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亀井善太郎「世代間格差の最大の被害者は若年層でも高齢層でもなく、「これから生まれてくる人たち」です」

最終更新日時 2019/04/04

亀井善太郎「世代間格差の最大の被害者は若年層でも高齢層でもなく、「これから生まれてくる人たち」です」

2006年から衆議院議員を1期務めた亀井善太郎氏は、祖父が参議院議員、父が衆議院議員で元運輸・農水大臣という、政治家一家のサラブレッドとして育つ。しかし本人は「永田町は水が合わない」と早々に下野し、政策立案を専門に研究するシンクタンクの主席研究員に。政治の表舞台から裏舞台へと移った今、選挙のたびに取り沙汰される「世代間格差」や「シルバー民主主義」の問題をどう見ているのか、率直に語っていただいた。

文責/みんなの介護

今の政治で行われているのは、高齢者優遇というより全世代に向けてのバラマキである

みんなの介護 亀井さんは2019年1月19日に掲載された日本経済新聞のインタビューで、ご自身の衆議院議員時代を振り返りつつ、シルバー民主主義と世代間格差について語っておられます。

その中で、「高齢者が自らの世代だけのために投票するという思い込みは、高齢者を馬鹿にしている」と、「シルバー民主主義」という概念そのものを批判していますね。今、巷間を賑わせている「世代間格差」という問題については、どのようにお考えですか。

亀井 「世代間格差」というと、年金受給で高齢者が得をしている一方、若い世代が損をしている、という風に捉えがちです。しかし、世代間格差で最も損害を被っているのは、実は明日以降に生まれる人たち。つまり、これから生まれてくる人たちです。

なぜなら、わが国の社会保障の大半は国の借金でまかなわれ、これを改める制度改革は、先送りが続いているからです。現在の政治で行われているのは、単なる高齢者優遇ではありません。すべての世代へのバラマキです。こんなことをしていては、未来世代へのツケは大きくなるばかりです。

みんなの介護 亀井さんが衆議院議員時代、超党派で年金制度改革に尽力されたのも、将来世代にツケを回したくなかったからだと伺っています。

亀井 そのとおりです。団塊の世代の人たちが年金受給資格を得る2010年代になる前に、何とか年金制度の抜本改革を実現したかった。年金を一度でも受け取ってしまうと、それは「既得権益」になり、手放すのが難しくなる。だから受給が始まる前に何とか手を打ちたかったのですが、残念ながら力が及びませんでした。

今、平成の時代を振り返ってみると、わが国の政治は結局、難しいことには向き合わずに、重大な決断をするタイミングを逸した30年でした。

政治家には、高齢者がひとつの塊に見えているだけ。シルバー民主主義は政治が作り出した幻影に過ぎない

みんなの介護 亀井さんは別の場所で、「シルバー民主主義は政治が自らつくった幻影である」とも発言されていますね。これはどういう意味なのでしょうか。

亀井 「シルバー世代を優遇すれば得票率が増える」なんて、あくまでも政治家サイドの思い込みだ、という意味です。

政治家から見れば、高齢者は確かにひとつの塊(かたまり)として、まとまって見えるんですよね。選挙区を回っても、実際に接触できる人の多くが高齢者だし、後援会の名簿に名前を記入するときも、若い人たちのようにためらいがない。高齢者は地元の集会にも足を運んでくれます。

だから、この「目に見える」人たちの利害さえ優先すれば、自分に投票してくれるはずだと、つい考えてしまうんですね。

しかし、実際に高齢者の人たちと話してみると、「自分たちの世代さえ良ければいい」なんて考えている人はいません。次世代の負担を増やしてはいけない。問題を先送りしてはならない。そう話せば、わかってくれる高齢者ばかりでした。

みんなの介護 政治家はなぜ、「シルバー世代を優遇すれば票になる」と考えてしまうのでしょうか。

亀井 企業のマーケティングと同じで、目に見えている人たちのほうが扱いやすいんですね。それに比べて、若い人たちは会社や地域などのコミュニティに対する忠誠心が薄いし、名簿にも名前を書きたがらない。価値観も多元で多様です。「マス」として見えにくいバラバラの存在ですから、若い世代は政治家にとって扱いにくい存在なのです。

