岸見一郎「老いは退化ではなく変化でありネガティブに感じる必要はありません。体力的には衰えたとしても、知力的にはむしろ高まるのですから」
ギリシア哲学の研究者として知られる岸見一郎氏は、アドラー心理学にも造詣が深く、自己啓発の源流「アドラー」の教えを説いた『嫌われる勇気』(古賀史健氏との共著)は累計176万部突破の大ベストセラーに。その後も哲学・心理学の分野で精力的に執筆を続け、2018年3月には、自身の老い、親の介護をテーマに『老いる勇気』を上梓した。当代随一のアドラー心理学の語り部は、「老い」について何を語るのか。京都にある哲人の書斎を直撃した。
文責/みんなの介護
「不完全である勇気」を持てば、老いても新たなことに挑戦できる
みんなの介護 岸見さんは、2018年3月に上梓した『老いる勇気』の中で、「老いの幸福」について言及されています。国民の4人に1人が65歳以上という超高齢化社会に突入した今、私たちは「老いる」ことに対して、どのように向き合っていけばいいのでしょうか?
岸見 老いることは退化ではなく、変化である。私は、老いをそんな風に捉えるべきだと考えています。年を取れば確かに、若い頃にできたことができなくなったり、病気にかかりやすくなったりもします。しかしそうした変化を、あえてネガティブにみる必要はありません。体力的には衰えているかもしれませんが、知力的にはむしろ高まるのですから。
例を挙げて説明しましょう。私はギリシアの哲学者、プラトンの『ティマイオス/クリティアス』を4年間かけて翻訳し、2015年に翻訳書として出版しました。私がギリシア語を必死に勉強したのは30年以上昔の学生時代。ギリシア語からはずいぶん長く遠ざかっていましたが、単語や文法を忘れていないどころか、若い頃に比べてより深く内容を理解することができました。年をとり、人生経験を重ねたことで、若い頃には見えなかったものが見え、読解力が総合的に深まったのだと思います。
このように、「老い」は退化を意味するわけではありません。進化することもあれば、深化することもある。そうだとすれば、「老いること」は退化でも進化でもなく、単なる「変化」だと捉えたほうがずっと生きやすくなるのではないでしょうか。
みんなの介護 「老い=退化」と捉えるよりも、「老い=変化」と捉えたほうが、確かにいろいろなことに前向きに取り組めそうですね。
岸見 そのとおりです。老いを退化と捉えてしまうと、歳をとってから、なかなか新しいことにチャレンジできなくなる。しかし、学生時代の受験勉強と同じくらい本気で取り組めば、たいていのことはマスターできるはずです。
例えば、私は60歳から韓国語の勉強を始めました。きっかけは、『嫌われる勇気』が韓国で125万部を超えるベストセラーになり、講演会に呼ばれる機会が増えたこと。講演では、もちろん通訳の方のお世話になるのですが、講演の初めに韓国語で話せるようになりたいと思いました。それで、韓国人の先生に付いて勉強を始めたわけです。
韓国語の勉強では、英語やギリシア語では絶対にしない、初歩的な間違いを何度も繰り返しました。先生の前で、すごく恥ずかしい思いをしたわけです。しかし、そこに意味があるのです。中学に入って英語を初めて学んだときのように新鮮な体験でしたし、学びの初心に返ることができました。学ぶ喜びを、この年で改めて知ることができたのは、ありがたいことです。今は、韓国の現代作家の本を先生と一緒に読んでいます。
みんなの介護 しかし、60歳を過ぎて未知の語学に挑戦するのは、誰にでもできることではないような気がしますが…。
岸見 いいえ、そんなことはありません。多くの人は「もう歳だから、できない」と単に思い込んでいるだけです。アドラー心理学の知見でいえば、「できない」と思いたいがために、「年齢による衰え」を理由に挙げているに過ぎません。
みんなの介護 なぜ、「できない」と思いたいのでしょうか?
