岩佐十良氏「社会や他者に貢献できる「新しい価値の創造」を成し遂げたい」
食とライフスタイルの提案マガジン『自遊人』の発行、オーガニック食材の製造販売、地域再生活動、国内外でグッドデザイン賞を受賞した宿泊施設の経営。それらすべてを手がける岩佐十良(いわさ・とおる)氏の、枠にとらわれない自由な仕事ぶりは、テレビのドキュメンタリー番組でも度々取り上げられて注目を浴びてきた。今回のテーマは「クリエイティブな生き方とは」。コロナ禍を契機として、あらゆる職種でワークスタイルの変革が起きている今、自分のすべきことがわからないという方に向けて、他分野でご活躍されている岩佐氏に話を伺った。
文責/みんなの介護
「理想」の実現には「現実」の裏付けが必要
みんなの介護 岩佐さんのキャリアを拝見したところ、一見、つながりがないと思われる事業が並んでいて驚きました。いきなりで失礼な質問ですが、ご自身を何者だと規定されているのでしょうか。
岩佐 う?ん、肩書としては「クリエイティブ・ディレクター」「編集者」「プロデューサー」を使い分けていますが、“何屋さんなのか”と訊ねられるとうまく説明できないんです。むりやり横文字にすれば“ソーシャル・マルチ・クリエイター”みたいな感じになりますが、それもちょっと怪しいじゃないですか(笑)。
総じて自分は何者かといえば、「社会に何らかの価値を提案し、それを具現化しようとしている人」と定義できるのかなと思います。
みんなの介護 クリエイティブな仕事をするうえで、常に心がけていることはありますか。
岩佐 数字に対してはかなりシビアですね。クリエイティブワークは“感覚優先”と思われがちですが、どんなにすばらしいアイデアや高い理想を掲げても、それを実現するための数字の裏付けがなければ絵空事。仮に実現できたとしても採算が取れなければ意味がありません。かといって、採算性ばかり気にしていても新しいことは何もできない。したがって、僕の思考は常に理想と現実の狭間を激しく往復しています。
もう1つ、キーワードにしているのは「メディア」です。僕が手がけている雑誌や食品、宿泊施設も、要するに“さまざまな提案を世に広めるための媒体”であって、最終的に成し遂げたいのは「新しい価値の創造」。ただし、あくまでその価値には“社会や他者への貢献”という条件がついていて、必ずしも僕個人の趣味嗜好とは一致していません。そのあたりの線引きも、仕事をするうえで忘れてはならないポイントの1つだと自分に言い聞かせています。
“先行逃げ切り”を狙って美術大学在学中に起業
みんなの介護 独創的でありながら客観的な分析をされていて、右脳と左脳のバランスが絶妙なのですね。いつ頃からそういう思考をされるようになったのですか。
岩佐 僕は小学校の作文に「将来、内閣総理大臣になる」と書いたことがあるんです(笑)。
みんなの介護 それはすごい!(笑)小学生では珍しいですよね。
岩佐 そうですね(笑)。小さな頃に考えていたのは、「政治」が社会を変えてゆく最もクリエイティブな仕事だということ。常に理想と現実のバランスを取り続けなければいけないところなど、政治家には今でも親近感を覚えます。
ちなみに僕は中学校まで理数系科目が得意で、学校の先生からするといちいち理屈っぽくて面倒くさい子どもだったみたいです。
みんなの介護 昔から社会を変える仕事に関心があったとのことでしたが、現在のようなクリエイティブワークに興味を持たれたのはいつ頃からでしたか。
岩佐 高校時代に遊びすぎて、気づいたときには志望大学への進学が難しくなっていたんです。そこでいろいろ思案した挙句、絵を描くのも好きだったこともあり、予備校に1年間通って武蔵野美術大学(工芸工業デザイン学科インテリアデザイン専攻)へ進みました。
しかし、美術大学には学年に何人か「こいつの脳内はどうなってるんだ」という飛び抜けた才能の持ち主が必ずいて、そんな彼らとこの先どうやってデザインやアートの世界で競っていけばいいのかと絶望的な気分になりましたね。それで在学中にデザイン会社を自分で立ち上げ、一か八かの先攻逃げ切りを狙ったんです。でも少し考えてみれば、すでに才能ある先輩たちが世に出ていたわけで、1年半早く社会に出たところで大したアドバンテージになるはずもなかったんです…。若気の至りとはいえ、浅はかでした(笑)。
