浅田次郎「資質のない自分がどのように作品をつくっていけばいいのか。それが生涯のテーマ」
「ボランティア」という言葉には恩着せがましさを感じる
みんなの介護 浅田さんは「介護」という言葉があまりお好きではないと伺いました。
浅田 あまり好きではないですね。ほかにも好きになれない言葉は、世の中にたくさんあるんですよ。例えば、「ボランティア」。災害ボランティアとか、復興ボランティアとかいろいろ言われるけど、そもそもボランティアとは、「何らかの活動に、自発的かつ無報酬で参加する人」のこと。ボランティアという概念に「報酬の有無」という尺度が含まれているんです。そこがちがうと思う。「本当はお金をもらってもいいはずなんだけど、今回は無報酬でいいですよ」という恩着せがましさが感じられるんだな。
でも、実際に災害ボランティアに駆けつける人って、あくまでも心意気で行動しているはずですよね。「そこに困っている人がいるから、助けに行きたい」と思っているだけ。「報酬」なんてはなから頭にはないはず。自分でやるべきだと思ったことをやっているだけ。ところが、その行為が「災害ボランティア」という名前でくくられた途端、当初の崇高な思いはどこかへ行ってしまって、なんとなく異質のイメージがつきまとう。もっと良い言い方はないだろうか、といつも考えてしまいます。
みんなの介護 浅田さんは、「シルバーシート」もお気に召さないとか。
浅田 そうです。「シルバーシート」という変な和製英語ができた途端、「シルバーシート以外は高齢者の方に席を譲らなくてもいい」という、変な言い訳ができてしまった。本来であれば、自分がどの席に座っていようと、目の前に高齢者の方や妊婦さんが立ったら席を譲るのが当たり前。それがわが国のモラルであり、美風だったはず。グローバリズムの失敗だと思います。
みんなの介護 シルバーシートという発想が生まれたのは、欧米流の個人主義の影響でしょうか。
浅田 どうなんでしょうね。逆に、ヨーロッパで鉄道やバスの公共機関に乗ったときに、紳士的な男性が女性に席を譲る光景を幾度も目にしました。席を譲られた女性も、さも当然のように座るんだよね。ああいうのは一種の騎士道精神なのかな。
先ほどの「介護」という言葉に戻ると、違和感を抱いているのは、日本にはもともと「孝」とか「孝養」の精神が根づいていたはずだから。例えば、自分の親が年を取ったり、病気になったりすれば、その世話をするのは当たり前のことでしょ?それが「孝」です。
だから、「第三者に自分の親を介護してもらう」という言い方なら、まだ理解できる。第三者には、自分の親に「孝」を尽くす義務なんかないんだから。でも、「自分の親を介護する」というのは、どう考えても不自然ですよね。あえて「介護」なんて新しい言葉を持ち出すまでもなく、昔からやっていた当たり前の行為なんだから。
結局、「孝」という当たり前のことをみんなやらなくなったから、仕方なく「介護」という社会的な用語をつくるしかなかった。真相はそういうことなんじゃないかと思います。
老人が世界一幸せな国は中国
みんなの介護 日本の「孝」の精神は、どこに行ってしまったんでしょう。
浅田 僕は小説の取材を兼ねて、中国に行くことが多いんですが、中国人から学ぶべきことはいまだにいろいろあります。特に感じるのは、わが国では失われた「孝養」の精神が中国社会では隅々にまで行き届いていることですね。
朝、北京や上海の町を散歩していると、老親の手を引いてゆっくり散歩している親子連れをよく見かけます。ところが、そんな光景は日本では滅多に見られません。日本人は、「孝養」の精神をすっかり忘れてしまってるんだな。この点については、我々は中国人を見習うべきだと思うよ。
みんなの介護 確かにそうですね。日本では、老人と中年の息子や娘が一緒にいるところさえ、ほとんど見かけません。老人介護施設のゲストルームなどでは、たまに見かけますが。
浅田 中国人には、老人を尊敬する文化がまだ残っているんだね。例えば、「老(ラオ)」という漢字。日本では単に「年老いた」という意味しかないけど、中国語の「老」には、「偉い」「尊敬すべき」という意味も込められている。だから、自分の先生のことを「老師」と読んだりするけど、「老師」は必ずしも老人というわけじゃない。若くても尊敬に値する人は「老師」なんです。だから中国の「老人」は、それだけで尊敬すべき人ということになるし、先ほど紹介したように社会全体が老人に対して敬意を払って接していますね。