岸見 それは、アドラーがいうところの「不完全である勇気」を持てないからです。新たなことに挑戦すると、「できない自分」「不完全な自分」であることが露呈するかもしれない。そんなことにはとても耐えられないから、高齢であることを理由に、初めから「できない」と決めつけてしまうのです。
しかし、私が韓国語の勉強で間違うことを恐れなくなったように、「できない自分」「不完全な自分」を受け入れられるようになれば、若い頃のようにさまざまなことにチャレンジすることができるようになります。要は、「いい歳して失敗したらみっともない」などと思わないこと。何か新しいことに挑戦するときには、年齢に関係なく、誰でも失敗するのが当たり前なのですから。子育てや仕事を終えて、自分の時間ができた人は、ぜひ何かに挑戦してみてほしいです。
老いてからの勉強では、純粋に、学ぶ楽しさや喜びを味わうことができる
みんなの介護 歳をとって現役を引退してからでも、何か新しいことに挑戦できれば楽しい老後を過ごせそうですね。
岸見 歳をとってから始める勉強のほうが、“学びがい”があるともいえます。
若い頃に取り組む勉強では、目標や到達点が設定されることがあります。例えば、大学入試に合格するために勉強したり、資格を取得するために勉強したりするときです。見方を変えれば、勉強することが大学合格や資格取得のための手段でしかなかった人が多かったのです
一方、歳を取ってから行う勉強では、目標や到達点を設定する必要がありません。第三者による評価や時間の制約から離れて、自由に勉強できるわけです。勉強が手段ではなく目的になり、純粋に、学ぶ楽しさや喜びを味わうことができる。これこそが老いてから勉強することの醍醐味であり、それが生きる喜びにもつながっていきます。
みんなの介護 『老いる勇気』では、病床でドイツ語を学ぶお母様のエピソードが語られています。
岸見 老いてから何かを学ぶ楽しさや喜びについては、母が身をもって教えてくれました。母は脳梗塞で倒れ、入院してから3ヵ月、49歳で亡くなりましたが、入院している間は学ぶことに対していつも前向きでした。
病床の母はまず、「ドイツ語のテキストを病院に持ってきてほしい」といいました。私は一時期、母にドイツ語を教えていたことがあり、そのとき使ったテキストで勉強し直したいというのです。母は初歩文法を終えた後、テオドール・シュトルムの小説『みずうみ』をドイツ語の原書で読めるくらいの力をつけていましたが、病院では「アー・ベー・ツェー・デー」から復習を始め、毎日少しずつ勉強を続けました。
その後、母の意識レベルは少しずつ低下し、ドイツ語の勉強を続けることが難しくなってきました。すると母は、今度は本を読んでほしいというのです。リクエストは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』。私が高校時代の夏休みに、夢中になって読んでいたことを母は覚えていて、いつか自分でも読んでみたいと思っていたのです。
結局、『カラマーゾフの兄弟』を最後まで読み通すことはできませんでしたが、このとき私は、母から三つのことを教わりました。まず、たとえ目標を達成できなくても、学ぶことそれ自体が喜びであるということ。次に、病気で身体を動かせない状態であっても、人は自由に生きられるということ。そして第三に、「今、ここ」を生きることこそが大切だということです。
病気や老いで身体が動かなくなっても、今日という日にできることは必ずある
みんなの介護 先ほどお母様のエピソードをうかがいましたが、岸見さん自身、50歳で心筋梗塞を経験されていますね。
岸見 はい。母の死から25年ほど経って、今度は私が50歳で心筋梗塞で倒れました。入院当初は絶対安静で、自分で身体の向きを変えることも許されませんでしたが、やがて少しずつ身体を動かせるようになると、母に倣ってベッドの上で読書を始めました。
そうやって病床で本を読みながら、気づいたことがあります。今、自分は本の中の世界に没入しているが、これは決して現実逃避などではなく、現実を超え、自分の置かれた状況から自由になる行為なのだ、と。
たとえ病気で身体が動かなくなったとしても、人にはできることがたくさんあります。どんな状況に置かれても、常に自分ができることを考え、それを実行することができるのです。これこそが、母の教えてくれた「自由に生きる」ということです。
これは決して、特殊な話ではありません。「病気」を「老い」に置き換えれば、誰もが直面しうる話です。人は老いを迎える中でいろいろなことができなくなっていきますが、それでも、できることは残っています。そしてその「できること」は、自分で諦めさえしなければ思った以上にたくさんあるはずです。その、できることを見つけ、実行していくことこそが、老いてもなお自由に生きること、ではないでしょうか。
みんなの介護 ベストセラーになった『嫌われる勇気』や『幸せになる勇気』を読むと、アドラー心理学の要諦は、「今、ここ」だけを真剣に生きることだと書かれています。今のお話は、その考え方と相通じるところがあるのでしょうか?
