安部敏樹「経済が衰退している現代で、「殿(しんがり)」を務めるのは誰?今の日本は、みっともない話、子どもがそれを務めている」
安部敏樹氏が東京大学在学中に設立した(株)リディラバでは、「社会の無関心を打破する」という理念のもと、社会問題を題材にしたスタディツアーの企画・運営を担っている。これまで社会問題の現場に送り込むこと、4000人超。いかにして当事者としての意識を持ってもらい問題意識を共有することで、29歳という若さで「各々が主体的に行動する社会をつくることができるか」という問題に向き合ってきた安部氏に、日本の社会保障について率直な意見を伺った。
文責/みんなの介護
幼い子どもたちや、まだ生まれぬ子どもたちを殿にして、高齢者が一番先頭をきって撤退戦をやっている
みんなの介護 まず率直な質問です。安部さんが考える「社会問題」とは、一体どういったことなのでしょう?
安部 社会問題には縦と横、2つを軸とする問題があります。縦の社会問題というと、時間軸でいうところの縦のことで、いずれ自分が問題の当事者になるかもしれないという問題。
みんなの介護 介護はいずれ経験する人が多いので、縦の社会問題ですね。
安部 そうですね。最初は介護される側ではなくて、支える家族側として当事者になる可能性が遠くない未来にある。あとは出産や子育ても自分の人生の中でいずれあるかもしれないけれど、今はその時期ではないから当事者意識がない、というものです。
みんなの介護 では、横の社会問題には、例えばどのような問題があるのでしょう?
安部 横の社会問題とは、その人の人生においてはおそらく一生経験のすることのないであろう、例えば日本人ならば難民の問題など。でも、経験することがないからといって、同時代に生きる者として無関心でいいのか、公共社会の一員として知っておきたいこともあるよね、と考えています。
みんなの介護 安部さんが、これまで数多くの社会問題の現場を見てこられて、今の日本の社会保障に関して問題と思われることはありますか?
安部 マクロの話、ミクロの話から言えることがあります。マクロの視点からは、予算をどのように分配していくか、という話。社会保障費は年々増えていますが、社会保障の費用は明らかにGDP比で見ても諸外国に比べて高い。単純に金額として削るというよりは、金額は大きくなっていくとしてもGDP比では維持、そしてできるならば削っていく必要があるでしょうね。
GDP比で削った部分を子どもの教育などに“再分配”していく必要はあると思うんです。一方で、竹中平蔵さんとの共著「日本につけるクスリ 」という本の中でも触れましたし、竹中さんとお話しするときによく話題にあがるのは、“撤退戦というのはきつい”という共通認識です。
みんなの介護 撤退戦というのは、どういうことでしょう?
安部 経済が撤退しているときに、誰が殿(しんがり)をするんですか?ということです。
みんなの介護 殿とは、戦で退避するときに、後ろから追ってくる敵の攻撃を防ぐ最後尾の人たちのことですね。
安部 一番リスクがあり、一番損をする人たちですよね。戦国時代だったらそのリスクの分、一番報われる人たちなんですが、この戦いは報われる可能性もほぼない。高度経済成長、バブル崩壊、といった激動の時代を過ぎた今の日本経済を撤退戦と見たときに、殿が子どもなのか?お年寄りなのか?という話。現状では、この国は子どもを殿にしているわけですよ。非常にみっともない話ですけれども。
みんなの介護 “誰が次世代のツケを払うのか?”といった話になると、次に生まれてくる世代である…と。
安部 我々20代も含めて、国民全員が、赤字国債で前借りした分を次世代に回している。高齢者が一番先頭をきって幼い子どもたちや、まだ生まれぬ子どもたちを殿にして撤退戦をやっている。それがこの国の現状です。
こういった事実から考えれば、社会保障の分配比率を下げて、教育や若者のために使うほうがいいでしょう、と考えることもできる。でも実際は、人間って引き際に一番醜いところが出やすくなるわけです。戦争で負けて撤退戦をするときに誰が殿をするか、というときに、醜さが出てしまう。
みんなの介護 高齢者と若者の世代間格差といわれているように、“醜さ”が出てしまう…。
安部 高齢者が「私のバス券がなくなるのは嫌よ」とかね。現実的に考えると、おそらくは高齢者が若者のために自分たちが血を流すことは「うん」とは言わないだろうと思うんです。
みんなの介護 高齢者自身も、生活がかかっていますからね。
安部 そう、そう。彼らの「今更そんなことを言われても我々にも人生設計が…」という声を完全に退けるのは難しい。となると、“若者と高齢者、どっちも大事です”と主張するしかない。そしてそのためには、シンプルに経済成長して伸びた分だけを若者に突っ込むというやり方をしていくしかありません。
介護施設を選ぶとき、入居者と家族の間にはミスマッチが起きている
安部 現状、社会保障の費用に比べると、やはり日本は若者に分配できていません。一方で、社会保障費を削って若者に分配するのが社会的合意形成のあり方としてはあるべきだと思いながらも、実際はそうではない。それに対して「イエス」と言うお年寄りもあまりいない。ならば、“経済成長”という観点に責任を持っていって、GDP比で伸びた分だけを若者のために再分配していくほうが現実的でしょうね。
みんなの介護 ミクロ的な観点で見ると、どういった問題があるとお考えでしょうか?
