養老孟司「要介護を受け入れられるかなんて、それはなってみないとわからない。介護が必要になる前の自分と、なってからの自分は違うんだから」
「地方消滅」や「空き家問題」などに対して、一定期間を田舎で過ごすことを習慣化する「平成の参勤交代」を提言している養老孟司先生。神奈川県の箱根にある「養老昆虫館」で採取してきたゾウムシの標本作りに没頭するその姿は、その体現者と言えそうだ。その養老先生に、自らの「人生設計」や「老い」の考え方について聞いていこう。
文責/みんなの介護
「やってみなけりゃわからない」って言うと無責任だって言われます。でも、人生で大事なことの大半はそんなものです
みんなの介護 先生は57歳のとき、定年の3年前に東京大学医学部教授を退官されています。どんな人生設計からその判断をされたのですか?
養老 設計なんてしてませんよ。辞めたらどうするかということさえ考えてなかった。
そしたら、ある同僚が「そんなふうに大学を辞めて、よく不安になりませんね」と言うから、つい言い返しちゃった。
「先生はいつお亡くなりになりますか?わからない?よく不安になりませんね」って(笑)。
別の2歳上の同僚が言っていた通り、大学というところは「ガマン会」なんです。だから人生設計も何もなくて、ガマンの限度がきたので辞めたまでのことです。
そうすると、大学を辞めた日を境にして、世界が明るく見えるようになりました。これは比喩ではなくて、事実として明るく見えるようになったんです。
そのことで初めて僕は、それまで自分がどれだけ無理をしていたかを知ったのです。無意識は、自分で気づくことができないというわけですね。
みんなの介護 それは、不安とはほど遠い心境だったわけですね?
養老 ええ、その通り。何しろ、勤めているうちに制限されていた虫採りを好きなようにできるわけですから。
こんなふうに、人生のうちで大事なことは、「やってみなけりゃわからない」ということが実に多い。僕の得意分野ではないけど、ビジネスの世界だってそうでしょ?新しい事業になればなるほど、成功するかどうかはわからない。だから、そこに「こうすれば成功する」という根拠を求めようと思うと、何も前に進まなくなってしまう。
みんなの介護 確かに、おっしゃる通りです。
養老 「やってみなけりゃわからない」と言うと、今の人は「無責任だ」と言うんです。物事に何でも意味を求める都会人の悪癖です。
だから、僕はそういう人に「田舎に行って自然を体験しろ」と言っているんです。

“都会の意味”に囲まれ過ぎている人は、“意味のない自然”のなかで身体感覚を取り戻した方が良い
みんなの介護 「田舎で自然を体験する」というのは、先生が主張されている「平成の参勤交代」のことですね。詳しく説明していただけませんか?
養老 都会というのは、意味のあるものだけの世界です。オフィスビルの部屋は、風が吹かない、雨も降らない、エアコンで常に温度も一定です。
ところが自然は、これとは正反対。雨が降ったら地面はぬかるんで歩きにくくなるし、日が傾いたら辺りがまっ暗になって視界も狭くなる。そういう自然現象には意味がありません。人間にとっては無意味なもの。
つまり、「そこに意味があるはずだ」と思っても、わかるはずのない世界です。
みんなの介護 つまり、自然に触れることで、「わからないもの」に対処する判断力が養われるわけですね?
養老 そうです。一定期間を田舎で暮らして、意味のない世界を知る。怠けず、自分の身体を使って働いて、便利な都会で使わなくなった身体感覚を取り戻せというわけです。
みんなの介護 近年、「地方消滅」や「空き家問題」などが深刻化していますが、「平成の参勤交代」はその処方箋にもなりそうですね。
養老 虫採りに行くのはたいてい田舎だから、地方に人が少なくなっていること、それから空き家が増えていることは肌で感じますよ。
だから、田舎は貴重なものではなくて、あらゆるところにすでに用意されているんです。日本人は遊牧民じゃなくて農耕民だから、移動するのに抵抗感があるのかもしれないけど、住むところを1つじゃなくて2つ、あるいは3つと増やせば世界が広がるのにね。
東京に直下型の地震が起こってマンションに住めなくなっても、疎開先として機能してくれるわけだから。

自然現象である”老い”に責任を持つのは本当に難しいこと
みんなの介護 先生は、ご自身の「老い」を自覚することはありますか?