岸見 あります。母の話に戻ると、病床の母はまさに「今、ここ」に生きていました。先ほど、“勉強の到達点”について話しましたが、母は人生の到達点もあえて気にせず、その日その日を懸命に生きていました。病気や老いで身体が動かなくなっても、今日という日にできることは必ずあるはず。私たちは、その「できること」をやり続けていくしかありません。それが「今、ここ」に生きることの意味です。人は、過去に捉われず、将来を憂えず、今できることをするべきです。
みんなの介護 それこそが、「今、ここ」に強烈なスポットライトを当てよ!という岸見さんの主張につながるわけですね。しかし、病気や老いによって、私たちの「できること」は少しずつ減っていきます。そしていつか、何もできなくなる日が来ます。そのとき、私たちの生きる価値までもなくなってしまうのでしょうか?
岸見 そんなことはありません。私たち人間の生きる価値は、その人の「できること」とは関係がありません。その人が「生きていること」それ自体に、価値があるのです。
今、私が危惧しているのは、人間の価値を「生産性」で捉える見方が社会に広がっていることです。社会で生産性や効率ばかりが重視されるあまり、老いや病気によって、あるいは障害によって、ある人が経済的に何も生み出さなくなったとき、「その人には生きる価値がない」と考える人が増えているのです。2016年7月、世の中を震撼させた相模原の障害者施設殺傷事件は、まさにそういった思想の持ち主によって引き起こされました。
だからこそ、私は声を大にしていいたい。人間の価値は、生産性や行為では決まりません。人間は、何もできなくなっても、生きているだけで価値があるのだ、と。
そう考えると、自分自身が何もできなくなっても、「生きているだけで自分には価値がある」と思えるようになります。そう思える人こそが、他者に対しても生産性ではなく、生きていることそれ自体に価値を見出せるのです。
人はいつか、必ず死にます。その事実をいたずらに怖がっていると、「今、ここ」に生きる喜びをふいにしてしまう
みんなの介護 岸見さんの著書『老いる勇気』では、90歳を超えてから親鸞の『教行信証』の英訳に着手した仏教学者・鈴木大拙さんの例を挙げながら、「自分には無限の時間がある」と考えることの意義が説かれています。しかし、世の中の動きを見ると、自らの死を意識しつつ人生を総括する「終活」に注目が集まっていますね。岸見さんは「終活」について、どのようにお考えでしょうか?
岸見 「終活」が悪いとは思いません。特に財産のある人は、遺産相続などで遺族がもめないよう、生前からきちんと準備しておく必要もあるでしょう。
しかし、自分の人生について、将来のことはあまり考えないほうがいいのではないかと思います。先々のことを考えてしまうと、どうしても「今」が疎かになりますから。人はいつか、必ず死にます。しかし、その事実をいたずらに怖がっていると、「今、ここ」に生きる喜びをふいにしてしまうことになります。「終活」に意識を向けないほうが老いを楽しめるし、幸せな老いを過ごせるのではないかと思います。老後の生活を全く考えなくていいといっているのではなく、生きる姿勢の話です。
みんなの介護 岸見さんが「今、ここ」を大切にするようになったのは、アドラー心理学の研究に加えて、ご自身が大病を経験したことも関係しているのでしょうか?