安部 介護施設の現場も見学させてもらったりもするんですが、例えば施設と高齢者の関係で言えば入居の際にミスマッチが起きていることが多い。高齢者が介護施設に入るとき、病院を経由することが多いんです。怪我や骨折をして病院に行ったあとに自宅では生活を続けられないということになり、急きょソーシャルワーカーに相談してそれを契機に介護施設などに入居する。
必要に迫られて、急に入居するわけです。でも、本人が施設を選択するための時間が少なく、選択肢もちゃんと検討できずに合理的な形で選択できていない場合が多い。また入居するには心の準備みたいなのが大事なのですが、そういう余裕がない状態で生活環境が変わってしまう。するとどんなに施設側が努力しても不満が残るわけです。
現状、前もって準備して、どこの施設がいいのかを入居する本人がしっかりと選んでおこなっているわけではない。それが、もっと早い段階から選ぶようになってくれば、“終の棲み家”としての不満が減る可能性があります。現状では、入居に至るまでのプロセスが病院経由になってしまうと、ゆっくりと考えて自分で選べる機会を持つことができない。こういう課題はミクロに解決していきたいですよね。
みんなの介護 医療にかかると、緊急度が高くなりますし。
安部 本人は骨折してしまって動けないから、自宅では介護できないとなると、どこかに入らなければならないと考えるのは自然ですよね。でも、もっと手前から考えたほうがいいじゃないですか。
みんなの介護 もし介護が必要になったときにどうしたらいいか、というのを前もって本人が考えておくべきである、と。
安部 そうですね。自分はどういう施設に入っておきたいかというのを考えるべきです。考えておけば、自分が数年、もしかすると10年以上過ごすかもしれない場所に対して、不満がたまってしまう可能性は少なくなる。
見学先の入居者の方と話したとき「家族に捨てられた」みたいなことを言われたことが印象に残っていて、不満がたまっている人もいるんだ、と感じたのをよく覚えています。入居者からしたら「どうして、こんな姥捨山に捨てられたのか…」と思う人だっているんです。たとえどんなに環境が整備された良い施設だとしても、納得して入っていなければ、不満が出てくるのは当然でしょう。
みんなの介護 自分で納得できる老後の暮らし方や施設選びを、いざというときのためにしておく。自分で施設について調べたり家族と相談したり、といったことがもっと必要、ということですね。
安部 そうです。自分と家族の、価値観が明確になっていなければいけない。入居者は職員からのホスピタリティを求めていることが多い。日常の大部分を彼らと過ごすのだから、当然ですよね。ある意味、“新しい家族”なわけじゃないですか。そうすると優先すべきはホスピタリティがいいとか、職員の離職率が低い施設だったりします。
一方で、入居者の家族はどういうことを考えているかというと、自宅から近い場所で探そうとするんですよね。この場合、家族の住む地域から近いところにある施設が優先されます。それは“自分たちが顔を見せに行ってあげたほうが幸せだ”という思いからだし、家族とは会いたいと入居者の方も思っているでしょう。これもまた事実です。
短期的な視点しか持ち合わせていなかったために“高齢者施設と病院の住み分けをどうする”みたいな歪みができてしまった
安部 けれども、家族が施設に会いに行くとしても月1回、多い人でも週に2、3回。みんながみんな、毎日行くような時代ではないわけです。そう考えると、優先順位は家から近いこと以上に、施設の職員のホスピタリティのほうが大事だったかもしれませんよね。ホスピタリティの優先度のほうが高い人は、家からの距離よりもむしろ暮らしたい環境がそろった施設に入居したいと思っているかもしれません。
そもそも、老人ホームのような高齢者施設は貧困者向けの特例措置としてその歴史を始めているのが特徴で、もともとは養老院なんですよ。私はこれを社会問題の対処法としては典型的な失敗と思っているんです。
みんなの介護 養老院が制度として設立されたのは昭和4年の救護法が成立したときですね。その後、生活保護法によって養護施設へ、老人福祉法の老人ホームへと改称されていきました。
安部 養老院というのは、自宅で面倒をみてもらえない貧困家庭の、“なんて哀れな…”と思われていたおじいちゃん、おばあちゃんのための施設だったわけです。保育園も同じです。シングルマザー家庭や貧困家庭といった、どうしても子どもを長時間育てられない人たちに対して、特例として始まったんです。でも、その時点でわかっていたはずなんです。
みんなの介護 今から40年以上前から、高齢者の増加と核家族化が進むことはわかっていた。