みんなの介護 とはいえ、安倍政権は子育て世代を対象に、2019年10月から幼児保育・教育の無償化を実施し、高等教育無償化についても検討を始めています。若い世代にも、それなりに手厚く対策しているように見えますが。

亀井 先ほど申し上げたように、問題を先送りしたうえでの、全世代に向けてのバラマキですよね。そうやって、これから生まれてくる人、すなわち意思決定に参加できない人たちに、勝手に借金を負わせ続けているのです。

経済学者の中には、「財政破綻しなければ、特に問題はないんじゃないか」なんて言っている人もいますが、とんでもない話ですね。将来世代は、自分たちが使うお金の何割かを、勝手に借金返済に充てられてしまうのですから。お金の使い方の選択肢は確実に狭まります。

『シルバー民主主義の政治経済学』を書かれた島澤諭先生をはじめ複数の学者さんが、こうした社会保障問題の先送りを「財政的児童虐待」と痛烈に批判していますが、それももっともだと思います。

主権が国民にあるからこそ、施しを受けるという意識から脱却して問題は自分たちで解決する努力を

世界中で無党派層が増えているのは世界的に、政党政治離れが進んでいるから

みんなの介護 先ほど、高齢者に比べて、若い世代の人たちは政治家から見えにくい、というお話がありました。若い人たちの動向が見えにくくなっているのはなぜでしょうか。

亀井 それだけ長く、政治不信の状態が続いているのだと思います。もはや国民の多くは、政治に対して多くを期待していない。働き盛りの中高年を含め、政治に「何かしてもらおう」なんて思っても、裏切られるだけだと感じているのでしょう。

極端な話、リスク・マネジメントさえ、しっかりしてもらえればそれで良い、と考えているのではないでしょうか。「せめて財政破綻だけは避けてほしい」とか、「北朝鮮、中国、アメリカ、ロシアとの関係で、波風だけは立てないでほしい」とか。

言い方を変えれば、それだけ無党派層が増えているということです。日本では、無党派層が第一党です。しかし、これは何もわが国だけの問題ではなく、世界的な潮流ですね。例えばアメリカにしても、共和党と民主党の二大政党制といわれていますが、無党派層は拡大しています。欧州も既存政党への支持が下がっています。

みんなの介護 世界的に、政治離れが進んでいる、ということでしょうか。

亀井 政治離れというより、政党政治離れ、ですね。今日の「政党」という連帯の在り方そのものが近代的なもので、時代に追いついていないのかもしれません。

アメリカなどでは、SNSを中心に、政治家や有権者が横方向につながっていく動きもみられますが、わが国ではまだ、そこまでの動きはみられない。政党政治はかなり以前から過渡期を迎えていて、特にわが国では、次の時代の政党のあり方そのものが見えていないんだと思います。

みんなの介護 だから国民は、無党派にならざるを得ないのかもしれませんね。次の時代の政党のあり方とは、どのようなものですか?

亀井 実は、日本国民の多くが勘違いしていることがあります。それは、「行政=行政サービス」だと思っていること。

つまり、行政機関は「施し(サービス)を与える者」であり、国民は行政機関から「施しを受ける者」だと考えている。そうではないんです。行政とは、自分たちのまちをつくる意思決定そのもの。主権はあくまで国民にあるのであって、まちづくりは国民の意思で行うもの。行政機関はそれを代行する組織に過ぎません。国も同じです。

政治や行政に期待しすぎるから、裏切られる。裏切られるから、政治不信になる。そうやって他人任せにするのではなく、私たち国民は、自分たちの問題は自分たちで解決するのだという、もっと強い意思を持たねばなりません。政党は、そういう中で、主権者にとっての意志決定の触媒になる、そして主権者の代理人としての機能をより強くしていかねばなりません。

高齢者・障害者・子どもを1ヵ所に集めれば、お互いに助け合うことができる

みんなの介護 私たち国民は確かに、行政を「お上から一方的に受け取るもの」と解釈しがちですね。とはいえ、自分たちの問題を自分たちで解決するというのは、結構難しい気がしますが…。

亀井 もちろん、簡単なことではありません。しかし、不可能というわけでもない。

私は現在、立教大学大学院の21世紀社会デザイン研究科というところで、社会人大学院生たちを指導しています。研究テーマは、政策プロセス、社会保障、地方自治、NPO・NGOなどです。