岸見 病気をしたことの影響は大きいですね。心筋梗塞で倒れた直後は、自分がいつまで生きられるのか不安になり、病院のベッドで毎晩、輾転反側(てんてんはんそく)していました。そこで、私は主治医の先生に睡眠導入剤を処方してもらったのですが、すると今度は、「翌朝目が覚めなかったらどうしよう」と不安になり、睡眠導入剤を飲むのが怖くなった。
みんなの介護 その不安をどうやって克服したのですか?
岸見 不安が取り除かれたのは、意識が他者に向くようになってからです。入院当初は四六時中、自分のことしか考えられませんでした。しかし、病状が日々よくなっていくにつれて、家族や友人など、自分が生きながらえたことを喜んでくれている人たちがいることに気づきました。自分は寝たきりで今は何もできないけれど、それでも生きているだけで「よかった」と思ってくれる人がいるのです。
こうした事実は、逆の立場で考えれば容易に想像できます。例えば、私の友人が緊急入院したと聞いたとき、「命は助かった」と聞いただけで、「よかった」と安心できる。生きていてくれるだけで、その友人は私に、貢献をしてくれていることになります。
また、私が元気を取り戻すにつれて、多くの看護師さんが勤務時間後や非番の日に私の部屋へ来られるようになりました。私がカウンセリングの仕事をしていることを聞きつけて、相談事を持ちかけてこられるようになったのです。
みんなの介護 心筋梗塞の経験はその後の人生にどのようなもことをもたらしたのですか?
岸見 これらの経験から、自分はこうして何もできずにベッドに寝ていても、誰かの役に立てているのだと貢献感を持てるようになりました。
すると、毎晩薬を飲んで眠ることが怖くなくなりました。そして、毎朝元気に目が覚めることに感謝するようになった。「先のことはどうなるかわからないけど、とりあえず今日一日を精一杯生きよう」と、心から思えるようになったのです。
父の記憶喪失は、私と父の共有していた歴史がすべて失われたように思えた
みんなの介護 岸見さんは、お父様の介護を経験されたと伺いました。介護されていた期間は長かったのでしょうか?
岸見 2009年から2012年までのおよそ4年間ですね。最初の2年間は、一人暮らしをしている父の自宅に私が通う形での在宅介護で、その後の2年間は介護老人保健施設のお世話になりました。父が80歳から84歳まで、私が53歳から57歳までの期間です。
父に介護が必要となったのは、アルツハイマー型認知症を発症したからです。母が亡くなってから、父は長く一人暮らしをしていたので、父の病気に気づくのが遅れました。ある日、父のクレジットカードが残高不足で決済できないと銀行から私のところに電話がかかってきて、それでようやく父の病気に気づいたのです。
みんなの介護 お父様を介護していて、「まさか!」と驚かれたことがあるそうですね。
岸見 ええ。それは、父が多くの記憶をなくしていたことです。私の母、つまり父にとっては愛する妻の記憶をもなくしていました。母の写真を見せても、父には思い出すことができませんでした。私からすれば、私と父の共有していた歴史がすべて失われ、私の存在までもが消失してしまったように思いました。
しかし、父の身になって考えてみれば、忘れたことにも意味があるのだろうと思いました。「四半世紀も前に妻を亡くし、その後一人で暮らしてきた」という事実を覚えていることが、80歳の父にとって、はたして幸せなことだったのかどうか。もしかすると、思い出したくない記憶として、母の思い出まで抑圧していた可能性もあります。そうだとすれば、無理に思い出さないほうがいいのかもしれない、とも思いました。
みんなの介護 お父様には、大切な記憶をなくしているという認識はあったのでしょうか?
岸見 認知症の症状が出ているときの父は、自分が置かれている状況がわからないまま、霧の中で一日を過ごしているような感じでした。とはいえ、ときたま霧の晴れることもあって、そんなときは周囲の状況をはっきりと把握できました。
あるとき父の発した一言が、今でも忘れられません。「忘れてしまったことは仕方がない。できれば、一からやり直したい」。父は、母のことを忘れてしまいましたが、霧が晴れた日には、母のことを幾分かは思い出せていたようなのです。しかし、どうしてもはっきりとは思い出せない。ですから「忘れてしまったことは仕方がない」という父の言葉は諦めの言葉ではなく、父の覚悟を示す宣言だったのだと思います。
みんなの介護 お父様の介護は大変でしたか?