安部 そう。これは特例じゃなくて一般的になると。男女共同参画の社会になっていくならば共働き家庭が増えて、保育園は一般的なものになってくる。寿命が延びて高齢化社会になり、さらに核家族が進めば高齢者が住むための施設が一般のものとして必要になる。何が言いたいかというと、中期・長期的なビジョンを持っていれば、最初からそんな特例措置として出てこなかったわけですよ。短期的な視点しか持ち合わせていなかったために、“高齢者施設と病院の住み分けをどうする”みたいな歪みができてしまったわけですよね。
この先、社会がどうなっていくか予測がつく部分に関しては、大きなビジョンから施設設計をしていったほうが良いでしょうね。パッチワークのように「ちょっと穴が空いています」「そこ埋めました」といっても、もう、その穴は絶対に大きくなる穴なんだったら、「この布じゃ、どうしてもかばいきれません」ってなるでしょう。想像力をはたらかせて、大きなビジョンを用意しておかないとダメだ、と感じます。
年金は長生きに対する保険ではなく、長生きし過ぎて働けなくなったときのリスクに対する保険。
みんなの介護 先ほど、高齢者施設は特例措置として始まったということを伺いました。そういうことをふまえると、最初の制度設計に問題があったとお考えですか?
安部 あくまでひとつの要素として、ですけど。ただ私は、過去の一部分だけを批判したいのではありません。一見、特例的に出ている、“ちょっとしたひずみだろうな”と見ていたら、気づけば多くのステークホルダーに変わりうるものになっている。社会問題って、こうなりがちなんです。“高齢者の終の住処をどこにするか問題”とか保育園の待機児童の問題って、例外的ではない。我々にとって、実は身近にある問題なのかもしれません。
例えば人口減少社会に関しても、悲観的になってもしょうがないじゃないですか、人口は減っていくんだから。すべてに対して「おしまいだ」「絶望だ」ではなくて、その時代に合わせたチャレンジの仕方があるわけだし。でも正直なところ、制度としては“40年くらい前からもっと何とかできたでしょ”という思いはあって、当時の人たちに頑張ってほしかったというのはありますけどね。
みんなの介護 それで、これからどうしていくかという話なんですが、年金について伺ってもよろしいですか。今、60歳から年金を受給できたのが段階的に65歳に引き上げられています。ゆくゆくは70歳になるのではないか?という意見もあるのですが。
安部 働いている人はできるだけ「年金をもらわなくていい」「年金はいらないです」と言える状態にすべきです。そもそも年金って、人生において長生きして働けなくなるかもしれないときに備える保険なんですよ。長生きそのものに対する保険というよりは「長生きして、働けなくなるかもしれない」ときの保険なわけです。本来の設立の背景から言うとね。
みんなの介護 国民年金に関してはおっしゃる通りです。
安部 そうなんです。ということは、働ける人はずっと働いて、その年金受給年齢を遅らせれば遅らせるほど、その分もらえる年金に1.2掛けするといったインセンティブをつけてあげたらいいじゃないですか。
健康な人はできるだけ頑張ったほうが、のちのち自分が働けなくなったときに受け取れる年金が増える。こういう考え方でやるべき。一律に70歳以上、とか、65歳以上、というやり方よりは“働いている人には年金を出さないかわりに、頑張って働けば働くほど、あなたの老後そのものが楽になっていく”という仕組みをつくっていうほうが建設的ですよね。
65歳からもらう人と90歳からもらう人がいて、90歳からもらう人は明らかに受け取れる額が多い。そういう制度設計のほうが、それぞれの人に合った制度になっていいと思うんですよね。
みんなの介護 現在の制度では70歳までは年金受給を引き下げできるのですが、それ以降は受け取ることになっています。
安部 人々が、できるだけ長期間もらわないようにしたいな、と思うような制度設計にしたほうがいいですよね。本当に生活に困っている人もいれば、現役世代以上にもらっている人もいるのに、まんべんなく配るというのは、そもそもの趣旨と違う話。何度も言いますが、年金は長生きして働けなくなったときのリスクに対する保険なので。
普通の人が望めばそれを反映するのが政治家。あるべき制度に変わらないのは意思のない国民のせい
みんなの介護 今は昔の平均寿命に比べて80歳代と長くなっています。平均寿命が長くなったんだから、制度設計し直す必要があるという声もよく聞きます。
安部 もちろんそうでしょうね。今の年金制度をつくったときって、66歳くらいが平均寿命でした。設立の思想から考えれば、年金というのは平均寿命に合わせて受給が開始されるはずなんですよ。だったら、理論上は80歳ぐらいでしょう。