養老 僕が初めて「老い」に気づいたのは、60代になって会合に参加し、自分がいちばん年上だということに気づいたときです。
「老い」というものは、自分でそう感じるのではなくて、人と比較したり、人に言われて気づくものだと思います。
強いて言えば老眼だけど、これは老人と言われるより前の年から始まっているから、「老い」として認識したりすることはないし。
みんなの介護 自分の「老い」はことさら大袈裟に考えるものではないのでしょうか。
養老 そうだと思いますよ。「介護」についても同じこと。
自分が、家族が、車椅子なしでは生活していけなくなったらどうしよう、寝たきりになったらどうしようなんて考えても、キリがありません。
大事なのは、介護が必要になったとき、その状態を受け入れる気持ちが持てるかどうかということでしょ?だけどそれは、なってみないとわからない。
なぜなら、「その状態になる前の自分と、なってからの自分は違う」から。
人間が老いるというのは自然現象で、だからこそ、なってみて、その場で考えれば良いんです。そんなこと言うと、また「無責任だ」と言われるかもしれないけど、そうした自然現象に責任を持つのは、本当に難しいことだと思います。
自分の死なんて考えても無意味。終活なんて現代病みたいなものです
みんなの介護 先生は、昨年の11月で80歳になりました。ご自分の死を考えることはありますか?
養老 いやぁ、あんまり考えないですね。どうでもいいと思ってます。
死を3つの種類に分けて考えるとわかりやすい。一人称の死、二人称の死、それから三人称の死です。
自分の死というのは、俺や私の死、すなわち一人称の死です。これってよく考えてみると、自分にとってはないも同然で、だから考えたって意味のないことなんです。
みんなの介護 えっ、そうなんですか?
養老 だって、死んだら意識がなくなるんだから、当たり前でしょ。「あ、死んだ」って意識できるうちは、まだ生きている。
だから、畳の上で死にたいとか、家族に囲まれて死にたいと願望を言っても、どう死んでも同じで、意味のないことです。
なのに最近は、「終活」ブームなんていって、生きているうちに自分の死をコントロールしようとする人が増えているでしょう。これは、「自分は何でもわかる」と思い込んでいる現代人の病だと思いますね。自分がいつ、どんなふうに死ぬかなんて、誰にも予測できません。
みんなの介護 先生は67歳のときに山口県防府市で生前葬を行っていますが、そういう考えと関係はありますか?
養老 いや、あまり関係はありません。最近、葬儀をせず火葬だけで済ます直葬と、身内だけが集まる家族葬が全国的に6割を超えたそうで、新しい葬儀の形を模索していた曹洞宗の若いお坊さんの会が生前葬を私に勧めてきたんです。
まぁ、「ホトケがいないと会にも気合いが入らないから、あんたやってくれ」というわけですよ(笑)。断る理由もないから引き受けました。
そのとき、戒名もいただきました。だから、自分の葬儀についても考えることがなくなりました。
みんなの介護 二人称の死、それから三人称の死については、どうお考えですか?
養老 三人称の死は、彼ら彼女らの死だから、今こうしている間にも世界中のあらゆるところで起こっています。そういうことに気をとられてしまうと、日常生活を普通に送れない。
だから、ほとんどの人が三人称の死は自分と無関係だと思って過ごしているはずです。
無関係でいられないのは、お坊さんや葬儀屋、それから医者くらいでしょう。以前、医学部の後輩がこんなことを言ってましたよ。
「養老先生が現役の頃は、患者に余命宣告なんてしなかったでしょ?したとしても、せいぜい余命1年以内って言ってたと思います。でも、最近は6ヵ月って言うのが普通なんです」って。
そんなの知ってるよって答えたら、なんで6ヵ月なのか、理由を教えてくれました。それは、余命1年と言ったのに、その患者が8ヵ月で死んだら、「告知より早く死なせた」と医者のせいにされるから。
「そのうち、すべての医者が『明日死んでもおかしくない』と告知するようになりますよ」って言ってたけど、そもそも人の寿命なんて神様でもない限りわからないんだから、余命告知をしなきゃならない今の医者は気の毒と言わざるを得ませんよ。

「父の話をしましょうか。僕が4歳のときの話です」
みんなの介護 二人称の死は、お前とあなたの死。すなわち、知人や肉親など、親しい人の死ということになるでしょうか?
