば、今やった授業が理解できたかどうかを1コマ終わるごとにスマホで評価することもできると思います。

私はもともと、日本の義務教育はもっと開いたほうがいいと思っていました。和田中(東京都杉並区)時代に広めたのは、地域社会の人たちを学校に入れて、地域の人と職員室とが共同経営する姿、学校支援地域本部というコミュニティ・スクールのようなもので、今は全国1万校くらいに広がっています。学校を教師だけに任せていてはダメで、いいときも悪いときも共同責任なんだ、と。悪いときというのは、いじめが起こったり、暴力行為があったりするとき。こういうことがあるとすぐ“先生が悪い、学校が悪い”とマスコミは叩くでしょ。でも、いじめも暴力も、たいていは学校が原因で起こるんじゃない。だから、家庭を含めてコミュニティがもっと主体的に関わる必要があるんです。

寺子屋だって、もともとそうだったでしょ。はじめからコミュニティスクールだったんですよ。学校を先生だけに押しつけてはいけない。それが私の義務教育改革の主眼だった。文科省が予算をつけたこともあって、かなり広まりました。学校支援地域本部は、私がやっていた杉並区では全小・中学校に置かれ、それが飛び火して奈良の全中学校区にも普及しました。今では「地域学校協働本部」という呼び名に変わっているようですが。

みんなの介護 教育を画期的に変えるために、「もっとここを改善したほうがいい」と感じることはありますか?

藤原 教員の質の向上のためには研修を充実させて…とか、現場を知らない官僚はすぐ決めちゃうわけです。10年に1回の免許更新とか、私はほとんど意味がないと思ってるんだけどね。免許更新研修のために自分が免許を取った大学に行くわけですよ。大学の先生も現場をほとんど知らないから、学校の先生が免許の更新で来てくれるのが嬉しいなんて言っているんです。これ、どっかおかしくないですか?「現場から来てくれるから嬉しい」だなんて。大学の教員をわざわざ行って、元気づけるみたいなことになってしまっています。

ITだとかいじめの対処といった研修はたしかに大事なんだけどね。それより私は、いらない研修をするより、全小中高校にWi-Fiを設置してスマホを授業に取り入れていったほうが、つまり教室を開いて、子どもたちを世の中に開かれた存在にする方が早いと思っているんです。だって、本当はもうすべての知識にタダでアクセス可能なのに、なぜ学校の中に閉じ込めて支配下に置く必要があるのか?

みんなの介護 徹底した管理教育では誰のための教育なのか、わからなくなってしまいますね。

藤原 もちろん理解が早い子と遅い子では、やり方を変える必要があります。自分でどんどんできる子は、オンライン動画を見せることで十分知識を身につけるでしょう。全教科、全単元ごとに、教えるのが最も優秀な先生の映像さえあれば、それによって一人で学べてしまう。学校に登校してきて、例えば、一日のうち午前中の時間は全部自分でやってもいい、と言えば、できると思う。ただし、半分くらいの子はそれだけじゃできないんです。偏差値で言うと50~60以下の子って、勉強に対する動機づけが習慣化できていないから、そこはやっぱり何かしら別の動機づけをしないと。

その役割は相変わらず、学校の先生でしょう。知識がどんなにGoogleの中に集約されたとしても、かなり最後まで残る仕事じゃないかと私は思います。今の中学・高校の先生が一生懸命やっているのは、部活ですよね。例えば、サッカーにしか興味がない子がいたとして、部活で徹底的に体力を使わせてヘトヘトにさせるんだけれど、「俺の教科は数学だから、数学だけはとにかく赤点取るなよ(笑)」みたいな感じで勉強させる。そういうアナログな人間関係によって勉強させる技術は2030年になっても残るかも。こういうことって現実にあるでしょ。人間としての動機づけは、Googleにはできない。

小学校の先生なんかによくあるんだけれど、何かが好きっていう先生は、“そのことが好き”というオーラを放ってますよね。教育って伝染・感染によって広まっていくものだから、その“好き”というオーラも最後まで残ると思うんです。たとえ全知識がGoogleの向こう側にいったとしても。Googleから“学ぶのが好きオーラ”というのは出ないでしょ、あくまでシステムだから。

「賢人論。」第25回(後編)藤原和博さん「ゆとり教育がダメなわけじゃなく、少子化と核家族化によって若者世代が家族の中で揉まれることが減ったことがダメ」

日本のゆとり教育は間違ってはいなかった

みんなの介護 人間の役割がどこにあるか、と考えると、人との関わりによって生まれるところにあるのかもしれないですね。人工知能にはできないことばかりです。

藤原 あとは、教室運営やいじめの対処といったことは最後まで残るでしょうね。異質な他者が集まる限りは、そういう教室運営が上手な先生も必要だと思う。教育をどれだけスマホで開いても、そこは残るんじゃあないかな。

ゆとり教育はダメだっていうことになって悪く言われがちだけれど、ちょっと違うんだな。たしかに若者世代は揉まれていないという面もありました。でもそれは、ゆとり教育が悪いというより、社会全体が子どもたちを揉んで大人にしようとしていないだけ。

まず、少子化と核家族化が同時に起こって家族の中で揉まれることが減ります。ほぼ同時に地域社会も後退していったから地域でも昔のように揉まれない。さらに少子化が進んで学校でもクラスが減っていく。すべてに手をかけて育てる予定調和の世界になってしまったんです。それで揉まれるわけがない。ゆとり教育が悪かったわけではないと思います。

みんなの介護 日本の社会はまだ多様性を認めるところまではいっていないと思います。だからGoogleやAppleのような企業が生まれないんでしょうか?

