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いとうせいこう「「職業を究める」のではなくて、「自分を究める」のが僕のやり方」

最終更新日時 2019/05/16

いとうせいこう「「職業を究める」のではなくて、「自分を究める」のが僕のやり方」

いとうせいこう氏は編集者、音楽家、小説家、タレントなどなど、ジャンルを問わず多方面で活躍し、自らそう名乗っていないとしても「マルチクリエイター」という肩書きで呼ばれることの多い人物である。マルチに活動するというと、各ジャンルの知見を広く浅くつまみ食いする飽きっぽい人と言われることもあるが、実際に話を聞くと、彼が人並み以上の求道心を持っていたことがわかってきた。果たして、その道はどんなものなのだろうか?

文責/みんなの介護

「1人1業種」という常識は、実はそんなに古いものではない

みんなの介護 いとうさんがいつからマルチな分野で活動することになったのかを調べてみたら…驚くべきことに最初からそうだったんですね。

いとう まぁ、そうかもしれないですね。大学卒業後に出版社に就職して編集者になったのが、世間的な職業を得たときということになるんでしょうけど、学生時代からプロの芸人にまじって営業にも出ていたし、音楽活動もそれと並行してやっていました。

何か表現したいことを思いついたとき、あるときは音楽、あるいはライブ、また別のあるときは文学という風にアウトプットの方法はひとつに限らないんです。

みんなの介護 ひとつの業種で道を究めたいとは思わなかったんですか?

いとう 1人1業種って考え方は多分、明治期以降の近代的な戸籍制度をつくっていく中で固定化されたものでしょ?

江戸期、特に僕が尊敬する文化文政時代に活躍した浮世絵師たちは、戯作をしたり、絵を描いたりもしたし、そのほかのところでも手ぬぐいの意匠デザインをしたり、たばこ入れの商品開発をして売ったり、いろいろなことをしていました。だから、マルチであることは特別なことではなくて、当たり前のことなんじゃないかと僕は思ってます。

みんなの介護 マルチクリエイターという生き方は、新しくて古い生き方なんですね。

いとう そうだと思います。ミュージシャンとか芸人が最初の頃、本業だけでは食えなくてバイトで生活するというパターンがありますよね。で、バイトをしなくても食えるようになってようやくプロになると。

でも、そうやってプロになれば、自分の意に沿わない仕事をやらなきゃいけなくなることもあるわけなんです。そうならないためには、バイト的なものをずっと続けて、自分のやりたいことだけをやるべきだというのが僕の考えです。       

そういう意味では、本業と呼べるものは僕にはないと言えるし、逆にやっていることのすべてが本業だとも言えるでしょう。

みんなの介護 政府は「働き方改革」の一環で副業や兼業を推進していますが、そんな時代にふさわしい生き方だと言えそうですね。

いとう もちろん、ひとつの職業を究めるのは素晴らしいことで、僕は否定しませんけど、いろいろなことを同時進行でやっていくことで自分が究まっていくのが僕の自然なやり方なんですね。職業を究めるのではなくて、自分を究めるわけです。

ジャンルを横断することで到達する地表もある

みんなの介護 ただ、マルチに活動する結果として、そのジャンル内ではまったく活動していないブランク期が生じていますよね。例えば、いとうさんは日本語ラップの先駆者として誰もが認める存在ですが、1989年に2枚組のアルバム『MESS/AGE』を発表してからは、2009年に□□□(クチロロ)に加入するまでジャスト20年間のブランク期があります。

いとう 『MESS/AGE』のツアーをやっているとき、ヤン富田とDUB MASTER Xという2人のミュージシャンが、同じことを二度とやらない、完全フリーの即興の世界に入っていったのですが、「いとうくんも好きにやっていいよ」と言われてすごく戸惑ったんです。ラップにもフリースタイルという手法が確立されていきますけど、当時はまだなかったし、もしあったとしても吟味した言葉で表現したい僕にとって、向いているスタイルではなかった。

言葉と音楽は、突きつめていくとセッションできなくなってしまうということに絶望して、ラップを辞めてしまうわけです。

みんなの介護 いとうさんは1988年の処女作『ノーライフキング』で華々しく小説家デビューしていましたから、ラップを辞めても活動の場には困らなかったのではないですか?

