いいね!を押すと最新の介護ニュースを毎日お届け

施設数No.1老人ホーム検索サイト

入居相談センター(無料)9:00〜19:00年中無休
0120-370-915

堀内勉「人間に寄り添って考えない限りシステムが変わっても人間疎外は避けられない」

最終更新日時 2021/08/16

堀内勉「人間に寄り添って考えない限りシステムが変わっても人間疎外は避けられない」

コロナ禍の中にあって、資本主義が生み出す経済格差に改めて心を痛めた人は多い。折しも、SDGsの推進によって持続可能な社会を目指すことを一人ひとりが意識し始めた時期でもある。俯瞰して見ると、日本の資本主義経済はどのような状況にあるのか。そして、資本主義が生み出す弊害を解決する道はあるのか。日本興業銀行で長年勤務したあと、ゴールドマン・サックス証券勤務、森ビル取締役専務執行役員CFOを経て、現在、多摩大学社会的投資研究所教授・副所長やボルテックス100年企業戦略研究所所長などを務める堀内勉氏にお話を伺った。

文責/みんなの介護

興銀時代に抱いた「金融は世の中の役に立っているのか」という疑問

みんなの介護 堀内さんは、金融危機の中でさまざまな経験をされ、「自分のこれまでの生き方や日本の金融のあり方、公権力としての検察のあり方に対して疑問を持った」とご著書に書かれていました。当時の日本の金融のあり方にどのような疑問を持ったのでしょうか?

堀内 要は「金融は世の中の役に立っているのだろうか?」という、シンプルで根源的な疑問を持ったということです。私は1984年に、日本興業銀行に入行しました。通称「興銀」は、「業を興す銀行」と書きます。日本の産業界に長期の資金を提供するということで始まった国策銀行です。ですから、当然、創業時には、重要な役割を担っていました。

もともと就職するとき、漠然と「世の中の役に立ちたい」と思っていました。そして、役人になるか法曹界に行くかなどいろいろと考えた結果、興銀に入りました。そして、入社後は興銀で働いていること自体が、社会に貢献しているのだと勝手に思い込んでいたのです。しかし、バブル崩壊以降さまざまな問題がどんどん出てきて、銀行で働いていることが必ずしも社会貢献につながっているわけではないことに気づきました。そして、「そもそもなんで自分は銀行員になったんだっけ?」という根本的な疑問がふつふつと湧いてきたのです。

戦後、資本蓄積が不足していた日本企業に対して、興銀を始めとする長期信用銀行は、擬似資本的な長期安定資金を提供してきました。しかし、経済が成熟していく中で、新たな存在意義を見つける必要があったにもかかわらず、それができなかったのです。

企業というのは、時間が経つと存続すること自体が目的になってしまいます。そしてその企業が世の中にとって存在意義があるかどうかと関係なく、自分たちが生き残るためだけに事業を継続していくという傾向があります。

先頭に立っていると勘違いしている日本の資本主義

みんなの介護 現代の日本の資本主義に対しては、どのように感じていますか?

堀内 日本の資本主義は、残念ながら世界の中ではやはり周回遅れです。資本主義のルールや作法については、アメリカが最先端を走っています。それに反発するものとして、ヨーロッパ大陸型の社会主義的な資本主義などがあるわけですが。

日本は、アメリカ型の資本主義を追い求めてここまで来ています。そのような視点から見れば、非常に遅れていると言えるわけです。資本市場も十分にワークしていないし、企業の経営力も弱い。そのため、先進国中で最後尾にいて、「アメリカ型の新自由主義的な資本主義はおかしいよ」と言っているわけです。これに対して、アメリカでは、特に2008年のリーマンショック以降、修正資本主義のような話になり、最近はステークホルダー資本主義などの議論も出てきています。