岸見 大変でした。しかし、今思えば、時期的にはタイミングがよかったのです。私にとっては心筋梗塞で倒れて3年後、冠動脈バイパス手術を受けて2年後にあたり、ちょうど仕事をセーブしている時期でしたから。それだけ時間に余裕があり、父が一人で暮らす家を毎日訪れることができました。父の人生の最期の時期に、父と再び時間を共有することができて、今では感謝しています。
介護も子育ても、明日どうなるかを考える必要はないと思います。大切なのは、「今日一日」をどう生きるか
みんなの介護 実際にお父様の介護を経験した岸見さんに伺います。親を介護する上で、最も重要なのはどんなことだとお考えですか?
岸見 ありのままの親を受け入れる、ということです。
先ほど、生産性で人をみてはいけないという話をしましたが、現代社会で生産性至上主義に毒されてしまった人は、自分の年老いた親に対してさえも、とかく生産性の観点から評価しがちです。例えば、一家の大黒柱としてバリバリ働く父親や、家事や育児に奮闘する母親など、何でもできる親の姿を理想としてみてしまう。
すると、年老いて生産的なことが何もできなくなってしまった親に対しては、失望するしかありません。理想からのギャップがありすぎて、現実の親を理想から引き算してみるしかできなくなります。そうなると、親の介護はつらいものになりますね。親と接するたびに、弱った親を見て胸が痛むはずですから。
みんなの介護 そうなると、親との接触をためらってしまうかもしれません。
岸見 しかし、生産性で人をみることを止めれば、親に対する見方も違ってきます。人は、生きて存在しているだけで価値がある。そう思えると、年老いた親をありのままに見、ありのままの親を受け入れることができるようになるでしょう。
「親をありのままに見て、ありのままを受け入れる」ということが、親を「尊敬する」ということなのです。
みんなの介護 『老いる勇気』には、「介護が必要になった親は『今、ここ』を生きている」と書かれています。一方、「今、ここ」はアドラー心理学のキーワードでもあります。だとすれば、アドラー心理学の考え方は、介護という営みにおいても有効だということでしょうか?
岸見 有効という言い方は好みませんが、「今ここ」を生きることができれば、介護も親のことも違った風に思えるようになるでしょう。
介護はしばしば、子育てと比較されます。「介護と子育てはどちらも大変だけど、希望を持てる分だけ、子育てのほうが楽」といわれることがあります。子育ての場合、今日できなかったとしても、明日にはできるようになるかもしれない。だから希望が持てるし、努力もいつかは報われるというわけです。
一方の介護では、今日できたことが明日にはできなくなるかもしれない。しかも子育てと違って、介護はいつまで続くか先が見えない。だから介護は希望が持てないし、努力も報われない。そんなふうにいわれたりします。
みんなの介護 いつまで続くかわからない介護は、やはり先を見越す必要があるのでしょうか。
岸見 私は、介護も子育ても、明日どうなるかを考える必要はないと思います。大切なのは、「今日一日」をどう生きるか。「今、ここ」に常にスポットを当てていれば、介護もそれほどつらいものではなくなるはずです。
認知症だった私の父は、会話するとき、常に現在形で話をしていました。過去は思い出せないし、未来には考えが及ばない。つまり父には、常に「今、ここ」しかなかったわけです。そんな父は、ある意味において、人間の生き方の理想を体現していたのかもしれない、と思います。私たちのように、過去をいつまでも引きずって後悔することもなければ、未来を思って不安になることもない。ただ、そのときどきの瞬間瞬間を生きていました。
現在、私には8ヵ月の孫がいますが、屈託のない孫の笑顔を見ていると、晩年の父もこの子のように楽しく生きていたのでは…と、ふと思います。認知症になった父は、「今、ここ」に生きることの大切さを、身をもって私に教えてくれていたのかもしれません。
他人の話を注意深く聴くと、話し手の、そのときどきの精神状態を反映して、ディテールや重点の置き方が微妙に違っている
みんなの介護 お年寄りと会話していると、同じ話をくり返し聞かされることがありますね。それも、お年寄りが「今、ここ」に生きていることの証なのでしょうか?