藤原 もちろん、そういうことはあると思いますが、結局はさっき言ったように、日本の社会では、情報処理力対情報編集力で目指す割合は7対3でいい。それを3対7にする必要はないんじゃないかと思うのです。つまり、クリエイティブな要素が増えると面白い社会になるかというと、そういう面もあるとは思うけれど、無茶苦茶な社会になる可能性もあるわけ。日本の場合は正解主義教育が過度に行われて、情報処理力が高い人材が多数生み出されたからこそ、秒単位で新幹線の運行が管理できているわけですよ。フランスやイタリアでは考えられない。

例えば、人と会うときに「来週金曜日の夜7時に近鉄奈良駅の噴水の前で会いましょう」と約束したとします。そのときに、ほとんどの人が来てくれると信じられるような、安心できる社会というのは、正解主義教育のおかげだと思うんです。レストランでも、頼んだものが正確に出てくるし。レストランに入ったとき、頼んだもの以外が出てくるような、予測できないようなハラハラする展開って、緊張感が高すぎるでしょ(笑)。だから、7割ぐらいのことは、考えなくても正しく行われてほしいと思う。そういう意味で、これまでの教育は間違っていなかった、と。

いつの時代でも、天才というのは学校教育の中では育たないんです。天才を学校教育の中で育てようとするのは愚の骨頂です。天才というのは外で勝手に育つものなんです。アウトサイダーとして。アメリカのハーバード大学には東大より難しい試験を受けて入るものだと勘違いしてしまうのは無理ないけれど、そうではなくて、アメリカ社会にはそういう天才を大学に招くシステムがあるんです。

「賢人論。」第25回(後編)藤原和博さん「「日本の教育は、もっとクリエイティブなものに変えるべき」。そんなロマンティックなことを言う、現場のことを知らない教育評論家には同意できない」

奈良と言えば「大仏」「鹿」「一条高校」の3つが基本。一条高校への教育視察はこれからさかんになる

藤原 私が同意できないのは「日本の教育は管理教育ですね。もっとクリエイティブなものに変えるべきです」なんてロマンチックなことを言う教育評論家。現場を知らないから、こういう単純なことが言えるんだと思います。

これからは、授業を教員の力量の限界から解き放つ工夫が必要でしょうね。それと同時に、教員の事務負担を軽減しなければならない。そのためには、ICTの導入が鍵になります。明治以来140年、一斉型の授業では、教員がすべて正解を知っているという必要性があったけれど、もはや教員ですら正解を知らないという世の中になっている。知らないものは一緒にタブレットやスマホで調べましょうとするなら、いいと思うんです。

さっき例を出した「安楽死の是非」だって、そんなのは私も含めて教員が正解を知っているわけないんだから。そういう中でディベートをするときは、教員の知識の限界から生徒たちを解き放たなければいけない。

みんなの介護 知識の限界から解き放たれる…ですか。学校の先生が“知らないこと”でも生徒が知っている、なんていうことはこれから増えていくんでしょうね。

藤原 スマホを授業でも持たせれば、世の中の方にある知識の世界に出ていけるわけなので。ただ、単に自由に使っていいとなると学校が荒れてしまうので、生徒指導の先生たちの知恵で検討してもらって、教員の指導下であれば、学校でスマホをWi-Fiにつなげて勉強するのはOKにしています。授業中にググってもいいし、「C-Learning」機能で意見を取るアンケート機能も使います。

日本の教育全体が達成してきたこと、あるいは学校や先生のあり方は間違っていなかったと言っていいと思います。今は移行期にあるけれど、保守的な先生もそれはわかっている。わかってはいるけれども“ゆとり教育批判”で教科書が3割増えてしまって、教えなければいけない知識がまた増えたのも事実。でも、結局1割も授業時間が増えなかったから、すごく忙しくなってしまったんですね。要するに、詰め込み教育に戻ってしまったということ。だから、これを21世紀型に戻すには慎重にやる必要がある。

でも、なんとかなるんじゃないかと思いますよ。生徒個人のスマホを授業で使うというのは、一条高校が世界で初めてなんです。すでにフランスからの視察が来ているし、来年になれば海外からの視察も、もっと増えるんじゃあないかな。奈良の観光は、大仏、鹿、一条高校の3つが基本。一条高校の教育視察を打ち出していきます。

撮影:中井秀彦

関連記事
医師・医療ジャーナリスト森田豊氏「認知症になった母への懺悔 医師である僕が後悔する『あの日』のこと」
医師・医療ジャーナリスト森田豊氏「認知症になった母への懺悔 医師である僕が後悔する『あの日』のこと」

森田豊
医師・医療ジャーナリスト
2022/11/07