これは日本の近江商人が掲げた「三方よし」に似ているのではないかという意見もあります。企業を取り巻くステークホルダーにはいろいろな人がいるので、その人たちのことを考えましょうというのがステークホルダー資本主義です。近江商人の「三方よし」は、自分だけではなく、取引先や社会も考えましょうということです。それで、「世界が日本に近づいてきたんじゃないか」と考えてしまうわけです。

しかし、実状を見ると、日本は資本主義であるにもかかわらず、それが十分に機能していません。なんといっても、「儲ける力」が極端に弱いのです。かといって、資本主義とは違った代替システムを提示しているわけでもありません。アメリカ的な資本主義は問題が大きいので、別のシステムを日本的にアレンジして、世界に発信していこうと言うのなら、まだ良いのです。何も考えがないのに、「三方よし」と「ステークホルダー資本主義」が似ているからといって、何となく先頭に立っているような気になっているのが、日本の資本主義の現状だと思います。

実業家だった渋沢栄一や経済学者の宇沢弘文のように物を突き詰めて考えていた人たちは、日本から世界に発信していける思想を持っていたと思います。例えば、渋沢栄一は、お金儲けは良いことであり、「しっかりお金儲けをしましょう」と言っているわけです。しかし、ただ儲けるだけではなく、「論語と算盤」という考え方を提示して、論語(倫理)をわきまえたお金の儲け方があるはずだと言っています。

宇沢弘文は「社会的共通資本」といって、社会の中には資本主義の市場のルールに則らない部分があるべきだと言っています。例えば、自然や教育、医療などがそれにあたります。資本主義の有用性を認めたうえで、それだけではない世界観をしっかり提示しているのです。

こうした日本ならではの思想を世界に対して発信していけば良いと思うのですが、自分たちの儲ける力のなさを、「社会」とか「持続性」とかいう言葉で糊塗している部分があるのではないかというのが、日本の現状に対する私の意見です。

みんなの介護 日本からも提示できるものをしっかり確立していくことが大切ですね。

堀内 そうですね。アメリカ型の資本主義がおかしいと言うのなら、そのおかしさをきちんと指摘して、代替の仕組みを提示すべきだと思うのです。例えが良いかはわかりませんが、貧しくても清く生きようという「清貧の思想」があります。しかし、「貧乏であることが、すなわち清いことだ」と受け取られるとおかしなことになります。裏を返せば、お金持ちは汚いということになってしまいますから。それと同じで、「遅れているから進んでいるのだ」という言い方をするのは違うのではないかと思いますね。

経済社会においても<br />多様性を認めることが求められている

リーマンショック以降、経済が社会を飲み込んでしまった

みんなの介護 なるほど。資本主義の代替としてお考えのものはありますか?

堀内 もう皆さんもよく理解されている通り、いわゆるSDGs(持続可能な開発目標)的な考え方がそれに当たります。これは渋沢栄一や宇沢弘文の思想とも深く結びついているのです。人間の欲望をガソリンに高速回転し続ける資本主義の限界をわきまえたうえで、それだけではない、人間らしい世界をしっかりと確保しましょうということです。

経済人類学者のカール・ポラニーが言うように、経済は、本来社会に包含されるべきものです。しかし今は経済が社会を包含してしまっている状況です。リーマンショックのときまでは、国というのはマーケットよりさらに上位にありました。マーケットに何かあったら国が救いにいくという感じです。しかし、リーマンショック以降、少なくとも世界各国の政府と中央銀行は、もう完全にマーケットに組み込まれてしまい、マーケットプレーヤーの一部になってしまっています。

今、日銀は、ETF(上場投資信託)や株を大量に買っています。そのため、もし日銀が株を売りだしたら、マーケットはクラッシュします。つまり、もう日銀には市場から距離を置くオプションはないということです。ついに「経済がすべてを飲み込んでしまった」ということなのです。経済の外に社会がないので、人間も経済的にならざるを得ないわけです。

これは、経済という枠組みに、人間という実態を合わせていかない限り、生きられなくなってしまうということです。その点、宇沢弘文や渋沢栄一は、経済の外に社会があるというのをわきまえて、ものを考えていました。これは、日本固有の問題ではなく、グローバルに見ても、今の経済社会が抱える大きな問題だと思っています。

システムに人間を当てはめるやり方には限界がある

みんなの介護 具体的にはどのような問題として表れていますか?