いとう いや、葛藤は続いていました。インプロビゼーション(即興)って何だろう、決まりごとって何だろうと考えるうち、古典芸能のほうに興味が移っていって、義太夫や謡(うたい)の師匠に弟子入りして型を習ったりして。

みんなの介護 ラップは辞めたけれども、「言葉と音楽のセッション」をずっと模索し続けていたんですね。

いとう はい。そんな中で、結論めいたものにたどりついた手応えを自分の中で感じたのは、実はつい最近のことです。

レゲエが発祥のダブ(dub)という音楽の表現手法があって、それに合わせて詩を朗読するダブ・ポエトリーというステージパフォーマンスがあるんです。

ある日、自分のまわりには素晴らしい感覚を持ったミュージシャンやDJがいて、しかも、これまで本に書いたり、個人的に書いてきた文章がずいぶん溜まってきたことに気づいてダブ形式のポエトリー・リーディングをやってみることにしたんです。

つまり、完全な即興ではないんだけど、ダブという形で表現された音楽の曲調やリズム、それから自分の声にかかるエコーやリバーブなどの変化に合わせてテキストを自由に選んで読むんです。中の単語を部分的に即興で入れ替えたりもしながらね。 それは、あらかじめ吟味して書かれた文章だから、僕のスタイルに合っているわけです。

それをやってみて、ようやく20代後半で挫折しかけた「言葉と音楽のセッション」というものを実現することができた気がしました。

みんなの介護 いとうさんの模索は、30年も続いたことになりますね。

いとう 面白いもので、その手応えをきっかけに、同じようなことをやろうとしている人たちが僕の周りに集まってくるようになりました。

観客が各アーティストに点数を付けて順位を決めるポエトリー・スラムという詩の競技大会が世界中で広まっていて、パリの世界大会に日本から出場して優勝した人だったり、現代詩や短歌をやっている人たちとの出会いがあったんです。そんな彼らと「いとうせいこう is the poet」というユニットを組んで月2回、いろんなライブハウスでパフォーマンスをしています。

みんなの介護 もしかしたらダブ・ポエトリー・リーディングという手法は、ラッパーとしての活動をずっと続けていたら辿り着けなかった地表かもしれませんね

いとう そうかもしれない。ジャンルを横断したことで蓄積されたものがあったからこそ、それが表現に生きたのでしょう。

東日本大震災を無視して小説を書くことはごまかしに過ぎないと思った

16年間、小説を思うように書けなかった

みんなの介護 ところで小説のほうも、音楽活動と同様、ブランク期がありますね。野間文芸新人賞などを受賞し、芥川賞の候補作にもなった『想像ラジオ』は、16年ぶりの長編小説だったとか。

いとう 初めての作品『ノーライフキング』は自分が書いたというより、ある日突然、物語のほうから僕に降りてきて、否応もなく書かされたという感じでできた作品でした。

その後、物語が降りてこなくても書けるのがプロの小説家なんだということに気づいて論理的に物語を構築していくわけですけど。デビューからそろそろ10年目というころに『去勢訓練』という作品を書き終えて以降、小説という虚構をつくることが一切、できなくなってしまった。

みんなの介護 なぜ、書けなくなってしまったのでしょう?

いとう 原因は不明です。おそらく精神的な問題でしょう。あえて説明するなら、当時はインターネットが登場して世の中のめまぐるしい変化が始まったころで、小説というメディアがその変化を表現するのにふさわしいものではないと感じたことが原因のひとつなのかもしれません。とにかく、何をもっていい小説と言えるのかがわからなくなってしまった。

とはいえ、書けない間、小説とまったく無縁だったかというとそうではなく、奥泉光さんと小説について話すトークライブを『小説の聖典』(単行本『文芸漫談』を改題)という本にしたりして、批評はずっと続けてきたわけですけど。

みんなの介護 そして16年がたって、『想像ラジオ』という物語が降りてきた、わけですか?

