渡邉英徳「デジタル化された「災いの記憶」が未来の社会につながっていく」
東京大学大学院情報学環教授の渡邉英徳氏は、広島・長崎の原爆や東日本大震災の記録をインターネット上の地球儀・デジタルアースに集約してデジタルアーカイブを制作。遠い記憶として流れ去ろうとする惨劇を、今に残すことに取り組んできた。その後、AIと人とのコラボレーションによって白黒写真をカラー化し、対話を生み出す「記憶の解凍」の活動を庭田杏珠氏と共同で開始。2020年に共著『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』(光文社新書)を上梓した。長年「災いの記憶」に向き合ってきた渡邉氏はコロナ禍の記憶をどう残すべきと考えるのか。渡邉氏の研究室にてお話を伺った。
文責/みんなの介護
「災いの記憶」を時代に即した方法で表現
みんなの介護 渡邉さんは仕事においてどんなことを大切にされているのですか?
渡邉 私はこれまで「災い」をテーマに多く仕事をしてきました。ご自身やご家族が被災され、「『災いの記録』を受け継いでいきたい」という切実な想いのもとに活動されている方がいます。私は当事者とはいえませんが、そうした想いを持つ方々に力を貸す立場だと思っています。
また、研究者としての使命は、時代に応じた新しい表現方法を探していくことです。その面においては、これまでに2つの手法を確立してきました。
1つが、デジタルアースに顔写真やインタビューした証言などの情報を載せていくデジタルアーカイブの手法です。証言者を顔写真のアイコンで表すことにより、メッセージ性と記憶の定着のしやすさを兼ね備えています。その後、10年経つ間に、デジタルアーカイブの手法は徐々に認められ、定着してきたようです。そして、時代に合わせた次の方法が生まれてきました。
2016年から、AIによる白黒写真のカラー化の手法を取り入れました。初期はAIが自動的に付けた色を重視していましたが、庭田杏珠さんと「記憶の解凍」に取り組んでいくうちに手法が進化し、現在は自動色付けしたのち、戦争体験者との対話・SNSのコメント・当時の資料などをもとに手作業で「色補正」しています。この過程で、出来事についての記憶が人々の心の中でよみがえり、対話の場が生まれるのです。
建築学科で身に付けたことを社会で生かしたいと思った
みんなの介護 もともとゲーム制作からキャリアを始められたのですね。
渡邉 大学では建築学科に在籍していましたが、在学中にソニー・インタラクティブエンタテインメント(当時はソニー・コンピュータエンタテインメント)のゲーム制作チームにデザイナーとして参加しました。そこでは、ゲームに登場する都市・建築を3Dデータとして作成し、さらに水彩画風の表現にアレンジする仕事をしていました。
立体的な整合性を保ちつつ、ゲームの世界観を壊さない背景画に仕上げる工程には、建築学科で培ったテクニックを生かしました。面白いことに、20年経って取り組み始めた「記憶の解凍」のカラー化にも応用しています。
みんなの介護 そこから「災いの見える化」の活動へシフトしたのにはどういった経緯があったのでしょうか。
渡邉 転機になったのは2009年の「ツバル・ビジュアライゼーション・プロジェクト」です。これは、写真家の遠藤秀一さんが代表を務める特定非営利活動法人ツバル・オーバービューとコラボレーションしたプロジェクトです。
遠藤さんが長年に渡ってインタビューを重ねて撮影してきた、南太平洋の島国「ツバル」の住民の顔写真をデジタルアースに載せています。地球温暖化による海面上昇の危機に直面するツバルの存在を、世界中の人々に地続きに感じてもらい、気候変動を自分ごととして受け止めてもらうために制作しました。
