山本一郎です。あまりにも尿酸値が高く、発作も何度か繰り返していたのでさすがにまずいと思って病院にいったところ「前から分かっていたんだから、早く来てください」と言われてしまったのは私です。
その尿酸値が高いことそのものは一定程度遺伝であり、尿酸値が高い状態のまま放置すると腎臓に負担がかかって機能が徐々に低下していくことになります。その意味では、私も腎臓を悪くして人工透析のお世話になる予備軍の一人であり、他人事ではないぞという気持ちになるわけですが、そんな人工透析を受けている人たちに対して、元アナウンサーの長谷川豊さんが医療費の高騰の原因のひとつとして人工透析を位置づけ、その人工透析を行う患者さんを社会のために殺せと表現する記事を書き、大変な炎上となりました。
長谷川豊の”いつもの炎上”を芸としてどう咀嚼するか|やまもといちろうコラム
しかも折の悪いことに、この長谷川豊さんはどういう経緯か医師団体「医信」の理事まで務めており、おそらくは社会保障の財源問題が喫緊となり重要度が増す中で、医師の間でどのようにして医療費を削り込んでいくべきかの議論を重ねて行ってきたのを長谷川さんが聞きつけ、彼なりに問題提起をしたつもりだったのでしょう。
この高騰化する医療費用と社会保障費の持続性とは極めて密接な関係にあり、私も本連載の6時限目「1ヵ月の治療費300万円!新抗がん剤「オプジーボ」は、がん患者を救う一方で日本の社会保障を破綻の道へ!?」ではすでに問題点を述べています。確かに高額の治療を要する難病指定が、無原則に助成され続けるのだとするならば、問題なしとは言えないということです。
しかしながら、保健医療の現実の問題として、日本においてはその理念において「どのような環境、状況であろうとも、日本人が日本にある限り、然るべき医療を受ける権利を有する」ことは最前提です。そこには日本人としての尊厳があり、そのような難病に至った理由や治療の困難さを含め、保健行政でカバーされる限りは最善の治療を受けることができるからこそ、日本の皆保険制度には高い信頼があり、アメリカ政府もが羨む仕組みができていたのだと言えます。
もちろん、そこには医師や歯科医師、看護師、薬剤師の皆さんほか、医療関係者の献身的な働きと高い技能があってこそ成り立っているものですが、考えるべきベクトルとしてはやはり大きく分けて二つあります。
ひとつは「いまの制度が財源を考えると先行き厳しいから、患者の自己負担率を引き上げたり負担上限額を一部撤廃するなどして、何とか制度全体をもたそう」とするもの。もうひとつは「いまの制度が財源を考えると先行き厳しいから、社会的に罹患が自己責任になり得る高額治療の症例については保険制度から除外して、医療負担を軽減し制度全体をもたそう」とするものです。
長谷川豊さんのケースは文字通り「年間500万円を超える高額負担を公共に強いる人工透析患者は、だらしない生活の果てであるから全体最適のために殺せ」という話ですので、後者になります。暴論以外の何物でもないのですが、一方で、医療制度における「不公平感」という問題は残ります。この不公平こそ、問題の根幹なのではないかと思うのです。
元気に働いている国民にとって、
社会保障は遠いところにあるものなのか…
言わずもがな、健康な人がお勤めをされ、その給与明細から高額の社会保険料が天引きされて、手取りが減ってイラッ☆とすることは多々あるかと思います。それもこれも、自分が健康で働けているからこそ給与明細をもらえるという幸せな立場にいるからなのですが、ただ実際に元気に働いているときほど社会保障のことなど考えないものです。
人によっては社会保障費の天引きは健康保険証があるからだと誤解をすることも多いようで、昔、私が投資をしていた会社では労働争議が持ち上がった際に「会社は社会保険料を天引きしている。それは健康保険証を悪用しているからだ」という珍説を団交相手から真顔で言われて呆然としたものですが、逆に言えば、国民、とりわけ元気に働いている人たちにとって、やはり社会保障はとても遠いところにあるものという認識になりやすいのでしょう。
ちょうど厚生労働省から国民健康保険事業年報・月報が出ていましたし、人工透析学会の資料もこの問題について考えをまとめる良い資料を提示してくれています。ここで名指しされた人工透析、つまりは大多数が何らかの由来による腎臓病において患者数は増え続けて、32万人を超えました。
増加数こそ鈍化傾向にありますが、日本社会全体が高齢化をしていくなかで腎臓病だけが減少に転じるわけもなく、団塊の世代が後期高齢者に差し掛かるまではこの数字が横ばい、あるいは減少に転じる可能性は低いものと予測されます。
病気になりたくてなる人なんていない。
それを考えずして「不健康な人ばかりが
公的扶助の対象になるのは不公平」というのは
本来の社会保障の議論とはほど遠い
一方、人工透析を開始する年代層は順調に上がっていっています。これは、人工透析を開始する理由が「それまでの治療が功を奏しており、人工透析を行わなくても他の療法などで緩和できる余地が増えたから」だとも言えます。