いとう いや、そういう感じではなかったですね。正確に言えば『想像ラジオ』の2年くらい前から少しずつ短編を書けるようにはなっていました。つまり、この調子でいけば長編が書けるようになるかもしれないと思えるところまで来ていたんです。

そこに、東日本大震災と福島の原発事故が起こりました。

この出来事を無視して何か別の物語を書くことはあり得ない、それはごまかしだと思ったことが創作欲につながりました。震災を小説として書くのか、それとも二度と小説を書かないことにするのか、ふたつにひとつの選択を強いられたわけです。

みんなの介護 こうして『想像ラジオ』は、2013年3月に河出書房新社より刊行されました。震災を題材にした小説としては、かなり早いタイミングでの刊行です。

いとう できれば僕の作品が、亡くなった方の鎮魂につながればいいと願っていたから、できるだけ早い時期に書きたかったんです。

それでも本が出版されるまでに2年がかかっているのは、被災したわけでもない自分にそんなことできるのか、死を冒涜することになるんじゃないかという葛藤が常にあって、慎重に書き進めなければならなかったからです。

気を遣いながら書けば書くほど、気を遣わねばならないことがそれ以上にあることを思い知らされて…。

書いている間に偶然としか言えない符号がいくつもあった

みんなの介護 処女作『ノーライフキング』は、全国の小学生が家庭用ゲーム機や学習塾のネットワークなどを使って同時多発的につながろうとする物語で、インターネットの登場を予見した作品として評価されました。一方、その25年後に書かれた『想像ラジオ』は、震災で死去したDJアークという主人公が「想像」という電波を使ってラジオ放送をするという話です。この2つの作品には「他者との交信」という共通点がありますが、偶然なのでしょうか?

いとう 『ノーライフキング』は、書いたあとで哲学者の柄谷行人さんに「これは柳田国男ですよ」と指摘され、読んで見たらあまりにも適確なので驚いたんです。

というのも、柳田国男が戦前に書いた『こども風土記』というエッセイの中で、ヨーロッパの子どもの遊びに非常によく似た遊びが日本の子どもの間でも流行している現象について書いていたからです。

『想像ラジオ』の場合、戦時中に柳田が書いた『先祖の話』が下敷きになっています。どんなことが書かれているかというと、第2次世界大戦でたくさんの人が死んでいく中、その人たちをどのように弔っていくのか、過去の日本にはどんな弔いかたがあったのかということが語られているんです。執筆中、「死者はどこに行くのか」という問題に突きあたったとき、そこに書かれていたことが大きな支えになりました。

みんなの介護 『ノーライフキング』が「降りてきた物語」だとすると、『想像ラジオ』は「降ろしてきた物語」だと言えそうですね?

いとう 実は『想像ラジオ』を書いている間に、「今、震災のことを小説に書いているんだけど柳田が気になっているんだ」と話すと、「自分も今、柳田を読んでるんです」という人に会ったり、社会思想を研究している中島岳志さんに同じことを話すと、彼が紹介してくれたいくつもの参考文献がすでに僕も読んでいるものだったり…。偶然としか言えない符号もありました。

DJアークは放送の終わりに最後の曲をかけるんですけど、書きながらどんな曲にしようかと考えたとき、ボブ・マーリーが脳腫瘍で亡くなる前年に発表したラストアルバムの最後の曲『リデンプション・ソング』が浮かんできました。 ボブ・マーリーが発表してきた作品の中では、レゲエに属さないシンプルなメッセージ・ソングなんだけど、改めて歌詞を見てみると、「Have no atomic energy(原子力に負けない)」という、僕自身、すっかり忘れていたフレーズがあってビックリしたりね。

それはまさに、同時代に生きて同じ震災を経験した人たちをはじめ、過去に大きな災害を経験した先人たちと「交信」していたような経験でした。

「国境なき医師団」があまりに知られていないことに驚いた

みんなの介護 いとうさんが「国境なき医師団」とかかわることになったきっかけは、何だったのでしょう?