堀内 何かのシステムをつくって、「そのシステムに人間の方で合わせてください」という典型的な例が、共産主義です。共産主義は、その仕組みと体制があって、人間がそれに合わせる考え方です。ファシズムもそうです。経済で言うと、「合理的経済人」のようなもので、人間は損得や合理的な判断で「動くはずだ」という仮定が、「動くべきである」「動かなければならない」となってしまうことです。

仕組みやシステムから入ると、人間は個性を奪われて、その仕組みに合わない個性を認めないということになってしまいます。ですから、すべてを共通項でくくって一種類しか認めないとするなら、人間は没個性になり、必ず人間疎外という問題が生じます。マルクスは、まさに資本主義から疎外された状態として、「人間疎外」という言葉を使いました。それが共産主義になったら人間疎外が起きないかというと、結局、一つの主義から次の主義に移っただけで、共産主義の中で人間は疎外されるわけです。ですから、人間の側からスタートしなければ、必ず何らかの阻害と、それに伴う大きな悲劇は起きるのです。

みんなの介護 なるほど。人間の側から始めるためには何が大切だと思われますか?

堀内 社会的な問題が起きて、何か新しい社会システムをつくることでそれを解決するというやり方は、結局、同じことの繰り返しになります。例えば、資本主義によって人間疎外が起きたので、共産主義という仕組みをつくりましょうと言っても、結局、共産主義の中で人間が疎外されます。

例えば、今の中国も、共産党が存続するということが最大の目的です。それはまさに「共産党主義」という仕組みです。そうなると、そこから弾き出される人は必ず出てきます。それが少数民族の問題だったり、人権の問題だったりします。

ですから、システムから入っていくのではなく、人間の現実をしっかり見る。そこにはさまざまな人間がいるという現実を認める、そして多様性は許容するという出発点のところを、すべての人が自覚する必要があると思います。

物は多様であり、変化していくのです。そこに、漫画の『巨人の星』に出てくる「大リーグボール養成ギブス」みたいなガチッとした枠をはめようとすれば、必ず無理が生じます。ですから、そのことを理解して、システムづくりをする必要があるのです。

社会的価値を考えるところから始まるソーシャルファイナンス

みんなの介護 堀内さんが研究しているソーシャルファイナンスが資本主義の限界の突破口を開く可能性はいかがですか?

堀内 いわゆる、ビジネススクールで習うファイナンスというのは、コーポレートファイナンスです。コーポレートファイナンスというのはとても単純で、要は企業価値を最大化するためのファイナンスです。

例えば、資本コストをどうやって下げるかとか、そのための最適な負債と資本の構成をどうするかとか、新規事業を手がけるときにどのようなファイナンスにしたら良いかというような問題で、数学的に答えが導けます。まさに投資したお金の価値を最大化するためのファイナンス手法で、社会的価値とは直接結びついていないのです。

ソーシャルファイナンスというのは、社会的価値を実現しようというファイナンスです。これは、コーポレートファイナンスよりかなり難しいです。「社会的価値とは何ですか?」というところから始めないといけないわけですから。コーポレートファイナンスにおける価値は数字ですぐに出てきますが、ソーシャルファイナンスで重視する社会的価値は、なかなか一義的には決められないわけです。

ただ、ラッキーなことに時代の必然として、2030年までに世界が解決すべき17項目を掲げるSDGsが国連によって提示されました。「これが地球の課題です」というものが国連レベルで提示されたことで、SDGsが掲げる問題を解決していくことが社会的価値を実現することだという手がかりを得られるようになりました。もちろん、そのことだけがすべてではないにせよ、わかりやすい大きな指針ができたと思っています。

このように、SDGsに表象されているような社会問題を解決して、社会的価値を実現していくために、ファイナンスの手法がどのように使えるかということを追求するのがソーシャルファイナンスです。

リターンのある投資と寄付の両方が必要

みんなの介護 ソーシャルファイナンスでは、例えば日本や世界のどのような問題が解決できると想定されるでしょうか?SDGsの推進に貢献し得るとお考えの点はありますか?