そんなウチの大学院生の一人にNPO法人を立ち上げ、板橋区で「地域リビング」という試みに取り組んでいる方がいます。これはアメリカの社会学者レイ・オルデンバーグが提唱するところの「サードプレイス」、すなわち、自宅でも職場でもない第3の居場所ですね。常設型の、地域で共有する常設のリビングです。そこでは、一緒にご飯を食べたり、宿題をやったり、みんなでいろんな話をしたりと、誰かと関わり合う、交じり合う時間を過ごすことができます。

このリビングに集まってくるのは、地域の高齢者、末期がんの患者、障がい者、日中保護者が働きに出ている子どもたち、など、いろんな人たちです。従来の社会保障制度の「行政サービス」で言えば、いずれも「受益者」と呼ばれる、サービスを受ける人たちです。

ところが、そんな人たち同士がひとつの空間に集まると、それぞれができることをして、お互いに助け合うようになります。食事をつくる、配膳の手伝いをする、宿題を見てあげる、話し相手になる、移動のお世話をする…。誰もが、誰かの役に立つことができるんです。その関係性は、「サービスを提供する/受ける」といった、決して一方的なものではありません。双方向のものなのです。

お互いに何かしてあげることで、お互いがより良い状態をキープできるし、場合によれば、改善することも可能です。これこそが、近年話題になっている「コレクティブ・インパクト」のひとつのかたちでしょう。

みんなの介護 コレクティブ・インパクトとは何でしょうか。

亀井 コレクティブ・インパクト、直訳すれば「集合的効果」ですね。ある社会課題を解決するために、立場の異なる者同士が連携してアプローチすること、と捉えれば良いでしょう。

ポイントは、異なる立場の人々が集うのですが、それぞれの抱える課題がお互いに見えること。

例えば、下半身に障がいがあって動きにくそうにしている人を見れば、「この人は自力では動きにくい」と子どもでもわかるので、椅子を近くまで持っていくことができます。あるいは、ひとりでさみしそうにしている子どもを見れば、お年寄りは、一緒に本を読もうと声をかけます。もちろん、この場合、障がいを伴う方、子どもが、一義的な受益者ですが、彼らをサポートした子どももお年寄りも、実は受益者なのです。

障がい者や高齢者の世話は介護スタッフに任せる。あるいは、子どもの世話は保育スタッフに任せる。そんな風に役割を決めつける必要など、どこにもありません。障がい者や高齢者だって子どもの世話はできるし、子どもでも、障がい者や高齢者に対してできることはある。

そして、自分に「できること」を誰かにしてあげれば、その人は大きなやりがいを感じることができます。それこそがお互いに受益者となるということなのです。

この「地域リビング」は社会の縮図ですね。今は、制度が、人と人の関係を分断させ、お互いを見えなくさせています。お互いが見えることでできることは確実に増えるのです。人が人間として生きていく、人と人の間で生きていく社会とは、本来、こういうものだったのではないでしょうか。

地域包括ケアシステムの自助・互助・公助は私には、単なる言葉遊びに思えてしまう

みんなの介護 2018年度の介護保険関連法の改正では、地域包括ケアシステムのいっそうの強化が打ち出されました。地方自治やNPO研究がご専門の亀井さんの目に、厚労省が推進している地域包括ケアシステムはどのように映っているのでしょうか。

亀井 介護に関する厚労省や自治体の方たちの発言を聞いていると、どうしても“手触り感”が感じられないんですよね。どこか絵空事というか、机上の空論というか、現実味や切実さが感じられない。

なぜそうなるかというと、彼らは介護をあくまでも「行政サービス」と捉えているから。平たく言うと、行政側から一方的に「サービスを施してあげる」イメージですね。

「介護保険の利用できるメニューには、これとそれとあれがあります。どうぞご利用ください」という感じ。介護現場で現実に困っている人に対して、寄り添う姿勢がまるで感じられない。むしろ、介護の本質からどんどん離れていってしまう気がします。

