童門冬二「現場の改革には意見ではなく“異見”。上意伝達ではなく“下意”伝達です」
ベストセラー『上杉鷹山』をはじめ、数々のヒット作を発表してきた童門冬二氏は、90歳を迎えてもなお、執筆や講演に忙しい。その童門先生にお話いただく賢人論。第80回前編、まずはご自身の”人生100年観”から始め、次いでその価値観の源となっている”恕”、思いやりの心についてお話いただいた。
文責/みんなの介護
100歳を生きるには自分のなかの夾雑物を消すんです
みんなの介護 51歳で都庁を退職後に作家デビューされ、卆寿(そつじゅ)を迎えられた現在も、執筆や講演でご活躍です。
童門 年を重ねても痛感するのは、自分は未熟だということです。相撲に例えるなら十両クラスですね。「オレはまだまだ物を知らねえなあ」と、いつも思っています。
みんなの介護 「人生100歳時代」をどう捉えていらっしゃいますか?
童門 過去には、これほどの長寿社会はありませんでした。例えば『論語』(為政篇)で、孔子(紀元前552年―紀元前479年)が自身の生涯をたとえたとされる年齢は、「志学」(15歳)、「而立」(30歳)、「不惑」(40歳)、知命(50歳)、耳順(60歳)、そして従心(70歳)までです。
また、幕末の著名な儒者・漢学者である佐藤一斎(1772年―1859年)は、88歳まで生きていて、当時としては長生きでしたが、100歳には及びません。つまり今の「人生100歳時代」は、歴史には「よりどころ」がないんですね。
孔子でいえば、私の今の年齢にいちばん近いのは70歳の「従心」で、「心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えず」、つまり「行動が道徳の規範から外れることがなくなる」というのですが、とてもそんな境地にはなれません。
むしろ反省ばかりで、毎晩寝る前にいろいろと思い出しては七転八倒していますよ。
みんなの介護 現在もですか?
童門 はい。ただ孔子は、「心のままに」という一方で、「過(あやま)ちては改(あらた)むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」(『論語』学而)とも言っています。
つまり「過ちを犯したら、ためらわないで改めよ」という意味ですね。これは大事ですよ。間違いに気づいたら、すぐに改めれば良いのです。
みんなの介護 執筆活動などを通して他に留意されていることはありますか?
童門 留意というか、未熟だからこそ好奇心が消えないのだと思っています。まだいろいろなことを知りたいし、勉強をしたいです。
みんなの介護 好奇心は大切ですね。
童門 そうです。アメリカの詩人サミュエル・ウルマンの『青春』に“Youth is not a time of life; it is a state of mind”とありますが、私はそれを「青春とは年齢ではない。好奇心と情熱さえあればいつも青春である」と訳して、講演で紹介しています。
みんなの介護 健康などで気をつけておられることはありますか?
童門 干支では「還暦」として60歳で赤ちゃんに返りますが、100歳まで生きる人も原点に戻るのだと思います。
100歳を生きる人は、自分の原点に戻って、夾雑物(きょうざつぶつ)は消していくことが必要だと思います。義理などに振り回されていては、自分のやりたいことができなくなってしまいます。
私は80歳を迎えたときに、不義理を承知で御中元や御歳暮と年賀状を止めました。まずは自分のやりたいことを優先して、ライフスタイルの原則を作ってみてください。
みんなの介護 具体的には何を優先されているんですか?
童門 私の場合は「毎日これだけはやらねばならない」というミニマムの項目に「365日お酒を飲むこと」を入れています。
それで、酔ったら寝てしまいます。100歳を生きる人は、寝る時間もこだわる必要はありません。「一日に6時間は寝ないとダメ」というような決まりもいりません。自分なりの生活パターンを作るのです。
いったん寝て、夜中に目が覚めたら仕事をします。このときは、イヤなことや先延ばしにしたいことから始めることをおすすめします。
部下の失敗をとがめても良いことはない。血圧が上がるだけですよ
みんなの介護 ”知りたい”という心の他に、大事にされていることはなんですか?