いとう きっかけは、「男日傘」です。 日傘と言えば、女性が持つものというのが今の常識になっているけど、落語を聞くと出てくるんです。夏に日傘を持って出かける旦那衆なんかが。ということは、明治・大正くらいの時期には男も当たり前のように日傘を持っていたことになる。

その習慣をなくしたのは、戦争ですよ。軍国主義に凝りかたまったお偉いさんが根拠のない根性論を振りかざして、国民にやせ我慢を強いたからです。

そんな思いをTwitterに投稿して、「男の日傘をつくるべきだ」と呼びかけたところ、賛同した傘屋さんがドクロのマークが入った日傘を商品化してくれて、そこそこ売れるようになったんです。

パテント料は、最初から貰うつもりもなかったから、売り上げの一部として貰ったお金は特に考えもなく「国境なき医師団」の寄付に回していました。

みんなの介護 そんないとうさんに興味をもった「国境なき医師団」の広報の方が取材を依頼してきたわけですね?

いとう そうです。そこではじめて僕は、この団体の活動の一部を知ることになるわけですけど、すべてがまったく知らないことばかりだったので驚いたんです。そこで、団の人たちが活動しているところを取材させてくださいと、逆取材をその場で申し込みました。

その活動のほとんどは、民間からの寄付でまかなわれている

みんなの介護 「国境なき医師団」というと、災害や紛争などの被害にあっている人たちのところにまっ先に駆けつけ、医療を提供する団体という認識を持っている人は少なくないと思います。いとうさんにとって、どんなことが意外だったのですか?

いとう まず、彼らが紛争国や災害の被災地だけでなく、貧困に苦しむ国や性暴力が頻発する地域なども対象にしていること。パプアニューギニアでは、性暴力被害者である女性に対する医療的、精神的ケアだけでなく、男性による性暴力をなくすための啓蒙活動も行っているとのことでした。

それから、「国境なき医師団」という名前からの連想で、ほとんどが医師や看護師などのメディカルスタッフで構成されていると思ってしまうけど、実はその半分はノンメディカル、すなわちスタッフや患者たちを安全に送り迎えする輸送班、薬剤などの物資を管理する人たち、建物を作ったり直したり、医療に欠かせない新鮮な水を確保する工事スタッフなどのロジスティック隊がメディカルスタッフの仕事を支えているんです。

このことは、現地に行ってより詳しく知ることになるんだけど、メディカルスタッフはノンメディカルスタッフの仕事を非常にリスペクトしていて、「彼らのおかげで医療ができるんだ」と、多くの人が口にしていました。

みんなの介護 そういうことが外部に伝わっていないことにもどかしさを感じて、いとうさんは逆取材を申し出たわけですね?

いとう そうです。問題は、どんなメディアから情報を発信すればいいのかということ。できるだけ多くの人に知ってもらいたいので、ネットがいいなと思って知り合いに話を持ちかけたところ、トントン拍子で話が進んでYahoo! JAPANニュースでの連載が決まりました。その後、ニューズ・ウィーク日本版のサイトにも掲載してもらえることになって、みるみるうちに形になっていった。とても多くの人が僕の企画に賛同し、協力してくれたんです。

みんなの介護 そういうことは、珍しいことですか?

いとう そうですね。何か表現したいことを思いついて、そこからメディアを選んでいくというのは僕にとって、そう珍しくないことだけど、これほど協力者が熱意をこめて頑張ってくれたのは滅多にないです。とても感謝しています。

だけど、何より感謝しなければならないのは、「国境なき医師団」の人たちです。彼らの活動資金のほとんどは民間からの寄付からなっていて、総収入のうち88.8%は一般個人の支援者の寄付によるもの。それに対して法人からの寄付は7.4%に過ぎません(編集部注:2017年度時点での数字)。

法人の寄付がそれだけ少ないのは、独立・中立・公平な立場で医療・人道援助活動を行うためなんだけど、製薬会社や酒造会社、たばこの会社、それから戦争に関係している会社からは寄付を受けないという規約があるほど、彼らの財務体制は潔癖なんです。

そういう貴重なお金の一部を使って取材をさせてもらうわけなので、責任の重さをつねに感じ続けていました。「そのお金を、医師や壊れた設備を修理する電気技師にあてたほうが良かった」などと言われないように、意味のある取材をして多くの人にそれを伝えなければと。