みんなの介護 地域包括ケアシステムでは、一応「自助・互助・公助」が重要だと謳われていますが。

亀井 それも私からすれば、ただの言葉遊びのように感じますね。「自費で受けるサービス」を「自助」、「介護保険料でまかなわれるサービス」を「互助」、「税金で補填するサービス」を「公助」と言い換えているようにしか見えません。彼らにとっては、自助も互助も公助も、結局はサービスの売り買いにしか過ぎないのではないでしょうか。

みんなの介護 どうしてそうなってしまうのでしょうか。

亀井 役所の人たちは、要介護になった人たちを「一方的にサービスを受ける人=施しの対象」としか見ていないからです。

しかし、先ほどの「居場所」の例を見てもわかるとおり、人が生きている限り、何かを一方的に受け続けるだけ、なんてありえません。歳をとって、身体に不自由なことが出てきたとしても、子どもと遊ぶことはできるし、それこそ、一緒にこたつに入っているだけで、同じ空間にいるだけで、子どもに安心感を与えることもできます。「要介護状態だから何もできない」というのは、人が生きることからかけ離れた話です。

行政の人たちにはぜひ、歳をとっても生きることは同じであり、「与える・与えられる」どちらも当たり前にあるという、人と人の双方向性について、もっと真剣に考えてほしいと思います。

お年寄りの語るライフストーリーは、介護スタッフにとっての人生勉強になる

みんなの介護 一方的に与えるだけの介護ではなく、高齢者の方に「何かしてもらう」介護があっても良い、ということですね。

亀井 そうです。私の親しい介護事業者の話になるのですが、「お年寄りにライフストーリーを語ってもらう」というアクティビティを定期的に実施しています。そのお年寄りがいままでにどんな人生を過ごしてきたのか、介護スタッフが腰をすえてじっくり話を聞く、という企画です。すると、お年寄りの皆さんは、それまでの自分の人生を嬉しそうに、本当にいきいきと語ってくれるとか。

そのイベントが有意義なのは、ライフストーリーを語るお年寄り自身が元気になるだけでなく、話を聞くスタッフの側にとっても、とても良い人生勉強になるのです。話をしてくれるおじいちゃん、おばあちゃんは、楽しかったことだけでなく、悲しかったことや苦しかったことも「そのときはつらかったんだけどね」と、穏やかに話してくれる。どんなに悲しかったことも、「自分のかけがえのない過去」として、プラスに転換して語ってしまえるのです。

私の知人がしみじみ言っていました。それこそが「人」の持っている「生きる力」なのだ、と。どんな困難に突き当たっても、人はそれを乗り越えて、それでも生き続けます。そして、いつかは、そんなこともあったねと、昔話として穏やかに語ることができる日が来る。そんなたくましい「生きる力」を、お年寄り一人ひとりが持っていることに、改めて感動するのだそうです。

みんなの介護 素敵なお話ですね。

亀井 良い話ですよね。どんな人でも、語るに足るライフストーリーを持っているんです。その話を聞けば、尊厳ある対象としてお年寄りと自然に向き合えるはず。それこそが「凡人の力」、すなわち、平凡であることの力だと思います。

しかし、残念ながら、今の施設で働くスタッフの多くは、お年寄りの話にじっくり耳を傾ける余裕などありません。時間的な余裕もなければ、おそらく、精神的な余裕もないはずです。

みんなの介護 そうですね。介護の現場は慢性的な人手不足ですから、一人のお年寄りに割ける時間はそれほど長くないかもしれません。

亀井 私から見ると、介護サービスが少し過剰なんじゃないかと思います。あれをして、これをして、とメニューがあまりにも細かく決まっているから、介護スタッフの人は、それをこなすだけで精一杯になってしまう。また、サービスがそれだけ細かいと、単位を計算するのも大変ですから、その分余計に事務費用もかかっているのかもしれません。

細かく設定された介護報酬が介護という崇高な行為からヒューマニティーを失わせている

介護報酬の細かすぎる課金制度が、お年寄りとスタッフの関係を阻害しているかもしれない

みんなの介護 先ほども少し触れましたが、今、介護施設の多くは恒常的な人手不足に陥っていて、スタッフたちは皆、疲弊しています。その結果、介護の仕事を離れてしまう人も少なくありません。介護現場の労働環境を改善するために、どんなことが必要だとお考えでしょうか。

