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自分を大切に 介護する相手は鏡<前編>

介護をされているご家族の本音に迫る「みんなの座談会」。実母を在宅介護中の長女のお二人と、祖母の介護に関わったお孫さんにお話を伺います。前編は、要介護に至った経緯や在宅介護の様子についてお話いただきました。

この記事に登場するみなさんのプロフィール(敬称略)
井下 (仮) 井下 (仮) 橋本 (仮) 橋本 (仮) 高橋 (仮) 高橋 (仮)
50代のライター職。夫と2人の子供と実母と同居。実父を5年前、自宅で看取られた。実母は91歳、要介護1、認知症があり、週3回デイサービス、2ヶ月に1度2週間のショートステイを利用。
40代、医療事務のパート勤務。23年間母と同居。母は、3年前から転倒が増え2年前入院、要介護4が認定。母の認知症を認めない父の暴言が続き、昨年8月特養に入居。介護者の家族会にも定期的に参加されている。
50代、サービス付き高齢者住宅のフロント業務に従事。近隣で暮らす独居の祖母の在宅介護を実母と共に孫として支え、施設探しも行った。祖母(99歳・要介護4)は、有料老人ホームに入居し昨年施設でご逝去された。

「嫌い」が「大嫌い」に

みんなの介護(以下、―――) 本日はよろしくお願いします。皆さまが介護に至った経緯をお聞かせいただけますか。

井下
フリーでライターをしている井下です。57歳です。子供が生まれた時から28年間、実母と同居しています。

父が2018年5月に亡くなりました。ちょうど同時期に母の様子が“おかしく”なっていました。曜日を間違えたり、これは見当識障害があるんじゃないか、おかしいなと気づき、近くの神経内科に受診。医者からは「長谷川式18点、MRIの結果、認知症の初期です(※)」と言われました。

父は1か月くらい家で暮らせていて、最後は誤嚥性肺炎で亡くなったのですが、その間も母は様子がおかしく、父の末期に母の介護が始まりました。週に3日デイサービス、2か月に1度、2週間のショートステイを入れています。

……私、ぶっちゃけ言うと、母のことがもともとあんまり好きではなかった。正直苦手だった。母って“かんしゃくもち”で、すぐに“きれる”。子供のころから母に対しては、すごく嫌な思いを抱いていました。

私は、子育ても仕事もしています。母が認知症になる前は、家の作りが完全な二世帯なので、母と関わらなくてよかった。母と話をしない1週間はざらにあるような日常だったんです。

私自身が「母って嫌な人だった」と忘れるくらい接しなくてよかったんですよね。でも、介護になったとたん、関わらなきゃいけなくなりました。母って、私にとって、めちゃめちゃ嫌いな人だったことを思い出しました。精神的にこんなに嫌いな人の介護をなんで私がしなくちゃいけないんだろうと辛いです。

今、母の介護を初めて5年目です。母と向き合うことになり、「嫌い」が「大嫌い」になっています。

※ 長谷川式認知症スケール。20点以下だと認知症の疑いがあると判断される認知機能テストの1種

井下様のお母様は現在91歳、要介護1。杖歩行でトイレにも一人で行けています。

「完全同居だから感覚が麻痺していた」

同じく長女の立場で、実母と同居され介護されていた、橋本様に聞きます。

橋本
橋本です。医療事務のパートを長くしています。49歳です。自分の長女が生まれてから23年間、両親と夫、自分の子供と一緒に暮らしています。家の作りは完全同居でそれぞれの世帯で分けてはいません。

私の母は認知症です。いま思えば、10年から7年くらい前から、様子が“おかしく”なっていました。あの頃の母は、とにかくイライラしていて、すぐに“きれる”。自分の部屋から出てこない。こんな状態が続いていました。

うつなのか、更年期なのか……あるいは認知症? この三つのどれなのかなとは思いつつ、私はどうすればいいか分からなかったんです。

5年以上前からは、 母とまともに話ができなくなっていました。すぐに“きれられる”。そんな母に「病院へ行きましょう」とはいえなかった。

夫とは「母は何か様子が変だね。家を出ようか」とも話をしていましたが、その頃の母は、何でも自分のことができていたんですね。

2020年、急に母の足が動かなくなりました。整形外科に母は一人で受診をし、医師から「あなたの言うことが分からないので、娘さんを連れて来るように」と言われたそうです。