国家でもなく宗教でもない、「人道主義」による人のつながりがこの世界にはある

世界は国家だけでできているのではない

みんなの介護 2017年11月に出版された『「国境なき医師団」を見に行く』(講談社)には、ハイチの災害復興支援、ギリシャの難民支援、フィリピンの貧困支援、ウガンダの紛争難民支援を取材した様子が収められていますが、ネットでの連載はまだ続いていて、紛争地の南スーダンに取材した新しい記事がすでに公開されています。 本を出したら終わり、というものではないんですね?

いとう もちろんです。講談社の文芸誌『群像』には4月発売の号に「国境なき医師団」の日本支部の取り組みを紹介する記事を寄稿したし、「単行本とは別に新書を出したほうが多くの人に伝わる」という提案を講談社の社員時代の僕の同期の編集者がしてくれて、その制作も進んでいます。

みんなの介護 南スーダン編でいとうさんは、「世界は国家だけでできていない」と書かれています。「国境なき医師団」の取材を通じて見えてきたのは、どんな世界なのでしょう。

いとう 南スーダンは2011年にスーダンから独立した新しい国ですが、内戦は1955年から続いていて、国連のPKO軍が平和維持活動をしています。

そこで支援活動をしているのは「国境なき医師団」だけでなく、赤十字やセイブ・ザ・チルドレンなど、さまざまな団体がPKOのすぐ隣の建物に集まって活動しているんですが、その入り口には「ヒューマニタリアン・ベース(人道主義者の基地)」と書かれているんですよ。

彼らの国籍はバラバラなんだけど、「国家の威信を背負ってそこにいる」なんて人は1人もいないんです。個人個人の心の中にある「人道主義」という信条のためにそこにいるんですね。

みんなの介護 その信条とは、どんなものなのですか?

いとう 「人間は平等であり、苦しんでいる人がいれば救われなければならない」という、ごく当たり前の考えです。

その考えは、キリスト教がベースにあるのかもしれないけれど、仏教に「お布施」、イスラム教に「喜捨」という考えがあるようにすべての人がキリスト教徒というわけではありません。

国家でもなく、宗教でもない、「人道主義」による人のつながりを目の当たりにすると、今まで自分が、いかに世界を一面的にしか見ていなかったかを実感させられました。

みんなの介護 ただ、「人道主義」は今の日本人には理解しづらい考え方かもしれませんね。

いとう 残念ながら、そのことには同意せざるを得ないですね。 もちろん、「国境なき医師団」には多くの日本人がいることは間違いありません。ですが、取材を終えて成田空港に着くとき、「彼らの活動を知らない人が日本では多数派なんだ」という事実を思い出して、いつも暗澹たる気持ちになるんです。

彼らのやっていることを「偽善」ととらえる人が多いのも事実だと思います。 ただ、百歩譲ってそれが「偽善」だったとしても、国を追われた難民や飢餓に苦しむ貧困者、災害や伝染病にさらされている人たちを救っているのは彼らだという事実に変わりはありません。彼ら人道主義者たちがいなくなったら、世界は救いのない地獄になってしまう。

みんなの介護 もし、私たちが「国境なき医師団」のために何かできることがあるとすれば、どんなことがありますか?

いとう 「国境なき医師団」の活動資金のほとんどが、一般個人の支援者の寄付によるものだという話はすでにしましたね。 つまり、彼らに寄付することは、「偽善」か否かを評価するまでもなく、彼らの活動の実質的な糧になるんです。

「すべての日本人はヒューマニタリアンになるべきだ」なんて僕は思ってないし、そんなこと言いたくありません。でも、一人ひとりの小さな寄付が彼らの活動を支えていることは知ってほしいですね。

「明るい介護小説」にはしたくなかった

みんなの介護 『想像ラジオ』には、作者であるいとうさんを思わせる「S」という人物が登場しますが、これは『どんぶらこ』に収められている3編の中編小説にも共通しています。なぜでしょう?