岸見 「今、ここ」に生きている人が、同じ話をされることがあります。
みんなの介護 つまり認知症のお年寄りにとっては、日々の行動のすべてが初めての体験になるわけですね。
岸見 ですから、同じ話を何度聞かされることになっても、また同じ話だと思ってはいけません。私の友人の精神科医は、自分のおばあさんから「この話、前にもしたかね?」と聞かれると、決まってこう答えたそうです。「うん、前にも聞いたよ。でも、おばあちゃんの話は何度聞いても面白い」と。私も、そのような受け答えができるようになりたいと思いました。精神科医の仕事は、患者さんの話を親身になって聴くことです。子どもの頃、おばあさんの話をいつも面白いと思って聞いていたので、精神科医になったといっていました。
とはいえ、厳密にいえば、いつもまったく同じ話をするということはありません。注意深く聴いてみると、話し手の、そのときどきの精神状態を反映して、ディテールや重点の置き方が微妙に違っているはずです。聴くたびに、内容は少しずつ変わっていくのです。またさらにいえば、聴く側の私たちの感じ方も以前とは違っているはずです。
みんなの介護 同じ1冊の本でも、初読と再読では感じ方が異なるのと同じですね。
岸見 「同じ川には二度入れない」。これはギリシアの哲学者ヘラクレイトスの言葉です。川の水は上流から下流に向かって常に流れ続けているので、同じ水は二度と流れてきません。『方丈記』の「ゆく川の水は絶えずして…」と同じ発想です。しかも、その川に入ろうとしている自分は、昨日までの自分ではない。川に入る人間がすでに違っているという意味でも、同じ川には二度と入れないことになります。
そう考えると、何度も聞いたように思える話でも、実は毎回初めて聞く話ともいえます。そのときどきの精神状態を知るためにも、話にはじっくり耳を傾けるべきです。
排泄の世話など、何か特別なことをするだけが介護ではありません。親と同じ空間にいるだけでも介護になる。それを多くの人に知ってほしい
みんなの介護 岸見さんは著書の中で、お父様との関係は必ずしも良好ではなかったと告白されていますね。
岸見 少年時代、父に殴られたことがあって、それ以来ずっと、私と父との間には緊張状態が続いていました。特に、母という緩衝剤がなくなってからは、ますます微妙な関係になりましたね。
みんなの介護 お父様の介護を手がけるまでに、どのようにして関係を修復したのでしょうか?
岸見 人は誰もが「役割」という仮面を被って生きているものですが、関係がうまくいっていないと感じる場合には、どちらかが「親」か「子」という仮面を外してみればいいのです。英語の「人」を意味するパーソン(person)は「仮面」という意味のラテン語のペルソナ(persona)が語源です。
私たちの場合は、父が先に仮面を外しました。認知症を発症する前の父から突然電話があって、「お前のやっているカウンセリングというのを受けたい」といいました。このとき父は「父親」という仮面を外して、対人関係の悩みを私に打ち明けてくれました。その際、父はまさに一人の人間として私と向き合っていました。だから私も、一人の人間として話を聞きました。そのときから、私たちの関係は劇的に改善しました。
みんなの介護 親子関係を改善したければ、どちらかが先に役割の仮面を外せばいいんですね。
岸見 思い切って、過去を手放すことも大切です。先ほど話したように、父は「忘れてしまったことは仕方がない」といい、実際に母の記憶など、大切な思い出の多くを失ってしまいました。だとすれば私も、父に殴られた記憶を含め、過去を手放そうと思いました。そうやって、互いに一から関係を作り直せたことで、晩年の父と私の関係はうまくいくようになったと思います。
みんなの介護 お父様を介護していて、今でも心に残っているのはどんなことですか?
