経済同友会代表幹事で、飲料メーカー大手・サントリーの経営者である新浪剛史さんが、記者会見で「国民皆保険制度ではない予防治療を保険外の民間でやるのはどうか」という趣旨の話をして、一部で炎上していました。

本連載でも、日本の皆保険制度の成り立ちやその意味、意義については繰り返し、指摘しておりますので、ここでは重ねて記述はしません。

新浪さんの真意とは違った切り取られ方をして問題になったとはいえ、皆保険制度の存続に向けての問題点は国民もうすうす気づいている中、財界のそれなりの論客が正面から民間保険に言及したのは、まずまずのインパクトを持って受け止められたのではないかと思います。

地域医療の崩壊は目前!全世代型保障は単なる理想論?

さて、健康保険制度の問題だけで未来を占うならば、その議論の前提は大きく分けて二つ。片方が当然の「高齢化問題」、もう片方が「高額薬価の制度問題」です。

前半の高齢化問題は、医療制度改革と直結する課題として当然に起きる事態であって、長寿世界一の日本で子どもの出生数が減れば社会全体の医療負担が減りゆく現役世代を直撃するのは自明です。

実際、目下取り沙汰され始めた介護報酬改訂の議論が紛糾しているのも、この流れの中にあります。特に、介護業界に携わる人たちが一般的な平均世帯収入よりも報酬が低く設定されていながら、政策的には介護保険の業務全体の見直しまでは政策議論になっても、報酬引き上げにはなお検討が必要な状態で、介護に関わる人たちの生活が成り立たないのでは人手不足に拍車がかかるのも当然です。

大きな意味でこれらの原資となる社会保険料の引き上げが徐々に行われ、実質的な国民負担の増大として現役世代の重税感に直結したことは、国民の間で「これ以上、高齢者のために社会保障にカネを使うべきではない」「出生や子育て、教育、科学技術、新規創業に投資するべき」とシフトしてきました。

安倍政権の選挙スローガンにもなった、我が国の『一億総活躍社会』の実現は、裏を返せば社会の成長には資さない社会保障に対しては「これ以上、政府も社会も無原則な負担増などできませんよ」という話でもあります。

同様に、これまた政策テーマとして取り上げられることになった『全世代型社会保障』もまた「社会保障の受益者は高齢者だけでなく、子どもや教育、失業者、障がい者も大事ですよね」や「なんとなれば、まだ生まれてきていない子どもへの政策も未来の全世代ですよね」という話にもなります。

困っている人に対して、社会がきちんと包摂し救いの手を差し伸べるのが社会保障ですが、その財源はあくまで働いている人が納めている税金や社会保険料という生産による財源があってのことですから、無い袖は振れない、すべての人を救えるわけではない、困っている人にも優先順位をつけざるを得ない、という議論にならざるを得ないのです。

さらに、地域的要因として、地域の人口が減少している場合は特に、基幹病院からかかりつけ医まで地域医療を支えられる医療機関の採算が合わなくなり、今後は救急から専門医療まで国民がどこに住んでいても等しく医療を受けられる権利を実現できる根拠がなくなっていきます。

もちろん、憲法でそれは認められた国民の権利だよと騒いだところで、地方で働きたいという医師の「就業の自由」とは真っ向から対立します。

医師が来てくれず、診療報酬などで採算の合わない病院は潰れるしかないでしょうし、市民病院も儲からない診療科は維持できなくなります。そして、これらは建前とは別に実際に起きてしまっている現実なのです。

すべての、必要とする人たちに対する政策を実現するためのカネが足りないという話は、いままで穏やかに人口減少と経済的衰退をしてきた中、どうにか建前や理想に現実を寄せようと頑張ってきたが、そろそろ限界に達してきていると言えます。

注目の認知症治療薬は年間600万円!? 超高額医療費は国民皆保険制度ではまかなえない?

