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浅田次郎「資質のない自分がどのように作品をつくっていけばいいのか。それが生涯のテーマ」

最終更新日時 2020/10/12

浅田次郎「年を取っているからこそできる仕事がある」

約10年間義母の介護を経験する

みんなの介護 浅田さんは10年ほど前、『私の最期はこう弔ってほしい』というエッセイの中で、「親子関係は単純なものではなく、子は縁が薄い親でも納得できないまま面倒を見る」と書かれていますね。ご両親の最期について、差し支えのない範囲で聞かせていただけますか。

浅田 そこにも書いたとおり、僕は父親とも母親とも縁が薄かった。そして最後まで、世間並みの親子関係には戻れませんでした。せいぜい、連絡が取れる関係に戻ったくらい。世の中には、同じ経験をしている人はたくさんいると思う。ましてや今の日本は離婚社会だから、こういうケースはこれからもっと増えていくでしょう。

僕自身、「親からたいしたことはしてもらえなかった」という思いはあります。でも、だからといって、「親の葬式を出さなくていい」とは考えなかった。2人の死に目には会えなかったけど、僕が戸籍上の子どもである以上、喪主としてそれぞれの葬式は出しました。

みんなの介護 ご両親の介護についてはいかがでしたでしょうか。

浅田 ほかに面倒を見てくれる人がいたので、今さら僕が口を出す筋合いはありませんでした。その代わり、結婚当時からずっと同居していた妻の母親の介護にはかかわりました。妻は一人娘だったので、嫁にもらったときに義母の最期を看取る覚悟もしていましたね。

みんなの介護 そうなのですね。介護をされていたとのことですが、お義母さまは施設かお家で過ごされていたのですか。

浅田 義母は体が弱かったので、病院や施設を出たり入ったりしていました。でも基本は在宅介護でしたね。60代後半から義母に認知症の症状が出始め、70代からは本当に目が離せなくなった。そういう状態がおよそ10年間続きました。大変な場面もありましたが、幸い僕と妻の2人だったのでまだ何とかなった。1対1で在宅介護している方は、本当に大変だと思います。

義母が弱ってからは、階段に手すりをつけたり、義母にあわせて自宅もいろいろと改装しました。今は僕が手すりを使う年齢になったけど。

ショックだったのは、僕をわからなくなった瞬間が何度もあったことです。「どちら様ですか」「いらっしゃいませ」と、たびたび言われた。30年一緒に暮らしていても、所詮婿さんは婿さんなんだな、とがっくり。僕の妻、つまり実の娘だけは、義母も決して忘れることがなかったんですがね。

終活ノートを書く暇があったら生きているうちにやるべきことをやる

みんなの介護 義母の介護を経験して、浅田さんの中で何かが変わりましたか。

浅田 自分がどのように老い、どのように死んでいくのかしみじみ考えるようになりました。ウチにも一人娘がいるので、「いずれ娘に迷惑をかけるのだろうか」と、ちょっと心配になりましたね。

みんなの介護 先ほど触れたエッセイの中で、「子どもには迷惑をかけず、介護はプロの業者にお任せする」「痛いのだけは勘弁してほしい」「畳の上でできれば書きかけの原稿用紙の上で死んでいたというのが理想に近い…」など、具体的に書かれていますが、その後、ご自身の最期に対する考えが変わったところはありますか。

浅田 変わりましたね。60歳を過ぎると、死生観は絶えず変わっていくものです。身の回りで友人知人が亡くなっていくので、そのたびにいろいろなことを考えざるを得ない。だから、死生観は容易に定まりません。今の僕の心境で言えば、「自分自身が死ぬことに対して小理屈をこねるのは嫌だな。死ぬために自分で何か努力することも、真っ平御免」だと思っています。

人間は、死ぬために生きているわけではない。一生懸命に生きた結果、最後には死ぬ。だから人間は、自分の死に方や死んだ後のことについては、あれこれ注文をつけるべきではない。散骨してほしいとか自然葬がいいとか、そんなのはわがままですよ。どんな葬式を出すかなんて、後に残って生きている人が決めればいい。これはあくまでも、僕の個人的な意見だけど。

現時点で僕が考えている「正しい死に方」とは、「後は野となれ山となれ」で死んでいくこと。死んでからのことは、どうとでも好きにしてくれ。こっちはいまを精一杯生きるだけなんだ、ということですね。

みんなの介護 一方、世の中では、終活ノートを書くのがちょっとしたブームになっています。

浅田 そうらしいですね。今の世の中、変に“死に支度”をしている人が多すぎる。僕に言わせれば、終活ノートなんて書くべきではありません。「そんな暇があったら、生きているうちにやるべきことが山ほどあるだろう」と言いたい。子や孫にもっと知恵を授けるとか、自分が極めたい趣味に打ち込むとか。

それから、「死ぬときは、子どもに迷惑をかけないように死にたい」なんて言っている親もいますが、それは子どもを甘やかせすぎだと思う。親を送ることは、子どもが経験しなければならない苦労の1つ。そういう苦労であれば、子どもにしっかり経験させるべき。