ただ、いきなり80歳からとなれば、多くの人の人生設計が狂ってしまうので、少しずつ上げていこうとか、さっき言ったような個別に選べるような形にして、健康な人はできるだけ年金をもらわないほうが自分にとってメリットが大きいと判断できるような仕組みに変えていったほうがいいですよね。
みんなの介護 今、安部さんがおっしゃったような仕組みを変えていくには、政治家や官僚が打ち出していくべきなのでしょうか。
安部 え?どうしてですか?政治家ではなくて、普通の人だって声を上げればいいじゃないですか。
みんなの介護 普通の人が言って、政治家や官僚を動かしていく、と。
安部 …というか、普通の人が望めばそれを反映するのが政治家ですから。別に政治家が提示するのでもいいし、国民がそういうふうに求めるのでもいいし。
みんなの介護 普通の人が求めれば変わるんでしょうか…。
安部 日本は民主主義ですから。一定以上の人が求めれば、変わるでしょう。結局、意思のない国民のせいなわけですよ。
みんなの介護 ただ、よく言われるのが高齢者の人は熱心に投票に行くけれど、若い人、働き世代の人たちの票数の割合が少ない。高齢者の人たちの割合のほうがどうしても多くなるから、政治家は高齢者優遇の政策をするという意見もあります。
安部 選挙に関しては2つ整理して考えなきゃいけない。一つ目は、人口の分布の割合が違いますという話。人口も高齢者のほうがますます多くなっていく分布に変わってしまう。これは今後、我々がずっと抱え続けなければいけない課題で、改善するのは大変かもしれない。
若い世代が投票に行かないのは現状に満足しているからではない。政治を通して社会を変えられるとは思っていないから
安部 もう1つが、投票率の問題です。たしかに、高齢者は人口も多い上に投票率も高いから、有権者としての絶大なパワーがあります。2016年の参院選からは18歳も投票できるようになりましたが、その投票率ってすごく高かったんですよね。
みんなの介護 東京や神奈川など一部の地域では、18歳の投票率が全年代の投票率を上回ったという調査結果が出ています。
安部 文部科学省が主権者教育に力を入れたんです。そのおかげで、教育である程度は投票率を上げられるということがわかったわけです。
投票率に関して話しておきたいのが、ぼくが上の世代の人たちと議論するときにいつもすれ違うということ。“若い人たちは投票に行かないことで権利を放棄している。どうして皆さん投票に行かないの?”と言われるんです。ご高齢の方に言われることが多いんですね。
20代を代表して言わせてもらうと、若い世代が選挙に行かない理由をもう少し深掘りしていってほしいんですよ。上の年代の方は「結局、君らは現状に満足しているんでしょ。だから投票しないんでしょ」「だから高齢者の政策に寄って当たり前でしょ」という考え方を持っているけれど。
みんなの介護 つまり、若者が選挙に行かないのは、今に満足しているからだと思われている。
安部 そうなんです。「文句があるなら投票しなさいよ」と言うわけ。でも、ぼくは違うと思うんです。おそらく、若者が選挙に行かないのは“投票に行っても変わらない”と思っているからでしょうね。人間は自分が変えられると思う範囲のことしか関心を持てないし、今の若い人は人口分布が変わった中で政治を通して社会を変えられるとは思っていないでしょう。
ここの理解に差があるんです。ボタンの掛け違いっていうのは世代間でかけ直さなければいけないと思います。今の若い人が関わったあとで、政治が変わっているとか社会が動いていくという実感値を持たせない限りは、投票率の問題は解決しないでしょうね。
一括りに“高齢者”と呼ぶのは非常に失礼な話。人生というものは歳を重ねれば重ねるほど多様化するのだから
みんなの介護 社会問題を題材としたスタディツアーの運営をされているリディラバのもとには、行政の方から相談が寄せられたりすることもあると伺いました。
安部 ありますね。例えば、地域の若者が“若い世代にもっとこの地域に住んでほしい”と思っていたとします。ただ、その地域にはすでに住宅が立っていて、余っている土地もない。ある程度は新陳代謝で回していくには、上の世代の人たちに別の場所で別のチャレンジをしてもらったほうがいい、ということはわかっている。でも、「言いにくいんです」という相談を持ってこられるんです。
そういった土地もない地域では、上の世代が出ていかないと若い世代が入ってこられない。街としては高齢化してしまう。ゆくゆくは税収の問題だったり消費の減少だったり、当然、自治体としては困るわけです。
みんなの介護 反対に、住む土地はあり余っている地域からの相談も受けますか?