堀内 例えば、今流行りのESG(環境、社会、ガバナンス)投資やインパクト投資などは、SDGs推進に貢献し得るものです。ESG投資は、どちらかと言えばネガティブチェックで、特に環境に焦点を当てて、環境に悪いことをしている企業には投資しないようにしましょうという受動的なイメージです。

これに対してインパクト投資は、ある特定の社会的価値を実現するためには、この分野に積極的に投資してサポートしていきましょうというものです。ですから、インパクト投資はESG投資よりも、ファイナンスの目的がよりはっきりしている能動的なものと言うことができます。

日本におけるインパクト投資の例としては、新生企業投資が取り組んでいる、「子育て支援ファンド」や「はたらくFUND」などが挙げられます。これら2つのファンドは、「少子化」「高齢化」「人口減少」といった社会的な課題にフォーカスし、社会課題解決型ベンチャー企業に対して資金提供と経営支援を行い、成長を支援しています。

みんなの介護 ソーシャルファイナンスが今後広まっていく可能性は感じていますか?

堀内 広がってほしいですね。今は例えば、ESG投資も注目度が高まっていて、キャシー松井や村上由美子、関美和の三人の元インベストメントバンカーが大型のESGファンドを立ち上げるという動きもあります。そのような話題が出て、少しずつ広がっているのは良いことだと思います。しかし、相対的には、やはり従来のコーポレートファイナンスの分野の方がはるかに巨大です。単純に今のソーシャルファイナンスの動きをそのまま延長していったら、社会問題が解決されるということはないように感じています。やはり何か弾みをつけないといけません。

ソーシャルファイナンスには大きく分けて2つの分野があると思っています。その一つが「寄付」です。一般的にファイナンスと言うと、資金を貸すか投資して、それが一定のリターンを伴って返ってくるというのが原則です。ですが、返って来ることを想定しない資金である寄付も、ファイナンスの一つと考えることができます。政府や自治体が交付する補助金や、財団などが提供する助成金も同じです。しかし、寄付はお金が循環しないので、1回提供して終わりということになります。

これをさらに一歩進めたものが、もう一つのソーシャルファイナンスであるESG投資やインパクト投資です。これらはお金を投資することで、大きな額ではないにしても何らかのリターンを伴って戻ってくるものです。するとお金が循環して、同じお金が何回でも使えることになります。

寄付の場合は、毎年寄付を集めにいかなければならず、何度もお願いに行って「また来たんですか?」と言われてしまいます。しかしお金が循環するようにすれば、その必要もなくなります。

経済活動の目的を見直すことが求められる時代です

もともとの目的に立ち返るパーパス経営が注目されている

堀内 ソーシャルファイナンスに加えて、もう一つの大きなトレンドは、従来の巨大なコーポレートファイナンスの分野で、やはり今のままではまずいと思う人が増えていることです。「企業の目的はお金を稼ぐことで、株主に最大のリターンを返すことです。以上、終わり」などと言っている人は、今では多分世界に1人もいません。

2008年のリーマンショック以降、「嘘でもいいから社会的に良いことしていますと言わないとまずい」という感じになってきているからです。そして、「そもそも企業は何のためにあったのか?」というところを考える「パーパス経営」が今一番注目されています。

「この企業はそもそもなぜ経済活動をしているのか?」ということを冷静に考えてみたら、お金儲けだけのために始まった企業というのはそんなに多くありません。一応何らかの大きな目的があって始めているのだと思います。例えば、「日本全体に家電製品を行き渡らせて、みんなに中流以上の生活をしてもらいたい」とかですね。