それでも、当時はバブルが終わった頃で、売れ残りのマンションの空間演出をしたり、スーパーのロゴデザインをして看板をつくり替えたり、チラシをデザインしたり、「デザイン」と名のつくものなら手当たり次第なんでもやりました。
デザイナーから編集者へ転身。その後約10年間有名雑誌の刊行に携わる
みんなの介護 デザイナーから編集者へ転身されたのには、どういったきっかけがあったのでしょうか。
岩佐 実際にデザインの仕事をやってみて、やっぱりこの道では自分に勝ち目はないなと思い始めた頃、リクルートに勤めていたある方から声をかけてもらえたんです。
それで当時、銀座のリクルート本社の中にあった亀倉雄策さん(日本グラフィックデザイナー協会初代会長。1964年の東京オリンピック公式ポスターとエンブレムを制作)の事務所にいきなり連れて行かれ、デザインを一生の仕事にすることのすばらしさや厳しさをこれでもかと聞かされた挙句、「君はデザイナーには向いていない。でも、ものの捉え方や考え方が間違いなく編集者に向いてる。試しに学生向けの情報誌を1冊任せるからやってみないか」と言われて、一も二もなく「はい」と答えてしまった。それが編集者転身のきっかけでした。
みんなの介護 大きな転機になったわけですね。以降、岩佐さんの起ち上げたデザイン会社は編集プロダクションとなり、『フロムA』『じゃらん』『ガテン』『エイビーロード』(リクルート社)といった情報誌や『東京ウォーカー』(角川書店)の特集記事なども担当されたと伺っています。その後ご自身の雑誌を出版されていらっしゃいますが、出版についてはいつ頃から考えるようになったのですか。
岩佐 編集プロダクションとして仕事をしていたのは約10年ですが、「自分で雑誌をやりたい」という願望は最初からありました。とくに、手伝わせていただいた雑誌が売れれば売れるほど、その思いは強くなる一方でした。
というのも、雑誌媒体は編集長の方針や意見が絶対で、編集者として“自分の作品”をつくりたかったら編集長になるしかない。しかし、僕の立場は版元の社員だったわけではありませんから、自分の思い通りの雑誌をつくりたければ出版社を起ちあげるところから行なわなければなりません。編集プロダクションとしての最後の数年間は通常業務と並行して、その準備に相当追われていました。
『自遊人』は社会への提案を行う雑誌
みんなの介護 そしていよいよ2000年、ライフスタイル雑誌『自遊人』を創刊。それまで手掛けられてきた情報誌とは方向性が異なっていますが、編集方針はどのようにして決定されたのでしょうか。
岩佐 創刊当時から一貫して、毎回の方向性や特集はすべて僕が決定しています。ただ、先ほども話したように、それが100パーセント自分の好きなことかというと、そうでもありません。本来、僕はオタク気質で、好きなことになると徹底的に追求したくなるタイプなのですが、それと雑誌メディアとして取り扱うべき情報の視点は異にしています。
『自遊人』という雑誌はイノベーター(革新者)を標榜しており、したがって編集方針も「豊かな暮らしとはこういうものではありませんか」「私たちはこういう方向へ進んでいくべきでは」という、社会への提案をベースに決定されなければいけない。
本音を言えば、世の中なんかとは無関係に山登りやスノーボードに熱中して、好き勝手に暮らしていければ最高だというタイプなんですが、この20年、ずいぶん自分を抑えて仕事をしてきたといえるかもしれません(笑)。
移住を決意したのは「正しい情報を届ける」という編集者の使命から
みんなの介護 16年前、岩佐さんは事業の拠点を東京・日本橋から新潟県南魚沼へ移されました。当時は今のようにリモートワークやワーケーションが一般的ではなかったと思いますが、そんな状況下でなぜ雑誌『自遊人』の編集部を地方へ移転させたのか、その理由を聞かせてください。
岩佐 はい。理由は2つありました。1つは、『自遊人』で食を中心にしたライフスタイルの特集を組んでいましたので、より深く農業を学ぶ必要があったということ。2002年からは「自遊人の暮らし」という会社を起ち上げて“日本の本物の食”(全国から選りすぐりの「米」「味噌」「漬物」)の販売も始めていたので、それ相応の知識は持っていたつもりでした。しかしよくよく考えみると、事業の中で得た米づくりの知識については矛盾が多く、本当のところ今一つ腑に落ちていなかったんです。
みんなの介護 米づくりの矛盾とは具体的にどういったものでしょうか。