亀井 介護は本来、人生の最期に関わる崇高で誇るべき仕事だと思います。これまで私たちの社会を支え続けてくれた人生の先輩が、歳をとって心身が弱り、日々の暮らしにも困っている。そんな人生の先輩にそっと寄り添い、生きるお手伝いをする。そして、人間が人間らしく尊厳を持って最期を迎えるための、大切なお手伝いをする仕事ですから。

しかし、現実に介護の現場で働いている人たちを見ると、残念ながら、「自分は誇り高い仕事に就いている」という自覚が感じられることは決して多くはありません。

どうしてなんだろう、と考えました。すると、やはりどうしても「サービスの過剰」という考えに行き着いてしまうのです。

みんなの介護 本来は必要とされていない、過剰な介護サービスまで行われている、ということでしょうか。

亀井 その可能性もある、ということですね。見方を変えれば、介護報酬の単位を細かく設定しすぎている、ということなのかもしれません。

みんなの介護 どういうことでしょうか。

亀井 介護とは本来、お年寄りが最期まで尊厳ある存在として生きるための、お手伝いをする仕事です。介護する側も、介護される側も、ひとりの生身の人間であり、ある人がある人のお世話をする場合、両者の関係は信頼・尊敬・愛情・友情などの温かい感情で結ばれるはずです。

ところが、そこに介護報酬の細かい計算が入ってくると、両者の関係は途端に世知辛いものになります。○○を1回やったら○○円、□□を1時間行ったら□□円。

そうやって、介護報酬を忙しく計算しなければならないとすれば、そこに温かい感情が芽生える余裕はありません。お世話するときのひとつひとつの行為を、「サービス」として料金換算するうちに、介護する側はいつしか、「この人のためにやってあげていること」が「○○円稼ぐためにやっていること」に置き換わってしまうおそれがあります。

「人が人のお世話をする」という崇高な行為を、なぜ逐一マネタイズしなければならないのか。介護報酬における現在の細かな課金制度が、人と人との関係を阻害するものに思えて仕方ありません。

DPCの成功例もあるのだから、今こそ介護報酬制度の見直しを

みんなの介護 そういう面も確かにありそうですね。では、どうすればいいのでしょうか。

亀井 ひとつの考え方として、もう少し介護事業者さんの自由裁量に任せてしまう、という手もあると思います。介護報酬をひとつひとつのサービスの積み重ねで細かく計算するのではなく、もっと包括的に支払う仕組みに変えるとか。

実は先例があります。わが国の医療報酬と介護報酬はこれまでずっと出来高制でやってきましたが、2003年から急性期病院に限り、DPC(診療群分類別包括評価)という包括的な評価制度が導入されました。診療報酬の一部が固定費になったんですね。その結果、入院患者の退院時期が早まり、より速やかにリハビリに移行できるため、患者さんのQOLが高まりました。

このようにプラスの効果があるのですから、介護報酬においても、もっと包括的な評価を導入すべきではないでしょうか。そうすれば、介護事業者は1ヵ月の、1週間の、1日のスケジュールを、より柔軟に組み立てることができるようになります。先ほどの「ライフストーリー」の例のように、お年寄りの話をじっくり聞いてあげる機会も容易につくれるかもしれません。そしてなにより、介護スタッフとお年寄りの関係がもっと人間らしく、ゆったり、のびのびとしたもの変わっていくと思われます。

みんなの介護 本来、人と人との関係は、お金には換えられないものですからね。

亀井 もちろん、ビジネスだからお金に換算せざるを得ないという側面もあります。また、介護報酬が今日のように細かく設定されるようになったのには、事業者さんの不正請求を防止するため、という狙いもあったのでしょう。その結果、不正請求は確かに減ったかもしれません。

しかし、それにより失ったもののほうが大きいのではないでしょうか。人が人のお世話をする行為を、あまりに細かくマネタイズしてしまった結果、おかしな袋小路に迷い込んでしまった気がしてなりません。出来高制が、介護という崇高な行為からヒューマニティーを失わせているのです。