ほかにも中国の大都市の公園にはいろいろ遊具が設置してあるけど、そのほとんどは子ども用ではなく、高齢者が公園で体を鍛えるためのアスレチック器具になっているんです。
みんなの介護 そうなんですか。はじめて知りました。
浅田 公園に行くと、老人が鉄棒にぶら下がったり、サイクルマシンのようなものに跨っていたり、自由に体を動かしていますよ。たまに子どもが使おうとすると、「それはお年寄り用だよ」と注意される。中国では、老人はジムに行かなくても、公園でストレッチなどの体操ができるようになっているんです。その後、みんなで太極拳をやって帰ったりね。ああいうところは、日本の行政ももっと参考にしていいと思う。
「礼」を重んじる生き方が日本を救う
みんなの介護 最後に、『流人道中記』について、もう1つ質問があります。下巻の後半で、石川乙次郎が青山玄蕃に「礼」の意味を尋ねたとき、次のようなセリフを言っていますね。
「いいかえ、乙さん。孔夫子の生きた昔には法がなかったのさ。礼ってのは、そうした結構な時代に、ひとりひとりがみずからを律した徳目のことだ。人間が堕落して礼が廃れたから、御法ができたんだぜ」
これはまさにコロナ禍で感染拡大を予防するために、外出自粛や営業自粛などを行う人々の「礼」に期待するのか。あるいは、外出禁止や営業禁止など、「法」で規制するのか。浅田さんがこの本を書いたのは新型コロナが発生する前ですが、日本の取るべき道は「礼」と「法」のどちらだとお考えですか。
浅田 それはやはり「礼」でしょう。新型コロナは確かに、日本の社会に深刻なダメージを与えました。しかしほかの先進国に比べて日本のダメージが圧倒的に少ないのは、私たち日本人がいまだに「礼」を重んじる生き方をしているから。マスクをつけ、できるだけ3密をつくらないようにしているのも、法律に決まっているからでもなければ、誰に命令されたわけでもない。自分で「こうすべきだ」と考え、行動しているわけです。
日本人はまだ、「礼」を失っていない。これは今回のコロナ禍における新たな発見だったし、日本人を少し見直しました。
日本人としての誇りを持ってコロナ禍を乗り切る
みんなの介護 本の中では、儒教の教えである「仁・義・礼・智・信」の五常についても触れられていますね。
浅田 あそこに書いたことは、すべて僕流の解釈なんですけどね。
「仁」は「二人の人」と書くとおり、自分以外の人間が1人でもいれば、そこで社会は成立しているという考え方。つまり自分本位ではなく、他人の立場を考えなさいという教えです。「義」は、人として踏むべき正しい道のこと。「礼」は、法の精神が登場する以前の社会規範のこと。「智」は、単なるインテリジェンスではなく、知性に則ってYes・Noをはっきり言える力。「信」は、功利を伴わない人間関係のこと。
新型コロナはまだ終息していませんが、日本人としての誇りを持ち、人生の明るい面や美しい面をできるだけ見るように心がければ、危機は乗り越えられると信じています。
浅田氏の著書『流人道中記(上)』
『流人道中記(下)』
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読売新聞連載で感動の声、続出。累計100万部突破「笑い」の『一路』に続く、「涙」の道中物語。万延元年(1860年)。姦通の罪を犯したという旗本・青山玄蕃に、奉行所は青山家の所領安堵と引き替えに切腹を言い渡す。だがこの男の答えは一つ。「痛えからいやだ」。玄蕃には蝦夷松前藩への流罪判決が下り、押送人に選ばれた一九歳の見習与力・石川乙次郎とともに、奥州街道を北へと歩む。口も態度も悪いろくでなしの玄蕃だが、道中で行き会う抜き差しならぬ事情を抱えた人々は、その優しさに満ちた機転に救われてゆく。この男、一体何者なのか。そして男が犯した本当の罪とは?
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