新型コロナウイルスを機に暮らしが変わって2年が経つ

2019年末、中国湖北省武漢市から原因不明の肺炎が報告された。その後、新たなコロナウイルスが原因である肺炎は、世界中にあっという間に広まってしまった。

2020年1月16日に、日本で最初の感染者が発表されてから、日本でも新型コロナウイルスとの戦いが始まった。

初めての緊急事態宣言、街の中から人が消えた。桜の花の盛りの京都でも、人っ子一人いない街並みがニュースになった。渋谷のスクランブル交差点も、大阪の道頓堀も歩いている人すら見かけなかった。

学校も休校になったし、リモートワークが普通になった。

体の弱い人や高齢者は、最も気をつけるべき対象者として自宅から出なくなった。

その頃のボクのコラムには、「リモート授業のためにタブレットを支給される小学生同様、一人暮らしの孤立する高齢者にも早急にネットの環境と、誰か人と話せるシステムを開発せよ!」なんて書いてある。

それもこの2年で「大切なこと」として認知されるようになったし、見守りロボットはコマーシャルなどでもよく見かけるようになった。

ボクの近辺でも、あちらこちらで「遠く離れた一人暮らしのお母さんに使ってるよ」なんて声が聞こえるほど、遠隔でお話しできる機材もメジャーになった。
 

76通目「ボクももうすぐ高齢者~親を思う敬老の日に見守りロボットも良いかもなあ〜」でも取り上げた見守りロボットユピ坊

 

極力人に会わない生活、それが日常になっている

コロナを契機に、シニアの皆さんの日常も大きく変わった。近くで行われる町内会での会合も、体操教室も中止になった。

ちょっとそこまでの買い物も散歩もやめている。または、極力回数を減らす。宅急便の人にも会いたくない。ケアマネさんや、マッサージの方にもできれば会いたくないのが本音

会わなくて済む人には極力会わない。もちろん親戚の集まりも、同窓会も無くなった。

デイサービスもクラスターが発生してお休みになっている。また陽性者が身近に出たといえば、やっぱり怖いから休みにならなくても自分の意思で休む。

デイサービスに来てくれていた、手芸サークルもフラダンスや歌声ハーモニーのイベントもすべて中止になった。施設内の夏祭りもカレーの会もイベントはすべて中止。

家に閉じこもり、人ともめっきり会わなくなった。外に出ないから運動量もかなり減った。本当に変わった。いつまで続くのか、怖いから無理しないで家にいよう、そんな我慢がもう逆に日常になってしまっている。

そんな生活が始まって、2年が経つわけだ。

徐々に、徐々に進んでいて、その過程も見ていたはずなんだけど、このところ急にコップから限界が来て、溢れるようにいろいろなことが起こったのだ。

アクティブだった義母、筋力が衰え歩くのが大変に

2年前は84歳だった義父母も86歳になった。年齢的なこともあるが、義父母にとってこの2年間は大きな時間だった。

「もう一回ハワイに行きたいね」という計画が、もう2年延期になっている。最近、義父母は「もう行けないかもしれないなあ」とポツンと言うようになった。

義母は2年前までは、往復1キロ弱のスーパーまでひとりで歩いて買い物に出かけていた。

それが最近は「重いものは持って帰れないの」と言って、スーパーのお届けサービスを利用するようになった。

もともとアクティブだった義母は、友だちと待ち合わせをして、隣の駅までバスで出かけて美味しいと噂のパン屋さんに並んでみたり、社会福祉協議会主催のイベントに出かけたり、編み物のサークルに参加したりと結構忙しくしていた。週の半分は用事があって外出をしていた。

しかし、新型コロナウイルスが猛威を振るい始めてからというもの、本当に外に出る機会が減った。

普段の10分の1ぐらいに減ったかもしれない。昨年の秋ぐらいから老人会や町内会のイベントが復活したが、「歩くのが辛い」と言うようになった。

300メートルくらい先にある、町内の会館まで歩くのが大変になったようだ。めっきり筋力が衰えてしまったのだ。慌てて、リハビリ的な運動を計画してみたり、マッサージを強化してむくみを取ったり、さまざまな試みをしているが追いつかない。

あれよあれよという間に、家の中を歩くのも辛くなってきてしまったようだ。

そして3ヵ月もたたないうちに、今度は「バスに乗ることができない」と言うようになってしまったのだ。

家のすぐ近くにバス停があるので、数百メートル歩いて最寄りのスーパーに行くより、バスに乗って隣の駅前のスーパーに行った方がいい、そう言っていたはずなのに…。

「バスのタラップに上がるのが大変だし、何より一度座ったら立ち上がれない」そう言って外出しなくなった。すると見る見るうちにほとんど歩けなくなってしまったのだ。

友人に勧められた靴の中敷き作りに意欲

整形外科には以前から通っていたが、膝が痛くて足も浮腫み始めているらしい。

妻は「まだ間に合うかもしれない」と言って、いろいろな対策を考え始めた。コロナになる前から対策はしていたのだけれど、この2年で急速に体が弱くなって、その進み具合に追いつかなかった。