長谷川豊論の最大の問題は、その症状を改善するために必要な費用ではなく、その症状に陥った「理由」にフォーカスが当てられていることです。すなわち、”不健康な生活を続けている人間が腎臓病になる”のであり、そのような”自堕落な連中が病気になるのは自業自得”であるから”そのような病気になった人間は医療保険の対象から外すべき”という話になるわけです。だから、「人工透析患者は殺せ」という長谷川豊さんの主張には病気や治療費ではなく由来に重点が置かれていることが分かります。
先にも述べたように我が国の医療制度は「誰もが一定水準の医療を安価に受けられるようにする」ことが重大な機能ですから、病気になった理由はそもそも関係ありません。また、そのような病気になることが遺伝によるものなのか、生活習慣なのか、あるいは住んだり働いている環境なのかによって、同じ病気でも扱いに差が出るぞということでもあります。
だとするならば、同じ生活習慣を繰り返していても、特定の疾病にならない人となる人との間で、どれだけの不公平が介在するのでしょうか。まともに働いていて、毎晩ラーメン食べても病気をしない人は、むしろ予備軍であるにもかかわらず発症しないので安くない社会保険料を天引きされ続けるので、毎日ラーメンを食べた結果、いま病気をして入院し療養している人が羨ましいという話になるのでしょうか。
おそらくは、病気に罹ること、働けなくなること、介護が必要になることに対する、想像力を欠いているのではないかと思うのです。一言で言ってしまえば、病気になりたくてなる人はいません。老人になりたい人が少ないように。人生の先が見えてきたり病気の苦しさでもがいている人が公的扶助の対象になって不公平だ、というのは、それは単純にその人が現在健康で、困っていないからに他ならないのです。
国民皆保険制度が優れているのは、誰もが医療を受けられるという理念を理念のまま、まるっと実現しているところです。ただし、財政が厳しくなるので、制度は維持しつつ、病気になった人にはもう少し負担を増やさせてもらえないだろうか、というのが本来の議論であって、長谷川豊さんの議論のように「人工透析患者は治療費ドカ食いするから殺せ」という趣旨とは本来は似ても似つかないまったく異なる概念だ、と言えましょう。
「病気をした人を切り捨てる」という社会が
いかに愚かか。私たちは国民皆保険という
素晴らしい制度を存続させなければならない
どうしても話が大きくなり、制度の仕組みを理解しづらいままに「社会保障で私たちは支えあって生きていく」みたいなことがイメージできないところはあるのかもしれませんが、病気や老いについての原理原則や、ある種の死生観がきちんと語られてこなかった弊害について、触れておきたいと思います。
摂理として、私たち人間は生物です。生きるからには、いずれ死んでいきます。どう生きても死んでいくのが運命だとするならば、生きることで求められる使命はその人ならではの生を実現することであろうと思います。生まれつき欠陥がある人も、豊かな才能に恵まれた人も、おのおのの条件や環境で葛藤を抱き、思い悩み、何かを為し、ときとして結婚し、子供を育んでから、人生を全うします。社会を形成し、子供を産まなければ、生物としての人間社会は継続していきません。
一方で、人間は常に不完全なものです。たとえ若者や壮年のころは健康優良児を自認していたとしても、暮らしているうちにどうしてもガタがきます。人が常に健康で、大多数の子供が若いころに死なずに済むようになったのは、人類の歴史でもここ50年ぐらいのものです。ぶっちゃけ抗生物質のお蔭であり、医療の進化の賜物です。本来の意味で、現代は科学の恩恵を社会に行き渡らせることが可能になった時代と言えます。人間が長生きできるようになったので、人間が本来持つ設計図どおりに最後まで生きることができる時代になったのです。
そうなりますと、人間が何の病気もせずに老衰で死んでいく、誰にも迷惑をかけずに、特に理由がないのに眠るように死ぬ老衰はどのくらいいるのか、という話になります。
結論は、結局死亡率(10万人)で見れば、老衰での死因は60.1。つまりは、死ぬとき何の健康上の所見もなく死んでいくことのできる人は、限られた幸運な人だということですよ。また、これは単に亡くなったときに健康だという話であって、それまでに大きな病気をして手術をしたかもしれない、感染病にかかって長期入院したかもしれない、それでも生き延びて天寿を全うした人ということです。
数字を見れば、「病気をするのは自己責任」の部分がないとは言えないものの、だからといって、社会が「病気をした人を切り捨てる」ことの愚かしさは理解できると思います。病気しない人なんていないんだもの。だからこそ、私たちは是が非でも、この国民皆保険制度をどういう形であれしっかりと存続させ、どのような理由でも病気になった人が安心して医療が受けられる仕組みを残していかなければならないのです。
それは、単に金の問題ではなく、「医療に従事する人たちの殺人的な現場をどう緩和できるのか」「医療データの流通が華やかに政策課題で喧伝される中でいかに有効な治療が的確に患者に対して行えるようにするか」といった、もっと幅広い問題が横たわっているわけであります。
次回の本連載では、医療データが広げる(かもしれない)医療・介護の未来なんかを解説したいと思います、よろしくお願い申し上げます。