他人様である医師がそう言うのだから「母はやっぱりおかしいのか」と納得しました。

それからは、私が一緒でないと受診できなくなり、どこへ行くのも付き添って行きました。

橋本さんの母親は40代で脊柱管狭窄症になり、外反母趾もあったそうです。整形外科へ何度も受診しましたが、足の痛みの原因が分からなかったようです。

そして、目も見えにくくなり、1泊2日で白内障の手術。しかし、手術後も「目が見えない」と言い、転ぶことが多くなってきました。

――― 橋本さん、お母様のお話をもう少し伺えますか。

橋本
母は、今思えば「歩けない」「見えない」と思い込んでいたんでしょうね。認知症が原因だったのかな。ただ、転倒が続き、とうとう家の中で四つん這いになったりする母に驚くばかりで、誰に相談していいか分からなかった。もちろん介護保険も申請していませんでした。

まずは、最寄りの包括支援センターへ相談しました。自分達が暮らす、自治体(区)では、自立支援住宅改修という制度があります。要介護度がつく前に手すりがつけられると聞き、10万円の助成を受け、手すりをつけるところから始めました。その時、対応して下さった、包括支援の男性ナースがものすごいいい人で、「神」だった! ナースは私にこう言ったんです。

「お母さんと話したけどやっぱり……。多分、認知症だと思う」。 そう言われて「私の思っていたことは正しかった」としっくりきました。

友達に母のことを相談しても「それって更年期じゃない?」「年取ったらそういうもんじゃないの」という言葉しか返ってこなかった。 私は母と完全同居、近すぎて麻痺していたんです。母のことを冷静に見れていなかった。

「オレンジカフェで一歩前進!」

――― 看護師の方とはその後も?

橋本
はい。ナースから「近々、オレンジカフェがあり、専門の先生が来ているので相談したらどう?」と誘ってもらい母と一緒に参加しました。大きな一歩でした。診療科がたくさんある大きな病院の脳神経内科の先生が来られていて「お母さん、来てくれたら見ますよ」とありがたいお言葉。

当時、2021年。コロナが蔓延するようになった一年目でした。 人気の「大病院」でしたが、コロナ禍ということもあり、「絶対に取れないよ」と言われた脳神経内科にすんなり予約が取れました。母も素直に病院に来てくれ、受診にこぎつけました。

MRIの結果、「脳の萎縮はないが、記憶力はあり、アルツハイマーと断定できない」という結果となり、お医者様も診断に困っていました。消去法で、色々な薬を試しながら治療が始まりました。てんかんの薬を処方してもらいましたが、薬の効き具合は波がありましたね。

その後、診察を何度か経て、最終的に、てんかん、パーキンソン病の疑い、レビー小体型認知症の診断がなされました。

介護度は、支援1から始まり、その後要介護2へ。肋骨を折って動けなくなり入院中に介護4と上がりました。 2021年の8月、退院後自宅で、よく転び、しもの世話が大変になりました。

あまりにひどくなり、父とうまくいかず、家族バラバラの状態で、私も家族も辛くなり、昨年8月に特養へ入居できました。

「どう接していいか分からない」

父方、母方両方の祖母介護に関わってこられた、高橋さんにもご登場いただきます。

――― 高橋さん、どうぞよろしくお願いいたします。

高橋
高橋です。「サ高住」に勤務しています。年齢は52歳、四人家族で暮らしております。もともとは事務職でしたが、介護状態になった父の祖母がきっかけで、介護に興味がわきました。

父方の祖母はとてもきちんとした女性でした。上から言われる立場、孫として今まで面倒をみてもらっていた方でした。認知症が進み要介護5でした。たまにしか会わない祖母が「人の手」が必要となっている状態で、私はどうやって接していいかわからない……ポカーンとなってしまいました。

「プリンを食べさせて」と母に頼まれて、赤ちゃんじゃないのに、祖母にどうやってさせればいいのだろう?「あーん」と口を開けてというのも変。

どういう言葉をかけたらいいの?分かりませんでした。その時、「介護の知識があったら、今後、家族も助かるかな」と思いヘルパー2級を取りました。その後は、在宅のヘルパーとして働き、介護福祉士を取得しましたが、腰を痛めて休業。

でも、私はやっぱり、ご高齢の方が好きだったようで、施設の介護職へトライしました。でも、現場は大変で、腰がさらに痛くなり退職。今は「サ高住」へ転職。そこまでの“重い”方のケアはないので、ご入居の皆さまのお世話をさせてもらっています。