この作品を、長崎の被爆三世である鳥巣智行さんたちが展覧会で見てくれました。そして彼らから「長崎の被爆者の証言を、同じ方法で世界に発信できないだろうか?」とメールが届き、頭のなかに火花が散った感じがしました。
「これまでの人生で培ってきたものが、ここで一つ結実するのではないか」という予感がありました。というのも「自身の発想をもとにものをつくるだけがクリエイターの仕事ではない。誰かの想いや願いを実現するためにサポートすることもできる」と思い始めていたからです。この仕事のありかたは、建築家のそれになぞらえることができます。
基本的に、建築には施主がいます。つまり、ほかの人に頼まれてつくるものです。個人住宅は住まい手のために、公共建築などは、社会全体の要請に応じてつくられるものですね。つまり、被爆三世の3人の若者からの依頼と、私がその時点で培っていたアーカイブをつくる技術がぴったり一致したのです。この出会いから「ナガサキ・アーカイブ」が生まれ、戦争をテーマにしたはじめての仕事になりました。これが転機になっています。
みんなの介護 やりがいも一層強くなられたでしょうね。
渡邉 そうですね。「大学の研究者という、直接の利益を求められない立場にいるからこそできる仕事だな」と感じることも多いです。これまでに広島・長崎・沖縄・東日本大震災など、いろいろな災いをテーマとしたアーカイブに取り組んできましたが、どれも、営利目的では成り立たないものです。
企業における事業では、利益を生み出すことが当然求められます。しかし大学の研究者は、活動するための費用があれば、営みを継続していくことができます。こうしたところも、建築の世界と似ているかも知れません。
誰もが観られるかたちで災いの記憶を未来へ残す
みんなの介護 「災いの記憶の継承」に長く取り組んでこられましたが、コロナ禍の状況はどのように残すことが必要だと思われますか?
渡邉 2つのことがいえそうです。
1つは、これだけ人類の文明は発展してきたのに、日常における感染拡大の防止策は、それほど進歩していないということです。
こちらは、ほぼ100年前、1920年代初頭の東京の写真です。「スペインかぜ」流行時の写真をカラー化したものです。Twitterに掲載したところ、たいへん大きな反響がありました。

見てのとおり、女学生たちは布マスクを付けています。まるで「アベノマスク」のようですね。もちろん現在のマスクのほうが性能は向上していますけど、100年前も今も、マスクで感染拡大を防止しようとしている点は、変わっていないのです。
21世紀の人類は、mRNAワクチンをはじめとする最新の医療技術で懸命にCOVID-19に対抗してきましたが、なかなか思うに任せず、多くの方が命を落としています。
今回のパンデミック対策において、「スペインかぜ」流行時の知見は十分に生かされているとはいえません。私たちは日々報道される、即時的な感染者数や重傷者数におびえて過ごしており、未来を見通せず、過去のパンデミックの記録・記憶から学ぶ余裕のない状態にあります。きっと100年前もそうだったはずです。「文明の発展とは何だろうか」と考えさせられます。
もう1つは、今回のパンデミックの記録を残しておく必要があるということです。この女学生たちは、100年後に「カラー化」されるとは思っていなかったはずです。まして、Twitterなどというものに載せられて、何十万人もの人から見られるなど、想像すらしていなかったでしょう。
COVID-19の記録は、私たちの想像もつかないかたちで、未来の人々が活用するはずです。近い将来、またパンデミックはやってきます。だからこそ、いまの記録を残しておく必要があるのです。
みんなの介護 情報はどのように残すことが必要でしょうか?