岩佐 取材で評判の高い米の生産農家に「あなたのお米がおいしいのはなぜですか?」と聞くと、それぞれ独自の答えを提示してくれます。ですが彼らの持論を総合してみると、必ずしも答が一致しない。つまり、「おいしい米づくりの理論」に矛盾があって、科学的根拠に基づいた説明になっていなかったんです。にもかかわらず、僕たちはそれぞれが理由にあげた「土壌が良いから」「水が良いから」「昼夜の寒暖差があるから」「有機質肥料を使っているから」といった話を、そのまま活字にして読者に伝え続けてきた。これは、本来疑問を放置しておいてはいけない編集者としてあるまじき行為だったと考えています。
日本一の米どころである南魚沼へ会社を移転したのは、いくら調べても「どうすれば本当においしいお米ができるのか」という疑問に対する解答が得られず、「それなら自分たちでやってみるしかない」と思い立ったからです。正直、その一念に衝き動かされただけで、当時は後先のことに関してほとんど何も考えていませんでした。
移住によって暮らしと働き方ががらりと変わった
岩佐 理由の2つ目は「自分たちのライフスタイルを見直すため」。東京では販売部数を伸ばすことに追われて、昼も夜もなく働き詰めの毎日を送ってきた結果、僕たちの体はボロボロになっていました。食生活も滅茶苦茶。「日本人は伝統的な食を取り戻すべきだ」と誌面で声高に訴えている当の本人たちが、忙しさにかまけてファストフードやコンビニ弁当ばかり食べているというのも大問題で、それらを解決する切り札としても田舎への移住は必然だと考えたんです。
最近はいろんな方から「ずいぶん早くに移住を決意されたことは先見の明でしたね」とお褒めをいただいていますが、当時は「頭がおかしくなったんじゃないか」「東京にいなければ感性が鈍くなる」など、散々な言われ方をしたものでした。
みんなの介護 今と比べて、当時はリモートワークのための環境も整っていなかったのではと思いますが、どのように対応されていたのでしょうか。
岩佐 その頃、メールでの原稿のやりとりこそ可能になっていましたが、写真に関してはまだデジタル技術が発展途上だったため、多くの現場ではポジフィルムが使われていました。それの受け渡しをどうするのかも問題で、とにかく印刷物を仕上げるまでには、いちいち人の手を介するアナログなやりとりが避けられない時代だったんです。
結果から言えば、会社の移転は大正解。南魚沼に来てみたら、とにかく“時間”ができた。つまり、無駄がなくなって仕事が早く終わるようになったんです。
東京にいたときは、カメラマンがポジフィルムの納品にきたときやライターとの打ち合わせの際、必ずと言っていいほど仕事とは関係のない話をしていました。さらにはコピー機の営業や、デザイナー、タレント事務所の売り込みなどに社員が応対していましたから、昼の間はなかなか仕事に集中できず、とどのつまり、夜中から明け方まで原稿を書かなければならない羽目に陥っていたわけです。
ところが、新潟までは誰も来ません。ですから、めちゃめちゃ仕事が捗るようになって、驚くほど時間に余裕が生まれました。当初、心配されたポジフィルムの受け渡しや印刷工程の諸問題も、全体の作業スケジュールを前倒しにして宅配便を使うことであっさり解決。なんと、一番難しいだろうと考えていた「田んぼでの作業時間」まで捻出が可能になったんです。
朝・夕は農作業、午後・夜は編集作業というサイクルで3年間を過ごす
みんなの介護 岩佐さんは米づくりの詳細な記録を『実録!米作農業入門』(講談社)にまとめられていますね。
岩佐 その本は2010年に農業生産法人『自遊人ファーム』を設立した頃の取り組みの様子と、そこに至るまでの5年間で得た知識やデータをひとまとめにしたものです。2006年から2008年にかけての3年間は、ほぼ田んぼ中心の毎日を送っていたといっても過言ではありませんでした。春から秋にかけては涼しい午前と夕方に田んぼへ出かけて農作業をし、気温の高い午後と夕飯を終えて温泉で一風呂浴びたあとに雑誌の編集を行うというのが1日の仕事サイクル。それでも、当時隔月刊だった『自遊人』がきちんと出せてしまったんですよ(笑)。
一時はあまりに米づくりにのめり込みすぎて、「田んぼの面積をもっと広げようか」と考えたほどだったのですが、そもそも僕らが南魚沼にきたのは「どうやったら本当においしいお米ができるのか」という疑問の答えを見つけるため。その過程で農業を“肌で感じ”、農業の実態を知ることが目的であって、決して農家になりたかったわけでも田舎暮らしがしたかったわけでもなかったのだと、すんでのところで思いとどまったんです。