童門 好奇心とともに私が大切にしているのは「恕(じょ)」、すなわち「思いやり」や「許す心」です。
『論語』(衛霊公)に「人間として一生行うべき道」を問われた孔子が「恕」だとし、「己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ」と答えています。自分がされたくないことは他人にもしてはいけないんです。
軍師として知られた福岡藩祖の黒田官兵衛(1546年―1604年)は、「異見会」というものを福岡城内で開いていました。これは藩政に関する討論会なのですが、ヒラの上層部の批判も許した。「意見」ではなく「異見」で、「上意下達」ではなく「下意上達」を目的にしていたのです。
官兵衛は幹部らに「どんなに批判されても腹を立てるな、笑顔で応ぜよ」と命じたので、“腹立てずの会”とも呼ばれていました。
みんなの介護 相当な忍耐を必要としそうですね(笑)
童門 もちろん幹部のなかには部下の言いたい放題を聞いて面白くない者もいます。
うわべは笑顔を浮かべていても、その笑いは引きつっており、腹の中は煮えくり返っていたでしょう。
「よく言うよ、このヤロー。次の人事異動期を楽しみにしていろ。必ずトバしてやる」と思っていたのです。でも、官兵衛の前では言えません。
官兵衛は、「神仏に対する過失は、祝詞やお経を上げて謝罪すれば許してもらえるだろう。しかし部下はそうはいかない。部下を傷つけたら、絶対に許しは得られない。民も同じだ」とまで言っているのです。
みんなの介護 そこまで言い切れるだけの精神はどのようにして身についたのでしょう。
童門 官兵衛という人は、若い頃は苦労を重ねてきましたから、さまざまな苦難への対応策をいろいろと考えることができたのだと思います。
倹約家として語られることも多いのですが、「倹約とケチは違う」と常々言っていて、必要なところにはお金を出したようです。
また、つまらないことで人が殺される戦国の世にあって、なるべく殺さずに人材を生かす工夫をしていたので、「人使いの名人」としても知られていました。
このように義理堅く、律義な人物でしたから、周囲から慕われたはずです。官兵衛とは酒を呑みたいですね(笑)。あとは坂本龍馬、織田信長でしょうか。上杉鷹山や伊能忠敬は真面目そうだから、?みたくないです(笑)。優等生や模範生とはダメですね。
みんなの介護 なるほど。歴史人物もそうみると面白いですね。
童門 はい。だから、私も官兵衛を見習っています。
都の職員時代から「こんなことをしたのは誰だ?」などとキレて犯人捜しはしないようにしてきました。特に後期高齢者となった今は、血圧は上がるし、精神衛生上もよくありません。
もちろんこんな態度をとれば、健康だけではなく、官兵衛の言うように部下の信頼も失ってしまいます。そうなったら簡単には回復できません。
春の入社式などで、社長が新入社員に「失敗をおそれずに思い切って仕事をしてください」と告げることがありますが、私はウソだと思ってきました。
私にも20年の管理職の経験がありますが、部下の失敗に、いちいち責任をとっていたら、社長のクビはいくつあっても足りません。直属上司の立場もありません。
つまり、この言葉は新入社員だけでなく、先輩社員や管理職にも向けられている。新入社員が思い切って仕事ができる環境を作り、職場改革を目指せということなのです。
みんなの介護 なるほど、その通りですね。
童門 ちなみに徳川御三家の筆頭、尾張(愛知県)徳川家の始祖・義直は、家康の九男で、気鋭で短気でした。部下のミスを許さず、体罰もひどかったと言われています。
この暴君問題を平和的に解決したのは甥の光圀、のちの水戸黄門です。義直は光圀をとても可愛がっていたので、尾張家の重役から泣きつかれたのです。
光圀は義直に「私は最近、気持ちを鎮める方法として、謡曲を学び始めました。伯父上はどのようなことをなさっておいでですか」と尋ねました。
義直は「うん、まあな」とごまかしながら、その日から謡曲を始めたそう。その後、義直は名君と言われる人物となりました。
介護現場が鬱屈するのは”言いたいこと”が”言えないから”ですよね
みんなの介護 90歳を迎えた今も、現役でご活躍されています。現在のような超高齢社会で働くために歴史から学べることはありますか?