安部 受けますよ。未来の世代が少なくなると、将来としては街の人間がいなくなる。話を聞いていくと、姥捨て山なのか?という感じになるわけです。でも姥捨山にしちゃうのはまずい。むしろどうやれば、次のチャレンジにつなげられるか、要は“姥捨山の快適版”みたいな感じ。
でも、今の高齢者が全員、快適で、のほほんとした田舎暮らしがしたいのかというと、必ずしもそうではないでしょう。ぼくのまわりにも年齢は70、80だけれど新しいことにチャレンジしたい人がいっぱいいるわけ。リディラバの支援者の中には81歳で起業しているおじいちゃんもいるんですよ。
そういう中で、ひとくくりに「高齢者」と呼ぶのって非常に失礼な話だと思うんです。人生というものは基本的に、歳を重ねれば重ねるほど多様化するわけじゃないですか。
みんなの介護 生まれたばかりの頃は身体的な差も能力的な差もほとんどないけれども、80歳になったらかなり変わっているわけです。
安部 世界を代表する企業の社長もいれば、家もないおっちゃんもいる。そういう現実があるので、その人たちに合った老後の形をもっと提供すべきだし、若い世代が何となしに「歳をとった人はのほほんと田舎暮らしでいいんじゃないですか~」というのは、あまりにも無礼ですよね。もっとチャレンジしたい人にはチャレンジさせようぜ、と思う。
みんなの介護 年齢で縛りを設けるのではなく、意欲のある人にはチャレンジしてもらう。
安部 チャレンジしてもらうといっても、田舎にもいっぱいあります。年齢に関係なく、経験豊富な高齢者がチャレンジに行く。
いわば、地域で当たり前になっていたことを変えていくには、プロセスが必要です。我々のような外からの人間として“もっとラディカルに変えていきましょう”と言うことは可能だけれど、実際に行政のやり方に沿って実行していくのであれば、ビジョンとして向かうべき方向を示していく必要がある。外からぼくらが「こうだろ」と押しつけるんじゃダメなんですよ。地域の人同士で話し合って方向を決めていかなければならなくて。結局、納得感がないと人々は動かないから。
日本では合意形成のつくり方をずっと軽んじてきた
安部 やっぱり、議論にはプロセスも重要なんです。ただ上から結論だけ押しつけても人は動かない。プロセスを納得させないと、人は動いていかないから。そういう合意形成のつくり方のようなものは大事になんだけれども、日本社会では軽んじてきている。
みんなの介護 軽んじてきているのは、最近の話でしょうか?
安部 いや、ずっと軽んじていると思うんです。やっぱり、議論の教育が日本にはないじゃないですか。議論をして合意形成をつくる機会を、我々は学校で教わっていませんでした。だから、ぼくらは修学旅行でそういうのを提供するわけです。社会問題の現場に行って課題設定をして、議論をして合意形成をしていくような訓練を、中高生向けに提供するんです。
ぼくらが大きくやればやるほど、しっかり議論させる力をつけていった世代と、それ以前の世代とのギャップはできてしまうでしょうね。
これからの日本社会では“何を残し、何を切り捨てるか”という、残酷な決断をくださなければいけない時代になってくる。その決断の後、いざ人々を動かすことになったとき、物事の結論だけでは通用しません。決断の手前の合意形成のプロセスをちゃんとつくるというのは大事です。そして、そのプロセスの中で、耳の痛いことから逃げないこと。若い世代にはこれができると思う。
みんなの介護 合意形成のプロセスをふんで議論をして制度を変えていくためには、どのようなことが必要でしょうか?