制度は変更されるためにあるのですから、このあたりで一度、介護報酬制度を抜本的に見直してみてはどうかと思います。厚労省をはじめ、関係各位の決断を切に望みます。

既にいくつかの地方自治体でも、コレクティブ・インパクトが起きている

みんなの介護 前半では「行政=行政サービス」ではないというお話を伺いました。では、これからの行政はどうあるべきでしょうか。特に地方行政について、ご意見をいただければと思います。

亀井 先日、北海道ニセコ町の片山健也町長とお話しする機会がありました。片山町長によれば、地方自治体の首長のもっとも大切な仕事は、地域の困りごとを地域全体で共有することにあるとおっしゃっていました。まさにそのとおりだと思います。

いま、その地域で起きている課題や困りごとをみんなで発見し、共有することできれば、「そういう問題なら、ウチが解決策を提供できます」という企業や個人が必ず現れるのです。特に、困りごとを行政の内部だけで解決しようとしないことが重要ですね。

みんなの介護 なぜ、困りごとを行政内部で解決しようとしてはいけないのでしょうか?

亀井 問題解決能力は、一般的にいって、企業や個人など市民の方たちのほうがはるかに高いからです。

最初の政治不信の話ともつながってくるのですが、21世紀の現代において、社会に対する影響力は「政治」より「企業」のほうが明らかに大きくなっています。

組織力ばかりではなく、技術力を有し、また、国境を越えて活動することができる企業の社会に対する影響力はますます大きくなっています。政府部門には財政の制約もあり、また、多様なニーズに応えることも不得手ですからね。

みんなの介護 行政が独力で何とかしようとするより、企業と課題を共有したうえで、企業の力を借りたほうが課題は解決しやすいということですね。

亀井 そうです。企業の社会における存在意義は、社会課題の解決そのものです。CSR(corporate social responsibility)、すなわち企業の社会的責任は今まで以上に大きくなっていると言えます。

ひとつの実例をお話ししましょう。愛知県中部、名古屋市の東隣に位置する人口約7万人の豊明市では、高齢者のモビリティー(移動手段)がひとつの課題になっていました。市でコミュニティバスを運行しているものの、市内すべてのエリアはカバーできず、運転免許を持っていない人、持っていても自主返納した人は、買い物や病院に出かけるのが大変だったのです。

あるとき、豊明市役所の職員が偶然、市内で温泉施設の送迎バスを目撃します。それは、名古屋市緑区にある天然温泉「みどり楽の湯」の無料送迎バスでした。以前から市内を平日の1日3回、巡回していたのですが、市民にはほとんど認知されておらず、利用客も少なかったようです。

「市内を無料で走っているバスがあるのにもったいない」と気づいた職員は、温泉施設の運営会社に早速相談を持ちかけます。すると運営会社も、自社のメリットになるならと、市との連携を快諾。住民用チラシや販促用割引きチケットを共同で製作することになり、会社側は運行ルートの変更やバスへの手すり設置を約束。市側はイベントごとにチラシを配布し、温泉とバスの周知徹底に努めました。それが2015年のことです。

みんなの介護 それで、結果はどうなりましたか?

亀井 送迎バス利用者数は1年後には2倍に、2年後には3倍に増え、温泉施設の店長さんは会社から表彰されました。高齢者の利用料金が割引になるシルバーデイには、600?700人が訪れる日もあるとか。

高齢者には温泉好きが多いし、たとえ温泉好きでなくても、知り合いに誘われて常連になるパターンも多いみたいですね。豊明市側からしても、移動難民だった人に移動手段を提供できたし、外出機会を増やすことで高齢者の健康寿命延伸も期待できる。お互いの強みを活かすことでwin-winの関係を築くことができました。

これぞまさにCSRの成功例であり、コレクティブ・インパクトの実践例でもあると思います。

「企業は社会の公器」。この松下幸之助の言葉にCSRの思想が結実している

みんなの介護 亀井さんはCSR(企業の社会的責任)研究の第一人者でもあります。読者の皆さんに、CSRについてわかりやすくレクチャーしていただけますか?