ただ、その目的が次第に形骸化していって、「何のために始まったのかもはやわからないけど、お金を儲けないと株主が怒るからお金を儲けます」という感じになると危険です。そんな会社は社会に支持されません。みんながかなりナーバスになっていて、「社会のことを考えないといけないよね」という雰囲気になってきているのです。それによって、コーポレートファイナンス側にいた人たちが、ソーシャルファイナンス側に近寄って来ているという動きもあります。

私の想定している究極的なファイナンスの姿は、戦争や難民、貧困、子どもの問題などを賄う寄付というマーケットと、コーポレートファイナンスとソーシャルファイナンスが混然一体になったようなマーケットの二つがあるという世界です。これが最終形だと思っていて、「ただお金を儲ければそれですべてが許されるんです」というような人たちはいなくなっているイメージです。

コミュニティの喪失が、今の日本が抱える最大の問題

みんなの介護 そのような風を受けて、超高齢社会で一人ひとりの幸せを実現する社会をつくるために、これからどのようなことが必要とされますか?

堀内 社会という側面から見ると、「コミュニティの喪失」というのが、今の日本社会が抱える最大の問題だと思います。至極当たり前のことですが、社会的な動物である人間は一人では生きていけません。しかし、現在の日本社会はその前提が完全に失われつつあると思います。

私の父方は埼玉県の熊谷市で代々農業をしていました。祖父の代に職業軍人になって、父親も軍人になったのですが、終戦後、すぐに熊谷から東京に出てきて、弁護士になりました。そして、私は父親が引っ越してきた世田谷区で生まれ育ちました。そのため、田舎は熊谷ですが、長男だった父親が東京に出てきたので実家に人はいなくなり、土地はあっても帰るべき田舎はなくなってしまったのです。

銀行でいろいろ苦労して呆然と自分の人生を振り返っていたとき、そのことに思いを馳せて、「一体自分って何なのだろう、根無し草の典型みたいではないか」と思ったわけです。

よく考えてみたら、東京の人は「金の卵です」などと言われて地方から集団就職で大量に出てきた人やその子供たちが多く、私のように土地から切り離された根なし草の人ばかりなのです。もちろん、代々東京に住んでいた人もいますが、徳川幕府になってから、何もなかったところに江戸をつくって人が集まってきたわけです。江戸にはコミュニティがあったと思いますが、戦後の日本は地域社会というのもなくなり、地縁も血縁もない。すべての人が、「カイシャ」というコミュニティにすべてを吸い取られて生きてきたわけです。

「カイシャ」というフィクションが崩壊し、丸裸のまま社会に放り出された人々

みんなの介護 堀内さんは、コミュニティの喪失が今の日本の最大の問題とお考えです。コミュニティの喪失はなぜ起こり、どのような問題があると思われますか?

堀内 人間は、家族でも、仲間でも、地域社会でも、何らかのコミュニティの中ではじめて生きていける社会的存在です。そのすべてを絡みとり、吸い上げてしまったのが、戦後の「カイシャ」なのだと思います。その発端は、いわゆる1940年体制と言われる戦時体制なのかもしれません。いずれにしても、「カイシャ」というフィクションが共産主義のように社会を覆い尽くし、そのフィクションの上に多くの人々の生活が構築され、それが今崩壊しつつあり、人々は丸裸の個人のままで社会という荒野に放り出されているというイメージです。これは、社会学者の宮台真司さんがよく言われていることですが。

会社というコミュニティに100%依存して生きてきたため、そこを完全に解体されると、「地元に戻って、地域に根ざして生きなさい」と言われても、戻る場所がないのです。

それで、真面目なサラリーマンだけが、会社の中のコミュニティに何も疑問を持たないまま過ごし、会社に裏切られて、荒野に放り出される。そうすると、自分一人では生きていけないから、みんな精神を病んでいくという、ひどい循環になっているわけです。

私は、「カイシャ」というフィクションをもう一度取り戻すべきだ、などと言うつもりはまったくありません。これから私たちに必要になるのは、地域社会と仲間、ではないかと思います。そのような基本的な前提を無視して、人間の幸せや自己実現と言っても、あまり意味がないように思います。

みんなの介護 コミュニティの再構築のためには、何から着手していくことが必要ですか?

