「ノーリフト」という言葉をご存知だろうか。「介護の仕事に就いたら腰痛は仕方がない」という今までの習慣や意識を見直し、ケアのプロとして「腰痛を予防すること」を実践するためにマネジメントの視点を変える、新しい介護の「考え方」だ。この導入によって、「腰痛」の原因となり得る介助での腰の負担を緩和できる。今回は、日本ノーリフト協会の代表理事・保田淳子さんより、「ノーリフトケア」が日本で普及することの意義について聞いた。
※ノーリフト(R)、ノーリフトケア(R)は日本ノーリフト協会の登録商標です
監修/みんなの介護
【ビジョナリー・保田淳子】
腰痛を予防するために大切なことは
原因を把握して正しい方法で介助すること

「ノーリフト」という考え方では、「腰痛予防」を実践する教育を行います。例えば感染症は、原因を把握して対策を施すことで予防することができます。腰痛も同じです。原因の把握が間違っているから、予防ができていないのです。
リフトなどが導入されていない現状の日本での介護における腰痛の原因は、「重さ」と「姿勢」です。重さとは、「ベッドから車いすの移乗」「トイレ介助」「入浴介助」にかかる負担です。姿勢では、おむつ交換や体位変換などの際に負担がかかります。これらは、腰痛の原因として皆さんが想像する場面と同じではないでしょうか。
体に負担がかかる誤った介助方法で介護者が抱え上げられないほどの重さを支えていることが、腰痛の原因になっているのです。そのため、人力ではなくマシンなどを使って被介護者をベッドから車いすに移動します。その際に大切なのは、「介護者が被介護者の身体機能を理解して機器を選択すること」と「機器を活用する際のコミュニケーション」です。
声かけによって被介護者自身に体を動かしてもらう
一般的な介護では、被介護者に対して「○○○さん、体をこっちに向けてみてください」と声をかけつつ、手を同時に出して介助を行うことが多い。しかしノーリフトケアでは、声をかけて「身体のどこから動き出したのか」に合わせて次の行動を予測、再び声をかける。
介護者のやりすぎや介護者の意思で被介護者を動かすことをやめ、被介護者の動作の瞬間を見逃さない介護を提供する。
こうすることによって、「今、被介護者は自分の体をどこまで動かすことができるのか」ということを、コミュニケーションを取りながら確認できる。
「この方法が、本人の自立度を高めることにつながるのです。これがノーリフトという考え方に惹かれた点です」と保田さんは話す。
自立度を高めることも重要な役割のひとつ
「日本の医療・福祉分野では、『人の為』という大義名分のもと、被介護者を手取り足取りお世話しているケースが多くあります。しかし、それは本当に『被介護者のため』になっているのでしょうか」と、保田さんは問いかける。
介護を行うことが、被介護者の「自立の機会(自分の体をどこまで動かせるかを知る機会)」を奪うことにつながっているかもしれないからだ。
ノーリフトケアを行う最大のメリットは介護者の腰痛予防だが、被介護者の自立度を高めることも重要な役割だ。例えば、被介護者がベッドの上からティッシュケースを床に落としてしまったとする。従来の日本では介護者が親切心で拾ってしまうことが多いが、ノーリフト発祥の地・オーストラリアでは「落ちましたよ、拾えますか」と尋ねる。
声をかけて痛みがないことを確認し、言葉がけによって相手に行動を促すなど、被介護者とコミュニケーションを図りつつ、自立の機会を与えることができる。
留学先で知ったノーリフトという考え方が
介護による腰痛問題を解決する糸口に