亀井 わかりました。簡潔に言えば、「企業は本来、営利目的で経済活動を行う組織体ではあるものの、人々とともに社会に存在している以上、何らかの形で社会に貢献する、社会課題の解決を担う責任がある」ということです。

「企業は社会の公器である」。これは現パナソニックの創業者の松下幸之助さんの言葉ですが、CSRの思想をより端的に表していると思います。

公器とは「特定の人や機関に奉仕するのではなく、広く公共の役に立つもの」。パナソニックが創業された1918(大正7)年当時、多くの企業経営者は、「企業を経営すること」を「社会に参加する手段」と捉えていたようです。

もちろん、松下さんも例外ではありません。そして、企業に必要な人材・土地・資源といったものは、いわば社会からの借りもの、預かりものなのだから、それらを使って企業が利益を上げる以上、企業にはそれなりに社会的責任があり、借りたものを社会に還元していく使命があると考えました。

土地や資源を使った分は税金として返す、預かった人材はきちんと育てて返す、そういう考え方です。

そういった思想が、「企業は社会の公器」という言葉に結実しています。松下さんがこの発言をしたのは戦前であり、CSRについてかなり先進的に捉えていたことがわかります。

みんなの介護 CSRと聞くと、一般的には、企業として町の清掃活動に参加するとか、地域のお祭りに模擬店を出店するとか、といったイメージですが。

亀井 そうですね。皆さんどちらかといえば、町の清掃とかイベントの模擬店とか、本業以外の特別なアクションをイメージしがちですね。あるいは、社会に迷惑をかけないよう、コンプライアンス(法令遵守)を徹底する、とか。

しかし、本来のCSRは、そういった表面的、副次的な活動のことではありません。その企業ならではの組織力や技術力を活用して、その時点で明らかになっている社会課題を解決に導くこと。これが本来のCSRです。

しかし、CSR=社会貢献と考える企業も多いので、最近では、僕は「CSR経営」と唱えるようにしています。そうなれば、社会の公器とつながってきます。

たとえば、その企業がメーカーであれば、社会課題を解決するために新製品を開発する企業活動そのものはCSR経営となりますよね。

みんなの介護 CSRは企業の副業ではなく、本業にも深くかかわっているんですね。

亀井 そもそも、会社の中にある仕事を、本業、非本業と分けることができるのでしょうか。いずれも会社そのものにとっては必要なことのはずです。むしろ、社会貢献を本業から離れて考えることこそ、無理があるのかもしれません。

一人ひとりの社員が企業が最初に接する「社会」。そこからCSRとして何をすべきかが見えてくる

CSRを果たすために何をするか。社員へのヒヤリングで、まず社会課題を発見する

みんなの介護 近年、わが国の産業界でも、CSRの重要性が広く認知されるようになってきました。企業はこれから、CSRをどのように進めていけば良いのでしょうか。

亀井 CSRは慈善活動などの、一時のアクションではありません。企業経営そのものです。すなわち、企業のリソースである組織力・技術力・マンパワーなどを活用して、今起きている社会課題を解決に導くこと。これが本来的なCSRです。したがって、CSRは「今起きている社会課題は何か?」を発見することから始めるべきでしょう。

とはいえ、これがなかなか難しい。なぜなら、多くの人々が孤立している今、誰が何に困っているのか、きわめて見えにくい時代になっていますから。

人間は、何かで困っている人を見かけたら、放ってはおけない生き物だと思います。「人」の「間」と書いて人間と読むように、人間は本来、共同作業することを前提にできているのかもしれません。

しかし今、誰がどこで何に困っているのかがわからない。わからない以上、手を出しようがありません。また、実際に何かに困っている当事者も、変な自己責任論が横行しているせいもあって、自分から「困っています」とは言い出しにくい状況になっています。

みんなの介護 社会の課題が見えないとき、企業はどうすれば良いのでしょうか。

亀井 CSRの進め方については、企業経営者の方からもよく相談されます。そんなときは、「まず、社員の人たちの声を聞いてみてください」とアドバイスしていますね。なぜなら、企業が最初に接する「社会」が、一人ひとりの社員だからなんです。

ただし、質問の仕方には気をつけなければなりません。「キミの考える社会課題は何か?」なんて紋切り型に切り出しても、とってつけたような答えが返ってくるだけです。

むしろ、「今、あなたが一番困っていることは何でしょう?」などと、ざっくばらんに聞いてみることです。それでも話が出にくいようなら、「いやあ、ウチも老老介護でいろいろ大変でさあ」とか、「ウチの親戚の子が引きこもりでね」など、身の回りの困りごとを自分から話してみるのも良いかもしれません。社会の困りごとは自分自身の困り事なんです。

