先日、本庶佑さんがノーベル生理学・医学賞を受賞し、その受賞にあたっては、研究功績に関する知見だけでなく、日本の科学技術の在り方や、研究体制の充実なども併せて訴える、非常に示唆に富むものであったことは、報道でご覧になった方もお感じになったでしょう。
まさに「本来の研究とは、着想から実現まで20年、30年と時間と予算をかけて取り組むべきもの」と喝破された本庶さんの気魄(きはく)がヤバかったわけですが、研究者ではない私どもも「あっ、これは真面目に取り組めるような環境整備をしないといかんな」と襟を正すべき重要な内容ばかりが指摘されていて、さてどうしたものかとじっと手を見る状態なのであります。
本庶さん、根拠ない免疫療法に苦言「金もうけ非人道的」:朝日新聞デジタル
本庶氏の会見、日本の製薬企業に対する懸念にも言及:日経デジタルヘルス
所得税より社会保険料のほうが多くなってませんか?
社会保険料はもはや第二の所得税と言える
この本庶さんの問題意識について、いきなり正面から問われる事態が発生しております。
10月10日に開催された、社会保障審議会の医療保険部会において、
(1)後期高齢者の窓口負担引き上げ
(2)高額医療費のかかる診療についての保険収載
これらをどうするねんという話が持ち上がり、賛成派と反対派が入り乱れて議論が白熱したわけであります。
本庶さんの議論は、まさにこの「後期高齢者に対する医療行為に関わること」そして「健康保険で賄う高額医療費を後期高齢者に施術すること」にフォーカスされます。後期高齢者の「命の値段」に直結する問題であるだけに、単に医療倫理や健康保険政策の課題というだけでなく、各健康保険団体の経営状況や世代間の負担格差といった、かなりのそもそも論にまで踏み込んでいかなければならない、というのが現状なのです。
おりしも、日本の社会保障費などが膨張し国庫負担増が懸念される中で、安倍政権によって来年10月の消費税の増税が予定通り行われることになっています。軽減税率ですったもんだしていますし、また、消費税を引き上げれば景気が冷えることを考えるとそのまま税収が上がるかどうかは議論の余地があるのですが、増税が行われるのだとすれば、国民の負担は相応に上がります。
一方で、サラリーマンなどが天引きされる社会保険料(健康保険料、介護保険料、厚生年金保険料、雇用保険料、労災保険料の合計)は、勤労形態や勤め先によって差はありますが、皆さんかなりの負担額になっているのではないかと思います。
これ、働く現役世代からすれば、自分たちの親以上世代の医療費や介護費を所得税などの税制を介さずに直接負担しているも同然で、社会保険料によって手取りが減ることで自分たちの生活や子供の教育に回せるお金も少なくなって、すでに世代間の不公平感が増してしまっている、というのが現状です。
下手すると所得税よりも社会保険料の天引き額のほうが多かったりしてマジでヤバイ。もはや社会保険料は第二の所得税と言えるような状況となって、勤労・現役世代に重くのしかかっているのが現状です。これ以上、社会保険料が引き上がってしまうのかどうかは、文字通り、社会保障改革によって負担の総額がどうなるかにかかっているわけです。
医療や介護の「地域が支える」ってフレーズ、
その「地域」って誰のこと?