安部 ひとつは、制度変更する時にやっぱりシンプルな方針ってのをまず示した方がいいですね。どういう方向にこれから制度を変えて行くのか、準備をしていく。ちゃんとアナウンスした上で、“その指針に沿ったら、これってちょっと、やっぱり自己負担かもね”みたいな話って、出てくることはあると思うんです。
それを、個別各論だけで「これ削りまーす」「金ないからけずりまーす」と言うと、受け手としては切り捨てられた感じはするけれども。丁寧に方針が示されていたら、「あっ、そっちの方に行くんだから私たちはこうなんなきゃいけないんだ」ってなるじゃないですか。
“国民全員に甘い顔はできない”という前提を許容すべき
安部 もはや、みんなに甘い顔はできねえ、ということですよね。国民全員には甘い顔はできないという前提を、まず許容すべき。みんなに甘い顔をし続けた結果、次の世代だけにツケをつけているんだから。誰も火中の栗を拾わないで、かといって、黙ったまま口を出さない人がたくさんいる…そんな甘ったれた社会って、果たして社会として美しいのか?と思うわけです。次の世代に「俺ら立派だろ」って言えないじゃないですか。
みんなの介護 甘ったれた社会…ですか。厳しい言い方です。
安部 “甘ったれ”という言い方に対してそう思うのもわかります。ぼくもずっと社会問題の現場にいる人間なので、甘ったれていることなのか甘ったれていないことなのかって、ケースバイケースなことが多いと認識しています。でも、みんなが当事者意識を持たなければいけない時期に来ているんですよ。
ちなみに、前半で話した撤退戦で殿(しんがり)を決めるのが一番きついと言ったのは、そういう話とつながります。高齢者と若者がひどくいがみ合って「お前らのせいで俺らの生活は」って言い合っていてもしょうがないですよね。この段階まで来ると、意思があるかないかの問題。「あなたが意思持ってやってよ。俺も意思持ってやるから」って、みんながこうならなきゃいけないんですよ。
高齢者に対して「全部自己負担でーす」「年金を払いませーん」という残酷な意思決定をにらみ合いながらやるのか。それとも、ちょっと身を粉にして働くけれど少しずつ経済成長していって、なんとか上手く社会の再分配をできる未来か。大きく言うとその2つしかないと思うんです。それ以外、我々には選択肢がない。だからどっちを選ぶの?と、国民全体でもう少し考えていければと思う。ぼく自身は、自分が一人のプレイヤーとして考えたときには後者のほうができそうな気がする。前者みたいに高齢者をディスっても、あまり気持ちよくないし。
みんなの介護 おっしゃるとおりです。お互いにディスるだけでは何も変わりません。
安部 もちろん、にらみ合いの結果、51対49で「高齢者から年金半分にしまーす」のような残酷な意思決定がされることが未来に待ち受けているかもしれないですよ。革命のような政党ができて「高齢者は姥捨て山にいけー!」と言い出すこともあるかもしれない。
でも、そういう未来って、あまり嬉しくないですよね。できることなら、みんなが頑張るかわりに、それほど嫌な思いをせずに社会として適正な形に戻っていくというのは、望まれるんだろうなとも思います。そうするためには、とにかく新しく産業をつくって働いていくしかないんじゃないの、と思いますけどね。
みんなの介護 その産業が、安部さんが今やっておられることですね。
安部 ぼくは産業をつくりたいと思ってやってきたわけではないけれど。社会保障費をとってみても、当事者意識と知識を持って意思決定したいと真剣に思っている人って、投票者のうちの10分の1もいないと思うんですよね。これは民主主義が抱えてきた課題です。みんなで決めるのに、当事者意識のある人のほうが少ないし、知識もない。4000年続く民主主義をどうやって新しいステージにしていくか、というのが、ぼくのやりたいことのひとつ。
社会問題になっていることには利害関係によるところが多くて、複雑。だから誰も手をつけてこなかった。でも、それをちゃんと解きほぐせば十分に、産業になっていく余地があるんだと思う。そこを解きほぐして水先案内人になっていくのがぼくらの仕事。それを示していけば多くの人がここの産業に入ってきてくれると確信を持っています。
撮影:公家勇人
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