渡邉 物理的な資料を、デジタルデータとして残すことが重視されつつあります。ただし、実物の写真のように、実体としての記録を残すことも大切なのではないかと思っています。
デジタルデータはふとしたタイミングで消滅してしまう、あるいは消去されてしまう危険性があります。実際のところ、デジタル化されたデータをうっかり削除してしまったり、ファイル形式や記録メディアの移り変わりで、再生不能になったことも多いはずです。政治的な判断で、公文書のデータを抹消してしまうこともあるのです。
クラウドサービスも同じことで、何らかの事情で企業がサービスを停止すれば、もうデータは戻ってきません。一方、先程お見せしたような100年前の紙の写真は、私たちが見られるかたちで残されていますね。かつて「100年プリント」というコマーシャルがありました。まさにその通り。100年間消えずに残されていたからこそ、私もカラー化できたわけです。
人類全体のものとして記録が残せるようになった
みんなの介護 とても見応えのあるアーカイブですね。
渡邉 「ヒロシマ・アーカイブ」などの全体像を把握するためにはある意味で覚悟が必要で、すぐには中身を理解しきれないかも知れません。徐々に紐解いてもらいたいと考えています。また、公開後も少しずつ手を入れ、アップデートし続けています。
2015年までは、ベースの技術として「Google Earth」を使っていました。しかし、Googleが突然サービスを廃止したので使えなくなったのです。代替策として、世界中の開発者が有志でつくっている「Cesium」という新しいオープンソースのプラットフォームにアーカイブを移し替えました。これが一番大きな変化です。
この移行により、いち企業の意向に左右されることなく、インターネット上のコミュニティによって、アーカイブが存続していけるようになったわけです。ピンチがチャンスになったともいえます。
「ヒロシマ・アーカイブ」では、2011年の公開時から、広島の高校生たちが継続的に被爆者の証言映像を収録し続けています。年々少しずつ証言が追加されていっています。
10年間運用するうちに「ヒロシマ・アーカイブと連携したい」という打診をさまざまな機関・団体からいただき、徐々に掲載される資料が増えています。2014年には、テレビの報道をご覧になって「証言を英訳したい」と申し出てくださった方が4人も現れました。みなさん無償で翻訳をしてくださったのです。
みんなの介護 「災いの記憶を未来につなぐ」ということに、多くの方が共感されているのですね。
渡邉 みなさん、いろいろな想いを抱えていると思います。そうした想いを「地球」のうえに集約して表現する私たちの手法が、参画するための一つの動機になっているのかも知れません。そして、このデザインによって、過去から蓄積されてきた資料がすべてひとしなみに積み重なり追加されていきます。充実していく様子が、誰にでもひと目でわかるのです。
今年に入ってから、また新しい展開がありました。私の研究室の大学院生たちが、誰でもかんたんにデジタルアーカイブを作成できるサービスを開発し、公開したのです。もちろん、移行するためには時間が必要です。しかし今後は、各地の多様な方々が、自分たちのアーカイブをみずからの手でつくっていく時代になっていくと思います。
災害発生時の状況を思い出し、未来に備えることができる
みんなの介護 今年公開されたものとして、Twitterのつぶやきを集めた東日本大震災のアーカイブがありますね。
渡邉 2011年3月11日の震災発生から24時間以内に日本語でつぶやかれた世界中の位置情報付きのツイートを集めた「東日本大震災ツイートマッピング」です。

地図上を探索しながらツイートを一つひとつ眺めていくことで、東日本大震災が発生した当日の人々の気持ちをリアルに感じとり、今の私たちの身の周りに引き寄せて捉えることができます。
10年前はかなり昔のことともいえるので、直接被災した方以外は、震災直後に「感じていたこと」は忘れているのではないでしょうか。むしろ、その後テレビなどで頻繁に目にした津波の映像などの記憶が強く残っているかも知れません。一方、Twitterには「そのときどう感じたか」がつぶやかれており、今も情報空間に残っています。
このように、瞬間瞬間の「思い」を残していける時代になったのは、とても大きな変化といえます。Twitterなどが現れた時代だからこそのアーカイブと言えるでしょう。
もし、10年経った今、ふたたび大地震が起きたらこうした率直な気持ちはつぶやかれないと予想します。10年前と比べて、たくさんの人がTwitterを使うようになりました。そのため、炎上や個人を特定されることを恐れて、人々は、ある意味で無難なことをつぶやくようになっています。その点でいえば、このアーカイブに収録した2011年のTwitterのデータの方が、リアルな感情を表していそうです。
そして、一昔前の10年前だからこそ、今年公開できたともいえます。先日首都圏で震度5強を記録した地震がありました。このデータを地図に載せたとしたら「個人が特定される危惧がある」といった物議をかもすことになりそうですね。
「東日本大震災ツイートマッピング」は、私たちの時代ならではの記録といえます。100年前のスペインかぜは、新聞などのマスメディアや写真などの資料によって記録されています。私たちの時代は、一人ひとりが瞬間に抱く「気持ちのアーカイブ」がつくれるのです。
みんなの介護 なるほど。近い将来起こると言われる大震災のために、学べることがありそうですね。
渡邉 そうですね。先程お話したように、10月には関東で東日本大震災以来となる震度5強を記録した地震がありました。「10年前のあの日、どんな気持ちだったか」ということを、みなさんは思い出したかもしれません。おそらく普段は忘れていたことですね。
当時の生々しい「気持ち」を、もう一度思い返してみることは大切です。過去に起きた災害の記憶をときどき取り戻しながら、これから起きる災害に備えなければいけない。
例えば、災害が起きたとき、誰もが慌てます。そのような中、どのように落ち着きを取り戻し、連絡を取り合うのか。当時の心持ちを思い出し、身近な方々と対策を話し合うことが必要です。
みなさん覚えているでしょうか。2011年には、Twitterはほぼ問題なく使えましたが、携帯電話の通話はまったくだめでした。メールも届きにくくなっていました。LINEはまだ使われていませんでした。しかし、今大地震が起きたら、みなさんがLINEで連絡を取り合おうとして負荷が高まり、使えなくなるかも知れませんね。
段階を踏んで災害時の状況を理解できるデザイン
みんなの介護 仕事において大切にしているポリシーはありますか?