堀内 まずは、「つまらないフィクションに寄って立つ愚かさ」を一人ひとりが知ることだと思います。そして、もう一つは、人間はお互いに支えあわないとい生きていけないということの自覚ですね。

みんなの介護 最近は、複業でいろいろな会社の仕事をする生き方も広まってきていますが、それについてはどう思われますか?

堀内 もちろんそれは、広げていってもらいたいですね。しかし、レガシー(負の遺産)となっている日本の大企業がどいてくれないのですよね。そして、「会社の資本金いくらなんですか?」とか、「取引実績どうなのですか?」という意味のないことを言って、新しいものをすべて排除しようとします。政府も同じですね。

その排除の巨大なメカニズムが順調に動いてしまっているので、日本社会の矛盾に気づいて会社の外に飛び出しても、自分の食い扶持ぐらいは稼げますが、大きなムーブメントになかなかならないのです。

ですから、澱のようにたまってしまったレガシーに、まず一度どいてもらう作業をしないといけません。でもそれが非常に難しい。レガシーにどっぷり浸かっている人たちにとっては、急にどいてくれと言われても、「私が何か悪いことしましたか?」ということになります。俯瞰して見れば、そこにいること自体が悪いのですが、本人たちが気づいていません。また例えば、その人たちが住宅ローンを抱えていて、奥さんが専業主婦で子どもが小さい場合などは、「ちょっとどいてくれ」と言われたら、絶対抵抗しますよ。レガシーがどいてくれるのを待っていると、おそらくあと30年はかかるのだろうなと思います。

自分の人生を人に預けない意識を持つこと

みんなの介護 では、会社に依存して生きる生き方が限界ということに、一人ひとりがまず気がつくことでしょうか?

堀内 そうですね。「カイシャ」ばかり悪者にしましたが、もう少し俯瞰して見れば、「自分の人生をむやみに人に預けるようなことをするな」という、当たり前のようなことを言っているだけなのです。

未だに、「会社で働いていれば、もしかしたら自分の人生のつじつまが合うんじゃないか?」という人は、ナイーブで楽観的で、物を考えていないですよね。ですから、会社そのものが悪いというよりは、そのような思考方法が悪いのです。

そもそも、人間はある程度ちゃんと自分で稼いで生きていかなければいけないはずです。自分の人生は自分で考えて、自分の食い扶持は自分で稼いでくださいという当たり前のようなことを言っているだけなのです。それをあたかも宗教のように、「何かに身を捧げたら、自分を庇護してくれるのではないか」と思う方がおかしいわけです。

歴史の風雪に耐えて生き延びた本には真実がある

経済を理解するためには、人間の理解が不可欠

みんなの介護 堀内さんは、経済のほかにも宗教や哲学、思想の研究もされています。これらは資本主義社会を生きる私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか?

堀内 経済というのは、学問としてはとても新しい分野です。経済学の萌芽は、古代ギリシアの「オイコノミア」ですが、これは家計の管理を意味する言葉でした。現代的な意味での経済学が成立するのは、18世紀後半のアダム・スミスの『国富論』からです。スミスは同時に『道徳感情論』という人間論も著していて、人間に対する考察と経済に対する考察は対になっていたのです。

この頃の経済は「political economy(政治経済学)」と呼ばれていて、国家経済の運営を意味していました。これが今の経済学として独立して「economics」になるのは、一般均衡理論を取り入れた新古典派経済学が成立する19世紀終わり頃です。産業革命が始まるのは、一般的には18世紀半ばと言われていますから、経済学や資本主義というものが、人類の歴史に比べるといかに短いものかが理解できます。