問題となるのは、「後期高齢者の窓口負担割合を引き上げるといっても、医療にかかりたい高齢者が、窓口で払わなければならないお金がないので診察を受けられない状況になるのは是なのか非なのか」という、かなり根源的な部分です。昔は地元の病院に高齢者が集まってきてサロン状態になっていたという逸話も多かったですが、いまや病院にかかれないので地元の薬局で市販の薬を買ってしのぐという諸外国と同じような状況になり始めています。
下の図は後期高齢者世帯の消費支出の内訳ですが、「全世帯の平均」というのがポイントです。実際に有病者になったり、認知症などを発症して親族家庭に負担をかけていたり、息子や娘が介護に駆り出されていたりするコストは入っていませんし、病気になった場合の実質的な支出はこの数字の何倍もかかってしまいます。
国が進めている「かかりつけ医制度」でもたびたび問題になりますが、地域で医療を受け持つやり方を推進していくときにかかりつけ医を地域に配置したとしても、本当に医療費の削減に繋がるのか実のところまだ良くわかっていません。高齢者対策においては、医療であれ介護であれ「地域が支える」と何度も出てくるんですけど、町内会や自治会で現場を見てしまう私などは「その地域って誰のことよ?」とか思ってしまいます。
そして、皮肉なことに、優れた議論で国民に鋭く問題を投げかけた本庶さんがノーベル賞を受賞するに至った、がんの免疫療法である「オプジーボ」は、大変高額な薬品であることが話題になりました。それだけ優秀な薬だから高価で、画期的だからノーベル賞なんですけど、年間治療費3,600万円を超えるとか(いまはそこまでかかりませんが)、話を聞くだけで困惑してしまいます。当然のことながら、これを本当に国民一般の健康保険で賄うべきなのか、という議論が出ます。
反対派は、「オプジーボはハマると本当にがんが完治するみたいだけど、まあぶっちゃけ7割ぐらいの患者には効きません。その高額さを考えると、たとえ治療に有効な場合でも保険から除外するべき」と主張します。
この場合、戦後の日本人の健康を支えてきた国民皆保険制度の崩壊がまた一歩進んでしまうことを意味し、日本人に優れた医療を平等に全員に施せる体制を維持するという理念と建前を突き崩しかねません。
つまり、効くか効かないかいきなりはわからない高額医療を保険では認めない、とした場合、藁にもすがる思いの患者を経済力で峻別することの是非は、再び問題になることでしょう。
後期高齢者に医療費を払い続けて、
日本の保険制度は維持できるのか
もちろんオプジーボに限らず、先例はいろいろあります。例えば、今までもがん患者に対する重粒子線治療など先進医療として認められている部分の費用である約300万円は自己負担です。先進医療自体には、健康保険、高額療養費制度による助成などを一切受けることができません。皆保険制度下の先進医療や高額療養費制度についての考え方は、ある意味でその治療を受ければ助かるかもしれない人の命をどこで線引きするのかという非常に際どい議論を常に巻き起こすことになります。
それでなくとも、今後、後期高齢者の医療負担が増加の一途をたどることを考えると、社会に富を生まない生産者ではない後期高齢者に多額の医療費を払い続けて本当に日本の保険制度は維持できるのかという議論を生んでしまいます。よく高額医療の慢性疾患として槍玉に挙がる人工透析も、技術革新が進んで腹膜透析が一般化すれば社会全体の負担額が一気に下がる可能性を秘めています。そこに至るまでには、多くの患者の治療への苦労を踏まえ、乗り越えてきた過去があります。簡単に「カネがかかるから削減」とか「後期高齢者の負担を増やせ」とは話が進まない理由はここにあるのです。
その代わり、老人が増える以上は医療費もかかり、社会保障費が増大するのは避けられない未来です。その負担を「老人はこれ以上背負えない」とするならば、現役世代が薄く広くさらに負担しなければならなくなります。社会保険料が上がれば実質的な手取りは当然減り、高齢者の医療を支えるために現役世代が苦労をする世代間の不公平は一層募るばかりです。
高額医療の保険収載は、本庶さんの議論を一層重くします。ノーベル賞は嬉しいし、がん特効薬なんてほんと最高なんですけど、もうこれ以上はカネが回らないとなったとき、理想を目指すのか現実を見据えるのか非常に悩みます。低福祉低負担なのか、高福祉高負担なのか、国として、社会としての判断を迫られていると思うんですが、なーんか消費税関連の話題って文句ばっかり言ってて緩いんですよね。大丈夫なんでしょうか。