さらに、第二の論点として、最近は特に「お薬」が届かない事例が挙げられます。特定疾患の治療のために超高額な薬剤がどんどん発表されているため、患者を治すコストがいまの健康保険制度では賄いきれなくなり、高額医療費療養制度での上限額は維持できなくなるのではないか、という話が出てきています。また、先日もジェネリック医薬品を製造する大手が不適切な薬品製造過程があったと告発する事態となりましたが、これも状況としては映し鏡であって「必要な薬品を製造していても儲からないのでマネジメントが行き届かない」ことの証左とも言えます。

今回、診療施設が限られ適用される人はそう多くないと見られるとはいえ、エーザイが国内で販売する認知症治療薬レカネマブの薬価策定は大変な注目を浴びています。

アメリカでは年間約400万円前後の費用がかかるレカネマブでの治療は、諸説ありますが総合的な治療も考えると年間600万円前後になるのではないかと予想されています。

これが保険収載され、高額療養費制度の適用になれば、治療を受けて効果が出る高齢者にとっては福音でしょう。

他方で、これらの高額療養費は皆保険制度の財源を直撃し、この負担額はポンジスキーム式に被保険者である勤労現役世代にのしかかります。

仮に、この薬品に効果があったところで、いますでにまあまあ認知症の症状が出ている高齢者であって、働いて社会の富に貢献しているか微妙なところですから、批判としてどうしても「もう認知症になって、働いたり生産することができなくなり、これから死ぬ人に公費負担で予防目的の高額治療をやるべきか」という話は出てきてしまいます。

いわゆる命の値段に関する議論は、法的・憲法的な決め事とは別に、そもそも世の中の現実が不条理なのだという問題を私たちに突き付けているかのようです。

国民皆保険制度は、若い人がどんどん社会で働いて成長していく中で、相互扶助の仕組みとして健康に暮らしていく理念があります。社会が成長していて、より良い人生を長く送ることができると信じられるからこそ、負担があっても当然保険料は支払うべきだと思う国民が圧倒的に多数だったことで成立してきた制度です。

しかしながら、ある程度社会が豊かになって、寿命も伸びた後で、若い人が減り、いろんな難治の病気の治療に効く薬はどんどん出てきてはいるけど超高額になったぞという話になると、制度の前提が変わってしまい、根本が揺らぐのも当然のことです。いわば、時代が変わり制度疲労が起きて、維持できなくなる前にどう改革するかが問われているのです。

民間保険による国民皆保険の二階建て議論は消極的なアイデアに終わる可能性も

政治の世界では、特に「足りないなら法人税など税金から出せば」という話はもっぱら野党筋から出ますが、そもそも法人税ってのは働いてる現役世代の若い人たちが納めるものなので、ポケットが違うだけです。

そんな中、新浪さんが話したのはそのような疾病に罹らない予防治療の一部を国民の皆保険制度からではなく、自費や民間保険の制度で賄う仕組みはどうかという話ですから、まあ割と各方面に喧嘩売っとるなという感じはすごくします。

いわゆる国民診療の二階建て議論は社会保障の政策分野でかねてより存在し、ただ一階部分の標準治療の質を維持しながら、二階部分の「地獄の沙汰も銭次第」の修羅ワールドをつくるのは流石に医療提供体制の改革を考えるうえでもかなりの激論が予想され、面倒なことになります。

ただ、それをやると国民皆保険制度の実質的な崩壊を意味すると騒いだところで、実態はもう医師も激務で疲弊し働き方改革で献身的に医療制度を支えられる状況でもなくなります。

ですので、単純に「医療を満足に受けられない地域」は出るし、病院に行っても診療を受けられない可能性は格段に上がり、何より都市部、地方のべつなく救急・急性期医療は壊滅するでしょう。

割と大変なことで、ジェネリック医薬品どころか治療や手術に必要な基本的な薬剤が届かなくなるわ、救急車呼んでも受け入れ病院が見当たらなくなるわという状況になりますと、皆保険制度の改革は待ったなしの状態となるでしょう。

だから民間保険で二階建てにしよう、というのはアイデアとして「やむを得ず、検討せざるを得ない」という状況に追い込まれる可能性はあると思いますね、残念ながら。