経済というものが人間の営みである以上、経済を理解するためには、人間に対する理解が不可欠です。単純に「合理的経済人」を想定することで済ますわけにはいきません。つまり、経済について理解するためには、その前提となっている何千年にもわたる人類の歴史を理解し、人間についての洞察を深める必要があるということです。

いろいろな古典を読んでみてわかるのは、人間というのはこの二千数百年間、本質的にはたいして変わっていないということです。喜びがあり、悲しみがあり、社会があり、政治があり、生があり、死がある。2千年前のローマ皇帝マルクス・アウレリウスが書いた『自省録』を読んでも、彼の悩みは現代人の悩みとまったく変わりません。つまり、みんな同じような悩みや苦しみを抱えて生きて死んでいったのです。それを追体験してみれば、自分の人生や社会に少しは役に立つのではないかと思います。

また、歴史の風雪に耐え、今まで生き延びてきた本を読むことで、人間の真実に突き当たる可能性が極めて高いのだと思います。特に心や哲学、思想の問題などはそうです。自然科学の分野は、新しければ新しいほど、真実に近い知見が得られますが、人間についての問題は、古い・新しいは関係なく、むしろ人々の批判に耐えて、今日まで生き延びてきた本の方が役に立つということです。

みんなの介護 4月に出版された『読書大全 世界のビジネスリーダーが読んでいる経済・哲学・歴史・科学200冊』に掲載されている本は、そのような思いでセレクトされた一冊一冊なのですね。

堀内 そうですね。実は本書を書いた目的は2つあります。一つは自分の勉強のためです。還暦を迎えるにあたって、これまで10年に一度行ってきた頭のOS(オペレーティングシステム)の書き換えを、このタイミングでしようと思ったためです。もう一つが、自分のこれまでの経験を、若い人たちに説得力のある形で伝えたかったためです。

しかし、60歳にもなったおじさんが若い人に対して何かを単純に喋ってみたところで、老人の説教か自慢話にしか聞こえないだろうなと思います。ですから、どうしたら自分の経験が偏見なしに人に伝えられるかということを考えて書いたのが、『読書大全』なのです。

この本が、読者が原書を手に取ってみようと思うためのゲートウェイになってくれればと思います。書評は、あくまで私の目を通したその本の評価ですので、もし気になった本があったら、ぜひ原書を読んでみていただきたいですね。私の書評を読んで、何となく読んだ気になって終わってしまうというのは、あまりにももったいないと思います。

みんなの介護 一度読んだ本を血肉にするために、どんなことを心がけていますか?

堀内 私について言えば、何か悩みがあれば、一生懸命本を読んで、その中にヒントのようなものがないかを、必死に探しに行きました。

ですから、違う読み方ももちろんあると思っています。読者レビューで批判的なものを読むと、「こんなに真剣な読書をしていたら疲れそう」「もっと楽しい読書があるんじゃないか」と書いている人もいます。そのように読みたいのであれば、そう読んだらいいと思います。読んだ本を自分の中に残すには、自分がそのための心構えをもって、心を開いていなければ、入ってこないと思いますので。

ですから、私はどちらかというと、何となく本を読んでいたら、何となく良いことが書いてあったというような読み方はしていません。とても困ったり悩んだりしたときに、そのヒントになるものはないかといつも本を漁って、目的を持った読書をしていたのです。そういうことで、あまりフィクションを読まないのかも知れません。

私にとって、血肉になるというのは、自分が必死になっている度合いに応じて、本が応答してくれるイメージです。

時間つぶしのために読書をすることはまったく否定しません。しかし、本はいろいろなものがあるので、漁っているうちに人生が終わってしまう可能性もあります。『読書大全』が、良い本を見つけるガイドになってくれれば良いなと思っています。

幸福は、自分の足で立つところから

みんなの介護 新型コロナウイルス感染拡大によってライフスタイルの変化が生じ、新しい社会が形づくられようとしています。コロナ禍における惨事の経験を次の時代に活かすために、どのようなことが大切だと思われますか?