プライドの高い祖母

高橋さんの祖母はプライドが高く、「通い系」の介護サービスは利用できなかったそうです。

高橋
5年前に母方の祖母が認知症かなという兆候が出ました。

祖母は私たちの家の近くに一人で暮らしていました。母が主に介護をしていましたが、母にとって初めての介護であったため、どうしていいかわからない。当時は、祖母自身が「できないこと」「できていること」は分かっていましたが、プライドが高いので人の手を借りるのが嫌だと言い張りました。もちろん、病院も行きたくない。私は「デイを考えたら」と言いましたが、祖母がとても嫌がりました。

ケアマネさんとも相談し、書道やお花が好きな祖母が、そういったものができるデイを紹介されたものの、「ちょっと物足りない、つまらない」と一度で利用終了。デイへ行ったら自分より分かっていない方が多かったのが理由だったそうです。祖母のプライド許さなかったんでしょう。

しかし、祖母は車の事故に遭い、大たい骨を骨折。身の回りのことができなくなってしまいました。もともと体が強くない母は徐々に祖母の介護が大変になってきました。要介護3となり、家事支援のヘルパーを頼みました。

状態は落ち着き、介護度は、要支援と良くなりましたが、すっかり祖母はヘルパーが家に入ることに抵抗なくなっていました。祖母の様子が気になり、母に「お風呂入っている?」と聞くと、「入っているんじゃないの?」と。いつも靴下を履いている祖母、実態が分からず、靴下を脱がしてみたら、足元の皮膚が汚れていました。

……独居の祖母はお風呂に入れていなかったんです。ずっと一人でやれていた祖母、当時は93歳。本当は、お風呂も入りたかったのでしょう。でもこちらからうながしても「人に裸を見せて手伝ってもらうのが恥ずかしい、人に手伝ってもらっている自分が許せない」と拒否されました。ヘルパーさんに足浴をしてもらうことから入浴支援を始めました。

相手の意思を尊重しすぎたあまり入所が遠のき……

――― 高橋さん、ご苦労が多かったのですね。

高橋
入浴に続き、食事でも問題が出てきました……。祖母はもともと、とにかく食べるのが好きで、自分のために料理し、台所に立っていました。

しかし、ある時、祖母の作ったものをつまんだところ味付けおかしかったんです。そして、母の作り置き食を食べなかったり、一気に食べるようになったりして、腐ったものかどうかも分からなくなり、おなかを壊してしまいました。

とうとう、母が朝昼晩3回通うようになり、ついには母が倒れました。すかさず「施設に入れた方がいい」と説得しましたが、母は「祖母の意思」を尊重しすぎて、「私が通って頑張れば、ここで暮らせるんだからまだ入れなくてもいい」と入居を“つっぱねて”しまったのです。

食費って実費

――― その後はどうなったのでしょうか。

高橋
「いざというときのために」と施設見学を始めました。……母のためでもあります。グルメな祖母だったので、「食事がとにかくおいしいところじゃないとダメだよね」と絞り込んでいきました。

公的な施設だと、あまり望めないのかあとも思います。食費は実費ですよね。

参加者の三名ともに大きく頷き「お金って大事ですよね」と。

高橋
「食費と食事の質は比例するのかしら?」と施設見学をしながら、実感しました。 入居の“とどめ”は、母が再び倒れてしまったこと。

祖母は母の倒れたことは知らなかったけれども、母が変わりました。「これ以上はもう無理」と母が祖母にお願いして施設に入ってもらいました。有料老人ホームに5年ほどお世話になり、その施設で亡くなりました。

「本人が行きたがらない」

――― 介護を受けているお母様が利用されているデイや短期入所生活介護(以下、SS)、最初から“すんなり”と行けていたのでしょうか? 利用に際して苦労したご経験があればお聞かせいただけますか。

橋本
私は母の入院中、友達から「いろいろ考えた方がいい」とアドバイスを受け、SSを調べて契約しました。8月末に病院を退院し、自宅で2週間。落ち着いて過ごした後、9月からSSの予定を組んでいました。忘れもしない2年前のあの9月、初めてのSS利用の日。

最初のSSは、3泊4日でお願いました。 入院中リハビリをして、なんとか歩けるような母に、「お泊りも練習しよう、私が倒れた時にね」といったら母は「うん」と同意してくれていました。