ノーリフトという考え方に初めて出会ったのは、約15年前のことです。語学留学先のオーストラリアで、病院や介護施設を見学した際、誰も人力で被介護者を持ち上げようとしないことを知り驚きました。日本で看護師として働いていたときは、被介護者を手で持ち上げることは常識だったからです。
初めて見たときは「まるで荷物のように被介護者を運んでいる」と戸惑いも感じましたが、実践してみるとスムーズに移乗でき、こちらのほうがケアしやすいと感じるように。オーストラリアの介護者たちからも「自らの腰痛予防としてリフトなどの福祉用具を使わないといけない」と教わり、ノーリフトという考え方に惹かれていきました。
腰痛で苦しむ同僚や先輩を日本でたくさん見ていたので、この考え方を持ち帰りたいと思ったことが日本ノーリフト協会を立ち上げたきっかけです。
医療・福祉従事者の7割が腰痛に悩んでいる
2012年に実施された調査によると、医療・福祉従事者約6,000人のうち、なんと約72%以上が腰痛を抱えていることがわかった。腰痛のために退職する人は多く、その経済損失は6,500憶円に上るという。しかし、現場では「仕方ないよね」というあきらめの感情が蔓延しているという。
現状を打破するため、保田さんはノーリフトを広めようと立ち上がった。
「リフトの普及度を上げるのではなく、ノーリフトという考え方を広めて、介護者の働き方を変えたいと思ったんです」

手で持ち上げる行為は被介護者に怪我をさせてしまうことも少なくないが、ノーリフトならその確率は非常に低くなる。そのため、介護者の心理的な負担を軽減することもできる。まさに「目からウロコ」の考え方だと言えるだろう。
「意識の変化」がノーリフトケア普及の追い風に
保田さんが日本ノーリフト協会を立ち上げたのは2009年のこと。翌年には一般社団法人となり、その後10年にわたってノーリフトの普及に努めている。
主な活動は、講演やセミナーの開催だ。現在の普及率について尋ねると「まだまだこれからです」と保田さんは語るが、近年は明るい兆しが見えているという。

「私自身がそうでしたが、リフトで被介護者を持ち上げるのを見て『人間を荷物のように扱っている』と違和感を覚える人は多くいました。だから、ノーリフトを普及させるには、高い壁がありました。しかし、介護業界にロボットが登場してきたことで、リフトなどを使ったケアへの意識が変化したんです」
海外の新たな知見も取り入れつつ
日本でのさらなる普及を目指す

私たちが活動を始めてから約10年が経ちました。ノーリフトという考え方が少しずつ広まってきているという実感はありますが、実際はまだまだこれからです。
これからは医療・福祉業界だけでなく、国や自治体にも働きかけてノーリフトへの注目を集めたいと考えています。
同時にオーストラリアやシンガポールなど海外とのやりとりも強化し、新しい知見を日本に導入していくつもりです。
医療・福祉分野の人や要介護者の人々のために、これからも普及活動を続けていきます。
シンポジウム開催で日本に普及させる意義を実感した
日本ノーリフト協会を立ち上げた2009年に、保田さんは日豪合同のシンポジウムを開いた。開催前は「人が集まるだろうか」と心配だったというが、フタを開けてみると約300人の参加者が集まったという。
保田さんは、多くの人が職業病の腰痛問題を解消したいと考えていることを知り、普及の意義を実感したという。
それから10年以上が過ぎた2020年1月に開催した「ノーリフトケア 2020 国際シンポジウム」には、前回を大きく上回る約600人が参加した。ノーリフトへの関心は着実に高まっている。

「業界の意識が変わってきたのを感じています。コロナ禍で大変な世の中ですが、これからも積極的にノーリフトを広めていきます」と保田さんは話す。
医療機関と連携して在宅での活用を進めていく
青森県や高知県など、ノーリフトの考え方に賛同し、積極的に導入を進める自治体も出てきている。日本ノーリフト協会にとって、病院との連携強化も課題のひとつだ。現在は介護施設での導入が主となっているが、これからは病院で活用してもらうことを目指す。
「特に病院のリハビリや看護とのつながりを深めたいですね。そうすれば、在宅でケアする人々にノーリフトの考え方を知ってもらうきっかけができます。これは、老老介護の解決にも役立つのではないかと考えています」
超高齢社会、老老介護、医療・福祉の人材不足と、ノーリフトは、現代社会が抱える多くの問題を解決へと導く糸口となるかもしれない。
※2020年10月27日取材時点の情報です
撮影:濱西英秋(STUDIO-H)