養老 そうです。一人称と三人称の死は、考えても仕方のないことだけど、二人称の死はそうはいきません。相手が親しい人であればあるほど、心に深い傷を負うから。
僕の父の話をしましょうか。
父は僕が4歳のときに結核で亡くなりました。自宅で亡くなったんですが、父は僕ににっこりと笑顔を見せて、その直後に喀血(かっけつ)して亡くなったんです。
そのとき、周囲の大人に「お父さんにさよならを言いなさい」と促されたんだけど、言えなかった。このときの光景は、映画のワンシーンのようにときどき記憶にふと蘇ってきたりしたものです。
それから、僕は人にあいさつを言うのが苦手になってしまった。中学、高校のとき、家に母親の友だちが来ていたりしても、「こんにちは」も「いらっしゃい」も言えずに後で怒られるわけです。大学生になっても、社会人になっても、あいかわらず、人にあいさつをするのが苦手でした。
それが父親の死と関係があることに気づいたのは、それからずっと後のことです。40代半ばになって、通勤途中の地下鉄のホームにいるとき、突然、「そうか、あのとき親父に『さよなら』を言えなかったから、自分はこうなったんだ」と気づいたんです。
それは、僕のなかで初めて父親が死んだ瞬間で、それと同時に涙が溢れてきました。
みんなの介護 お父さんの死を受け入れるのに40年もの月日がかかったのですね。
養老 そうです。だから、「終活」なんてバカバカしいと言うんです。自分の死を受け入れるのは、自分じゃなくて、子どもや配偶者や知人や身内たち。こうして欲しいとか、ああして欲しいなんて願望が叶うはずがないんです。

虫供養のような行いは、この現代“だからこそ”必要だと思うのです
みんなの介護 少し話は変わりますが、先生は2015年、鎌倉の建長寺に虫塚を建立し、毎年6月4日の「虫の日」に虫供養をしています。どんなきっかけがあったんですか?
養老 最初は女房の提案でした。「お墓はどうする?」という話をすると、僕が真面目に取り合わないから、知恵を出して「虫塚を作っていい?」と言い出した。きっと、僕が死んだらそこに入れようと考えているのでしょう(笑)。
みんなの介護 先生も、大好きな虫と一緒なら入って良いと思っていらっしゃるのではないですか?
養老 まぁ、そうですね(笑)。もっとも、それとは別の意味で虫塚を作る意味はあるなと思ったんです。
実は、虫塚は昔から日本中にたくさんあるんです。農家では、農閑期に養蚕をしたでしょう。カイコを飼って、その繭から生糸を作った。だから、カイコの供養をした。
では、養蚕をしない現代人は虫供養をする必要がないかというと、そうではありません。虫採りをしていると、虫が少なくなったことが体験的にわかります。現代人は作物を作るのに農薬を撒きますが、なかでも、日本は農薬使用量が世界一なのを知っていますか?OECD加盟国の中で、日本はアメリカの約6倍の農薬を撒いているというデータがあります。
それからある人の計算によると、1台の自動車が廃車になるまで、千万単位の虫が死ぬといいます。ほら、夜の高速道路を走っていると、フロントガラスに虫が当たってつぶれるでしょう。それくらい膨大な数になるというわけです。
ですから、現代人は無意識のうちにたくさん虫を殺しているんです。そのことから目を逸らしていると、いずれおかしなことになるでしょう。虫供養をする意義は、現代でこそ大いにあると思うんです。
現代人は自分が自然の一部だということを忘れてる。虫を捕るのはその事実を確認するということ
みんなの介護 昆虫は地球上で最も成功した生物だといいます。その種類は全生物の4分の3を占めると平凡社の世界大百科事典に書いてありました。なかでもゾウムシは最も種類が多いそうですね。先生がゾウムシを専門に集めているのは、そんなところに魅力を感じるからですか?
養老 「虫採りの何がそんなに楽しいんですか?」ってよく聞かれるんだけど、説明するのが面倒くさくて「よくわかりません」って答えてきたんです。仕事というわけではないし、誰かに頼まれてやってるわけでもないですからね。
でも、種類の多さということでいうと確かにおっしゃる通りで、要するに「残りもの」なんです。クワガタとかカブトムシみたいな人気のある昆虫と比べて誰も振り向かないし、種類が多いので未整理でそのままになっている領域が広い。
みんなの介護 昆虫マニアのなかには、新種の昆虫に名前をつけることをモチベーションにしている人が多いと聞きますが、先生もそうですか?