一緒に荷物を用意し、「楽しみだね」と母の気持ちを盛り上げ、SS前日と当日は仕事を休み、初めてのSSに向けて準備万端で整えていました。

そして利用初日の朝。母は、いきなり「私は行きません、そんな聞いていません」ときっぱり。いつもの母のイライラが始まってしまいました。施設の方に来てもらい、母を説得してもらうと電話したところ、「分かりました、一応迎えにいきますが、それまでに決めておいてください」と一言。

アドバイスが何かあるわけでもなく、「えー冷たいなあ」とがっかり。突き放されたような感じがしました。

送迎車到着まで、あと30分。私は母に「きっと楽しいよ、こんなに準備したんだよ」と話しかけても、「でも行かないの」と、一手張り。

もう仕方ないかな。私は台所に行って一旦、母から離れました。母はそんな私を見て、ちょっと心配になったみたい。母からは「私が行かなくなったらどうなるの?」、私は「この時間だったら、キャンセル料全額だね。100%お金返さなきゃいけないな」と返答しました。

お金の返却に母の心が、ピタッときて「もったいない」と思ったのでしょう。「行きます」と決意。

送迎車が到着し、淡々と施設スタッフに連れられて出かけていきました。

感情的になっても仕方ない

――― 大変な出来事でしたね。

橋本
母に行かないと言われた時、自分が心がけたことは、「感情的にならないこと」でした。

「なんで行かないの?」と言いたかったけど、母がSSに行けなくても、私は困らないから、冷静な対応ができました。あえて予定は入れてなかったから。「行かない」と言われた時は、本音言うと、あせりました。

実際に行ったSSを、母はとても気に入って帰ってきました。実は、外国育ちの母でして、英語とドイツ語が堪能です。施設には、フィリピン人のヘルパーの方がいて、日本語が苦手、英語なら話せたそうです。そのヘルパーと話して楽しいとは言わないけど「私があの子を助けなきゃ」と思ったみたい。

記憶力がよかった母だったので、SSやデイで、嫌な思いをするとひきずってしまいがち。なるべく楽しい場所だと盛り立てていました。

「お風呂に入ってくれない」

デイに行ってくれたものの、入浴に抵抗をしめしたという井下さんのお母様の話を聞きます。

井下
母は、当初自宅でシャワー浴ができていたので、週3日デイでは、お風呂なしで元気よく1年くらい利用できていました。

2019年春、転んで腰椎を圧迫骨折し、これがきっかけで自宅でシャワー浴ができなくなりました。多分痛かったのでしょう。1週間入浴できず、介護ベッド導入した際、ケアマネに相談しました。

「デイでお風呂入れてもらいましょう」とケアマネはひと言。しかし、本人は、デイで「お風呂嫌だ」と大騒ぎ。1回目は入らなかった。拒否したので足浴だけやってくれました。2回目はスタッフの方が母をだましだまし、シャワー浴ができて、3回目で湯舟につかることができ、段階を踏みながら清潔な体を保つことができました。

骨折してからの母は自宅で、「イタイイタイ」と発狂し大騒ぎ。1階で暮らす母が、2階の私を「イタイイタイ」と杖で床をたたき、娘を呼ぶんです。たまらなかったな。

デイに行っている時は、「イタイ」と一切言わないそうです。とにかく家にいるときはひどかったです。ケアマネからは、「さすがにSS行かせないと家族がつぶれる」と言われ、2019年6月にSS契約しました。

デイでは「おりこうさん」な母親

――― デイサービスでは違ったお母さまで。

井下
ケアマネとは「あの方は正直に言ったら絶対行かないから『健康診断で通そう』」と事前に打ち合わせ。

「泊まり込みの健診を受けないと、いま通っているデイがいけなくなる」という話で母をケアマネが説得した。

母はその場では、一応納得したけど何度も忘れてしまう。そんな母に、ケアマネは何度も何度も話してくれました。

SS利用初日。当日、デイとSSの送迎車が違うことに気づいた母。当然、迎えに来るスタッフも違う。「だから私はいかない」と母は頑固に言い張りました。私は「いつも行っているデイが来たんだよ」とうそをつきました。

スタッフも自分たちが所属するSS先の名前でなく、母が利用しているデイ先の名前を言ってもらえるように事前に電話で頼んでいました。お迎え前に、連絡をもらい、母に分からないように荷物を渡し、私だとパニックを起こしそうだったので、夫に送り出しを頼みました。

