酒井 穣(さかい・じょう)です。第21回「利用者側からのセクハラ・パワハラ。改善の秘策はドライブレコーダー!」では、介護業界における大問題の一つである「介護現場のハラスメント」について考えてみました。

そこでは、監視ということのポジティブな面について考え、ドライブレコーダーに代表されるような、一定の監視の必要性について訴えています。それでも止まらないハラスメントには、特別な対応が求められます。

第22回となる今回は、「老老介護・認認介護が、今後の日本の介護をどのように変えていくのか」を考えてみたいと思います。なにかと絶望の話題として取り上げられる老老介護・認認介護には、何か良い対策はあるのでしょうか。

見たくなくても見えてしまう現実…
全体の過半数は老老介護!

厚生労働省「平成28年 国民生活基礎調査の概況」によると、老老介護の割合は54.7%で、75才以上同士の介護は30.2%。老老介護の問題が浮彫りなってきた。

出典:厚生労働省更新

高齢者が高齢者を介護するという老老介護が急増しています。厚労省の調査(国民生活基礎調査)によれば、介護者も要介護者も、どちらも65歳以上というケースは全体の過半数、どちらも75歳以上というケースも3割以上になります。このとき、どちらか一方が介護者として健常であればまだ良いのですが、双方が要介護状態という場合も多いのです。そして厳しいのは、どちらも認知症を発症しているというケースになるでしょう。背景にあるのはいうまでもなく、日本の少子高齢化です。

そもそも、介護には体力的に重労働という側面があります。実際に、介護のプロの職業病(業務上疾病)は腰痛です。現役世代でさえ体力的に厳しい介護を、高齢者が本当に担えるのでしょうか。高齢者は肉体的に衰えているというだけでなく、なんらかの病気を抱えていることも多いわけですから、なおいっそう不安になります。不安というよりも、現実に、そうした「とても見ていられない状況」が多数存在しているわけです。そして社会の側は、それを「見ないようにしてきた」としか言えません。しかしそれも、大介護時代のはじまりとともに、これが「見たくなくても、見えてしまう」ようになってきました。

一昔前であれば、こうした老老介護・認認介護に苦しむ世帯にとっては、施設介護(老人ホームに入居して介護されること)という駆け込み寺がありました。しかし政府は、増え続ける要介護者数を背景として、財政の逼迫に直面しています。結果として、老人ホームへの入居は、富裕層だけの特権となりつつあります。政府もこれを黙認しており、施設介護から在宅介護(自宅で介護されること)への流れは、今後も加速こそすれ、止まることはないでしょう。もはや、駆け込み寺は存在しないと考えなければなりません。

やっかいなのは、介護の理想(ノーマライゼーション)からすれば、施設介護は間違っているという事実があることです。施設介護というのは、要介護者の一般社会からの隔離ですから、人権的な問題を持っているわけです。ですから理想的には、介護が必要な人も、そうでない人も、誰もが普通(ノーマル)に暮らせる社会が構築される(ノーマライゼーションが進む)ことです。ただ、これはあくまでも理想です。このノーマライゼーションが日本よりもずっと進んでいる北欧でさえ、本当に厳しいケースには、施設介護が適用されています。そして先にやっかいと表現したのは、これからの日本においては、このノーマライゼーションが建前として使われて行きそうだからです。

政府の方針は在宅介護
その受け皿を担うのは「地域包括ケアシステム」

地域包括ケアシステムのイメージ

今後の日本では、北欧の基準では施設介護が必要とされるケースでさえ、在宅介護に押し込まれていくことになりそうです。その厳しい状況を受けとることになるのは、地域包括ケアシステムと呼ばれる、フワッとしていて、中身が明確ではない仕組みです。地域包括ケアシステムにおいては、医療・介護スタッフが、地域社会と連携し、在宅介護を実現するということになっています。しかし、そもそも地域社会というのは、どこに存在しているのでしょう。結局のところ、医療・介護スタッフの重労働と、ささやかなボランティアが、本来であれば施設介護で提供されるべきサービスを担うしかない構造になっているわけです。

現在の政府の方針を読み込んでいく限り、見えてくるのは、弱者の切り捨てです。増税があっても、自己負担はどんどん上がっていくし、介護状態を改善できる軽度の人ばかりが介護を受けられるような仕組みも導入されてきています。本当に医療・介護サービスを必要としている人のところに、サービスが行き届いていないのが現状であり、この改善は見込めそうもないのです。そして富裕層だけが、なんとかギリギリ、救われそうです。ここで一番厳しいと感じるのは、政府もこれを理解していて、それなりの努力をしているということです。ここに大きな抜け漏れがあれば、政権交代でどうにかなる話でしょう。しかし、この状況に対する解決策は存在しないというところが、日本の絶望です。