養老 いえ、そうじゃありません。新種のゾウムシは今も京都で捕まえてきたのがいますけど、論文を書いたり、学会誌に申請したりするのはやはり面倒くさくて、決してそのためにやっているわけではありません。
じゃあ何のためにやっているんだって、いよいよ説明しなけりゃならないわけだけど、簡単に言うと、「虫を見ることで自然を観察」しているんです。
虫を知る手段は、形を観察して、種類を分類して、命名するだけじゃありません。生態を知りたいと思えば、食べ物にしている植物のことも知らなきゃいけないし、住処にしている場所の地形や地質なんかも大いに関係しているから、調べていくと、日本列島はどのようにしてできたのかといったところにも考えが及んでいくんです。
要するに、虫は自然物そのものなんですね。虫を見ることをきっかけにして、自然の奥行きや広がりが見えてくる。それが面白いので、こうして飽きずにやっていられるわけです。
みんなの介護 虫を観察した結果、どこまで自然がわかってきましたか?
養老 ほら、すぐそうやって「どこまで」って聞くでしょ?だからこの説明は、面倒くさいし、難しいんですよ。
そもそも、自然にはそういう区切りのようなものがないんです。だけど多くの人は、そんな区切りのないものに付き合うほどの時間がないし、手間もかけたくないので、途中で区切って、その時点の理解で納得しようとする。そして、それ以上のことを見たいとも思わない。
みんなの介護 つまり、わかろうとしても、そこにゴールのようなものはなくて、終わりのない問いをくり返すようなものですか?
養老 そうです。そもそも、終わりがあると考えるのが間違いなんです。
なぜ、幼虫はわざわざ“サナギ”を経るのか
みんなの介護 昆虫のなかには、幼虫から成虫に「変態」する種類がありますね?人間と比べると、あまりの生き方の違いに途方もない思いがします。
養老 簡単に言うと、「幼虫→サナギ→成虫」という段階を経るのを「完全変態」、サナギの時期をすっ飛ばして幼虫が成虫になるのを「不完全変態」、そして脱皮だけで成長するのが「無変態」です。
幼虫と成虫の違いは何かというと、幼虫は食べることが専門で、大人の体を作るために食って食って食いまくる。成虫になると、メスは卵を産み、オスはメスに遺伝子を与える生殖器を得て、ひたすら子作りに励み、その仕事が終わると死んでいきます。
人間だと、食べることと生殖することは、長い人生の中で同時にやっていくわけだけど、虫は「変態」によって期間を分けてやっているんですね。
みんなの介護 生き物として、ある意味で合理的な生き方ですね。
養老 生物の教科書には、「不完全変態の昆虫が完全変態の昆虫に進化した」と書いてあるけど、はたしてそうでしょうかね?
だいたい、サナギという段階があるのが不思議です。サナギは、何もしないでじっとしていて動かないから、誰かに食われちゃってもおかしくない。そのために繭を作ってその中に隠れたり、土の中に埋まって身を守ったりするんだけど、なぜわざわざそんなことをするのか?
僕は子どものころ、チョウのサナギを家に持ち帰ってきて、どうなるかを観察したことがあるんです。すると、サナギの中からチョウが出てくるかと思いきや、ハエが出てきたり、ハチが出てきてびっくりしたんです。蛾のサナギが入ってる繭でも、同じことが起きたときもあった。
つまり、成長の段階で他の虫が寄生して、1つの個体から2つとか3つの個体が出てくるわけです。こういう現象は、大学で生物を研究している人のなかにも嫌う人が多くて、あまり真面目に語られることがないんだけど、そういうことが普通に起こっているのが虫の世界なんです。
だから、あるときから僕は、幼虫と成虫は別の生き物だと考えるようになりました。幼い虫が大人の虫になるんじゃなくて、食うことが専門の虫と、生殖専門の虫が別々に生きているんだというふうにね。
「自然に癒やされる」なんて言うけどそれは安易。地震や台風は人間の営みを根こそぎ奪っていきませんか?