ある日、義母が「膝のサポーターを新しいものに変えてみようか?ペインクリニックはどうか?リハビリは足りているか?訪問マッサージをもっと増やせるか?手術をするのはありか?」と友人に相談したところ、「靴の中敷きを自分用につくるとちょっとは違う、騙されたと思ってつくってみては?」そう提案されたんだという。

「外履き用と、自宅内で使用する上履き用。中敷きだけで魔法のように変わるから、何もしないで悩んでいるならやってみたら?」そう言われたそうだ。

中敷きを自分の足に合わせて数ミリ単位で調整してくれるんだという。義母は「つくってみようかしら?」と前向きだ。

一方で義父も運動不足を実感しているようで、「もう長くは歩けなくなった」そういって「何か」を始めなければと最近言い出していた。藁をもすがる思いだ。体の変化を実感し始めてる。切実だ。しかも事態は深刻だ。

小さな「好奇心」がボクの生きる糧となった

以前、『100歳まで生きてどうするんですか?』(中央公論新社・末井昭)と言う本を読んで原稿を書いたことがある。

著者の末井さんの義母である和子さんの話で、骨折した後、シルバーカーを押して歩けるまでに回復したのだが、それから誤嚥で人工呼吸器をつけるようになったり、コロナに感染して入院したという。

思えば義母の「好奇心」は、最初に骨折したときから薄れていって、死に向かったのではないか、と書かれていたのだ。

ボクにも思い当たることがある。入退院を繰り返してしていた数年前、珍しく弱気になった。 「余命」という言葉を医師から初めて聞いた頃だ。

目が覚めると「ああ、このままずっと眠っていたい」そう思ったりした。やってみたいことどころか、食べたいものも無くなっていく。落ち込んでいるのとも違う。まさしく「好奇心」が薄れていくのだ。

すると、自然と体も静かになって動かなくなる。自分の心の中で何かを諦めると「死」の入り口に立ってしまうんだなあと実感した。

しばらく経った頃、ボクの場合はすごく変なきっかけで復活した。病室である懸賞論文に応募してみようと思ったのだ。

ご飯も食べられなくなって、起き上がることもできなくなっていた体で、小さな「好奇心」が芽生えたのだ。

ある人には、その論文のために病室まで来てもらって動画を撮ってもらうなど無理も言った。しかし、もちろんそんな付け焼き刃なことで通るほど甘い世界ではない。

その懸賞論文は撃沈したのだけど、体も動かなくなっていたその頃、ベッドの上で何かをやりたいと思えたことは幸運以外の何者でもない。

無理だろうなあと思っていたはずなのに、手伝ってくれた方々にも感謝したい。

無理やりやったあの動画撮影(VR)をきっかけに、ああもっとこうしたらよかったかも、こんなアイディアもあったかも、早く退院しなきゃ、そう思い始めたのだ。

自宅に戻ってから始まったリハビリも歳をとった分大変だったけれど、ボクの「好奇心」は薄まらなかった。

密かに危機を感じながらみんな踏ん張っているんだなあ

「死」の入り口近くに立たされてもくるっと右に曲がったり、左に曲がったり、Uターンしたり…。そんな人もたくさんいる。

すると「死」に向き合ったことすら忘れてしまうときがある。

先程の義両親の話も同じで、歩かない生活が続き、歩くことが億劫になっても、それでも解決策を探りたい。また何かをしたいという「好奇心」を芽生えさせたいのだと思う。

ボクの元に「コロナでダメージがあっても、逆らって生きなきゃですね」とか、「私もコロナでとうとう歩けなくなった」、「私の母は今、めちゃくちゃ弱ってしまって医療と介護と尊厳のバランスを探っています」とか、「重たい荷物を持って歩いていたらふらつき転んでしまいました。自分で『大丈夫?』と問いかけた」というようなコメントをたくさんいただく。

中にはまだまだお元気で、シニアと言っては申し訳ない方からのコメントもあり、「ああ、みなさん密かに危機を感じていたんだなあ。それでも踏ん張って生きているんだなあ」とこの2年の重みを実感した。

『コータリン&サイバラの 介護の絵本』

神足裕司[著] 西原理恵子[絵] 文藝春秋社 (2020/8/27発売)
9年前にくも膜下出血で倒れたコラムニスト コータリさんと、漫画家 西原理恵子さんがタッグを組んだ連載「コータリさんからの手紙」が本になりました!
現在好評発売中です!