そうやって、まず社員一人ひとりの困りごとに気づくことから、CSRとして何をすべきかが見えてくると思います。

CSRは企業のリスクを軽減し、新たなビジネスチャンスを生み出す鍵となる

みんなの介護 社員一人ひとりの困りごとが見えてくれば、会社としてもできることはありますよね。

亀井 もちろん、あります。このインタビューだから言うわけではありませんが、働き盛りの社員の困りごとの多くは、やはり親の介護に関連した問題なんですよね。親が病気になった。ケガをした。要介護になった。あるいは、通販でいろいろなものを買い過ぎるようになったんだけど、もしかすると認知症の兆候が出始めているんじゃないか、とか。

そういった問題は、その社員にとってみれば、もちろん個人的な問題です。しかし、俯瞰して考えてみれば、それは時代的にも、社会構造的にも、誰にでも起こり得る問題ですよね。今、個人に起きていることは、その社会全体で起きていることだと考えて良い。

みんなの介護 そうだとすれば、企業は何をすればいいのでしょうか。

亀井 親の介護で困っている社員に対して、企業がただちにできることといえば、まずその社員の働き方を、介護と両立できるように変更することでしょう。時短が良いのか、テレワークが良いのか、それは本人や職場と相談して決めれば良い。

相談の結果、その社員は週に何日か15時で退社することになったとしましょう。すると今度は引き継ぎの問題が出てきます。誰がどのように仕事を引き継ぐのか、15時以降に顧客から連絡が入ることも想定して、共有メールのアドレスを作るなどの対応も求められます。

このようにして、誰かが時短勤務になったときの体制を確立しておけば、次に誰かが時短勤務になったときも、新体制にスムーズに移行できる。結果的に、企業の組織力は強化されます。実はこれこそが、CSRを実践することの本当の意味だといえます。

大切なことは、自分にも起きることかもしれないと、職場のメンバーが認識して、みんなで協力体制を築けるようにしていくことです。

みんなの介護 CSR経営を実行することが、企業にとって大きなプラスになるのですね。

亀井 もちろんです。逆の例で考えてみましょう。ここに、親の介護が必要になった社員がいたとして、もし、その人に合わせた働き方を提案できなければ、その社員は結局、会社を辞めざるを得ません。これは企業にとって大きな損失です。

なぜなら今の時代、「人」こそが企業の競争力の源泉なのです。かつて、工場や機械などの設備が重視される時代もありましたが、いまは何より付加価値が求められる時代であり、付加価値は人によってしか生まれません。

即ち、社員が介護を理由に離職してしまえば、企業は貴重な競争力の源泉を失うことになります。しかも、早い時点で何らかの対策を取らなければ、こうした介護離職者はその後も増え続けるでしょう。

みんなの介護 そうやって離職率が高まっていけば、その会社はブラック企業と見なされるおそれもありますね。

亀井 一方、「親の介護」という社員の困りごとに正面から向き合い、CSRとして勤務体系の整備などを行った企業は、貴重な人材を失うリスクを軽減させることができます。

それだけではありません。その企業の業種によっては、自分たちが工夫した「親の介護」問題の解決策を社会に提案できるかもしれません。高齢者の新たな見守りシステムを開発するとか、安否確認用グッズを開発するとか。そうなれば、CSRは単に企業のリスクを軽減するだけでなく、新たなビジネスチャンスにもつながります。

みんなの介護 だからこそ、CSRは経営そのもの、というわけですね。良くわかりました。とはいえ、個人的な悩みを社会の課題として訴えることは、勇気がいることではないでしょうか。

亀井 そうですね、ですが世の中も少しずつ変化してきています。「保育園落ちた日本死ね」や「#Me Too」運動がその象徴で、SNSなどの発達により、どんどんフラットな社会になってきているのです。

そのような時代においては、リーダーのあり方そのものが変化してくるでしょうね。冬季スポーツの「パシュート」のように、交代でリーダーを担う、というような。フラットな社会の経営者にはリーダーシップだけではなくフォロワーシップが求められているのです。

撮影:公家勇人

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森田豊
医師・医療ジャーナリスト
2022/11/07