童門 私は、学校の先生や福祉のスタッフ、僧侶や医者は聖職であってほしいと思っているんです。
上杉鷹山(1751年―1822年)は倹約家で米沢藩(現在の山形県米沢市)の財政を立て直したリーダーシップで有名ですが、妻を思う気持ちも評価されています。
鷹山は米沢藩という15万石の名門の当主・上杉重定の養子として迎えられますが、このときに重定の娘の幸姫(よしひめ)と結婚しています。
この幸姫は心身が未成育なために30歳で亡くなりますが、鷹山は慈(いつく)しんで人形遊びや折り紙などで一緒に遊んだと言われています。
みんなの介護 鷹山の優しさや誠実さがわかるエピソードですね。
童門 ひるがえって、今はどうでしょうか。介護や福祉の現場で不幸な事件が起こっていますね。原因は一つではないでしょうが、まずは職場の改善として賃金を上げるなど待遇の向上が望まれます。もちろん待遇だけではなくて、意思の疎通ができるようにすることも重要です。
また、これらのことを経営幹部だけで決めるのではなく、それぞれの現場ごとに意見を集約して問題解決を図るべきです。
みんなの介護 職場環境の改善は、簡単ではないですね。
童門 それでも、歴史からは学べることもあります。
「現場」で活躍したといえば、吉田松陰(1830年―1859年)ですね。松陰は25歳のとき同志であった金子重之助とともに浦賀に再度来航したアメリカ軍艦に乗り込もうとしますが、失敗して江戸・伝馬町の獄につながれ、後に長州の野山獄へ収監されます。
この野山獄は武家の男女のみを収容しており、生活は比較的恵まれていました。武士ではない金子は同じ長州の岩倉獄で病死してしまいます。岩倉獄はかなり劣悪な環境でした。
みんなの介護 岩倉獄…恐ろしいです。
童門 とはいえ野山獄も監獄ですから、ラクではありません。松陰は、獄にありながらも「今いる場所で全力を尽くす」という態度を貫きました。
「地獄のような牢を福堂、つまり“幸福な場所”に変えよう」と思ったのです。入牢者たちから得意分野を聞き出し、俳句や和歌、書道などの講義をさせ、自身は孟子の教えを講義しました。
獄中で「民を以(もっ)て貴しとなす」「他人の苦難には見るを忍びざるの心を持って接せよ」などと説いたのです。「忍びざるの心」とは、本来、人はみんな他人の不幸を見逃せない気持ちを持っているということです。
みんなの介護 現代でも十分に通用しますね。
童門 そうですね。また孟子は、「恒産なければ恒心なし」とも言っています。「恒」とは安定、「産」は財産、「心」は良心を指し、ある程度の財産や仕事がなければ道徳心や良心を持つことはできないというのです。3,000年前だけど、良いことを言っていますよね(笑)。
松陰は、獄中で孟子の「人間だけが持っている優しさ」を重視した学問を解説したのですが、これを感心して聞いたのは囚人だけではありませんでした。
住み込みの司獄(看守長)の福川犀之助(さいのすけ)は、松陰の才能に驚き、弟子になってしまいます。松陰の講義を廊下で聞き、夜間の点灯や筆写も認めました。
そして、「こうした講義をもっと広めるべきだ」と考えて松陰を「病気」として、自宅療養させることにして釈放します。
釈放された松陰は、叔父の玉木文之進が八畳一間で開いていた私塾「松下村塾」の講師となり、のちに主宰者となります。
みんなの介護 松陰には人間的な魅力があったのですね。
童門 そう、松陰のなによりの魅力は、「無私無欲」で「この世の人を喜ばせたい」というヒューマニズムです。
そして、トップダウンではなく、今いる場所から変えていきました。それには松陰が楽天的だったこともあると思います。
今の現場では言いたいことが言えないから鬱屈しているのでしょう。最近は離職率の高さが問題になっていますが、職場の良好な環境づくりは、給料の引き上げなどで待遇を良くするとともに、意見が言えることも求められます。経営の面から考えても、誇りと生きがいをもって働けるようにすべきです。
あとは、小さな積み重ねも。二宮金次郎は、農業と学問を通じて自然の恵みや人の素晴らしさを知り、「小さな日々の努力の積み重ねが大切」であるとしました。これは「積小為大」と言われています。
現場の改革は”心の赤字”をいかに克服するか
みんなの介護 上杉鷹山も無私無欲で、「自分さえ良ければ」と思わずに、米沢藩の財政改革に取り組んだと言われています。
童門 そうですね。鷹山はあの時代を生きたヒューマニストでした。倹約を旨として財政改革を進めるにあたり、「自分さえ良ければ」という藩士たちの心に潜む「赤字」を解消しなければ藩財政の赤字も消せないと鷹山は考えました。
もちろん「恒産なくして恒心なし」ですから、心の赤字を消すには藩内の生活を豊かにしなくてはなりません。そこで産業の振興に力を入れていきます。
コメだけでなく漆やこうぞ、桑などを植え、加工して商品化させるようにしました。付加価値のある商品化を進めたのです。また織物産業にも力を入れました。鷹山はこうした先行投資に費用を惜しまず、得た利益を藩が独占するのではなく、生産者にも還元するようにしています。
みんなの介護 鷹山は藩校も作っていますね。
童門 そうです。家臣たちの反対もありましたが、鷹山は学問の普及にも力を入れ、江戸から細井平州を招き、藩校を創設しています。他の藩の藩校と異なり、藩士だけではなく農も工も商も、学びたい者は誰もが入れるようにしました。
もちろん重臣たちの妨害もありましたが、隠居していた養父、重定の助けもあって改革を進めることができました。
みんなの介護 改革を押し進めるために必要なことについてはどうお考えですか?