渡邉 いくつかあります。たとえば、デジタルアーカイブズ・シリーズは「一瞥でストーリーが暗示される見栄え」を意識してつくってきました。「ヒロシマ・アーカイブ」では、広島にズームしていくと、上空に赤い球体が浮かんでいます。この球体は原子爆弾の火球です。火球の下にたくさんの方の顔写真が並んでいることによって、原爆投下がもたらした被害についての作品であることが示唆されます。

美術館などの設計と似ています。建築の空間設計においては、文字の説明に依存するつくりにはしません。空間のデザインによって、鑑賞者みずからが展示の内容を把握し、探索していくのです。実際に「ヒロシマ・アーカイブ」の画面には、文字情報はほとんどあしらわれていません。
さらに重要なことは、災いについてのアーカイブを閲覧するための心構えをしてもらうことです。広島・長崎・東日本大震災などのアーカイブには、悲惨な記憶がたくさん詰め込まれています。まず襟元を正してもらう。それから静かに資料に分け入ってもらう。そうしたデザインを意識しています。
こちらは岩手日報社と共同制作した「忘れない」というプロジェクト。震災犠牲者の行動記録を追ったものです。

まず、画面には東北沿岸が映ります。その後、徐々に陸前高田市の街に近づいていきます。その後、震災によって犠牲になった方々の行動が見えてきます。避難所に逃げ込んだにもかかわらず亡くなった方、車で家族を助けにきて巻き込まれた方、津波が来るとは思わず自宅にいた方などの行動が可視化されます。
このように、段階を追ってコンテンツを見せるつくりにしています。いきなり「何千人が亡くなった」といった、端的な情報を示すことはしません。徐々に記録の中に歩み寄っていただけるよう、デザインを工夫しているのです。
デザインの工夫によって、悲しい記録を見るための心境になってもらう。これは、建築を学ぶ中で身に付けた姿勢だと思っています。
飛行機で偶然隣に居合わせたのが長崎市長だった
みんなの介護 アーカイブを見た人からは、どんな感想をいただかれましたか?
渡邉 「ヒロシマ・アーカイブ」の完成報告会のことを思い出します。ちょうど2011年、東日本大震災の後のことでした。
参加された被爆者の女性が「津波で何もかも壊された(2011年当時の)景色と、65年前、私たちが眺めた焼野原が重なりあう日々でした」と仰っていました。東日本大震災がもたらした光景と、ご自身が過去に体験した災いが、時間を越えて重なり合ったのかも知れません。また、別の方からは「地球に載せられているので、私たちの想いが世界中に届いているという実感があります」というコメントをいただきました。
不思議な出会いもありました。2010年に「ナガサキ・アーカイブ」を公開したのち、8月9日の長崎原爆の日、私と鳥巣智行さんが浦上天主堂でテレビのインタビューを受けました。そのとき「いつか長崎の田上富久市長にアーカイブを見てもらいたい」と話していたのです。翌朝、羽田に戻る飛行機でふと隣の席をみると、田上市長が座っていたのです。
みんなの介護 すごい偶然ですね!