いとう 日本文学の伝統的なジャンルに私小説というものがありますよね。僕はあまり好きではないんですけど。大江健三郎さんがこのジャンルを乗り越える手段として私小説めいた小説を書いていて、僕も同じ試みに取り組もうとしています。変な言い方になりますが、私小説の形を使って私小説とは別の小説をつくろうとしているわけ。

ですから、作中に登場する「S」と、実在している「いとうせいこう」は同一人物ではありません。

みんなの介護 表題作の『どんぶらこ』は、介護問題を正面から扱っています。何かきっかけがあったのですか?

いとう ひとつは、2015年に関西で起こった事件です。薬剤師の50歳の女性が、寝たきりの79歳の母親の介護に行きづまり、介護放棄をして死なせてしまったんですが、不思議なことに彼女は、母親の遺体をキャリーケースに詰めて町中の川に流しているんです。

遺体を隠すなら、もっと賢いやり方があったでしょう。その川は、人里離れたところにある川じゃなんだから、すぐに見つかってしまうことは自明だったはずです。致し方なく、そうせざるを得なかったんだろうなぁと思ったことが忘れられなくて、ずっと頭にこびりついていました。

それからしばらくして、老人性うつ病になった僕の父が、ちょっとした腹痛を感じただけで救急車を呼ぼうとしたりするようになって、病気を持つ母だけでは手に負えないからと老人ホームに入ってもらうことにしたんです。 僕もうつを経験したことがあるから多少は理解しているつもりなんだけど、父本人はうつになっていることを認めようとしないので、説得するのがいちいち大変なんです。

みんなの介護 『どんぶらこ』には、追いつめられたいとうさんの心境がかなり色濃く反映されているようですね。

いとう 明るい介護小説を書こうと思えば書けたかもしれない。介護をポジティブにとらえる試みに成功している先行作品はいくつもあって、尊敬しています。

ただ、現在進行形で僕が経験している介護はあまりにつらく、さらに取材を進めるうえでこれがあまりに深刻な社会問題であることを実感して、その悲惨さに真正面から向き合うしかないなと判断したんです。

怒りは正しく表明されるべき

みんなの介護 『どんぶらこ』の主人公の1人である女性は、母親の介護を通じて介護士になろうとしますが、「介護の仕事をすると生活が苦しくなる」という現実に愕然とする場面があります。介護職の収入が少ないというのは、深刻な社会問題のひとつだと思います。

いとう 妹が身体障害者をケアする仕事に就いていて、彼女の紹介で介護を受けている人、それから介護の仕事をしている人などに取材をしたんです。

介護士の人たちは「国境なき医師団」と同様、苦しんでいる人、困っている人たちを救いたいというモチベーションを持って働いている人たちですよね。そんな人たちが今の仕事で自分の生活を維持するのに苦労をするというのは理不尽な話です。

政府は現状の予算で解決できないのなら、一刻も早く税金を上げて社会保障費に充てるべきです。

みんなの介護 消費税は2019年の10月に8%から10%に引き上げることが予定されていますが、過去に2度も増税が先送りされていますので、実施されるかどうかは不透明です。

いとう 結局のところ、今の政府は金持ちや地位の高い人を優遇して、底辺で苦しんでいる人たちを切り捨てて考えているのでしょう。

「国境なき医師団」への取材を通じて、僕はいろいろな国を見てきましたけど、そういうことが起こるのは産業のない、貧しい国に限られている。つまり、先進国の中で日本は例外的な国なんです。

みんなの介護 そんな状況の中、困っている高齢者を救いたい、力になりたいと働いている介護業界の人たちが今後、モチベーションを維持していくにはどうすればいいと思いますか?