堀内 今の日本を見ていると、残念ながらコロナ禍の経験をプラスに変えていくようなポジティブな動きはないように思います。何十年か先の未来、今のコロナ禍を振り返って、「あのときの経験を通して日本社会はこのように新しい方向に踏み出した」ということは何もなく、「あのときには悲惨なことがあったね」で終わってしまうような悪い予感がしています。

この「過去から学ばない」という姿勢は、日本社会の特性であって、その背景には、現実をそのまま受け入れるという国民性があるのではないかと思います。

また、先日、HONZの創業者の成毛眞さんが、「Clubhouse(クラブハウス)」で田原総一郎さんと議論していました。成毛さんが未来を想定して著した『2040年の未来予測』がベストセラーになりましたが、それについて語り合う内容でした。

この本の最後に、「若者はもう日本のことなんか考えるな」「そんなことを考える前に、自分がちゃんと食べていけるようにしなさい」というようなことが書いてあります。それに田原さんが噛みついて、「成毛さんは、もう日本のことなんか考えなくて良いと言っているんですか?」と噛みつくわけです。

成毛さんは猛烈に反論していました。「グローバルな時代に、狭い枠の中で『日本VS日本以外の国』のような対立の構造をつくって『日本が、日本が』なんて言っても、それじゃあいつか来た道でしょ」というわけです。

変に日本というのを意識すればするほどドツボにはまっていくので、そういうものを一度外して、まず自分がちゃんと生きなさいというわけです。「自分がちゃんと生きてもいないくせに、そんな大上段に構えたことを言っていないで、まずは一人ひとりが自分の足で立って食えるようになりなさい」という感じのことを言っていました。

確かに、「お国のために」というのは、戦争のときの発想ですよね。私も成毛さんの考えに近くて、日本という狭い社会だけで物を考える発想というのは、これからは厳しいなと思っています。特に、若い人は日本という枠を一回外して考えるのが良いと思います。

海外に行ける人は、日本という国を出てみるのも良いでしょう。日本に留まるのであれば、歴史をよく学ぶことではないでしょうか。その中から、今の日本で自分に何ができるのかのアイデアが浮かんでくるのではないかと思います。

特に、今の日本は、基本的な生きる力をみんなが失っていて、ひ弱な国になっていると感じます。ですから、まずは「ちゃんと生きましょう」「自分の足で立ちましょう」ということです。

もちろん、自分の足だけで立てない人は世の中にたくさんいます。ですから、弱い人を見捨てるというわけではなくて、それぞれがまず自分の足で立つ努力をして、次に支え合うことを考えましょうということです。自分の足で立つことをしようともせずに、いきなり「支え合いましょう」と言ったら共倒れになってしまいます。

みんなの介護 自分の足で立つためにも手がかりになるのが、数々の知恵が詰まった本ということでしょうか。

堀内 一人でうじうじ悩んでいると世界が狭くなって内側に埋没してしまいます。しかし、本を読むと二千年前の人もうじうじ悩んでいたんだな、というのがよくわかります。昔の人は、どのようにその問題を解決したのかを学んだり、このように考える人もいたんだと知ることで、閉じていた自分の世界が開いていくのだと思います。

撮影:丸山剛史

堀内勉氏の著書 『読書大全 世界のビジネスリーダーが読んでいる経済・哲学・歴史・科学200冊』(日経BP)は好評発売中!

人類の歴史と叡智を力に変える「最強のブックガイド」!重大な選択を迫られたときや、危機的な状況に陥ったとき、さらに人生の岐路に立たされたときなど…真の読書体験が、正解のない問いに答えるための「一筋の光明」となります。

関連記事
医師・医療ジャーナリスト森田豊氏「認知症になった母への懺悔 医師である僕が後悔する『あの日』のこと」
医師・医療ジャーナリスト森田豊氏「認知症になった母への懺悔 医師である僕が後悔する『あの日』のこと」

森田豊
医師・医療ジャーナリスト
2022/11/07