みんなの介護 虫の世界を見てみると、生命というのは実に多様だなと感じますね。
養老 人間だって同じなんですよ。
人間の受精卵は0.2mmで、肉眼でようやく見ることができる大きさです。そんな小さな受精卵が分裂していって、大人の身体を作っている。あなた、体重は何キロですか?
みんなの介護 ここ数年は、63~66キロの間を行ったり来たりしています。
養老 じゃあ、その60数キロの身体は、どこから持ってきたものですか?
みんなの介護 幼虫のように食べ物を食べて、こんな身体になりました。
養老 その食べ物はどこから生まれたかというと、田んぼや畑、それから海でしょう?要するに虫が「自然そのもの」なら、人間だって「自然そのもの」なんです。
だけど、現代人の多くは、「そんなの関係ない」と思ってる。だいたい、「自然のなかにいると落ち着く」とか「癒やされる」なんて言ってる人に限って、「環境問題」という言葉を安易に使ったりすることが多いですね。
でも、自然というのはときに、地震を起こしたり、台風を起こしたりして、人間の命や営みを根こそぎから奪うようなことをするものですよ。
みんなの介護 そのような荒ぶる自然の強大さが怖くて、見えない振りをしてしまうのかもしれません。
養老 「環境」という言葉は「自分を取り巻くもの」と定義されますね。そう定義した途端、「自分」と「自分を取り巻くもの」が別物だと意識してしまうのです。
だから、自然と自分との関係を「環境問題」という安易な枠組みで考えて、「自然を保護しよう」とか「虫が少なくなったから、虫を捕るな」なんて言ったりする。そこには「自分(=人間)も自然の一部なんだ」という発想がそっくり抜けているんですね。
都会で生まれて都会で死ぬ現代人は、仮退院の病人みたいなもの
みんなの介護 「セミの成虫の寿命は1週間」というのは俗説で、野外で1ヵ月生きる個体もいるそうです。でも、「成虫になって、生殖を終えてすぐに死んでいく」という意味では同じことで、生殖を終えてもすぐに死ねない人間とは大違いではないですか?
養老 少子高齢化という、現代の社会問題の大きな原因になっているのがそれですよね。
少子化について考えてみると、今の日本でそれが著しいのは、東京都。それに続いて京都府です。その一方、人間の再生産率がいちばん高いのは、奄美大島群島の徳之島、伊仙町です。
これによってわかるのは、ミヤコというのは人を集めるのは得意だけれども、人を増やすのは大いに苦手だということです。
みんなの介護 なぜ、ミヤコはそうなってしまうのでしょう?
養老 それは「都会」が「自然」をなるべく見ないように設計された人工物だからです。
なかでも「病院」という場所はその最たるもので、現代人のほとんどが病院の産婦人科で生まれて、事故や突然死を除けば、ほとんどが病院で死にます。
つまり病院というのは、人間が生まれて死ぬという自然現象を考えなくて済むようにする装置なんですね。
だから、僕は病院という場所が嫌いなんです。都会で生まれて都会で死ぬ現代人は、仮退院の病人として生きているようなものだと思っています。
みんなの介護 先生が「健康診断をいっさい受けない」と公言しているのは、それが理由ですか?
養老 だって、病院に行ってわざわざ「自分の悪いところを探してください」なんて頼むことに意味がありますか?
OECD(経済協力開発機構)が出した最近の統計で、「あなたは健康ですか?」という問いに「健康です」と答えた人の割合を出した国際比較があります。
「健康です」と答えた人が国民の9割を超えた国の筆頭は、アメリカ合衆国です。その他はニュージーランドやカナダなどの国が並ぶわけだけれども、それに比べて日本はたったの3割。10人に7人が自分の健康に不安を抱えているのが日本という国なんです。
ただし、統計というのは見方によって変わるもので、アメリカなどのアングロ・サクソン民族を多数とする国民は、「自分は健康である」と意識したほうが得をする社会に住んでいて、その一方、日本の社会は「自分は不健康である」と意識したほうが得をするようになっていると読みとることもできるでしょう。
歳をとれば身体が衰えていくのは当たり前で、「あそこが痛い、ここが痛い」などと周囲に愚痴をこぼしても仕方のないことですが、日本はそうやって病人の振りをしたほうが得をする社会なんですね。
手厚い公的保険がある国と、そうでない国の文化の違いがその数字に表れているのだと思いますね。
撮影:公家勇人
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