人間にとって根源的に必要なのは「食物」
みんなの介護 もし岩佐さんが耕作地を拡張していたら、日本の農業に新しい価値観が生まれて、後継者不足や耕作放棄地解消につながった可能性もあったのではないでしょうか。
岩佐 それはないです。僕らがいくら本気になったところで、若い頃から米づくりをしている経験豊富な専業農家には到底敵いません。第一、よく言われる「跡継ぎ問題」や「耕作放棄地問題」も、全国屈指のブランド米の産地である南魚沼にはまったく存在しない。むしろ、僕らも移住した当初は空いている田んぼがなかなか見つからなくて焦ったくらいだったんですから。
みんなの介護 それは意外ですね。それにしても、岩佐さんのお話を伺っているうち、なんだか農村に対するイメージがポジティブになりました。
岩佐 僕の出身は東京・池袋。父、母も東京生まれなので“田舎のない子ども”として育ち、30代半ばまで「日本の中心」は東京だと信じて疑いませんでした。しかし、南魚沼にきて間もなく、その捉え方が根本的に誤りであったことに気づいたんです。
人間はものを食べなければ生きていけません。そして僕たちの主食である米を生産してくれている中心地はどこかといえば、農村地帯にほかなりません。
経済や文化はもちろん大事です。ですが、人が生きるうえで最も根源的な「食」という見地に立てば、明らかに東京をはじめとする都市部は農村部によって支えられている。僕は食のふるさとに身を置いて、ようやくそんな自明のことが理解できた。世の中の見え方がまるで変わったんですよ。
出生率の高さは所得の高さと反比例している
みんなの介護 長年にわたって地域産業をサポートし、実際に地方生活も続けておられる岩佐さんは、「人口減少」や「少子化」の問題をどのように捉えていますか。
岩佐 マスコミの報道などでは、しばしばそういった問題を地方の衰退と結びつけて論じていますが、そもそも「少子化」に関する一般的な捉え方は事実と乖離しています。最もわかりやすい例が「出生率」。地域によって差はありますが、総じて所得の高い都市部より、所得の低い田舎の方が出生率は高い。僕は南魚沼のほかにも全国のさまざまな土地を頻繁に訪れているので、実際にそれを肌で感じています。
みんなの介護 非常に興味深いお話です。所得水準を高めることは、子どものいる豊かな暮らしの実現や日本の人口減少問題の解決策にはなり得ないのかもしれませんね。
岩佐 国の豊かさを語るときに必ず指標となるGDP(国内総生産)というのは、単純に言えば「国民が生み出す付加価値」のことであり、その規模は人口に比例します。そう考えると、この先も都市部の出生率が低下し続ければ、そう遠くない将来に「日本のGDP=付加価値」を生んでゆくのは都市部より、地方の農村や島しょ部で生まれた子どもたちの役割ということになる。「食」は言うに及ばず、「経済」の根幹を支えているのも地方。それが僕たちの暮らす日本という国の真の姿です。
コロナのような不測の事態に備えるには、継続的な田んぼの維持が必須
みんなの介護 「食」と「経済」を支えている地方について、一時期世界的な議論になっていたTPP(環太平洋パートナーシップ協定)についてはどうお考えですか。農産物の関税が撤廃されれば、日本の農業は壊滅的な打撃を受けると言われていますが。
岩佐 東京で話をすると、「せっかく安く買えるんだから、米も海外からの輸入でいいんじゃないの。何も税金を投入してまで無理に国内でつくる必要はないよ」という意見を耳にします。
では、仮に主食である米を海外から安く輸入したとするとどうなるか。大半の農家は廃業を余儀なくされます。すると、絶えず手をかけなければ維持できない田んぼは瞬く間に荒れ果て、数年も経たずして米がつくれない土地になってします。そうなれば、コロナ禍で発生したマスク不足のように、不測の事態が起きて米の輸入がストップしたときに慌てて米づくりを再開したとしても、もはや手遅れです。原材料と工場の手配がつけばただちに生産を始められる工業製品とは違って、米づくりの環境を復活させるには、長い年月と気の遠くなる地道な作業が必要なんです。
地方を応援する政策が打ち出され、事業に対する世間の目が変わった