渡邉 ええ、前の席の鳥巣さんも本当に驚いていました。さっそく挨拶をして、パソコンを開き、「ナガサキ・アーカイブ」について説明しました。すると市長は「長崎をふくむ、地球に対して投下された原爆だということが伝わりますね」と言われました。記憶に強く残っているご感想です。
アーカイブ上の一人になる時代にはしたくない
みんなの介護 渡邉さんがこれまでの活動を経て実感されている「平和の大切さ」とは何ですか?
渡邉 戦争や東日本大震災のアーカイブをつくりながら「この中の一人が自分であってもおかしくない」という心持ちになりました。
長い歴史のなかでは、地球上で数十年・数千キロずれたところに生まれることは、本当に「たまたま」の違いです。
76年前に時間をずらしてみれば、全国各地の都市が日常的に空襲を受けていました。その時代における日本のどこかに私がたまたま生まれていたら、空襲で死んでいたのかも知れません。現在に目を向けてみても、世界の各地で紛争は続いており、たくさんの人が死んでいます。このように考えてみると、今この瞬間を生きていることのありがたさがよくわかります。
もし、今東京で「何か」が起これば「トウキョウ・アーカイブ」がつくられるのかもしれません。誰もそんなことは望んでいませんね。アーカイブされる「当事者」になり得るような時代にはしたくないです。自然災害は避けられませんが、戦争は回避できる。それが平和を大切にしたくなる理由ではないでしょうか。
戦争は、私たち一人ひとりの普段の会話や活動が、ボトムアップでつながり、広がって起きることかも知れません。もちろん為政者やマスメディアの責任はあるでしょう。しかし、社会全体の世論や雰囲気をつくり出しているのは私たち一人ひとりです。「戦争を避け、平和を望む気持ち」も、ボトムアップにつながり得るものです。そうしたネットワークを、自分たちの活動を通して、少しずつ広げていきたいと思っています。
引き継がれるバトン
みんなの介護 『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』は、世代も背景も違う東京大学生の庭田杏珠さんとともに制作されたのですね。
渡邉 そうです。庭田さんは、主に戦前の広島の写真を所有する方に同意を得て写真を提供していただき、カラー化した写真をもとに何度も対話を繰り返しながら「記憶の色」を蘇らせる、というアプローチで活動を進めてきました。私は、既に公開されてパブリックドメインになっている写真を、資料などをもとにカラー化してSNSで発信し、得られたコメントからさらに色補正を施すというアプローチです。
みんなの介護 しっかり役割分担をされていたのですね。
渡邉 はい、スタンスの違いがはっきりしています。写真の所有者・戦争体験者との直接の対話は、広島出身の若者で「戦争体験者の記憶を継承する」ミッションを内在している庭田さんだからできること。必然性があります。私の場合はやはり「東京の大学の先生」ですし、対話をしようとしても、お互いに自然と距離ができてしまう。ある意味でどうしても客観的にならざるを得ませんし、心を開きあった対話にはなりづらいからです。
みんなの介護 庭田さんとの出会いも不思議です。
渡邉 庭田さんの母校とは長年「ヒロシマ・アーカイブ」の証言収録で連携していました。2017年に、その一環として、新しい取り組みであるカラー化技術の講習会を開きました。戦前の平和な沖縄の写真をカラー化したものを紹介し「あなたたちならどう活かす?」と問いかけたのです。
講習会に参加していた庭田さんは、その1週間前、現在の平和公園であり、かつて中島地区と呼ばれた繁華街にお住まいだった濵井德三さんに出会っていました。濵井さんの生家は理髪館を営んでいましたが、原爆投下によりご家族全員を失いました。疎開先に持参されていたため残された大切なアルバムには、ご家族の思い出である戦前のご家族との幸せな日常を捉えた貴重な白黒写真が、多数収められていました。
庭田さんは私の講習会ではじめてカラー化写真を見たとき、過去の人々がまるで今を生きているように感じられたそうです。そこで「濵井さんにご家族をいつも近くに感じてもらいたい」という想いから、カラー化を始めました。若者の純粋な想いがきっかけになっています。
カラー化写真をご覧になった濵井さんは、白黒写真のままでは思い出さなかったような、さまざまな思い出を話してくださいました。私は、濵井さんの記憶がありありと蘇った様子をテレビで見て「記憶の解凍」という言葉を思いついたのです。ここから庭田さんとのコラボがスタートし、その後、共同で取り組んできました。
一緒に取り組んでいく中で「記憶の解凍」の手法も進化してきました。AIによる「自動色付け」は、あくまで「仮色付け」です。その後、戦争体験者との対話・SNSのコメント・当時の資料などをもとに、手作業で「色補正」していく過程が重要です。この過程で、出来事についての記憶が人々の心のなかでよみがえり、対話の場が生まれます。
「どんなことが起こっていたか」は個々人の想像に委ねる
みんなの介護 『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』に掲載されている写真は、どんな基準で選ばれたのですか?