童門 当時も今も、改革を行うために克服する課題は3つあると考えます。一つは制度、二つ目は物理的な壁、そして三つ目は”心の赤字”です。
本来、リストラクチャリング(restructuring)とは「事業の再構築」を意味します。すなわち真のリストラとは、人を生かし、新規事業も起こすことでなければならないのです。
そこで、重要なのは三つ目の”心の赤字”をいかに克服するかということになります。
改革のリーダーは、根底に人間への愛情や慈しみの気持ちを持たなければなりません。鷹山には、現代の経営者以上にヒューマニズムが感じられます。
身を切るような改革を部下に強いる場合、「このリーダーならば」あるいは「この人ならばついていこう」という、「ならば」が不可欠です。
鷹山はこうした素養を備えていましたが、それでも時間がかかってしまうほど、改革は難しいものなのです。
特攻の前に戦争は終わりました。それでも故郷を守るために公務員になった
みんなの介護 先生は17歳の時に終戦を経験されています。
童門 はい。青森県の三沢基地にいました。1927年に生まれて1944年に予科練(海軍飛行予科練習生)に志願して茨城県の土浦海軍航空隊に入りました。自分で志願したというより、昔は町に志願を勧める人がいたんです。
死ぬつもりで特攻隊を志願して、硫黄島へ出撃する予定でしたが、その前に戦争は終わりました。少し上の世代には特攻で死んでいった人もいます。
「あのとき、突っ込んでおけば…」と今でも思うことがありますよ。
みんなの介護 当時はそのような虚無感のある元兵士が多かったと聞きます。
童門 私は、特攻隊員の苦悩を描いた阿川弘之さんの小説『雲の墓標』に出て来る主人公の辞世「雲こそ吾が墓標 落暉よ碑銘をかざれ」が好きでね。自分は突っ込む前に終わったから。
私はもともと空や星が好きで、今でも空を飛んでいる夢を見るんです。
一方で、子どもの頃から故郷(くに)のことは守りたいと思っていましたから、目黒の実家に戻ってしばらくしてから目黒区の職員になったんです。
みんなの介護 その後、都庁で美濃部亮吉知事(在任1967年―1979年)の秘書などを経験されます。
童門 美濃部さんは1967年に革新系の知事として都庁にやってきました。私は当時広報室にいて、1960年に芥川賞候補になった経歴があったので知事のスピーチ・ライターに登用されました。
みんなの介護 最初は大変だったそうですね…。
童門 はい。議会での所信表明演説の草案を頼まれて書いても、チラッと見て、ゴミ箱に捨てるんです。
「都民が耳でわかる文章に書き直したまえ」ということですね。正直、カッとなりましたけど、この経験が「わかりやすく書く」「聞いただけでわかる内容にする」というスタイルを作りました。これは今も私の原点なので、わからないものですね。
みんなの介護 歴史小説であっても現代風の言葉や箇条書きなどを織り込まれていて、かえって新鮮に思えます。
童門 はい。戦後の混乱も続いていて、ただでさえ暗い時代なのに、職場の雰囲気も暗かった。だから自分は前向きに明るく、誰もがわかるような話し方や書類の書き方を目指そうと思ったのです。
それで参考にしたのがアメリカのハーバード・ビジネス・スクールのテキストでした。
みんなの介護 経営学や会計学などのプログラムに定評があるハーバード大学の経営大学院ですね。
童門 そのテキストを読んで、アメリカ式の合理的な仕事の進め方や文章を作ろうと思ったのです。時代小説を書くときにビジネス書のように要点を箇条書きにして、言葉も現代語を使うようにしたのは、このテキストの影響もあります。
「カタカナを使ってわかりやすく」を心がけ、難しいことをやさしく解説することに気をつけましたが、その結果として、より多くの方に知ってもらうことが大事だと思っています。
50代以降は自分のなかに仕込んだものを発酵、そして結実させることができる
みんなの介護 今も執筆や講演を続けられていますね。
童門 常に「人生、一寸先は闇」で、何が起こっても不思議ではないと思っています。もうここまできたらしょうがないという心境ですね。
少し前に講演に出かけて駅の階段でつまずいてしまったんですが、若い頃に習っていた柔道のおかげで受け身の姿勢がとれて、大事には至りませんでした。