最初は、デイとSSの違いも分かっていた母。今では、すっかりSSとデイの違いも分からなくなっています。違いが分かるころはぎゃーぎゃ-騒がれ、あの頃の介護は大変でした。 母を連れての受診は大変で、父の看取りで来てくれた先生に母の往診を頼んでいます。

父の看取りを家でしたことは役に立っているし、往診を頼めて助かっています。母の状態は今、一番落ち着いています。往診の先生から、メマリーを出してもらったら落ち着きました。覚醒させる薬は母に合わなかったあのひと夏はこちらも精神的に大変でした。

「血がつながっていないから淡々と支えてくれている夫」

夫の支えがなければ在宅介護できなかったと井下さんは言います。

井下
我が家は、基本的に夫がずっと家にいます。夫が主夫であり、子育ても協力してくれ、私が外に出て働いています。

母とのかかわりは夫の方が上手でした。夫のおかげで、自分は母と関わらなく済んでいました。

変に介護でも、夫は母に対して、感情移入をしないので助かっています。嫁の両親と同居しようと言い出したのが夫。

夫は「自分でいいだしたこと、身から出た錆だからしょうがない、嫁の母だろうがなんだろうが面倒を見る」と言ってくれています。 自分は「こんなに嫌いな人とどうして暮らしたんだろう」後悔は今でもしています。

かんしゃくもちの母。あの人から言われると、ささいな言葉でもぐわっと腹がたつ。例えば、朝食を持って行ったとき。母から「今日の私の予定は?」と言われると「私あなたの執事でもなんでもないのに偉そうに」と、イラっと来てしまい、「(もちろん予定はわかっているけど)知らない覚えていない、曜日確認してよ」と、突き放してしまう。

夫が同じように母に言われたら、淡々と「デイだよ」と言って送り出してくれる。ひょっとしたら、私は、母ではなく、他人の介護ならできると怒らなくてできると思ったりします。
高橋
「介護福祉士として働いていた時は、お金をいただいているから、できていました。24時間365日、無給のご家族介護は本当に何と言ったらいいか。大変の一言では済まされないですよね」

「母には触れたくない」

井下さんから、質問が出ました。「私は変かしら? 母に触れられないの」と。お気持ちを聞きます。

井下
母の爪切りが嫌で嫌で嫌。でも誰も切ってくれない。かなり伸びないとデイでは切ってくれないんです。
橋本
そんなことないですよ!デイの連絡帳に書いて依頼して。ケアマネにも連絡してデイにも話してもらったらどう?
井下
そんなことしていいんですね。分厚くなってる母の爪。 母に触れたくない。母の手に触れることが、生理的に受け入れられない。私は爪切りの時は、使い捨てのビニール手袋しているんだけど変かな?
高橋
それは正しいケア方法ですよ。変じゃない。 介護職はみんなそうしています。水虫とかうつる危険もあるし。普通にみんながやっていることです。介護する側、される側の互いの感染を防ぐために、ビニール手袋つけての処置はごく一般的な普通のことです。
井下
それを聞いて、安心しました。じゃあ、母の背中にクリームを塗るときも、素手ではせず、手袋つけてやるのはよかったんだ。

正直、手袋をつけずに、母の手と手を握り合うのは厳しいの。この間、歯医者に連れていく際、よろけた母につかまれて「触らないで」と手を払ってしまったことがありました。

心じゃなくて体が、反射しちゃっています。
高橋
そこだけ聞くと「エー」と思うかもしれない。井下さんとお母様との今までの、歴史とやりとり、葛藤があってそうさせているって今聞いたからおかしいと思いません。お母様との関係性でそうなっているだけで絶対に井下さんは、悪くない。

きっぱり高橋さんに言いきられて、井下さんは表情が明るくなりました。橋本さんも隣で大きくうなずいています。定休日がない在宅介護を担われているのです。

井下
夫は母のこと「しょうがないじゃん、ばばあだよ。病気なんだよ」と言ってくれる。その言葉に救ってもらっています。

橋本さんは、この3年で急激にお母様の認知症が進行して日々お辛い思いをされていました。

橋本
今日の座談会に備えて、自分年表作って話そうとして話して今までの介護を振り返ってみました。自分が大変だったんだと気づかされました。渦中にいた時は、気づけていなかった。 母と父に精神的に強く生んでくれてありがとうと思っています

後半では、激戦の特養入所をなしとげた橋本さんの思い、施設選びの基準などを聞きます。

座談会写真

取材・文:上垣 七七子

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