渡邉 私は主に戦場風景や、戦後の焼け跡の写真です。戦争で起きることの悲惨さをイメージさせつつ、読者をつらくさせないよう配慮して、写真を選びました。庭田さんは戦前の広島の写真を中心に、子どもたちの目線から日常を捉えた写真を選んでいます。
こうしたセレクションにも、先程お話したスタンスの違いが現れていますね。ふたりの視点が組み合わさって、はじめて一冊の本が成り立っています。戦場と日常、戦争のふたつの側面が表現されています。
読者をつらくさせないように写真を選んだ、ということはつまり、死体が直接写っている写真などは避けているということです。Twitterで発信し、多くの方が見るものであること、そして、私自身の作家としての信念でもあり、ここはゆるがせません。
例えば、広島平和記念資料館の被爆再現人形が撤去されたエピソードとも重なるかもしれません。もちろん、悲惨な光景は戦争の本質のひとつであり、伝えていく必要があります。ただ、私はそうした写真を着彩したくはない、ということです。
収録されている写真の中では、きのこ雲が私にとっての許容範囲です。「この雲の下では、ひどいことが起きていた」ということが想像できる。そこが重要な点です。この写真は、尾木正己氏の撮影による呉から見た広島原爆のきのこ雲と、自動カラー化の結果です。

実際のところ、AIはきのこ雲の色は学習していません。そのため、形状・構図から判断して、入道雲のような真っ白な色を付けます。
私が2017年に上の写真のバージョンをTwitterに掲載したところ、『この世界の片隅に』の片渕須直監督からTwitterで「きのこ雲はオレンジ色だった」というコメントをいただきました。書籍に収められているのは、この片渕監督のコメントを参考に色補正したものです。
このバージョンを、書籍出版直後の2020年8月6日、広島原爆の日にツイートしたところ、片渕監督から再度ご指摘をいただきました。「きのこ雲は二色で構成されていた」というコメントでした。さすがアニメーション映画の監督、見取り図もつくって教えてくださいました。

上部は、原爆そのものから発生した雲です。窒素酸化物が含まれた赤っぽい色をしています。そして、広島の街が炎上して立ち上った黒っぽい雲が、それを下から覆い隠そうとしている様子なのです。
このように、カラー化写真が生み出す対話によってさらに新たな情報が寄せられ、色の精度が向上していきます。これは終わることのないプロセスで、私は「終わらない旅」と呼んでいます。カラー化と対話を同時進行させながら、多くの人と過去の色彩の記憶をたどる旅を続ける。それにより、出来事の記憶が未来に受け継がれていきます。
みんなの介護 まさに対話が起こることに意味があるのですね。AIと対話によるカラー化写真は、過去の惨劇を身近に感じる介在になっているのだと感じました。
撮影:丸山剛史
渡邉英徳氏の著書『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』 (光文社)は好評発売中!
戦前から戦後の貴重な白黒写真約350枚を最新のAI技術と、当事者への取材や資料をもとに人の手で彩色。カラー化により当時の暮らしがふたたび息づく。
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