日本から、世界で通用するベンチャーが多数生まれ、そうしたベンチャーで働く人々の年収が900万円(使う税金よりも支払う税金のほうが多くなるライン=十分な担税力のある年収)を大幅に突破し、将来不安の減少によって子供が多数生まれ、そうした子供の教育に対して国が巨額の予算をつけるようなことがなければ、この状況は改善しないのです。しかし日本の現状は、こうしたポジティブな妄想とは真逆に進行しています。そして、特に優秀な子供たちは、どんどん海外の大学に避難するような流れも生まれてしまいました。もはや、批判すべきなのは特定の政権ではなく、過去の政権を容認してきた私たち一人一人ということなのでしょう。私たちは、高い授業料を払って、批判だけしていても社会はよくならないということを学んだわけです。

国に国民を守る力はもう残されていない
自分の力で「ソーシャル・キャピタル」をつくる時代へ

2025年には介護職が38万人不足し、介護を受けられない人たちが出てくる。東京など大都市圏に顕著である。

出典:厚生労働省更新

老老介護・認認介護の急増は、日本が長期的に築いてきた社会が生み出している結果です。長期的に築かれたものを、短期でひっくり返すことはできない以上、私たちは老老介護・認認介護と向き合い、その現実を受け入れていくしかありません。老老介護・認認介護のように、介護をする人とされる人が一緒にいれば、まだよいほうです。今後は、単身で介護を必要とする人の孤独死も、避け難く急増していくでしょう。なにせ、介護のプロが極端に不足しているのですから、こうした近未来は、どうしてもやってきてしまいます。そして、どんなに外国人労働者を増やしても、介護のプロの人材不足にとっては焼け石に水であることは連載第20回「外国人介護士を受け入れ過ぎると介護職の待遇改善は実現しない!?」でも述べたとおりです。

はっきりしているのは、もはや日本には、国民を守るだけの力が残されていないということです。官僚の中には、素晴らしい人材も少なくありません。しかしいかに優れた人材であっても、タイタニック号の沈没そのものを止めることはできないのです。かつて、テレビで、どこか遠くの国の悲惨な状況をみて「日本に生まれてよかった」と感じたことがあるかもしれません。今度は私たち日本人が、外国人から「日本に生まれなくてよかった」と思われてしまうという逆転が起こっていきます。この逆転の速度は、今はまだ非常にゆっくりとしているため、なかなか気づきにくいかもしれません。しかし歴史的にみて、一度できてしまったこうした流れが逆流するということは、まずありえないことです。

そうしたマクロな認識をもった上で、老老介護・認認介護を考えると、また別の側面が見えてきます。とにかく、政府を批判しても、この状況は改善されないわけです。だとしたら、とにかく自分で行動するしかありません。これは「介護を自分だけでなんとかしろ」ということではなく、むしろその逆です。自分の力で人脈をたどり、周囲に頭を下げて、自らの力で社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)を構築することで、介護の負担を分散させるということが重要になってきます。高い介護サービスへの依存を見直して、小規模多機能型居宅介護のように、定額制で(現実的な範囲で)使い放題の介護サービスに乗り換えるといったことも非常に大事です。

地域包括ケアシステムの主役は誰?
主役はもちろん、政府から自立した「あなた」

地域包括ケアシステムではあなたが主体となり各方面へお願いをして回らなければならない

こうして考えてみると、地域包括ケアシステムの主役が誰なのか、見えてくるでしょう。それは、どこにも存在していない、お金がない人にも無償でさまざまなサービスを届けてくれる聖人たちのグループではなくて、ここにいる自分自身なのです。自分が、自分に必要となる介護を担ってくれる人々を探し出し、関係性を構築し、上手にやりくりをしながら、さまざまなお願いをしていく主体なのです。誰かがなんとかしてくれるということがない以上、自分からお願いして回るしかありません。高齢者にもなって、そうして頭を下げて回ることは、とても恥ずかしいと感じるかもしれません。しかしそもそも、恥ずかしいのが人生であって、そして生きるということではないでしょうか。

生きることの恥ずかしさを受け入れ、社会としてもそれを当たり前のこととして考えるようになれば、日本はもっと生きやすい社会になると思います。そうしてやっと、日本人は、批判だけしていれば助けてくれた政府という親から自立し、真に主権者としての国民になっていくのではないでしょうか。本当の意味で民主革命を経ていない日本は、自分の身に降りかかる老老介護・認認介護という現実を通して、自らの人生を勝ちとるという戦いに突入しているのかもしれません。それは、自分の中にいる「かっこうをつけたい」という敵と対峙することであり、日本の革命なのだとさえ感じます。

いかに低コストな社会をつくるか
国民主体で老老介護・認認介護に立ち向かう

日本という仕組みは、例えていうなら、よくできたピタゴラスイッチです。それぞれの要素は、優秀で真面目な人々がギリギリの状態で支えてきました。しかし全体としては、芸術的な無駄ができあがったのです。これは、過去の国民に、国というレベルで全体を設計するという主体性がなかったからです。しかし老老介護・認認介護という現実を通して、国民は、ピタゴラスイッチの要素であることをやめることになるでしょう。ピタゴラスイッチを見直し、個人の幸福追求のために、効率的で低コストな社会をつくるのは、私たち自身を置いて他にいないのです。