岸見 あるとき父に、「お前がいてくれるから、安心して眠れる」といわれたことです。在宅介護を始めた当初の私は、家事全般から父の身の回りの世話まで、毎日忙しく働いていました。しかしそのうち、父は食事の時間以外ほとんど眠ってしまうようになり、あまりすることがなくなりました。
父が眠っている間、私は父の寝室の隣の部屋でずっと原稿を書いていたのですが、これでは介護をしているとはいえないのではないかと思いました。そこであるとき、「一日中寝ているのだったら、もう来なくていいね?」というと、父はすかさずこういいました。「そんなことはない。お前がいてくれるから、私は安心して眠れるのだ」と。
そうか!と思いました。私自身、生産性重視の概念にいつの間にか捕らわれていて、何かをしなければ介護ではないと思っていたのですが、父と共にいることで、父の介護を果たしていたことに思い当たりました。排泄の世話など、何か特別なことをするだけが介護ではありません。親と同じ空間にいるだけでも介護になる。それを多くの人に知ってほしいと思いました。
「いくら働いても幸福にならない」という人がいたとすれば、その人は仕事内容や働き方を見直す必要があります
みんなの介護 先頃、国会で働き方改革関連法が成立しました。働き方改革では、長時間労働の是正が大きなテーマになっているのと同時に、国際競争力を高めるために、いかに労働生産性を上げるかが課題となっています。今話題になっている働き方改革について、岸見さんはどのように見ていますか?
岸見 私たちは、働くために生きているのではありません。生きるため、幸福になるために働いているのです。もしも、「いくら働いても幸福にならない」という人がいたとすれば、その人は仕事内容や働き方を見直す必要がありそうです。
国会で成立した働き方改革関連法は、働き方改革ではなく“働かせ方改革”です。企業側の論理で成り立っている法律ですから。ともあれ、今、働き方を改革するのであれば、人間は何のために働くのか、その根本から考え直さなければならないでしょう。
みんなの介護 今の若い人たちの働き方については、どんな印象を持たれていますか?
岸見 数年前のゴールデンウィークに、この書斎に来た青年のことを今でもよく覚えています。彼は、ある大手企業に入社しましたが、なんと1ヵ月で辞めました。
なぜ辞めたかというと、彼の先輩や上司に、幸せそうに見える人が一人もいなかったから。このままこの会社で働いていれば、30歳でマイホームが建てられそうだけど、40歳で墓を建てることになるかもしれない。そんな未来が見えてしまったそうです。
彼の決断を愚かだとはいえる人は、おそらくどこにもいないでしょう。自分の命を削ってまで働く意味など、どこにもありません。それはほとんどの人がわかっているはず。それにもかかわらず、実際に過労の状態が何日も続いてしまうと、人は冷静な判断力を失い、いつの間にか「うつ」や過労死の一歩手前にまで追い込まれてしまいます。
だからこそ、「自分は何のために働くのか、それは幸福になるためである」と、常に自問自答し続ける必要があります。いくら給料が高くても、いくら社会的地位の高い仕事でも、幸福に生きることができなければ、働く意味はありません。
幸福は量を測ることができず、各人にオリジナルなもの。誰かが誰かの幸福を模倣することはできません
みんなの介護 今の若年層の中には、幸福になるために、高い給料やステイタスを求める人もいるようですが…。
岸見 そういう人は、「幸福」と「成功」を同じものだと考え、人生の目標を「成功」に置いているのです。幸福と成功とは、もちろん別のものです。成功とは、「年収1,000万円」など量的に測れるものであり、誰でも模倣することができて、また嫉妬を生みやすいものでもあります。一方、幸福は量を測ることができず、各人にオリジナルなものなので、誰かが誰かの幸福を模倣することはできません。
生産性ばかりが重視される現代社会においては、どちらかというと、幸福より成功を目指している人のほうが多いように感じます。例えば、結婚相手の条件にしても、年収○○万円以上とか、一部上場企業に勤めていなければダメだとか。それらの条件をすべてクリアした相手であっても、幸福な結婚生活が送れる保証など、どこにもないのですが。
