先日、日経新聞の独自調査に基づくショッキングな記事が、社会保障系の政策担当者の間で話題になっておりました。

単身で暮らす高齢者が都市圏で増加し、全世帯の1割を超えた…という話です。

「都市部が便利だからって年寄り増えすぎ問題」は
終の棲家に対する考え方をリニューアルするかも

確かに起き得る未来ではあったけれども、大都市圏での単身高齢者世帯の1割超えは2022年頃というのが一部予測の見解だったと考えると、想像を超えるペースで単身高齢者が増えていることになります。

日本全体でみれば、2015年度に18%ほど、主に過疎地帯で独居老人が増えていたことが背景にありますが、日経の記事では都市部のほうが独居老人の割合が想定よりも速いペースで増加したと分析されています。

出典:厚生労働省 時点

確かに、足腰の悪い一人暮らしの高齢者は、交通の便の悪い地方に住むよりも、ある程度徒歩圏内ですべてが賄える都市部のほうが、居住に関するクオリティが維持しやすいというのは肌感覚としてはわかります。

しかしながら、最も増えたのは横浜市や名古屋市などで、地図を観ると埼玉中部(浦和など)や木更津、柏などの郊外都市も如実に増えていることがよくわかります。

実際のところ、いままでの独居老人は子どもの独立と配偶者の逝去によって一人になってしまうケースが多かったものが、婚姻率の低下に伴い、2006年頃から「最初から独身の単身世帯がそのまま老人になった」ケースが爆発的に増加しつつあります…。

ヤバイ。

つまりは、都市部の独居老人の割合増加は、もともと高かった独身率(単身世帯)に加えて、生活の利便性を考えて地方から移り住んでくる単身高齢者の増加という側面が大きいのではないか、とみられるわけであります。

この「都市部が便利だからって年寄り増えすぎ問題」は、必ずしも悪いことばかりではなく、地方にバラバラに住む高齢者に対応するサービスが非効率のままであるよりは、ある程度の集住が可能で、徒歩圏内で自分の足で暮らしていけるようなQOLの高い暮らしができるならば、終の棲家に対する新しい考え方も提示できるのではないかとは思います。

出典:厚生労働省 時点

その一方で、都市部に高齢者が増えたことは違う角度からややこしい事態を引き起こします。

「地域で高齢者を支えましょう」というような今の政府の高齢者対策は「政府は気軽に『地域』って言うけど、その『地域』って具体的には誰のことよ?」という問題にかなり早い段階でぶち当たることになります。

もうとっくにぶち当たっているのかもしれませんが、日本においては都市社会の形成段階からすでに、生活のなかでの近隣住民との関係の希薄さは問題になってきました。

まあ、私だって実家のマンションの管理組合に顔を出すことも一苦労ですし、確かに近所のスーパーやマンションの中で会えば挨拶はするけれど、顔は知れども、名前も家族構成も経歴も知らないという「ご近所さん」はたくさんいます。

今の都市部の地域社会なんてそんなもんです。

そういう素性をよく知らないご近所さんに万一のことがあったとして、町内会や管理組合で何かしてやれるのかと言われると、なかなかむつかしいものがあります。

しかしながら、本人の素性も知らない状態にもかかわらず、独居老人が増えて不測の事態となったとき、彼らの生活の不便をどうカバーするのかという議論はされているものの、実際の動きまでは決めきれていないというのが実情です。

「延命治療は不要」という人に対して
心肺蘇生などの救命活動をしないことは許されるのか

この状況で考えなくてはならない最も大きい問題は、医療に関する意志確認がどこまで徹底できるのか、です。

先日、終末期医療に関する意識調査等検討会が提出した報告書が大きな話題になりましたが、救急の現場では、救急搬送された老人に対する救命など、医療行為をどこまで行うべきなのかという深淵な問題が取り沙汰されることが多くなりました。

一口に言えば、高齢者本人や家族が、生前の意志として「延命治療は要りません」と態度を明確にしていた場合、仮に本人の急病などの救急搬送時に心肺蘇生などの救命活動をしないことが許されるのか?という話であります。

もうね、ここまで来ると哲学の領域なんですよ。

何が正解かなんて誰にもわからない。

ただ、救急医療としては法令上、「心肺蘇生等を中止して良い」という規定はありません。

119番され、到着した救急隊員は救急救命処置を行う法的義務を負っているからです。

家族が救急車を呼んでおいて、やっぱお爺ちゃん救急医療要らないから死ぬのはしょうがないよね、と救急隊員の前で言うのは、救急隊員としては許されないということでもあります。

日本臨床救急医学会でも、提言として「まあ、そろそろどうにかしないとヤバいんじゃないの」っていう話はさんざんしています。

非常に重要な提言なのですが、「心肺蘇生等のガイドライン」の現状変更をする場合、あとになって遺族から「適切に心肺蘇生をしなかったので爺ちゃんが死んだじゃないか」と法的リスクを負うことすらもあるわけですから、そう簡単にはいかない、高いハードルが残されているというのが実情です。

急病者における心肺蘇生を望まないという意思表示のことを『DNAR』(Do not Attempt Resuscitation)と呼びますが、生前にDNARを表明し、家族もそれをわかっているとしても、いざ爺ちゃん婆ちゃんが倒れたときに動転した家族が蘇生を求めることもあれば、本人がDNARを表明していたのにうっかり119番してしまい、着いた救急隊員に「蘇生、いいですわ」と言っても救急隊員は法令で救命活動を行うことが義務付けられているので悶着になるわけです。

こりゃまあ大変なことなんですが、医師が発行する指示や本人・家族の意志があったとしても、常識的には倒れた家族が目の前で死んでいくのを見ていて119番しないわけにもいかないというのが実情ではないかと思うわけです。

”地域の責任者”なる人が単身の爺ちゃん婆ちゃんに
「蘇生はどうしますっけ」と聞いて回る時代が来る?

そういう倒れた高齢者のDNARがあり、家族による意志確認が為されていて、現場でかかりつけ医などの蘇生拒否の指示が救急隊員によって確認されることがあるとしても、独居老人となると話は別です。

体調の異変に気づいて119番したあとに気を失い、救急隊員が辿り着いて蘇生してみたら実はDNARだった、という事例はそれなりの件数が報告されています。

出典:内閣府 時点

まあ、本人が具合悪いんですから確認できないのはどうしようもないんですけど、困るのは救急隊員など現場であって、ある程度、画一定期な救命指針やルーチンが必要だよねという話は今後どんどん出てくることでしょう。

そのうち、家族の同意に準ずる形で”地域の責任者”が独居老人の意志を確認して回る、というような手数も発生するかもしれません。

っていうか、地域とは誰なのかいまいちわかりませんが、いわゆる”無縁問題”というのは”現代都市社会の病理”と簡単に片づけられない本当に深淵な問題を投げかけます。

「簡単に死んでいい人なんていない」という理想と「誰もが必ず最期を迎えるものだ」という現実との間に、救命・蘇生をすべきかどうかという人為が挟まるわけですから、おのずから、混乱することが宿命づけられているとも言えます。

場合によっては、年金支給開始年齢になったら一律にNDARの有無について実施を義務付けるなどの動きが出るかもしれませんし、独居老人だけでなく、介護施設でも蘇生意思の有無の確認を一定期間で再点検するよう求められるようになるでしょう。

個人的には、人がどう死ぬべきかまで政治で決めるのもどうなのかと感じつつ、もう牧歌的な死に方が許されない時代になっているのだなあ、という感慨すらも覚えるわけですが、今後どういう議論になるのかは注目してみていきたいと思います。