僕は一人娘に常々言い聞かせています。「俺は『後は野となれ山となれ』で死んでいくから、死んだ後で何が見つかるか、俺の知ったことではない。もしかしたら一文無しになっているかもしれないし、莫大な借金をこしらえてるかもしれない。そういうことには一切決着をつけずに死んでいくから、後はおまえが考えて処理してほしい。その代わり、俺が生きている間は何でもやってやる。だから頼りにしろ」とね。

みんなの介護 かっこいいお父さんですね。

浅田 娘がどれだけ真剣に聞いてくれているか、わからないのですが…。そもそも、僕の周りにいる人間は、僕が永久に死なないんじゃないかと思っている節がある。なので、「いつか死んでやろう」と思っているんですよ(笑)。

人生100年時代は老人が活躍する時代

早期リタイアした武士や商人たちが江戸の文化・教育水準を引き上げた

みんなの介護 以前、浅田さんの書かれた文章で、江戸時代の武士や商人は早期に引退するものだと知りました。引退した老人たち、というより初老の人たちがそれぞれ道楽に精を出したからこそ、江戸の文化は栄えたのですね。

浅田 その通りです。江戸時代の人々は早期リタイアするのが一般的でした。だいたい40歳前後で家督を長男に譲り、隠居して自分の好きな道楽に励んだ。ここ数年、藤井聡太くんの登場で将棋界が盛り上がっていますが、囲碁・将棋の発展に大きく貢献したのが、江戸時代の隠居した老人たちです。武士にしろ商人にしろ、現役時代に囲碁・将棋で遊んでいる時間はありません。しかし、早期リタイアした人たちは逆に毎日暇を持て余していたので、囲碁や将棋は格好の時間潰しだったわけです。また、盆栽をいじったり、裏庭で菊や朝顔や万年青を育てるなど、今でいう「ガーデニング」が栄えたのも江戸文化の特徴。ここにも、隠居した老人たちがかかわっていました。

隠居した武士の過ごし方で最もポピュラーだったのは、寺子屋の先生でしょう。彼らは、武士の素養として身につけた「読み書き算盤」を、町人や農民の子どもたちにほとんど無償で教えていました。

みんなの介護 なるほど。それで日本の教育レベルが一気に高まったんですね。

浅田 江戸時代の日本は、識字率も就学率も世界トップレベルでした。それが明治維新の際の原動力になりましたね。近世から近代へという社会の大きな転換点を迎えても、国民のほとんどが字を読めたので、太政官布告の内容を読んで、ただちに状況を理解できた。つまりそれだけ、近代化への移行がスムーズに行えたわけです。

伊能忠敬の生き方がこれからの超高齢社会を考えるヒントに

みんなの介護 まさに老人パワー恐るべし、ですね。

浅田 そのとおりです。「江戸文化=老人文化」と言ってもいいくらい。その最もわかりやすい例が、「大日本沿海輿地全図」を作成した伊能忠敬でしょうね。

忠敬は下総国香取郡佐原村(現・千葉県香取市)の名主でしたが、当時としてはやや遅めの50歳で隠居し、家督を長男に譲りました。それから天文学を学び、師匠から教わった天体観測の知識と技術を活かして、56歳のときに奥州街道と蝦夷地の測量を始めた。忠敬自身、まさか日本地図をすべて完成させられるなんて、思ってもみなかったはずです。当時の寿命は60歳そこそこで、自分に時間が足りないのは明らかだった。ゆえに忠敬は、全国版の完成は弟子たちに任せるつもりで、焦らずにゆるゆると測量することができたのです。結果的には74歳まで生きて、日本全国の地図を完成させることになりますが。

江戸時代の50歳は、今日の70歳くらいのはずです。そこから未知の学問に挑戦して、24年かけて全国津々浦々を測量し、日本地図を完成させてしまった。伊能忠敬はまさに鉄人です。

みんなの介護 そういう話を伺うと、高齢の人たちも未来に希望が持てるでしょうね。いままでは老い先短いと思っていたけど、頑張ればもう一花、二花咲かせることができるかもしれないということですね。

浅田 伊能忠敬の日本地図作成は、「年を取ってからでもできた仕事」というより、「年を取っていたからこそできた仕事」なのだと思う。年寄りは何かにつけて、若者よりも仕事が丁寧ですから。年を取ってから全国を歩き回るのは大変だったと思うけど、早期リタイアをして焦らず丁寧に測量を続けたことで、あそこまで精度の高い地図をつくることができた。「伊能忠敬」という生き方は、これからの人生100年時代にどのような余生を送るべきか、1つのヒントを与えてくれているように思えます。

浅田氏の著書『流人道中記(上)』
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読売新聞連載で感動の声、続出。累計100万部突破「笑い」の『一路』に続く、「涙」の道中物語。万延元年(1860年)。姦通の罪を犯したという旗本・青山玄蕃に、奉行所は青山家の所領安堵と引き替えに切腹を言い渡す。だがこの男の答えは一つ。「痛えからいやだ」。玄蕃には蝦夷松前藩への流罪判決が下り、押送人に選ばれた一九歳の見習与力・石川乙次郎とともに、奥州街道を北へと歩む。口も態度も悪いろくでなしの玄蕃だが、道中で行き会う抜き差しならぬ事情を抱えた人々は、その優しさに満ちた機転に救われてゆく。この男、一体何者なのか。そして男が犯した本当の罪とは?

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森田豊
医師・医療ジャーナリスト
2022/11/07
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