みんなの介護 もしかすると、現代社会に生きる人々にとって、「成功より幸福を重視すべきだ」という発想は、なかなか抱きにくいのかもしれません。
岸見 確かにそうですね。私自身、心筋梗塞という大病を経験していなければ、今のような考え方を持てなかったかもしれません。病気になっていいことは一つもありませんが、自分についていえば人生を見直すチャンスにはなりました。
雇用者側が取るべき施策はただ一つ、介護スタッフの労働条件を大幅に改善すること
みんなの介護 ここで、とかく“ブラック”といわれている介護の現場をどのように改善していけばいいのか、ご提言いただけますでしょうか。
岸見 最も重要なのは、一人ひとりの介護スタッフが、それぞれ貢献感を持てること。利用者さんやそのご家族の幸福のために、自分がいかに役に立っているか、きちんと実感できることが大切です。貢献感を持てなければ、モチベーションも維持できないので、介護の仕事はおそらく続けられないでしょう。
ポイントは、利用者さんやご家族から、直接感謝の言葉をもらう必要がないということ。もちろん、「ありがとう」と感謝されるのは嬉しいことですが、たとえ「ありがとう」の言葉がなくても、「自分はこの人の役に立っているのだ」と自分で感じ取らなければなりません。
みんなの介護 スタッフを雇用する側には何が必要ですか?
岸見 介護スタッフを雇用する側は、絶対に「貢献感」に言及してはいけません。ともすれば、「賃金の安さは貢献感で補えばいい」といった論調に陥りがちですから。私はいちいちあなたたちの貢献に声をかけたりはしないが、自分で貢献感を持てというようなことをいってはいけません。雇用者側が取るべき施策はただ一つ、介護スタッフの労働条件を大幅に改善すること。
これは保育の現場にもいえることですが、介護ヘルパーにしても保育士にしても、資格取得者の数は充分に足りているはずです。それにもかかわらず、就業する人が少ないのは、現在の労働条件で生計を立てるのは難しいからです。
賃金のベースアップ、労働時間や勤務シフトの見直し、福利厚生制度の充実など、待遇を本気で良くしなければ、人は集まりません。特に、労働内容に見合うだけの適正な報酬をぜひ支払ってください。スタッフに適正な報酬を支払えるだけの売上と利益を確保することこそ、雇用者の責任です。
熱心な人ほど利用者さんに近づきすぎる傾向があります。その結果、背負わなくていいはずの重荷まですべて背負い込んでしまう
みんなの介護 現在、介護スタッフとして働いている人たちに、何か伝えたいことはありますか?
岸見 介護スタッフの人には、利用者さんとの距離感を大事にしてほしいです。
アドラーは、人生における人間関係を「仕事のタスク」「交友のタスク」「愛のタスク」の3つに分類していますが、介護スタッフと利用者さんの関係は「交友」に当てはまります。いってみれば、ビジネスライクな関係からは友だち寄りに一歩踏み込み、かつ、家族のような近しい関係にまでは接近しない。
看護師にしろ、ヘルパーにしろ、優秀で仕事熱心な人ほど患者さんや利用者さんに近づきすぎる傾向があります。その結果、背負わなくていいはずの精神的な重荷まですべて背負い込んでしまい、最後は疲弊して辞めていく。そんな人をたくさん見てきました。それぞれ優秀な人たちだっただけに、とても残念に思いました。
みんなの介護 お父様が入られていた施設のスタッフさんはどんな印象でしたか?
岸見 皆さん、とてもよくしてくださいました。父の場合は、在宅から老健施設に移行したことで、認知症の症状が大きく改善しました。多くのスタッフさんと接することができ、社会性を取り戻せたことが大きかったようです。
最期の看取りのときも、家族だけで過ごせる貴重な時間を作っていただきました。臨終のとき、父の目から一筋流れた涙は、私を含め、父の介護に携わった方全員に対する感謝の涙だと感じています。皆さん、ありがとうございました。
撮影:岡屋佳郎
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