見ていた人たちは「救急車を呼ぼう」と大騒ぎでしたが、私は無傷で「講演があるから、もう行きます」と(笑)。
これはたまたま自分が柔道をやっていたからで、誰もが同じことができるわけではないですが、自分のことは自分でしていくしかないんです。
みんなの介護 江戸中期の学者で上杉鷹山の師だった細井平洲(1728年―1801年)の記念館の名誉館長もされています。
童門 平洲はメジャーではないけれど、メジャーでないところが良いと思います。あんまりメジャーになったらつまらないですよ(笑)。
優秀で、吉田松陰も影響を受けていると言われる平洲の討論の方法は、松下村塾でも採用されていましたからね。
平洲の討論は後述のような流れで、門人の自主活動を重んじていました。
・まず課題について自分の考えをまとめる
・これを同門の友人と討論する(対話)
・次に門人全員の意見を聞く(討論)
また、平洲は今のJR両国駅に近い両国橋のたもとでしばしば演説をしています。
この橋のたもとには江戸の明暦の大火(1657年)の後、被災地の復興と活性化のために盛り場が設けられていて、落語や講談、ガマの油売りなどの芸人たちがやってきて、芸を競っていたのです。
そこに、いつの頃からか平洲も参加し、辻講釈を行うようになっています。
平洲の講話は生活に密着したわかりやすいテーマと言葉で、話し方もやさしく、多くの聴衆が集まったと言われています。
平洲は常に以下のように説きました。
・まず親や大人が子どもに手本を示す
・子どもには良い習慣を身に着けさせる
・最も大切なのは、譲り合い、相手を思いやる心
・自分から施す「先施」を心がける
・学んだことを生かす
特に人の成長を木にたとえ、「苗木のときは柔らかいので、まっすぐにも育てられるし、曲げて育てることもできる。苗木のときから心を尽くして育てれば、その後はあまり苦労せずに、良い木に成長させることができるが、無理に曲げたりすれば傷つく」としていました。
みんなの介護 鷹山とはどのような出会いが?
童門 たまたま平洲の講義を聞いていた藁科松柏(わらしなしょうはく)という出羽(山形県)米沢藩上杉家の藩医兼学者が鷹山の師にふさわしいとスカウトしたんです。
平洲と同様に、人前で話すことが上手だったのが福沢諭吉です。私は今でこそ講演でお話をさせていただいていますが、実は人前で話すのは苦手でした。
諭吉に出会い、学んだことで話すことが好きになりました。諭吉から学んだのは、「言文一致」です。
諭吉は、書くことが話すことより上位に考えられていた時代に、両者を同等に考えて、さらに「自分の意見は書くことによって求められ、話すこと(演説)によって確認される」と説きました。
この諭吉の考え方は、話すことの重要性を私に認識させ、その後の作家人生でずいぶん励みになりました。
例えば90分の講演の場合、私はだいたいの原稿を書いて実際に声に出して読んでみて、そこで原稿を推敲するのです。このときに話の大部分は暗記するようにしています。
みんなの介護 目黒の「名誉区民」として敬老の日や成人の日にもお話をされていますね。
童門 今は空前の高齢社会と言われます。
私もその一人なのですが、まだ掘るべき自分の「鉱脈」は残っていると思っています。この自分のなかの鉱脈は、皆さんもそれぞれが今まで蓄積していることです。
年をとると、若い頃のように新たなことに挑戦したり幅を広げたりするのは難しくなりますから、そんなときは自分のなかにある鉱脈を掘れば良いのです。
誰でも今までの人生には蓄積、深さがあります。50代以降は仕込んだものを「発酵」させ、「結実」させることができると思います。
「大日本沿海輿地全図」を完成させた伊能忠敬(1745年―1818年)だって、50歳を過ぎてから測量のために全国を歩き始めました。学びに「遅すぎる」ことはありませんよ。
私は人生を「起承転結」と考えず、「起承転々」だと思っているので、最後の「転」まで、一日の生命に感謝し、手を抜かずに生きましょうとお話しています。生きているうちには、「結」がないんです。
そして最近は、起承転々が「転々悶々」となっています。死ぬまでこの生命を完全燃焼させていきたいと思っていますよ。
撮影:公家勇人
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