岩佐 2014年に安倍内閣が「地方創生」という政策を打ち出して以来、僕たちがやってきたことに対する評価ががらりと変わった。ちょうど多額の借金をして南魚沼の山深い場所に『里山十帖』をオープンさせた後だったのですが、「地方創生」のムーブメントが追い風になり、おかげで早い段階で軌道に乗せることができました。
みんなの介護 開業3ヵ月で稼働率90パーセント超を実現した有名な温泉宿ですね。岩佐さんの著書『里山を創生する「デザイン的思考」』(KADOKAWA)で、事業計画の途中で銀行から「100パーセント失敗する」と融資を止められたエピソードなど、開業に漕ぎ着けるまでのご苦労の一部始終が書かれていました。
岩佐 はい。それまでも僕らは米や農産物を売ったり、まだ世に知られていない特産品をPRしたりと、地方を応援する事業をずっと展開していました。しかし正直なところ、変人扱いをされることはあっても、援護射撃のようなものはまったくありませんでした。
ところが、「地方創生」という言葉が生まれたおかげで、僕たちに対する周囲の視線が明らかに変わった。「先見の明があった」と、手のひらを返したようにポジティブな受け止め方をしてもらえるようになったんです。東日本大震災の後にも評価してくれた方々はいましたが、そのときの比ではありませんでした。その意味では、地方に目を向けようという流れを政府や霞ヶ関の方々がつくってくれたことにとても感謝してます。
みんなの介護 では、実際に「地方創生」は始まっているのでしょうか。
岩佐 始まってはいると思います。ですが、問題はそれが続くかどうか。今、地方で展開されている地域活性化事業は、税金をどんどん投入することで成立しています。起業支援などの制度自体は悪くないのですが、それによってつくられた組織のほとんどが、自治体からの受注や補助金を前提にして運営されている。自立できてはいないんです。したがって、もしその制度がなくなったら途端に立ち行かなくなり、すべてが水泡に帰してしまう可能性が非常に高いと言わざるを得ません。近年、僕の会社も地方での宿泊施設の経営に乗り出していますが、100パーセント独立資本です。もちろん金融機関からの借り入れはありますが、いわゆる地域活性化などの補助金は受けていません。
いずれにせよ、きちんと黒字を出さなければ事業として成り立ちませんし、理想が高ければ高いほど現実のハードルも上がります。僕は経営者としては相当にシビアな方だと思います。そういう目で見渡すと、地域活性化事業の大半は理想こそすばらしいものの、現実感覚が欠如している。せっかく地元を盛り上げるために起ち上げた事業を持続可能にしたいと本気で考えているなら、こと経営に関しては東京基準のシビアさをもって臨まないと。そのあたりの意識変革を行えるかどうかが、「地方創生」を掛け声だけに終わらせるか否かの分かれ道だと思います。
豊かな暮らしとは、自然から生まれる「時間・気持ちの余裕・食」を楽しむこと
みんなの介護 最後に、岩佐さんの考える「豊かな生活」についてお聞かせください。
岩佐 「時間のゆとり」「気持ちのゆとり」「おいしい食べもの」に恵まれた生活ですね。そして、今も窓の外へ目をやれば4K、8K画像やサラウンド立体音響システムでも絶対再現できないリアルな自然環境が広がっています。東京で暮らしている人たちは、たまの息抜きをするために温泉地を訪れ、そこで雄大な山々に照り映える夕陽の色を見て「わぁ、きれい!」と感動するわけですが、僕はそれを毎日この南魚沼の地で味わっている。自然と共生する中で体験できるそんなライブ感は何ものにも代えられません。まさに、これこそが豊かな生活だと思います。
だから、あまりにも恵まれているからこそ、「数字くらいはシビアに見ようよ」と自分に言い聞かせている。そうでないと、僕は元来がダラダラした人間なので、放っておくといろんなことがどうでもよくなってしまうんです(笑)。
それと、今がまさにそうなのですが、難局をスタッフと一緒に乗り越えようとしている瞬間にも僕は人生の豊かさを感じます。なにしろ、コロナ禍で大変な7月23日に『松本十帖』(長野県の浅間温泉での老舗旅館の再生事業)をオープンさせたので、会社にも社員にも相当な負荷がかかっているんですが、それでもみんな、前向きな意見を出し合って頑張ってくれている。それを見ると、挫けそうな中でも「絶対やり遂げてやる!」という活力が湧いてくるんですよ。
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