くも膜下出血発症からちょうど1年
介護保険になってからのリハビリはまるで別もの

くも膜下出血発症からちょうど1年の入院を経て2012年9月にボクは、我が家に戻ってきた。

納得のいくような施設は予算内に収まることはなく、だいたいどこを見て回っても納得のいくリハビリをやってくれると思われるところはなかった。

それは、家族が、かなり無謀なリハビリを要求していたこともある。

国の指針でリハビリ期間は、病気の発症後の急性期2週間、回復期2ヵ月、慢性期6ヵ月と大体が決まっている。

リハビリ病院でスパルタなリハビリを続けていたボクは、嫌々ながら毎日何時間もリハビリを続けていた。喋れないボクも「今日はかんべん」なんてミミズの這ったような文字で訴えてみたりしたが、「バイタルも安定しているから大丈夫ですよ」と有無を言わさずベッドから車椅子に、リハビリ室に連れいかされた。

ときにはカラオケをやったり、トランプをやったりいろいろな方法でのリハビリが続いた。

こんな状態の人には意味がないんじゃないか?そんな無理難題にも思えるリハビリもあった。が、それもリハビリが期間を過ぎたらできなくなってしまうというのだ。「え?通院してもできないんですか?」家族は急に見放された気持ちになったという。

「これからは医療ではなくて介護保険でのリハビリに移ります。神足さんも介護認定を受けて介護保険で色々な生活の支援を受けてもらいます」というのだ。

「介護保険でリハビリが続けられる施設もあります」そうリハビリ病院の担当に家族は告げられたそうだ。しかし、今までの「スパルタなリハビリ」とは雲泥の差に感じたようだった。

家族はそれでもリハビリ継続を選んだ
それは自宅だった

家族はそんなわけで無謀なリハビリが継続できる環境を選んだわけだ。それが自宅だった。

自宅に戻るにあたってまず、ケアマネージャーを選ぶ。

最初は「ケアマネってなに?」というところからの学習だった。でも自宅に帰ってからの1番の目標が「リハビリを続けること」と明確だったのでリハビリに強いケアマネを選んだほうがいいだろうとまず考えた。

区役所でもらってきたリストには数行の自己紹介しかなかったが、そこから勘でリハビリに強そうな人を選んで、聞いて回った。

その人に本当にリハビリをやってもらえるかはシステム上もまったくわからなかった。そして意見書を書いてもらって自宅でもリハビリやマッサージの継続ができる環境を整えた。

スパルタ・リハビリ生活の末、奇跡的に“梨”が剥けるまでに回復!

立派な設備のあるデイサービスに週に1日は通い今までの10分の1ぐらいかもしれないが大掛かりなリハビリもできるように計画した。

その頃はまだ、ご飯も自分で食べることはできなかった。

スプーンでおかゆをすくうがそこで止まってしまう。家族の観察によると、おかゆをすくいながら身体を前に倒してこぼれないように口まで運ぶという複数の作業を一度に処理する能力がまだなかったのだ。

「なんだ、こんなに簡単なことだったんだ」
大好きだった梨も自分で食べられるように

全てにおいてそうだった。パソコンを打つということと言葉を続けて考えるという一連の動作ができなくて止まってしまう。話そうと思っても言葉は口の中で止まる。

だれかいるとその存在が気になって他の動作ができない。手のひらに薬を置いてもそれを口に放り込むことができない。頭で考えると次の動作ができなくなる。そんな調子だった。

しかし、退院してきたその日に妹が大好きな広島の「むさしのうどん」を送ってきてくれていた。そしてボクが大好物だった広島県の世羅高原の梨も。

「うどん」なんて食べるのは夢のまた夢。そう思っていたのに、食べるタイミングで頭を後ろから前に数センチ押してあげるだけで止まっていた箸を持った手がうどんをするっと口に運んでいくことも発見した。

「なんだ、こんなに簡単なことで食べられるんだ」と大発見だった。

ボクは左手を使って梨をむけるようになった
それは奇跡に近いことだった

頭を押して行動を手助けすることと、大好きな「むさしのうどん」を食べたいが一心で、1年以上自分で食べることができなかった体でもすんなり食事ができるようになった。

家族は狂喜乱舞。それだけでない。「パパ、これ世羅高原の梨だよ」そういって丸ごとの梨とぺティナイフをボクの手に渡した。

ボクは使えないはずの左手で、不安定ではあるが梨を押さえて皮をスルスルとむきだしていた。

スパルタ・リハリビ生活の末、奇跡的に“梨”が剥けるまでに回復!

「エ???パパ!!!!今までできてたのに隠してたんじゃないの?」そう思うほどの可能性を家族は感じたそうだ。

もちろんそれは奇跡に近いことで、それからご飯を口に運べるようになるまでには体を前に押してもらって口に運ぶことを何千回もやってもらった。

動作を忘れていた脳が、それを思い出し学習するまでには膨大な時間がかかった。

それが例外もあって発症前はパソコンで原稿を書いていたので家族はパソコンを片手で練習させていたようだが、どうも「キーボードを打つこと」と「文を紡ぐこと」の2動作は脳にとって難しかったようだ。

それをペンと原稿用紙に替えたらすんなり文章が書けるようになった。ペン先と脳は直結しているらしい。自分が考えている(脳に浮かんでいる)文章がペン先から流れるようだった。

しかし、「パパお腹すいた?」「どっか痛い?」と横から聞かれても「考えて書く」という動作になると書けなくなる。うなずくぐらいがやっとだった。

これは今でも苦手で誰かとのコミニュケーションは本当に慣れた人としかできない。いつもならできていることでも、どんなときにできるものなのかは、よくわからない。

家族が喜ぶ顔を見たいがためにボクは頑張った
今でも家族の前でちょっとはカッコつけたいのだ(笑)

しかし、家に帰ってきてからは、「そんなことはできない」と思っていたことができるようになった。

家族はトイレだってもちろん使えるようになるなんて考えていなかったらしい。でも家に帰ってきてからボクと一日中家にいる妻はボクがトイレに行きたくなると出す少しのサインを(体を動かすとか)見逃さなかった。

「パパ、トイレ?」そう聞かれてうなずく。そしてトイレへ。「今日、パパがトイレでウンチしたんだよ」なんてことが家族のLINEではビッグニュースとして賑わったそうだ。

家に帰ってきて良かったと思えたエピソードはその後も尽きない。

しかし、もちろんよかったことばかりではない。要介護5で障害も持ったボクが家にいるということは介助者がまだ若い我が家だって相当の負担だった。

慣れるまでは妻も寝不足で体調を崩したし、腰もやられた。

友人たちの精神面でのサポートがなかったらやっていけなかったいう。思った以上にお金もかかっただろうし、わからないことだらけだった。

ボクの場合は、としかいえないのだが家に帰ってきたから今の自分があるのだと思う。だから帰ってきて正解だったと思う。もしそうでなかったらこんなに良くなっていなかったと思うのだ。

ボク自身も病院にいたときのように「劣等生」といって甘えてばかりいられない。

妻がヒョロヒョロのボクを支えてくれようとすれば頑張って踏ん張るしかない。オムツを替えようとすればベッドの柵を握って寝返りも打てない体を一生懸命維持する。頑張らないと。それに、何より家族が喜ぶ顔を見たいがためにボクは頑張った。

昔から「カッコつけ」の自分であったが、今でも家族の前でちょっとはカッコつけたいのである。