いとう 介護の仕事は、これからの社会には絶対に必要な仕事だし、とても尊い仕事です。

にもかかわらず、賃金が低くて自分の仕事を誇りにできないというのなら、今すぐ怒っていい。いや、怒るべきなんです。だって、間違っているのは介護業界の人じゃなくて、社会のほうなんだから。

僕が最近、「いとうせいこうis the poet」というポエトリー・リーディングのユニットで活動していることは前編のインタビューで述べましたね。いちばん新しいポエトリーでは「怒り」を扱っていて、こんな内容が語られています。

怒りは人間にとって大事な感情である。怒りは自分の中に抱え込んではいけない。怒りを与えた相手に正しく表明されなければならない──と。

歴史をたどってみても、市民の怒りが社会を成熟させ、芸術家の怒りが偉大な作品を生み出してきたわけですからね。

みんなの介護 介護業界の人たちは、もっと声を上げるべきだと?

いとう 僕はそう思います。彼ら彼女らが待遇改善を要求するのは極めて真っ当なことだし、その怒りを支持する人はたくさんいるはずです。

年をとるって、実はとても楽しい。経年変化は最強の進化

古典芸能の世界では、58歳なんてまだひよっこ

みんなの介護 いとうさんは、2019年の3月で58歳になりましたね。年をとること、老いることについて、どんなことを感じますか?

いとう 年をとるって、すごく面白いですよ。そんなことを言うと、やせ我慢のように聞こえるかもしれないけれど、これは30代で古典芸能を習いはじめたときからの実感なんですよ。

というのも、古典芸能の世界では58歳なんて、ひよっこのようなものですから。70歳、80歳の名人の凄み、説得力に触れるたび、「自分もあんなお爺ちゃんになりたいなぁ」とって憧れるんです。 ちなみに、2011年に発表したラップ曲『ヒップホップの経年変化』は、そんな憧れに触発されてつくった曲です。

みんなの介護 憧れの名人の存在が、年をとることをポジティブに感じさせているわけですね。

いとう 40代半ばの頃でしたけど、自分より年下の義太夫の師匠に「名人の真似をするな」と注意されたことがあります。CDで聞いた名人の語りをコピーするのではなく、「40代半ばの精いっぱい」を積み重ねていかなければ名人の域には近づけないというわけですね。

なるほど、そうか!と目を開かされましたよ。若いときと比べて僕の声は枯れて、高い声も出なくなって病院に通ったりしていた時期もあるんだけど、年をとればとっただけの変化があるのは当たり前のこと。その経年変化はある意味では最強の進化なんです。

別の謡(うたい)の師匠には「いとうさん、大丈夫。80歳になったらその声、出ますから」って言われたこともあります。

みんなの介護 年をとった「今の自分」を受け入れることが大事なんですね。

いとう そう、若い頃に出せた声がもう出せないなら、今出せる声で勝負すればいい。年をとった今、同じ道を2度目に通るようなもので、奥深さとか説得力というものは、そういう営みの中で醸(かも)し出されていくものなんですよ。

みんなの介護 そのためには、長生きをしなければいけませんね。

いとう 最近、「40cmの高さの椅子から片足で立ち上がれない人は、要支援・要介護予備軍ですよ」という話を理学療法士の人に聞いて、身体を鍛えるようにしています。

もともとそんなタイプじゃないから、基本は興味本位です。盟友のみうら(じゅん)さんと、身体に巻くだけで筋肉がつく器具を買って試してみたり。頑張らないで鍛えるというのがコンセプト。

そのほか、アブローラーを毎日5回くらいやって、ちょっとした暇にスクワットをやってヒザまわりの筋肉を鍛えてます。月に1回は理学療法を実践しているジムにも通って、筋肉の伸ばし方や構造を習ったりすると「へぇ、筋肉ってココとココがこんな風につながってるんだ」なんておもしろい発見もあるんですよ。

今まで「身体を鍛える」なんて発想したことのなかった自分にとって、意外な変化ですけど、これこそが経年変化、すなわち最強の進化ではないですか。

撮影:公家勇人

いとう氏のルポルタージュ、「『国境なき医師団』を見に行く」が大好評発売中!

いとうせいこう氏が「国境なき医師団」を取材した本著は、これまであまり知られてこなかった医師団スタッフ一人ひとりの素顔にも焦点が当てられています。記者としてではなく、あえて作家として同行したという等身大のルポルタージュは、幅広い世代の人に読んでもらいたい一冊です。

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森田豊
医師・医療ジャーナリスト
2022/11/07